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タイトル:背番号「3」と背番号「55」と私の「運命」
1974年10月14日の背番号3の引退試合、当時まだ10歳だった私もテレビの前で親兄弟とその光景を目に焼き付けていました。国民的スーパースターの引退。
そして名言「わが巨人軍は永久に不滅です」
引退後、背番号90は、ついに日本一には成れずに監督解任。
栄光の背番号3ファンにとって、混沌とした月日が流れました。
1994年10月8日、その日はファンにとっては忘れられない日。そして私の人生にとっても忘れられない1日。
この日は中日と同率首位の巨人が、最終戦、どちらか勝った方がセリーグを制覇するという天下分け目の決戦。
私にとっては当時付き合っていたカミサンのお誕生日、本来なら誕生日パーティーを開かなければいけませんが、野球の応援を優先させてしまいました。
もし巨人が勝っていなければ、今の「家族」はなかったと思います。
そう思うと、本当に運命の一戦。
そして見事6対3で巨人が勝利、セリーグ制覇。
私たちはその年、長嶋監督の日本一の胴上げを東京ドームで見届けて、翌年、めでたく結婚。
一方、背番号55とは、1993年5月1日の1軍デビューの日に、東京ドームの巨人対ヤクルト戦を見に行った時からのファンです。
その日背番号55は2ベースヒットを初めて打ちました。
そして私は東京ドームにはいませんでしたが、翌2日に運命の第1号ホームランをライトスタンドへ弾丸ライナーで放ちました。
松井選手の日本での最後の安打を見たのが、2002年の日本シリーズ第2戦桑田投手で勝った試合でした。
その日もツーベースヒットでした。
最初と最後がツーベースなのは、ホームランバッターらしからぬ所かもしれませんが、55番という背番号を身にまとい、ホームランを打つ事を宿命づけられた男の「悲哀」をその時なんとなく感じました。
そしてその年の日米野球2002、最終戦に見に行きました。
この日は2歳になるタッキーの東京ドームデビューの日でもありました。
しかし松井選手のホームランどころかヒットすら見る事はできませんでした。
きっと日本のファンの悲しみが松井選手のバットまで湿らせてしまったのかもしれません。
普通は試合が終了してヒーローインタビューが終わると、観客は帰るはずですが(もちろん私も小さいタッキーがいなければ、真っ先に帰る所ですが、混雑を避ける為暫く観客席にいました)、
この日の東京ドームは異様な光景でした。と言いますのも観客席の8割方のお客さんが全く帰りません。
みんな思いはひとつ、背番号55に「さよなら」か「エール」を送りたいという気持ちでした。
するとスタンドのどこからか「松井コール」が沸き起こり、ドームじゅうが松井コール一色となりました。
それから数分がたったでしょうか、出てきました、松井選手が。
感動しました、やっぱり松井ファンでよかったな、NYに行ってもがんばってくれ、海の向こうから応援してるよ、
いつの間にか目がうるうるしてきました。
それから2年後の2004年3月28日、ニューヨークヤンキースの4番打者として、日本に凱旋帰国しました。私たちの前で巨人からホームランを打った松井選手、かっこ良かったですね。
私たちがプレイヤーとしてフィールドで背番号55を見たのが、この試合が最後。
でも今日の東京ドームのマウンドに立った背番号55も、とびきりかっこ良かったです、巨人のユニフォームが懐かしかった。
恩師の長嶋氏を敬う松井氏の姿、それは日本の理想的な師弟の姿を表現しているのかも知れません。
今日の長嶋さんのスピーチ、松井さんのスピーチ、両方とも感動しました。
思えば5月5日はゴジラの日なのかもしれませんね。
国民栄誉賞受賞、お二人とも本当におめでとうございました。
そして私の人生は、きっと松井監督誕生まで続くんでしょうね?!(笑)
つづく。。