ウラジーミル・レーニン(1870-1924)
ヨシフ・スターリン(1878-1953)
レフ・トロッキー(1879-1940)
スターリンこと、ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリは1879年にグルジア(現ジョージア)の山村、ゴリに生まれました。 父親はディディ・リロの出身能農民で、母親エカテリーナ・ゲラッゼは信仰心の厚い人物で、その先祖はガンバリューリの村の農奴でした。 スターリンの父親については、、手工職人として働いたり、アデリハノフの靴工場で製靴職人として雇われたりしていたということを除けば、あまり知られていません。 それでも呑気な気性で酒好きだっとと言われています。
一方母親は献身的な人物で、洗濯の賃仕事をして家計を助ける働き者でした。 彼女は息子が聖職者となることを希望し、必要な教育を受けさせようとせっせと貯金をしました。 スターリンはゴリにある小学校で4年間学んだ後、奨学金を得てティフリス神学校に進みました。 しかし宗教家としての道は絶たれます。 神学校当局とあいだに次第に問題を抱える世になったためです。 4年の学習過程を終えた後にスターリンは放校となり、若い革命家集団に参加しました。
スターリンはエカテリーナ・スヴァビッゼと結婚し、ヤーシャ(ヤコブ)・ジュガシヴィリが誕生しました。息子はあまり際立った人物ではなく、父親が独裁者となったあとも、電気工、機械工として働きました。
スターリンの二番目の妻はナージャ・アリルーエフで、彼女は一男一女、ヴァシーリとスヴェトラーナをもうけました、ヴァシーリはソヴィエト空軍の少将となり、父親が独裁者の地位に就いてからは、さまざまな国事の際に、航空デモンストレーションを指揮しましたが父親の死後、その職を追われました。スターリンんと二番目のあいだはあまりうまくいっていませんでした。 スターリンが美貌のユダヤ人女性ローザ・カガノヴィッチと関係をもったからでしょうか、二番目の妻ナージャが自殺を図ったとき、スターリンはカガノヴィッチと暮らしていたといわれます。
スターリンの浮気に加えて、多くのユダヤ教信徒が反政府活動家の誹(そし)りを受け、スターリンによって非情にも殺害されていくことに、ナージャの気持は沈んでいました。
ローザの兄ラザール・カガノヴィッチはスターリンの親友で、スターリンが死ぬまで、ソヴィエト共産党中央委員会政治局委員としての職務を果たし、重工業担当委員として、ドネツ炭田の開発やモスクワの地下鉄建設にその手腕を発揮しました。 カガノヴィッチの息子ミハイルはスターリンの娘スヴェトラーナと結婚しました。 スヴェトラーナの最初の夫がどうなったのかは謎です。
スターリのンの二番目の妻が自殺したか、あるいはローザ・カガノヴィッチとスターリンが結婚できるよう抹殺されたのかいずれかであるように、、彼も自殺したのか、あるいはカガノヴィッチの息子とスターリンの娘が結婚できるように抹殺されたかのいずれかであろうと思われます。 伝えられるところによれば、二番目の妻ナージャの死後、スターリンは三番めの妻ローザ・カガノヴィッチと結婚したとされています。
スターリンに次ぐ副首相モロトフはコネチカット州ブリッジポートのカープ・インポーティング者の所有者サム・ヵープの令嬢であるユダヤ人女性と結婚し、モロトフの娘は1951年、スターリンの息子ヴァシーリと婚約しました。 つまり、ソヴィエト共産党中央委員会政治局はかなり「少数独裁」的であったと言うことです。
ロシア革命の準備的局面でベテラン指導者の多くが投獄されたために、スターリンはロシア革命集団の上層部のメンバーとなることができした。 彼はレーニンの独裁支配下の共産党にあって、それほど際立った地位にはありませんでした。 高い地位を手に入れたのはレーニンが最後に病に倒れたときでした。 このとき彼は積極的に進み出て、トロッキーをはじめとするユダヤ人ライバルを蹴落としました。 そしてひとたび指導者の地位を引き継ぐと、死ぬまでそれを手放しませんでした。
スターリンが権力の座に就くまでの経緯
スターリンが権力の座に就くまでの経緯はなかなか興味深いものがあります。 1922年5月、レーニンは中風の発作の後遺症から言葉が不自由になり、身体の自由もきかなくなりました。 同年12月、彼はジノヴェエフ、カメネフ、スターリンから成る三委員連合政府を目指して政府の諸問題を万端させました。 レーニンが再発作を起こして死亡するとほどなく、トロッキーは、レーニンの死の遠因として、仕事ができないまま、長々と病に伏しているレーニンにスターリンが
苛立ちを見せていたことを示唆しました。 そしてトロッキーの追従者はこれを信じました。
三委員連合政府がモスクワで機能し始めたた頃、ソヴィエト共産党中央宇委員会政治局は レーニン、ジノヴィエフ、カメネフ、トロッキー、ブハーリン、トムスキー、スターリンから成り立っていました。 ジノヴィエフとカメネフはレーニンが独裁支配を開始したときから、その右腕だったので、当然ながら自分達こそ三委員連合政府の首席メンバーであり、必然的にレーニンの継承者であると考え、スターリンに対して、ジノヴィエフは後援するかのように油断のない立場をとり、カメネフはいくらか冷ややかな態度をとりました。
