四稜郭に行ったことがなかったので、連れて行ってもらった。
私はお城の跡だと思っていました。
芝ざくら 養生中。
イメージアップ推進事業
史跡 四稜郭 函館市市民協同モデル事業
函館市のホームページより
1868(明治元)年10月に五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は,新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築きましたが,五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るため,五稜郭の北方約3kmの函館を一望できる緩斜面台地にも洋式の台場「四稜郭」を急造しました。
四稜郭は,蝶が羽を広げたような形の堡塁で,東西約100m南北約70mの範囲に,幅5.4m高さ約3mの土塁が巡り,その周囲には幅2.7m深さ0.9mの空濠が掘られています。
また,土塁の南西側には門口が設けられ、郭内(面積約2,300平方メートル)の四隅には砲座が配置されていますが、建物は造られませんでした。
地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒役200名と付近の住民約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれています。
1869(明治2)年5月11日,新政府軍は箱館総攻撃を開始しました。
松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めましたが、新政府軍には福山藩兵も加わり,さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れ五稜郭方面へと退却しました。
同年5月18日には旧幕府脱走軍の榎本武揚以下が降伏し,箱館戦争は終わりました。
旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結した後,四稜郭はかなり荒廃がすすんでいました。しかし,昭和9年1月22日に史跡に指定されて以来、地元の方々をはじめ,市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。
亀田町(昭和46年に市制施行,昭和48年に函館市と合併)では,この史跡保存に万全を期すため、昭和44年度から47年度にかけて,国・北海道の補助を受けて土塁の修復等の環境整備工事を実施しました。また合併後の函館市としても、平成2年度以降断続的に再整備事業を実施し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるように整備しています。
夫が子どもの頃は、草ぼうぼうで、こんなきれいに整備されていなかったとのこと。
街の開発に伴って、新しく道路もできており、行きやすくなりました。
大鳥圭介
設計図ですかね。
桜が咲いていました。
史跡 四稜郭
函館市陣川町59
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