セシル・ローズ(1853-1902)
オックスフォード大学教授のジョン・ラスキンは、オックスフォード在学生に、次のように抗議しました。
「彼らが特権的支配階級の一員であると語りかけました。 彼らは教育、美、法の支配、自由、上品さ、自己規律という気高い伝統を継承いるが、その伝統が英国下層階級や英国人を除いた世界の大衆に広まらない限り、この伝統を維持するのは困難であり、伝統が保存に値しないと語った。 もし貴重な伝統がこの二つの大多数に広まなければ、少数の英国上流階級はこの大多数の前に屈し、伝統は失われる。 それを防ぐには、伝統が大衆と帝国に広まらなければならない」
ラスキンのメッセージは衝撃的でした。 彼の就任記念講義は、一人の大学生、セシル・ローズによって手書きで記録され、彼は30年間それを手放しませんでした。
ローズは、南アフリカのダイヤモンドと金の鉱脈を憑かれたように探し求め、初代ケープ植民地首相を務めました(1890-1896)。そして政党へ多額の献金をし、英国と南アフリカ両国の議席を支配し、喜望峰からエジプトまでアフリカを縦断した英国領土の確立に努め、この両端の地を電信で、しまいにはケープ・カイロ鉄道で結びつけました。
ローズは、南アフリカと英国の人々の献身的な支援を組織しました。 ロスチャイルド卿やアルフレッド・ビートから資金援助された彼は、南アフリカのダイヤモンド鉱山をデビアス・コンソリティテッド・マインズ社を通じて独占し、金鉱山の巨大企業コンソリディテッド・ゴールド・フィールズを設立しました。
1890年代の中頃、ローズ個人の年収は100万ポンド(約500万ドル)を下りませんでしたが、「得体の知れない目的のために浪費したので、口座はつねに当座借り越し状態でした」(『悲劇と希望(Tragedy & Hope)、キャロル・キグリー(Carroll Quigley)・ジョージタウン大学教授 著』130ページ)。
ローズは世界連邦を目指す長期戦略を開始
セシル・ローズの目的は、英語圏の人々を結集して、世界中の全居住地を彼らの支配下に置くという野望に尽きる。 このためローズは莫大な私財の一部を寄贈してオックスフォード大学にローズ奨学金を設立し、ラスキンの望み通りに、英国支配階級の伝統を英語圏に広めようとしました。
ローズは幅広い支援を受け秘密ネットワークを組織
オックスフォードの熱烈なラスキン崇拝者の中に、アーノルド・トインビー、アルフレッド・ミルナー(後のミルナー卿)、アーサー・グレイズブルック、ジョージ・パーキン(後のジョージ卿)、フィリップ・リトルトン・ゲル、ヘンリー・パーケナフ(後のヘンリー卿)などの盟友グループがありました。 彼らはラスキンの言葉に燻陶(くんとう)を受け、彼の構想を実行するために人生を捧げました。
ケンブリッジにも同じようなグループがあり、レギナルド・ペーリオル・ブレット(イーシャー卿)、ジョン・B・シーリイ卿)、
アルバート・グレー(卿)、エドムンド・ギャレット等もラスキンの言葉に燻陶を受け、いわゆる「英語圏の着想を拡大する」計画の両輪として、大英帝国の拡張と英国都市住民の意識向上に終生務めました。
彼らがめざましい成功を収めたのは、熱烈な社会改革者にして帝国主義者である英国一過激なジャーナリストのウィリアム・T.・ステッド(1840-1912)が彼らをローズに引き合わせたからであります。
この連合ができたのは公式には1891年2月5日のことであり、ローズとステッドは、ローズが16年間夢見ていた秘密ネットワークを組織しました。
ローズの秘密ネットワークの原形
ローズがこの秘密ネットワークの指揮を執りました。ステッド・ブレット(イーシャー卿)、ミルナーが幹部委員会のメンバーとなりました。 アーサー・バルフォア(卿)、ハリー・ジョンソン(卿)、ロスチャイルド卿、アルバート・グレー(卿)などが、「創始者グループ」の幹部メンバーに名を連ねました。
「支援組織」(後にミルナー卿によって『円卓会議(ラウンドテーブル)』として組織された)として知られる外郭団体もありました。
