こんなところでこんなことを書くのも何ですが、僕の沢登りとの出会いを書いておこうかな、と思います。
僕が沢登りを始めたことがきっかけとなって、その数年後にさっちゃんと出会うことになるのですから。
僕が27歳の春、京都の大原へ旅行し、民宿に泊まりました。
夕方、時間があったので近所を散歩したのです。
お寺を囲む塀があって、その塀沿いに小さな川が流れ、道路も川に沿ってありました。
その日は春にしては暖かな日で、日差しもたっぷり降り注いでいました。
僕は川沿いの道路を歩き、緩やかな坂道を歩き上ります。
そのうち道路は終わりましたが、小川沿いには歩ける踏み跡が付いていたので、今度はその土の道を散歩することにしたのです。
小川沿いに踏み跡は続き、僕は山の自然の中に入って行きました。
夕方とはいえ、まだ高い陽が水の流れを煌めかせていました。
フキノトウが水の煌めきの脇で、これまた輝いていた記憶があります。
そんな桃源郷のような風景の中を僕はゆっくりと登って歩いていました。
そのうち、踏み跡も薄っすらとなって、もうこれ以上は進めない場所まで来てしまいました。
前方には180度に広がるなだらかな明るい薄緑色の斜面が広がっています。
そんな夢のような自然に囲まれて、僕は満たされていました。
そして、そこから来た道を降りたんです。
東京に戻ると、僕は奥多摩に向かいました。
林道の脇に流れていた沢を思い出し、その沢沿いに歩こうと思ったのです。
僕は京都大原で味わった感激を東京でも味わおうとしたんです。
水の流れ沿いに歩くこと、それが僕に感動をもたらしたのですから。
林道の橋の脇から本流に降り、出合にかかっている最初の滝を登ろうとしました。
緩やかな傾斜の滝なんですが、軽登山靴が滑って登れません。
僕は裸足になって、その最初の滝を登りました。
再び靴を履き直し、さらに先に進みます。
すると、数メートルの高さで垂直に落ちる滝が見えて来ました。
この滝は登れそうにないことは一目瞭然です。
僕は左の山の斜面を通って行けば、滝を越すことが出来そうだと思いました。
いわゆる高巻きですね。
でも、高巻きの途中で怖くなります。
ずり落ちそうなんです。
結局、その日はそこから引き返しました。
そこで諦めれば、僕が沢登りをすることもなかったのでしょうが、京都大原での感動はそれくらいでは消えません。
僕は大きな書店へ行き、探しました。
そこで僕は初めて知ることになります。
僕がやろうとしているのが、沢登りだということを。
水の流れに沿って山を登ること、それ即ち沢登りなんですね。
そういうジャンルがあること、しかも解説書やルート図集もあることを初めて知りました。
最初に購入した解説書は誰かに上げてしまったようです。
ルート図集は今でも手元に残っています。
『東京周辺の沢』昭和54年5月10日初版発行 草文社 です。
さっそく僕は解説書を読み、地下足袋と草鞋を購入します。
シュリンゲ2本とカラビナ2枚も買ったと思います。
ルート図をコピーし、僕が向かったのは日原川鷹ノ巣谷でした。
困難な滝はすべて高巻けることがルート図と説明文から読み取れたからです。
京都大原の旅から間もない、5月3日のことでした。
小滝はすべて直登しました。
大滝20mは右の斜面から高巻きます。
その後、そこが崩れ、高巻きルートは今は消えています。
鷹ノ巣谷で僕が一番不安になったのは最後の詰めでした。
当時はシカによる笹の被害もありませんでしたから、詰めは大変な笹藪漕ぎです。
両手で力を込めて笹藪を分けて、体を前進させるのです。
そんな作業が延々と続くんです。
笹藪漕ぎ初体験の僕にとって、永遠に続くとも思えるその苦行は不安感をどんどん煽りました。
途中に太い木があったので、それに登って上を眺めましたが、笹藪は先の先まで永遠に続いているようでした。
しかし、その苦行は突然の終わりを迎えます。
稜線の登山道に飛び出たんです。
しかも、僕の眼前には白い富士山!
