【ラー博一大プロジェクト】【今から110年前の日本の「ラーメンブーム」のルーツに迫る】【ラーメンの鬼「支那そばや」が運営に参加】「浅草 來々軒」の味を復刻!
2020 年10月14日(水)、新横浜ラーメン博物館に、今から110年前の明治43年に誕生した「浅草 來々軒(らいらいけん)」が復活することになりました。
それを記念して、10月9日に行われたプレス発表会にロッキーも招待されて、ラーメンファン代表で行ってきました。
1994年に新横浜に開館した世界初のラーメンアミューズメント施設「新横浜ラーメン博物館(館長:岩岡洋志氏)」は開館準備の1991年頃から、日本のラーメンブームのルーツである「浅草 來々軒」に関して、細かく日本全国で調査を開始。
その中で、数多くの文献や、その時代の生き証人の皆様からの証言を、丁寧に繋ぎ合わせて、時代考証を行ったそうです。
「浅草 來々軒(1910年創業)」が日本のラーメンの元祖と今まで言われて来ましたが、元祖というよりも当時あった中国伝来の「南京そば」は当時の食糧事情から、脂っこくて、豚臭い、そんなネガティブな感想だったそうですが、その南京そばを日本人の舌に合うように改良を加えて、日本人の間で、大ヒットさせたパイオニアが「浅草 來々軒」であったという事だそうです。
「浅草 來々軒」の創業者は尾崎貫一。
その末裔の協力もあり、今回「ラー博一大プロジェクト」に発展。
ラー博のスタッフから、では「浅草 來々軒」をラー博に招致しましょう、そんな意見が飛び出して、館長の岩岡氏はスタッフに2つのリクエストを出されたそうです。
1つ目は「浅草 來々軒で使っていた小麦の特定」、2つ目は「浅草 來々軒の末裔の承認」、この2つをクリアしなければ、浅草 來々軒の招致はさせないとのこと。
スタッフの皆さんはまず明治43年の「浅草 來々軒」の小麦の特定に着手。当時、日清製粉の前身、「館林製粉(群馬県)」で「鶴」、「亀」という銘柄があり、これを使用していたと言った証言がありまして、日清製粉に問い合わせるも、当時の資料はなし。しかしここから明治43年発行の群馬県立農事試験場要覧に、8種類の小麦が試験されていて、その中で「赤坊主」品種が麺用の中力粉として用いられていたことを突き止めました。赤坊主から系図を辿ると現在の「利根3号(さとのそら)」に辿り着き、ほぼ群馬県産の「さとのそら」が後継品種であると推定しました。
1つ目をクリア。
そして2つ目は、「浅草 來々軒」の末裔の承認。これは創業者の玄孫の高橋雄作氏より、運営を今営業しているラーメン屋さんに任せたいという意向があり、現在のいろいろなラーメン屋さんに影響を与えて、自家製麺に精通、小麦の知識にも長けている、同じ醤油ラーメンで有名になった、などの点で「支那そばや」に白羽の矢が立てられました。
ラーメンの鬼、佐野実氏の後を継いだ佐野しおりさん。初めて「浅草 來々軒」のお話をいただいた時は少々困惑。私たちに再現が出来るのだろうか?そして現代の人に当時のラーメンが受け入れられるのだろうか?
しかし「浅草 來々軒」に関する古い文献を読み解き、深く理解する中で、もし佐野実が存命ならば、きっと復活劇に使命感で受けていただろう、そんなふうに心境を変化させて行きました。「支那そばや」のスタッフといろいろと議論して、なんとか出来るかもしれない、そんな確信を持った段階で、運営の話を快諾。
こうしてラー博が1991年からずっと追いかけてきた「浅草 來々軒」は目に見える形で復活することになりました。
ロッキーはまだ残念ながら、試食をしておりません〜本業の決算の仕事があり、2時間しか会場にいることができませんでした。60名近いプレスのラーメン行列待ち、断念。でも来週の一般の試食会で、ゆったりと食べられる予定ですので、味に関するレポは後ほど!w