さっちゃん 空を飛ぶ

認知症で要介護5の妻との楽しい日常を 日記に書き留めたいと思います

今朝のテレビ番組で夫婦の家事分担について話していました

2021-09-08 23:55:48 | 思索
今朝のテレビ番組の中で、ある夫婦が妻と夫の家事の実践割合を表わした図表を取り上げていました。
横軸がそれぞれの家事の分担割合、縦軸がその家事自体の頻度です。
横軸では右に行くほどに妻がしている割合が高く、左に行くほど夫がやっているということ。
もちろん、真ん中なら妻も夫も同じくらい担当しているということです。
縦軸は家事自体の頻度ですから、毎日の食事準備などは最上部となりますし、月に一度の新聞代金の支払い等は下の方になります。
様々な家事の項目を数百項目取り上げて、図表の中にポインティングしていったわけです。

するとまあ、日本の夫婦ですから容易に想像できることですが、ほとんどが図表の右半分に集中したのです。
この夫婦、日本人夫婦としては比較的多く夫も家事をしているそうなんです。
こんな図表を面倒くさいにも関わらず、夫婦で協力し話し合いながら作成するくらいですから、良い夫なんだと思います。
昭和の古い夫なら、すべての家事項目が右端にへばり付いていても珍しくないと思います。
でも、この夫は(妻:夫)(6:4)とか(7:3)くらいなのも結構ありますから、日本人夫婦の中では頑張ってる方でしょう。

そんな夫に質問したんだそうです。
「自分は何割くらい家事を分担してると思いますか?」
夫の答えは「3割くらいかな」
その質問を妻にぶつけると、「夫の家事分担は1割くらいだと思う」との答えでした。

そんなに大きな差が出た理由のひとつが、「見えない家事」の存在なんだそうです。
無くなりかけている洗剤やシャンプーやラップを買い足しておく。
お風呂場や洗面所の排水口に溜まった髪の毛等を取り出しておく。
届き物の着払い等の際に困らない迷惑をかけないように、小銭や千円札を常に用意しておく。
・・・・・・・・・・

等々、探せばいっぱい出て来そうですね。


僕も上記の夫さんと同じような感じだったと思います。
さっちゃんが仕事で帰りが遅い時は夕食を一品くらい作っていました。
洗濯もいつも手伝っていましたし、風呂掃除も言われればいつもしていました。
さっちゃんから「これしてね」と言われれば、忙しくない限りやっていました。
そう、「言われれば」ですけどね。
僕には言わない、頼まない家事をさっちゃんは無数にこなしていたんでしょうね。
僕も、介護生活に突入して初めて分かりました。
家事の大変さというものが。

もちろん、僕も一人での生活も長かったですから、ひと通りの家事は出来るんです。
でも、自分のためにする家事は、しなくても何ら問題はありません。
ところが、夫のため子供のため家族のためにする家事はしないわけにはいかないんですよね。
僕は自分が介護をするようになって、初めて本当の家事をするようになったと思います。
独り身の時は家事ではなくて自事だったと思います。
自分の事、自分のためにする事、なんですね。
家事は家族のためにする事だと、痛切に感じました。
家族への義務、否、愛情ゆえにすることなんですね。

僕が食事を作る時も、さっちゃんが食べたくなるように、食べやすいように、栄養が摂れるように、などと考えます。
ここのところ気温の変動も大きいですから、さっちゃんが暑過ぎないように寒過ぎないようにと考えながら、を決めます。
夏の間、さっちゃんは室内では裸足でした。
その裸足の足裏にゴミがザラザラと当たったりしないようにと思って、フローリングの床の掃除もしました。
自分のためではなくて、さっちゃんのことを思いながら家事をしていることが多いですね。

とは言え、それでも僕は数え切れないほどの家事をサボっています。
具体例を並べ上げるのは、みなさんから「汚~い!」とか「信じられな~い!」とかの悲鳴が聞こえてきそうですから、止めておきます。

さっちゃんの介護をするようになって得た利点のひとつは、家事が以前に比べると数倍は出来るようになったことだと思います。
家事能力は大人の、家庭人としての社会人としての必須能力のひとつだと思うからです。
自分自身の人間力が上がったような気がしますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大晦日や元日はやっぱりいつもの調子ではブログを書けないものですね

2021-01-01 23:55:01 | 思索
さて昨日、大晦日の晩のことです。
いつも通りブログを書こうとしたんですが、何を書いたらいいやら、相応しい内容が浮かびません。
この1年最後のブログですから、1年間をまとめたり締めくくったりする内容のブログを書かなければ、と思ってしまったんです。
結局、気持ちが定まりませんでしたから、さっちゃんもぐっすりと熟睡しているようですし、入浴することにしました。
入浴と言ってもシャワーだけですが、本当に久し振りです。

大晦日やら元日とかに拘らなければ、書いたであろう事がらは以下のようなこと。
●さっちゃんの今回の便秘との戦いの終了報告
●スーパーへ買い物に行く途中、さっちゃんが腹を立てた些細なこと
●さっちゃんの妹のK子さんが家で作ったお節を届けてくれたこと
●さっちゃんには月日、曜日の意識がなく、正月だという感覚もまったく分からなくなっていること


入浴を決めた時点で、ブログを書くことは諦めていたのですが、さすがに便秘の件の報告はないですよね。
お節のことは相応しい内容だと思われるでしょうが、お節を御裾分けしてくれるようになった理由には不幸・不運な理由も付随していましたからね。

正月だと言っても、さっちゃんはまったく意識していないようです。
さっちゃんはいつも通りです。
ところが僕は、骨の髄から日本人のようで、1年の中でも特別な日だという思いから自由にはなれません。

