その1からの続きです。
● 中臣遺跡
岩屋神社参拝後、まっすぐ伸びる参道を通ってひたすら西へ歩いていきました。
きれいな川を超えます。
山科盆地を流れる宇治川の支流、山科川です。
番所橋から。江戸時代に奉行所があったのでしょうか。
道路沿いの信号横に、中臣遺跡がありました。
地図で見つけて、気になった場所です。
ここは旧石器時代(約2万年前)から室町時代(約500年前)にかけての大規模な集落遺跡だそう。
古墳出現前後の集落跡と古墳時代後期集落跡が中心ですが、有力豪族・中臣一族の拠点となった場所のため、中臣鎌足の館があった可能性もあるといわれています。
遺跡から出土した竃(かまど)の復元模型がありました。
あれ、でも・・・鎌足は鹿島の人じゃなかったの?
茨城の鹿島に住んだことがある私にとって、中臣(藤原)鎌足は幼稚園児の時から知っている、身近なおじさん。
調べてみたところ、彼は奈良か鹿島出身と言われているそうです。
山科ではなさそうですが、名を上げてからここで暮らしたのかもしれませんね。
地図には中臣神社の名前も出ていますが、なかとみ保育園があるきりだったので、先へ進みます。
● 坂上田村麻呂墓
「文の菅原道真、武の坂上田村麻呂」といわれる、坂上田村麻呂(811年没)のお墓もあります。
彼も、幼稚園児の時から知っているおじさんです。
夏になると、親の実家の青森でねぶたを見ていた私。
祭りの最優秀賞は「坂上田村麻呂賞」という名前だったので、まる覚えしていました。
ねぶた祭りではすっかりおなじみの賞でしたが、坂上田村麻呂は蝦夷制圧をした征夷大将軍。
ねぶたの起源に関係する人だといわれますが、地元にとって彼は征服者で逆賊だという声もあり、いつの間にか賞の名前は「青森県知事賞」に代わっていました。
将軍から県知事になって、なんだか軽くなっちゃった気が…。まあでも仕方がないですね。
子ども心に青森の人かと思っていましたが、彼は陸奥に出兵してきた京都の人。
それでも彼が建てた清水寺には、彼が捕まえたアテルイとモレの碑が立っています。
彼のお墓は、今では別の場所にある西野山古墓だという説が有力だそうですが、それでもここで手を合わせました。
● 折上稲荷神社
折上(おりがみ)稲荷は、明るい雰囲気の神社。
稲荷信仰の神である倉稲魂神(うかのみたまのみこと)のほか、保食命(うけもちのみこと)、 稚産霊神(わかむすびのかみ)がご祭神。
「伏見稲荷の奥の宮」とも呼ばれます。
角ありの狛犬がいいですね。
賭け事祈願の寶(たから)大神。目立ちます。
お金持ちになれなくても、ぎりぎりお金に困りませんように!
● 日本のシンデレラ
ここは「日本のシンデレラ」と言われた、モルガンお雪が信仰した神社だそう。
どこかで聞いたことがあるけれど、はて誰だろう?と思ったら、アメリカの財閥創始者J・Pモルガンの甥と結婚した祇園の芸妓さんだそう。
彼女が寄進した鳥居のほか、境内にはさまざまな開運物が鎮座し、地図を片手にハッピーアイテム巡りができるようになっていました。
ここも中臣遺跡のエリア内。境内の稲荷塚古墳は古墳群・中臣十三墳のひとつとされています。
その稲荷塚にあるひょうたん大神は、モルガンお雪が特に熱心にお参りしたところだそう。
青いひょうたんの置物がありました。
モルガンお雪が座った腰かけ石。
うーん、ここは本当に、お雪さんの存在感がすごいです。
● 大石神社
さらに西に向かい、先ほど山科急行バスで通った大石神社バス停を超えて歩いていきます。
この辺りは、大石内蔵助が隠遁した地。
ご祭神は大石内蔵助良雄公。赤穂藩御家断絶後、筆頭家老だった彼は明石を離れてこの地に移り、事件の善後策を講じたそう。
閑静で人目につきにくく、交通に便利な山科は、同志が集まるのに便利な土地だったそうです。
元禄時代に起こった忠臣蔵赤穂浪士の討ち入り(1701年)は、たびたび映画やドラマになっていますが、この大石神社の歴史は意外に新しく、創建は昭和10年です。
● ポニーの花子
大石神社には神馬がいました。ん?なんか小さい。仔馬かな?