ブレットは当日、ミルナーは数週間後にエジプトから帰国すると、この組織に加わるように要請されました。 両者とも感激して受諾しました。 こうして、秘密ネットワークの中核が1891年3月までに出来上がりました。この組織は公的なグループとして機能し続けましたが、外郭団体は1909~1913年まで組織化されなかったことが明確になっています。
ローズの死後も秘密ネットワークは永遠に続く
グループは1902年にローズが死んだ後も、彼の資金やアルフレッド・ビート(2853-1906)やエイブ・ベーリー(1864-1940)といった忠実なローズ支援者の資金を使うことが出来ました。
こうした支援を背景に、ローズがラスキンやステッドから受け継いだ理想を広め、その実践に勤めました。 1902年以降、ミルナーがローズ遺産の筆頭管財人に、パーキンがローズ信託財団の理事長に就き、ゲルとバーケナフは他の同志と同じように、英国南アフリカ会社の役員に就任しました。
彼らの尽力によって、グレー卿、イーシャー卿、フローラ・ショー女史(後のレディ・るガード)といったラスキンを信奉するステッドの友人たちが加わりました。
1890年、ここで紹介しきれないほどの裏工作のあげく、ショーはタイムズの植民地部長に就任しますが、ステッドの経営するポール・モール・がゼータ社からも給料をもらっていました。
部長就任後10年間、彼女はセシル・ローズの帝国主義計画の実行に多大な役割を果たしました。 ステッドが彼女をローズに」引き合わせたのは、1889年のことでした。
他国にしだいに広まる秘密ネットワーク
1897年から1905年にかけて、南アフリカ総督兼高等弁務官としてミルナーは、オックスフォードやトインビー・ホールを中心に、若者たちを集めて統治運動を手伝わせました。
初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(英: Alfred Milner, 1st Viscount Milner、1854年 - 1925年)は、イギリスの政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、枢密顧問官(PC)。
生涯
ドイツのギーセンで生まれ、イギリスに渡り、オックスフォード大学で学んだ。財務大臣ジョージ・ゴーシェンの個人秘書となった。1897年、植民地大臣ジョセフ・チェンバレンによりケープ植民地の長官に任命される。南アフリカのイギリス代表として、ボーア政府と対立、ボーア戦争を起こした。第1次世界大戦時にロイド・ジョージの戦時内閣で活躍、フェルディナン・フォッシュ元帥を連合軍司令官に任命した。1891年、アスター卿、ロスチャイルド卿の出資により『帝国評論』(のちに『ラウンド・テーブル(英語版)』)を発行する。王室とオックスフォード大学から表彰されている。1925年、オックスフォード大学の総長に選ばれたが、就任前に亡くなる。
ミルナー幼稚園
ボーア戦争に際し、ミルナーはオックスフォード大学で優秀な若者をスカウトし、アフリカ征服のためのエリートとして養成した。これが「ミルナー幼稚園(英語版)(ミルナー・キンダーガーデン)」です。
ミルナーの影響力によって、若者たちは政府や国際金融の要職に就き、1939年ころには、英国の帝国主義的外交に辣腕(らつわん)をふるうようになりました。
南アフリカでミルナーに仕えた彼らは、1910年まで「ミルナーズ・キンダーガルテン(ミルナーの幼稚園)」と呼ばれていました。 1909年から1913年にかけて彼らは英国の主だった属領や米国で、円卓会議グループという、半ば秘密結社を組織しました。この秘密結社は、いまだに存続しています。
彼らの私信のやりとりや頻繁(ひんぱん)な相互訪問によって、あるいは、1910年にエイブ・ベリー卿の資金で創刊された影響力のある季節誌『ラウンド・テーブル』を通じて連絡を絶やしませんでした。 1919年、おもにエイブ・ベリー卿やアスター一族(タイムズの社主)から資金を援助された彼らは、「王立国際問題研究所」(チャタム・ハウス)を設立しました。
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