昨夜、眠る前のこと。
『脳と仮想』茂木健一郎さん著を、黙々と読みすすめていた。
そのとき、ぶわぁっ~と
頭の中に、次から次へと言葉が浮かんできて
相方にペンを借りて
その辺りにあった、紙袋に書きなぐった
おそらく傍から見ると、何かが憑依したかの様な
「不気味きわまりない姿」だったと思われる。
脳科学者・茂木さんに惹かれる理由が、わかった。
科学が切り捨てて来た『こころ』の分野に
真正面から、挑んでおられるからだ。
今まで科学者達が、取り上げなかった
「仮想」に着目、脳科学と心の関係を通して
「人間そのもの」を探求されている。
茂木さんの書かれた
『現実も仮想も、その全ては私たちの
脳の中の神経細胞の活動がつくり出した脳内現象である』
という一節から、
わたしも、いろんなことを想像し始めた
現実と仮想を認識する
主観的物体=われわれ人間が、既に仮のものである。
どれだけの期間、存在し続けることで
幻想ではなく、実存だと言えるのか。
たとえば、その期間を200年とすれば、
われわれは実存していない事になる。
100年もすれば消えてしまう生物である為、
われわれの存在そのものが、仮と言える。
何が現実で、何が仮想かを考える
「わたし」そのものが無常であり。
仮の身がもつ、脳の脳内現象に過ぎない。
永遠に、そこに存在し続けるものがあり
そこからの視点があって初めて
現実か仮想かは、意味を成すのではないだろうか。
初めから、仮のものが認識する訳であるから
現実であっても、仮想であっても良い。
現実も仮想も、すべては
仮の物体が、つくり出したものである。
どちらも、頭の中でつくり出されたものだ。
どちらが意味をなして、どちらかが意味をなさないという事はない。
阿弥陀様が見えるか、否か。
浄土はあるか、否か。
現実か、仮想か。
これは飛んで来た毒矢の本質、について解答を求めること
(生死の苦とは関係のないこと)であり
わたしたち人間が
現実か仮想かを、離れなければ
毒矢を抜くことは出来ない。
現実であろうと、仮想であろうと
目の前にいる負傷者の「すべてを引き受けること」
これが唯一の、救いだ。
悲しいことに、人間には不可能な領域だ。
救おうにも、自身、実体をもたない為に
「よりどころ」となっても、
いつかは消えゆく、この身である。
自分を超越した、おおきな存在に
まかせるのみ。
人間のこころは、探求そのものを必要とし
証明や解答を、必要としないところがある。
たとえ何かを得ても、与えられても
探求することを、やめられない生き物だろう。
人間の存在を問い、探究心をもち続けること、
それが、仮の身を、いま生きているということ。
また、心には、あたたかい心が
何よりもご馳走となるように思う
茂木さんは、歴史を変える人だ。
科学が「現実」に取り組み、
「仮想」を置き去りにしてきたという
既存の壁を打ち破り、
「心」「仮想」に焦点を当てている。
いちばん大切な事だ。
切り捨てごめんの中にこそ、
いちばん大切なものが、隠されている。
追伸:うちの相方曰く「人間の数だけ世界がある」
人間世界には、人間の数だけ「世界」は存在する。
『脳と仮想』茂木健一郎さん著を、黙々と読みすすめていた。
そのとき、ぶわぁっ~と
頭の中に、次から次へと言葉が浮かんできて
相方にペンを借りて
その辺りにあった、紙袋に書きなぐった
おそらく傍から見ると、何かが憑依したかの様な
「不気味きわまりない姿」だったと思われる。
脳科学者・茂木さんに惹かれる理由が、わかった。
科学が切り捨てて来た『こころ』の分野に
真正面から、挑んでおられるからだ。
今まで科学者達が、取り上げなかった
「仮想」に着目、脳科学と心の関係を通して
「人間そのもの」を探求されている。
茂木さんの書かれた
『現実も仮想も、その全ては私たちの
脳の中の神経細胞の活動がつくり出した脳内現象である』
という一節から、
わたしも、いろんなことを想像し始めた
現実と仮想を認識する
主観的物体=われわれ人間が、既に仮のものである。
どれだけの期間、存在し続けることで
幻想ではなく、実存だと言えるのか。
たとえば、その期間を200年とすれば、
われわれは実存していない事になる。
100年もすれば消えてしまう生物である為、
われわれの存在そのものが、仮と言える。
何が現実で、何が仮想かを考える
「わたし」そのものが無常であり。
仮の身がもつ、脳の脳内現象に過ぎない。
永遠に、そこに存在し続けるものがあり
そこからの視点があって初めて
現実か仮想かは、意味を成すのではないだろうか。
初めから、仮のものが認識する訳であるから
現実であっても、仮想であっても良い。
現実も仮想も、すべては
仮の物体が、つくり出したものである。
どちらも、頭の中でつくり出されたものだ。
どちらが意味をなして、どちらかが意味をなさないという事はない。
阿弥陀様が見えるか、否か。
浄土はあるか、否か。
現実か、仮想か。
これは飛んで来た毒矢の本質、について解答を求めること
(生死の苦とは関係のないこと)であり
わたしたち人間が
現実か仮想かを、離れなければ
毒矢を抜くことは出来ない。
現実であろうと、仮想であろうと
目の前にいる負傷者の「すべてを引き受けること」
これが唯一の、救いだ。
悲しいことに、人間には不可能な領域だ。
救おうにも、自身、実体をもたない為に
「よりどころ」となっても、
いつかは消えゆく、この身である。
自分を超越した、おおきな存在に
まかせるのみ。
人間のこころは、探求そのものを必要とし
証明や解答を、必要としないところがある。
たとえ何かを得ても、与えられても
探求することを、やめられない生き物だろう。
人間の存在を問い、探究心をもち続けること、
それが、仮の身を、いま生きているということ。
また、心には、あたたかい心が
何よりもご馳走となるように思う
茂木さんは、歴史を変える人だ。
科学が「現実」に取り組み、
「仮想」を置き去りにしてきたという
既存の壁を打ち破り、
「心」「仮想」に焦点を当てている。
いちばん大切な事だ。
切り捨てごめんの中にこそ、
いちばん大切なものが、隠されている。
追伸:うちの相方曰く「人間の数だけ世界がある」
人間世界には、人間の数だけ「世界」は存在する。