午前中に参拝した上賀茂神社では、神馬は白馬であることが必須条件で、いま神社にいるのも堂々とした体躯の白いサラブレッド、神山号。
でも、ここの境内にいるのは…灰色ポニー!
でも、ポニーって神馬になるの?
神山号を見慣れていた私は、ちょっとしたカルチャーショックにおそわれます。
名前は花子ちゃん。名前からして、神々しさよりも親しみ感にあふれています。
小さい!かわいい!
神様になった大石内蔵助が、このポニーに乗る姿を想像して、なんだかほっこりします。
「足が地面に着いちゃうよー」みたいな。
上賀茂神社の神山号は、とても大切にされており、おさわりはNG。
参拝者が餌をあげる時には、神社の人がそばについていますが、ここは見回しても神社関係者の姿はありません。
むしろ「花子にあげてもよいもの」という表示があり、餌やり全面オッケーです。
小さな男の子が持ってきた葉っぱを、むしゃむしゃと食べるポニー。
完全に牧場の一コマです。
男の子に首を撫でられても、花子ちゃんは慣れているのか、まったく怒らず、草を食べるのに夢中です。
男の子がいなくなると、私の方に「草ちょうだい」とやってきましたが、私、手ぶらで来ちゃったわ~。
なんの餌も持ってこなかったので、不満げに柵から首を出して、かすかに生える草をかじりはじめました。
神馬なんですから、そんなにがっつかないで…!
● 男でござる
本殿の横には義人社がありました。
討ち入りの道具を支援し、奉行所の拷問を受けても「天野屋利兵衛は男でござる」といって口を割らなかった堺の商人が、神様になって祀られていました。
赤穂浪士の映画でもよく出てくる人ですね。
毎年12月14日の討ち入り日に開催される義士祭の写真が飾られています。
先ほど参拝した折上稲荷神社は華やかな女性っぽさにあふれていましたが、こちらは一転して、硬派な男っぽさムンムンの神社です。
みごとなほどに対照的!
● メタボ解消祈願?
大石内蔵助の銅像には、願い札がたくさん貼られていました。
お札に書く願いの例として「家内安全」などと並んで「メタボ解消」と書かれていました。
う~ん、そこは自分で何とかしよう!とクラノスケも言ってるはず!
失職して浪人になっても、討ち入りに命を懸けた四十七士はメタボじゃなかったでしょうからね!
大石神社の隣に岩屋寺、そして山科神社があり、どれも近道があったので、続けて参拝しました。
● 岩屋寺
先ほど参拝した岩屋神社から3.5キロほど離れていますが、名前が似ている岩屋寺。
神遊山という山の名前がいいですね。やはりここも大石内蔵助ゆかりのお寺で、大石寺とも呼ばれています。
ご本尊の不動明王は、彼の念持仏だったそうです。
ご住職は代々尼僧が勤められており、女性の方が、見学者を内部案内していました。
境内本堂の下に、内蔵助が討ち入り前の一年四ヶ月間を過ごした閑居跡があります。
彼お手植えの梅が、ちょうど花を咲かせていました。
上には梅が咲いていましたが入りきらず...
根元の立て看板には梅の花を見て詠んだ最後の句が書かれていました。
● 山科神社
宇多天皇の勅命により創建された山科神社は、山科一ノ宮とも呼ばれてきました。
岩屋神社は、山科神社の奥の院とされていたそうです。
ご祭神は、日本武尊とその御子の稚武王(わかたけのみこと)。
ぐぐっと急勾配の坂を上った山の中腹に神殿があり、ハーハー荒い息を立てながら参拝します。
その奥には、さらに山の上へと続く山科トレイルの細道が続いていました。
イノシシ注意!