僕の沢登り事初めにはふたつの感動が大きな影響を与えています。
京都大原での感動と、鷹ノ巣谷遡行後に眺めた富士山の感動です。
これほどの感動が連続すると、沢登りにのめり込まない訳がないですよね。
僕はルート図集を読み込み、ザイルがなくても遡行できる沢だと判断し、単独での沢登りを続けました。
ホームグラウンドの奥多摩の沢、しかもルート図集に出ている15本の沢の中には、僕が行けそうな沢は9本しかありませんでした。
その数少ない沢を僕は季節を変えて、何度も遡行したんです。
当然、何年か経つと、自分の沢登りに限界を感じ始め、ザイルを使用した沢登りも出来るようになりたいと考えるようになりました。
30歳になっていました。
雑誌『山と渓谷』の会員募集欄を見て、沢登り専門の会に入会希望の手紙を出しましたが、まったく返事が来ません。
当時は、30歳を越えるとロートル扱いでしたから、新入会員としては年齢だけで弾かれてしまうんですね。
そこで思いついたのが、クライミングゲレンデに行って、そこでコネを結ぶこと。
僕が唯一知っている岩登りのゲレンデはつづら岩でした。
馬頭刈(まずかり)尾根を歩いた際に何度か岩登りしているのを見ていたのです。
休みの日、僕は馬頭刈尾根ハイキングを計画し、つづら岩に行きました。
学生のような連中が練習していました。
お昼ご飯を食べながら、「こんな若い奴らに怒られながら訓練するのは嫌だなぁ」とか思って見ていました。
▲この写真は2018年12月2日のつづら岩南面です。
昼食後、場所を変えて、他の練習している人を見ていると、やたら年配の方がいました。
年配と言っても、当時アラフィフくらいだったかと思います。
当時はそんな年齢でクライミングをする人なんかほとんどいませんでしたから。
その二人、男性の方はリードして登っていて、上の方にいます。
下で確保している女性を、僕は見ていました。
どんな風にザイルを使っているのか知りたかったからです。
それに、コネも結べればと思っていました。
これほどの年配の方からなら厳しく怒られながら指導されても我慢が出来そうだと思ったからです。
その女性が自分の事をじっと見続けている僕に気付きました。
そして、「岩登りに関心があるのですか?」と話しかけて来ます。
「はい」と答えると、その女性は自分の電話番号を僕に告げます。
僕はそれをメモし、その晩電話しました。
その後、日和田、天覧山と連れて行ってもらい、3度目で鹿沼の岩場に行った帰りに彼女の所属する山岳会に入会することを決めました。
その山岳会にさっちゃんがいたのです。
僕が沢登りを始めたことがきっかけとなって、その数年後にさっちゃんと出会うことになるのですから。
僕が27歳の春、京都の大原へ旅行し、民宿に泊まりました。
夕方、時間があったので近所を散歩したのです。
お寺を囲む塀があって、その塀沿いに小さな川が流れ、道路も川に沿ってありました。
その日は春にしては暖かな日で、日差しもたっぷり降り注いでいました。
僕は川沿いの道路を歩き、緩やかな坂道を歩き上ります。
そのうち道路は終わりましたが、小川沿いには歩ける踏み跡が付いていたので、今度はその土の道を散歩することにしたのです。
小川沿いに踏み跡は続き、僕は山の自然の中に入って行きました。
夕方とはいえ、まだ高い陽が水の流れを煌めかせていました。
フキノトウが水の煌めきの脇で、これまた輝いていた記憶があります。
そんな桃源郷のような風景の中を僕はゆっくりと登って歩いていました。
そのうち、踏み跡も薄っすらとなって、もうこれ以上は進めない場所まで来てしまいました。
前方には180度に広がるなだらかな明るい薄緑色の斜面が広がっています。
そんな夢のような自然に囲まれて、僕は満たされていました。
そして、そこから来た道を降りたんです。
東京に戻ると、僕は奥多摩に向かいました。
林道の脇に流れていた沢を思い出し、その沢沿いに歩こうと思ったのです。
僕は京都大原で味わった感激を東京でも味わおうとしたんです。
水の流れ沿いに歩くこと、それが僕に感動をもたらしたのですから。
林道の橋の脇から本流に降り、出合にかかっている最初の滝を登ろうとしました。
緩やかな傾斜の滝なんですが、軽登山靴が滑って登れません。
僕は裸足になって、その最初の滝を登りました。
再び靴を履き直し、さらに先に進みます。
すると、数メートルの高さで垂直に落ちる滝が見えて来ました。
この滝は登れそうにないことは一目瞭然です。
