堺市博物館
特別展「堺と武将 三好一族の足跡」
期間:10月29日(土)~12月11日(日)
於榎並 三好神五郎興行 賦何木連歌百韻
天文11年(1542)6月11日摂津榎並城主・三好神五郎(政長、宗三)が催した連歌会の記録。
連衆は連歌界の第一人者である宗牧、周桂、里村昌休、堺の宗訊など連歌師の他に酒井の茶人・竹蔵屋紹滴そしてこの会が記録に残る初出である三好長慶がいる。この頃は協調関係にあった長慶と宗三だが7年後の天文18年(1549)には長慶によって宗三は討たれている。
三好宗三は三好氏の分家の出であったが、細川晴元の側近となり細川政権の重鎮となった人物、宗三(義元)左文字を所持した。また茶人としても知られ新田肩衝、北野肩衝、付藻茄子を所持したと伝わる。
冬康・長慶・宗養 賦何人連歌百韻
弘治3年(1557)5月3日に興行された連歌会で、尼崎で行われた事から「尼崎三吟」と言われ、名吟として知られる。
安宅冬康は三好長慶の弟(元長の三男)で、安宅氏に養子として入り淡路水軍を統べた人物。三好家の重鎮であったが永禄7年(1564)兄の三好長慶により自害させられている。歌人としても知られ今回の展示でも冬康自筆の連歌集(冬康連歌集)が出展されている。
飯盛千句
永禄4年(1561)5月27~29日に三好長慶が居城・飯盛城にて興行した千句連歌会。
各百韻の発句には五機内の名所が詠み込まれており、長慶の領国拡大を言祝ぐ政治色の強い連歌作品である。
連衆には宗牧の嫡子で正統連歌の血脈を受継いだ宗養、そのライバル的存在だった里村紹巴、安宅冬康、茶人の辻玄裁たち18人。
この時、三好長慶得意の絶頂であったが、3年後の永禄7年に長慶は病死し三好氏の衰退は始まった。
念仏寺築地修理料差文(開口神社文書)
天文4年(1535)4月、開口社の神宮寺であった念仏寺を囲む築地の修理の為、堺南庄の町人対し一人一貫文の寄進が割り当てられた。この文書はその際の寄進者の名を記録したもので、その中には武野紹鷗、千利休の名も見られる。
今井宗久書札留
永禄12年9月付、安宅神太郎(信康)宛。今井宗久の永禄12年~永禄13年の書状控え一冊の内のひとつ。
内容は足利義昭の御下知と織田信長の御朱印により安宅神太郎が堺南庄を支配下におくこと、宗久は堺五ヶ庄の代官を務める事になったので、毎時安宅神太郎の意向を踏まえて事を進めていきたいと記す。
今井宗久は堺の商人で茶人として知られる人物。織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、松島の茶壺や紹鴎茄子などの名物を献上し信長にいち早く接近している。
未見の連歌関連の展示が充実しており大変見応えがありました。
さて博物館の近くには
堺市茶室「伸庵」
こちらでは抹茶がいただけます。
茶碗が隣接する大仙陵古墳の形をしているのが特徴。
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