● 清水焼団地
忠臣蔵ゆかりの地の散策を済ませたあとは、バス停に行き、今度は別ルートのバスに乗ります。
2つ先のバス停アナウンスで、近くに清水焼団地があると聞いたので、川田バス停で降りてみることに。
辺りをきょろきょろ見回しましたが、特にそれらしい団地は見あたりませんでした。
後で調べたところ「ひばりが丘団地」のようなドドーンとした団地ではなく、工房や製陶所などがその辺りに集まっている界隈だそうです。
それに私が降りたバス停の辺りには、そうした店々はありませんでした。
ちゃんと調べてから行くんでしたね。
清水焼は、清水寺への参拝道ぞいにいくつもお店があります。
あのあたりに窯があるものと思っていましたが、どんどん手狭になったため、作家や窯元といった製造業者がまとまって山科に移転したそうです。
● 山科駅へ
次の山科駅行きのバスを待って、今度は終点まで。
山科駅はJRと京阪と地下鉄が入る便利な場所ですが、駅前で降りても、バス停の表示しかなく、地下鉄がどこにあるのかわかりません。
ロータリーを超えてあっちに行ったりこっちに行ったり、同じ場所を何往復もうろうろ。
地図もなく、手掛かりがつかめなかったため、結局京阪の人に聞いて、地下鉄への行き方を教えてもらいました。
地下鉄には、建物横のエレベーターから下がっていくのでした。
(表示がなくて、地元の人じゃないとわかりづらい~)
● 本圀寺へ
ひと駅乗って、となりの御陵駅で降ります。
どうしてこれで「みささぎ」と読むのか、わかりません。
次に向かうのは、本圀寺(ほんこくじ)。
時間は5時10分前になっていたので、急いで向かいました。
緩やかな坂をせっせと上っていくと、じきにインクラインが見えてきます。
気持ちのいい散歩道。
そこにかかる擬宝珠(ぎぼし)のついた朱橋を渡ると、お寺の門が見えてきました。
到着後ほどなく、境内の鐘が鳴り響きました。
ゴ~~ン!!
大きな音がしたので、振り向くと、鐘はオートマチック。
無人で動いています。近くにお坊さんの姿が見えるんですけどね。
● まばゆい境内
ここは以前、鐘も橋の擬宝珠も金色に輝く黄金の寺でしたが、今は色が戻り、ずいぶん落ち着いています。
それでも、加藤清正公を祀る清正宮の鳥居はキンキラリン。
外国人カップルが写真をたくさん撮っていました。インスタ映えしますからね。
今回の旅で、後日合流する同僚たちが「御金神社をお参りするつもり」と言っており、すでに参拝済みの私は(じゃあ私は金の鳥居のある別の所に行こう)と、ここに向かったわけです。
九頭竜弁財天を、大迫力のゴールデンドラゴンが護っていました。
四方から写真を撮っちゃいました。全方向キラキラゴ-ジャスです。
● 鎌倉から移った大本山
でもこのお寺、金づくしが売りというわけではありません。
ここは、鎌倉にある日蓮宗最古の寺院、大本山妙本寺が移転した、由緒正しい日蓮宗大本山なのです。
先ほどは、川崎大師の京都別院に行きましたが、ここも鎌倉の方が最初。
鎌倉の妙本寺はよく訪れる場所なので、こちらの存在も気になっていました。
当時の幕府があった鎌倉で、日蓮上人は布教を熱心に行ったため、今でも日蓮宗の寺院が多くあります。
その後、室町幕府に変わって都が京都に移ると、時の天皇が荒廃した鎌倉から京都に大本山を移すように命じたのだそう。
そういう理由だったんですね。
「おとぼけの龍」でございます。
おひょいさんみたいな顔つき
由来が描かれていないかとキョロキョロ探しましたが、わかりませんでした。
● 御陵参り
お寺を出て、琵琶湖疎水を見ながらくねくね細道をたどって車道にでました。
今度は天智天皇のお墓に向かいます。
これがあるから御陵駅。
古墳時代末期の、京都で一番古い天皇陵だそうです。
天智天皇、つまり中大兄皇子といえば飛鳥時代のクーデター、大化の改新。
そこも中臣鎌足とつながります。
御陵の敷地で、お寺で会った外国人カップルとすれ違いました。
私が出た後もまだ本圀寺に残っていたので、車道に出ずにお寺から行けるルートがあったと判明。
彼らの方が道に詳しかったようです。
● こたつ和室
地下鉄で二条城まで行き、外に出ると、お城はライトアップされていました。
今日は、いろいろな歴史ゆかりの場所を尋ねたなあ。さすがは歴史の町京都です。
アップダウンのきつい日だったので、旅行初日ながら、足はもうくたくた。
宿に戻ります。今回滞在するのは和室で、こたつが備え付けてあります。
わー、こたつなんて久しぶり。しんしんと底冷えする京都の夜、こたつに入るともう出られません。
就寝までぬくぬくとあたたまって過ごしました。
2日目に続きます。
● 中臣遺跡
岩屋神社参拝後、まっすぐ伸びる参道を通ってひたすら西へ歩いていきました。
きれいな川を超えます。
山科盆地を流れる宇治川の支流、山科川です。
番所橋から。江戸時代に奉行所があったのでしょうか。
道路沿いの信号横に、中臣遺跡がありました。
地図で見つけて、気になった場所です。
ここは旧石器時代(約2万年前)から室町時代(約500年前)にかけての大規模な集落遺跡だそう。
古墳出現前後の集落跡と古墳時代後期集落跡が中心ですが、有力豪族・中臣一族の拠点となった場所のため、中臣鎌足の館があった可能性もあるといわれています。
遺跡から出土した竃(かまど)の復元模型がありました。
あれ、でも・・・鎌足は鹿島の人じゃなかったの?
茨城の鹿島に住んだことがある私にとって、中臣(藤原)鎌足は幼稚園児の時から知っている、身近なおじさん。
調べてみたところ、彼は奈良か鹿島出身と言われているそうです。
山科ではなさそうですが、名を上げてからここで暮らしたのかもしれませんね。
地図には中臣神社の名前も出ていますが、なかとみ保育園があるきりだったので、先へ進みます。
● 坂上田村麻呂墓
「文の菅原道真、武の坂上田村麻呂」といわれる、坂上田村麻呂(811年没)のお墓もあります。
彼も、幼稚園児の時から知っているおじさんです。
夏になると、親の実家の青森でねぶたを見ていた私。
祭りの最優秀賞は「坂上田村麻呂賞」という名前だったので、まる覚えしていました。
ねぶた祭りではすっかりおなじみの賞でしたが、坂上田村麻呂は蝦夷制圧をした征夷大将軍。
ねぶたの起源に関係する人だといわれますが、地元にとって彼は征服者で逆賊だという声もあり、いつの間にか賞の名前は「青森県知事賞」に代わっていました。
将軍から県知事になって、なんだか軽くなっちゃった気が…。まあでも仕方がないですね。
子ども心に青森の人かと思っていましたが、彼は陸奥に出兵してきた京都の人。
それでも彼が建てた清水寺には、彼が捕まえたアテルイとモレの碑が立っています。
彼のお墓は、今では別の場所にある西野山古墓だという説が有力だそうですが、それでもここで手を合わせました。
● 折上稲荷神社
折上(おりがみ)稲荷は、明るい雰囲気の神社。
稲荷信仰の神である倉稲魂神(うかのみたまのみこと)のほか、保食命(うけもちのみこと)、 稚産霊神(わかむすびのかみ)がご祭神。
「伏見稲荷の奥の宮」とも呼ばれます。
角ありの狛犬がいいですね。
賭け事祈願の寶(たから)大神。目立ちます。
お金持ちになれなくても、ぎりぎりお金に困りませんように!
● 日本のシンデレラ
ここは「日本のシンデレラ」と言われた、モルガンお雪が信仰した神社だそう。
どこかで聞いたことがあるけれど、はて誰だろう?と思ったら、アメリカの財閥創始者J・Pモルガンの甥と結婚した祇園の芸妓さんだそう。
彼女が寄進した鳥居のほか、境内にはさまざまな開運物が鎮座し、地図を片手にハッピーアイテム巡りができるようになっていました。
ここも中臣遺跡のエリア内。境内の稲荷塚古墳は古墳群・中臣十三墳のひとつとされています。
その稲荷塚にあるひょうたん大神は、モルガンお雪が特に熱心にお参りしたところだそう。
青いひょうたんの置物がありました。
モルガンお雪が座った腰かけ石。
うーん、ここは本当に、お雪さんの存在感がすごいです。
● 大石神社
さらに西に向かい、先ほど山科急行バスで通った大石神社バス停を超えて歩いていきます。
この辺りは、大石内蔵助が隠遁した地。
ご祭神は大石内蔵助良雄公。赤穂藩御家断絶後、筆頭家老だった彼は明石を離れてこの地に移り、事件の善後策を講じたそう。
閑静で人目につきにくく、交通に便利な山科は、同志が集まるのに便利な土地だったそうです。
元禄時代に起こった忠臣蔵赤穂浪士の討ち入り(1701年)は、たびたび映画やドラマになっていますが、この大石神社の歴史は意外に新しく、創建は昭和10年です。
● ポニーの花子
大石神社には神馬がいました。ん?なんか小さい。仔馬かな?
午前中に参拝した上賀茂神社では、神馬は白馬であることが必須条件で、いま神社にいるのも堂々とした体躯の白いサラブレッド、神山号。
でも、ここの境内にいるのは…灰色ポニー!
でも、ポニーって神馬になるの?
神山号を見慣れていた私は、ちょっとしたカルチャーショックにおそわれます。
名前は花子ちゃん。名前からして、神々しさよりも親しみ感にあふれています。
小さい!かわいい!
神様になった大石内蔵助が、このポニーに乗る姿を想像して、なんだかほっこりします。
「足が地面に着いちゃうよー」みたいな。
上賀茂神社の神山号は、とても大切にされており、おさわりはNG。
参拝者が餌をあげる時には、神社の人がそばについていますが、ここは見回しても神社関係者の姿はありません。
むしろ「花子にあげてもよいもの」という表示があり、餌やり全面オッケーです。
小さな男の子が持ってきた葉っぱを、むしゃむしゃと食べるポニー。
完全に牧場の一コマです。
男の子に首を撫でられても、花子ちゃんは慣れているのか、まったく怒らず、草を食べるのに夢中です。
男の子がいなくなると、私の方に「草ちょうだい」とやってきましたが、私、手ぶらで来ちゃったわ~。
なんの餌も持ってこなかったので、不満げに柵から首を出して、かすかに生える草をかじりはじめました。
神馬なんですから、そんなにがっつかないで…!
● 男でござる
本殿の横には義人社がありました。
討ち入りの道具を支援し、奉行所の拷問を受けても「天野屋利兵衛は男でござる」といって口を割らなかった堺の商人が、神様になって祀られていました。
赤穂浪士の映画でもよく出てくる人ですね。
毎年12月14日の討ち入り日に開催される義士祭の写真が飾られています。
先ほど参拝した折上稲荷神社は華やかな女性っぽさにあふれていましたが、こちらは一転して、硬派な男っぽさムンムンの神社です。
みごとなほどに対照的!
● メタボ解消祈願?
大石内蔵助の銅像には、願い札がたくさん貼られていました。
お札に書く願いの例として「家内安全」などと並んで「メタボ解消」と書かれていました。
う~ん、そこは自分で何とかしよう!とクラノスケも言ってるはず!
失職して浪人になっても、討ち入りに命を懸けた四十七士はメタボじゃなかったでしょうからね!
大石神社の隣に岩屋寺、そして山科神社があり、どれも近道があったので、続けて参拝しました。
● 岩屋寺
先ほど参拝した岩屋神社から3.5キロほど離れていますが、名前が似ている岩屋寺。
神遊山という山の名前がいいですね。やはりここも大石内蔵助ゆかりのお寺で、大石寺とも呼ばれています。
ご本尊の不動明王は、彼の念持仏だったそうです。
ご住職は代々尼僧が勤められており、女性の方が、見学者を内部案内していました。
境内本堂の下に、内蔵助が討ち入り前の一年四ヶ月間を過ごした閑居跡があります。
彼お手植えの梅が、ちょうど花を咲かせていました。
上には梅が咲いていましたが入りきらず...
根元の立て看板には梅の花を見て詠んだ最後の句が書かれていました。
● 山科神社
宇多天皇の勅命により創建された山科神社は、山科一ノ宮とも呼ばれてきました。
岩屋神社は、山科神社の奥の院とされていたそうです。
ご祭神は、日本武尊とその御子の稚武王(わかたけのみこと)。
ぐぐっと急勾配の坂を上った山の中腹に神殿があり、ハーハー荒い息を立てながら参拝します。
その奥には、さらに山の上へと続く山科トレイルの細道が続いていました。
イノシシ注意!