僕は左の山の斜面を通って行けば、滝を越すことが出来そうだと思いました。
いわゆる高巻きですね。
でも、高巻きの途中で怖くなります。
ずり落ちそうなんです。
結局、その日はそこから引き返しました。
そこで諦めれば、僕が沢登りをすることもなかったのでしょうが、京都大原での感動はそれくらいでは消えません。
僕は大きな書店へ行き、探しました。
そこで僕は初めて知ることになります。
僕がやろうとしているのが、沢登りだということを。
水の流れに沿って山を登ること、それ即ち沢登りなんですね。
そういうジャンルがあること、しかも解説書やルート図集もあることを初めて知りました。
最初に購入した解説書は誰かに上げてしまったようです。
ルート図集は今でも手元に残っています。
『東京周辺の沢』昭和54年5月10日初版発行 草文社 です。
さっそく僕は解説書を読み、地下足袋と草鞋を購入します。
シュリンゲ2本とカラビナ2枚も買ったと思います。
ルート図をコピーし、僕が向かったのは日原川鷹ノ巣谷でした。
困難な滝はすべて高巻けることがルート図と説明文から読み取れたからです。
京都大原の旅から間もない、5月3日のことでした。
小滝はすべて直登しました。
大滝20mは右の斜面から高巻きます。
その後、そこが崩れ、高巻きルートは今は消えています。
鷹ノ巣谷で僕が一番不安になったのは最後の詰めでした。
当時はシカによる笹の被害もありませんでしたから、詰めは大変な笹藪漕ぎです。
両手で力を込めて笹藪を分けて、体を前進させるのです。
そんな作業が延々と続くんです。
笹藪漕ぎ初体験の僕にとって、永遠に続くとも思えるその苦行は不安感をどんどん煽りました。
途中に太い木があったので、それに登って上を眺めましたが、笹藪は先の先まで永遠に続いているようでした。
しかし、その苦行は突然の終わりを迎えます。
稜線の登山道に飛び出たんです。
しかも、僕の眼前には白い富士山!
僕の沢登り事初めにはふたつの感動が大きな影響を与えています。
京都大原での感動と、鷹ノ巣谷遡行後に眺めた富士山の感動です。
これほどの感動が連続すると、沢登りにのめり込まない訳がないですよね。
僕はルート図集を読み込み、ザイルがなくても遡行できる沢だと判断し、単独での沢登りを続けました。
ホームグラウンドの奥多摩の沢、しかもルート図集に出ている15本の沢の中には、僕が行けそうな沢は9本しかありませんでした。
その数少ない沢を僕は季節を変えて、何度も遡行したんです。
当然、何年か経つと、自分の沢登りに限界を感じ始め、ザイルを使用した沢登りも出来るようになりたいと考えるようになりました。
30歳になっていました。
雑誌『山と渓谷』の会員募集欄を見て、沢登り専門の会に入会希望の手紙を出しましたが、まったく返事が来ません。
当時は、30歳を越えるとロートル扱いでしたから、新入会員としては年齢だけで弾かれてしまうんですね。
そこで思いついたのが、クライミングゲレンデに行って、そこでコネを結ぶこと。
僕が唯一知っている岩登りのゲレンデはつづら岩でした。
馬頭刈(まずかり)尾根を歩いた際に何度か岩登りしているのを見ていたのです。
休みの日、僕は馬頭刈尾根ハイキングを計画し、つづら岩に行きました。
学生のような連中が練習していました。
お昼ご飯を食べながら、「こんな若い奴らに怒られながら訓練するのは嫌だなぁ」とか思って見ていました。
▲この写真は2018年12月2日のつづら岩南面です。
昼食後、場所を変えて、他の練習している人を見ていると、やたら年配の方がいました。
年配と言っても、当時アラフィフくらいだったかと思います。
当時はそんな年齢でクライミングをする人なんかほとんどいませんでしたから。
その二人、男性の方はリードして登っていて、上の方にいます。
下で確保している女性を、僕は見ていました。
どんな風にザイルを使っているのか知りたかったからです。
それに、コネも結べればと思っていました。
これほどの年配の方からなら厳しく怒られながら指導されても我慢が出来そうだと思ったからです。
その女性が自分の事をじっと見続けている僕に気付きました。
そして、「岩登りに関心があるのですか?」と話しかけて来ます。
「はい」と答えると、その女性は自分の電話番号を僕に告げます。
僕はそれをメモし、その晩電話しました。
その後、日和田、天覧山と連れて行ってもらい、3度目で鹿沼の岩場に行った帰りに彼女の所属する山岳会に入会することを決めました。
その山岳会にさっちゃんがいたのです。