ジノヴィエフもカメネフも、レーニン亡き後の独裁支配権をめぐって、自らのライバルとなるのはトロッキーだろうと見なしていました。 トロッキーの著書『スターリン』には、スターリンはジノヴィエフとカメネフによって彼(トロッキー)に対する拮抗勢力として利用されたと記しています。 政治局の他のメンバーも、程度の差こそあれ、同じような見方をしていました。 誰一人として、スターリンが彼らを差し置いて浮上することになるとは思ってもいなかったのです。
それまで常にレーニン自らが行ってきた開会演説を、第12回大会ではジノヴィエフが引き継ぐことが決定されると、彼こそが三委員連合政府の首席メンバーだと目されました。 ところがジノヴィエフの演説はそれほど評判は良くありませんでした。 スターリンはすぐさま機会に乗じました。 大会が終わる頃には、共産党組織の支配権と、三委員連合政府の支配的立場をすでに確保していました。 これがレーニンが死亡した1924年の状況です。
1925年4月、スターリンは軍事担当人民委員(コミツサール)であるトロッキーを解任し、ジノヴィエフおよびカメノフとの連携を反故にして、ブハーリン、リコフ、トムスキーらと連携しました。
一方、ジノヴィエフ、カメノフ、トロッキーはスターリンに対する反対勢力としてまとまります。 しかし、この動きは手遅れでした。 1926年2月、スターリンはジノヴィエフを中央委、員会政治局から追放し、ペテルブルグ(レニングラード)・ソヴィエトの議長の座からも降ろしました。 また、1926年10月にはカメノフとトロッキーを中央委員会政治局から追放し、翌年になると、3人の政敵を共産党中央委員会から追い出し、ほどなく3人まとめて党から除名しました。
1927年、トロッキーは、スターリンがマルクス主義のイデオロギーから離れ、純粋のソヴィエトsy会主義共和国連邦ではなく、帝国主義的全体主義に基づく独裁国家を作ろうとしていると唱えて、スターリンに対する反乱を始めようとしました。
誰一人として気付いていなかったようですが、スターリンは国際銀行家によってソヴィエトの支配者に指名されていたのです。 従って彼らの長期計画を妨げるような人物を片っ端から追放することが、彼に課せられた任務でした。
粛清の日々には数百万人の人々が殺害され、ほぼ同数の人々が強制収容所に送られました。 かつての革命運動の指導者の多くは、第一インターナショナルが成立すると死刑に処されたり投獄されたりしました。 トロッキー、ジノヴィエフ、カメネフ、マルチノフ、ザスーリチ、ドイッチュ、パルブス、アクセリロート、ラデク、ウリツキー、スヴェルドルフ、ダン、リーバー、マルトフらが、スターリンによって追放されました。
彼が死没するときまでその身辺にいたユダヤ人は義弟のカガノヴィッチと三番目の妻ローザだけでした。 スターリンは、北半球の北緯35度から45度のあいだに共産主義勢力圏を築くというレーニンン政策を発展し続けました。 他の国家の革命指導者の多くが、レーニンが展開しているのは個人的帝国主義の発想であり、レーニンは世界規模の全体主義独裁支配国家の支配者になろうとしていると確信するようになりました。
彼らの見方は正しかった。 スターリンは1936年まで、レーニンと同様、世界革命運動を陰で操る「秘密権力」の人々から指令を受けていましたが、その後は命令を無視するようになりました。 スターリンは自らの軍隊を他国家との戦争に巻き込みたくありませんでした。北緯35度から45度の範囲の南部諸国に至るまで、革命の火を灯したいという方針でした。
この方針はかなり報われ、彼が没する頃には、北半球の半分の地域で共産ほどなく主義社会が樹立され、世界人口のおよそ半分がその配下に置かれいました。1921年にレーニンは、次にソヴィエト化されなければならないのは、スペインであると述べていました。
レーニンが没すると、スターリンはスペインの制圧を貴重な遺産として受け止めました。 つまり、スペインさえいわゆるプロレタリアートの独裁支配に代えてしまえば、フランス、イギリスを支配するのは容易なことになるだろうし、、そうなればドイツを挟み撃ちにすることもできるはずであり、万が一スペイン制圧に失敗したところで、その事態は第二次世界大戦を引き起こすために両出来る。 と戦争男爵(バロン)ロスチャルドはじめ、国際銀行家たちは考えてたのです。
今日、プーチン・ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まっていますが、国際銀行家たちの考えは、EU統合し統一通貨ユーロを実現できたので、次の目標は第三次世界大戦の実現でしょう。NATOとロシアを間で戦争を起こさせ、言うまでもなく、アメリカを含むNATOが当たり前に勝利します。そして、 そしてロシアはEUに飲み込まれ、ユーラシア大陸大陸統一でしょう。そして、その先には世界統一政府ではないでしょうか。
明治以降、日本語訳の旧約聖書に書かれなかった一節
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ノアの呪いと黒人差別
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ユダヤ教(実は軍事同盟)とグローバリズム、そして軍需産業
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