● 清水焼団地
忠臣蔵ゆかりの地の散策を済ませたあとは、バス停に行き、今度は別ルートのバスに乗ります。
2つ先のバス停アナウンスで、近くに清水焼団地があると聞いたので、川田バス停で降りてみることに。
辺りをきょろきょろ見回しましたが、特にそれらしい団地は見あたりませんでした。
後で調べたところ「ひばりが丘団地」のようなドドーンとした団地ではなく、工房や製陶所などがその辺りに集まっている界隈だそうです。
それに私が降りたバス停の辺りには、そうした店々はありませんでした。
ちゃんと調べてから行くんでしたね。
清水焼は、清水寺への参拝道ぞいにいくつもお店があります。
あのあたりに窯があるものと思っていましたが、どんどん手狭になったため、作家や窯元といった製造業者がまとまって山科に移転したそうです。
● 山科駅へ
次の山科駅行きのバスを待って、今度は終点まで。
山科駅はJRと京阪と地下鉄が入る便利な場所ですが、駅前で降りても、バス停の表示しかなく、地下鉄がどこにあるのかわかりません。
ロータリーを超えてあっちに行ったりこっちに行ったり、同じ場所を何往復もうろうろ。
地図もなく、手掛かりがつかめなかったため、結局京阪の人に聞いて、地下鉄への行き方を教えてもらいました。
地下鉄には、建物横のエレベーターから下がっていくのでした。
(表示がなくて、地元の人じゃないとわかりづらい~)
● 本圀寺へ
ひと駅乗って、となりの御陵駅で降ります。
どうしてこれで「みささぎ」と読むのか、わかりません。
次に向かうのは、本圀寺(ほんこくじ)。
時間は5時10分前になっていたので、急いで向かいました。
緩やかな坂をせっせと上っていくと、じきにインクラインが見えてきます。
気持ちのいい散歩道。
そこにかかる擬宝珠(ぎぼし)のついた朱橋を渡ると、お寺の門が見えてきました。
到着後ほどなく、境内の鐘が鳴り響きました。
ゴ~~ン!!
大きな音がしたので、振り向くと、鐘はオートマチック。
無人で動いています。近くにお坊さんの姿が見えるんですけどね。
● まばゆい境内
ここは以前、鐘も橋の擬宝珠も金色に輝く黄金の寺でしたが、今は色が戻り、ずいぶん落ち着いています。
それでも、加藤清正公を祀る清正宮の鳥居はキンキラリン。
外国人カップルが写真をたくさん撮っていました。インスタ映えしますからね。
今回の旅で、後日合流する同僚たちが「御金神社をお参りするつもり」と言っており、すでに参拝済みの私は(じゃあ私は金の鳥居のある別の所に行こう)と、ここに向かったわけです。
九頭竜弁財天を、大迫力のゴールデンドラゴンが護っていました。
四方から写真を撮っちゃいました。全方向キラキラゴ-ジャスです。
● 鎌倉から移った大本山
でもこのお寺、金づくしが売りというわけではありません。
ここは、鎌倉にある日蓮宗最古の寺院、大本山妙本寺が移転した、由緒正しい日蓮宗大本山なのです。
先ほどは、川崎大師の京都別院に行きましたが、ここも鎌倉の方が最初。
鎌倉の妙本寺はよく訪れる場所なので、こちらの存在も気になっていました。
当時の幕府があった鎌倉で、日蓮上人は布教を熱心に行ったため、今でも日蓮宗の寺院が多くあります。
その後、室町幕府に変わって都が京都に移ると、時の天皇が荒廃した鎌倉から京都に大本山を移すように命じたのだそう。
そういう理由だったんですね。
「おとぼけの龍」でございます。
おひょいさんみたいな顔つき
由来が描かれていないかとキョロキョロ探しましたが、わかりませんでした。
● 御陵参り
お寺を出て、琵琶湖疎水を見ながらくねくね細道をたどって車道にでました。
今度は天智天皇のお墓に向かいます。
これがあるから御陵駅。
古墳時代末期の、京都で一番古い天皇陵だそうです。
天智天皇、つまり中大兄皇子といえば飛鳥時代のクーデター、大化の改新。
そこも中臣鎌足とつながります。
御陵の敷地で、お寺で会った外国人カップルとすれ違いました。
私が出た後もまだ本圀寺に残っていたので、車道に出ずにお寺から行けるルートがあったと判明。
彼らの方が道に詳しかったようです。
● こたつ和室
地下鉄で二条城まで行き、外に出ると、お城はライトアップされていました。
今日は、いろいろな歴史ゆかりの場所を尋ねたなあ。さすがは歴史の町京都です。
アップダウンのきつい日だったので、旅行初日ながら、足はもうくたくた。
宿に戻ります。今回滞在するのは和室で、こたつが備え付けてあります。
わー、こたつなんて久しぶり。しんしんと底冷えする京都の夜、こたつに入るともう出られません。
就寝までぬくぬくとあたたまって過ごしました。
2日目に続きます。
教科書に出てくる方達に関係のある
山科なんですね。
東の方と思ってました。
2万年前からの集落! ピンと来ないくらいの大昔です。
どんな生活だったのかちょっぴり勉強したくなります。
なんとなく、京都は平安京からというイメージがありますが、もっとずっと前の石器時代の遺跡も、ちゃんと発掘されているんですね~。
今後の考古学の調査が進んで、新しい発見があればいいなあと思います☺