という訳ですから、改めまして、

明けましておめでとうございます。
旧年中はこの僕の拙いブログを読んでくださり有難うございました。
今年も時折はこのブログに訪れてくださいますようお願いします。



僕は認知症とは成人が幼児化・赤ちゃん化していく病だとひとり勝手に考えていました。
昨年はオムツも多用するようになりましたし、食事介助もするようになりました。
年々、さっちゃんの幼児化・赤ちゃん化は進行しています。
さっちゃんの場合、意味性認知症ですから言葉は早くから失っていましたが、まだ歩くことはしっかり出来ています。

若い母親が赤ん坊を育てる大変な苦労を、苦痛と感じることなく幸福と感じる心の中にこそ僕にとっての救いもあるはずだと思っています。
この苦労が一定期間続いた後には、子供が自分で食べ、トイレへ行き、風呂に入り、着替えをし、靴を履く、そんな楽な時が来る。
苦労の期間に限りがあるという理由だけで、子育ての苦労が幸福感に転ずる理由にはならないでしょう。
子供を育てている大変さ自体に、幸福感を与えてくれる理由があるんだと思うのです。
赤ん坊は母親から睡眠時間を奪い、栄養を奪い、自由を奪い、金銭を奪い、あらゆるものを奪います。
あらゆるものを奪われて、真空化する母親の心や肉体の中には奪われたもの以上の神羅万象が渦巻くように突入して来るんじゃあないでしょうか。

上手く表現できませんが、新年にあたりつらつらと考えてみました。

苦しい、辛い、面倒な、嫌な、憎い、様々な避けて通りたい事がらを、
むしろ積極的に歓迎して喜びに感じられるようになりたいのです。
そんな夢のようなことが可能になるのならば、僕の老々介護も幸せで楽しいものになるはずですから。

これを新春の初夢に終わらせないで、現実に追い求めていきたいと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月15日の終戦の日にあたって

2020-08-15 23:21:20 | 思索
僕はFBを以前から使っていましたが、最近はコメントを載せることがほとんどありません。
「友達」に「いいね!」をクリックするくらいです。
でも、今日は本当に久し振りに自分のコメントを載せました。
終戦の日であり、ご先祖様の霊が身近なことで、僕の魂が揺さぶられた結果なのかもしれません。
このブログの本筋からは外れていますが、ここにも今日の僕のFBでのコメントを載せることとしました。。
固有名詞等、一部FBの文章を修正していることはご了解ください。


     *   *   *   *   *   *   *   *   *   *


今日は終戦の日。
小生の誕生日でもあります。

子供のころはこの時期お盆なので、前後の数日間はすべてのお店はお休みでした。
ですから、誕生日を美味しい料理とかでお祝いしてもらった記憶はまったくありません。
お袋も「全国のお坊さんがお経をあげてくれてるからいいでしょ」と変な理屈で僕を慰めてくれていました。
今でもそうですが、8月は誕生日のある月と言うよりも、戦争の重さに心添わせる月です。


親父は晩酌で興が乗ると「◎●(僕の名前)ここに座れ」と子供の僕に昔の喧嘩の話や戦争での体験談や職場での悩み等を語って聞かせてくれたものです。
酔って話すのですから、同じ話を何度も何度も聞かされています。

親父は満州方面で疫痢に罹り、同じような病人が集まっている施設に来たんだそうです。
周りの兵隊さんで死んでいく人の行動を観察して、自分は死なずに済んだと言ってました。

同じく兵隊で来ていた長兄と会って「どちらかが必ず生き延びて、◆◇家を支えよう」と約束し合ったそうです。
長兄のおじさんはソ連に連れて行かれ、抑留生活を送ることになります。

お袋は1945年の夏は17歳。小倉の軍需工場で働かされていたようです。
8月9日の小倉上空に雲が少なければ、お袋は原爆で死亡していた可能性が高かったんだと思います。


僕は「戦争を知らずに生まれた」世代です。
でも、歴史を知り、両親の人生を知るにつれ、二十歳のころだったでしょうか? 僕自身も「戦争の子」だと言う思いが深くなるのを感じました。
戦争の痛みや哀しみを身近に感じられるようになったのです。
もちろん、身近と言っても限界があります。
でも、「戦争なんて自分には関係ないや!」と思っていたころに比べると、明らかにより自分のこととして考えたり思ったりするようになりました。


今の日本を支えている世代の人々は、太平洋戦争と言っても歴史のかなたの出来事、僕にとっての日清日露戦争やら第一次世界大戦みたいなものです。
個人的体験や思いだけから戦争云々できないなと、痛感します。
そうですからなおさら、もっと根本的なところで人間と戦争、国家と戦争、について個々人が考えなければならないのだと思います。
戦争の個人的体験や思いが薄れている現代はともすると「愚かな人間が繰り返してきた忘却によるリセットの罠」に嵌ってしまいそうです。

終戦直後の日本国民の思いに戻れと言っても、それは無理でしょう。
日本国憲法の「戦争放棄」や「戦力不保持」に涙をともなって共感できた日本国民は残りわずかです。
大多数の日本国民にとってはそれは単なるお題目のようになってしまっています。
お題目さえ掲げていれば、実質的な法律はそのお題目を裏切るものであっても構わないという訳です。

「戦争放棄」や「戦力不保持」は国家間の軍事バランスや圧倒的な米軍の軍事力による保護があって奇跡的に戦後長きにわたって維持できていましたが、
これからの時代もその理想を維持するためには、高い精神性が必要だと思います。
それが何かは僕などには分かるはずもありませんが、そのヒントはガンジーの非暴力主義の強さの中にあると感じています。


終戦の日に際し、つらつらと今の気持ちを書いてみました。
読んでくださって有難うございます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする