さて、簡単なようで、とてつもなく難しいこの七仏通誡偈ですが、この諸仏の教えは宗派に寄っては現代でも大切にされています。
その宗派は聖道門、自分の力で成仏するという自力の宗派です。
修行を積み、戒律を守ることが善行、良いことになり、その善行を積み重ねることで得られる功徳で成仏するというのが自力です。
では、浄土宗、浄土真宗の浄土門、阿弥陀さまに成仏をおまかせする他力の宗派は、この偈文をどうとらえたのか。
親鸞聖人が師事した法然上人がおっしゃられたことをまとめた書物には、
「廃悪修善は、諸仏の通誡なり。しかれども、当時のわれらは、みなそれにそむきたる身どもなれば、ただひとえに、別意弘願のむねを深く信じて、名号をとなえさせ給わんにすぎ候まじ」とあります。 (【和語燈録】 巻五 第二二 145箇條問答 真宗聖教全書四 670頁)
意訳しますと…。
悪を廃し、善を修めることは、仏の教えです。
しかし、今の私たちは、誰もがその教えに背いている存在なのだから、ただ一心に、阿弥陀さまの「全ての生きとし生けるものを救わなければ、私は仏にはなるまい」と誓われたお心を深く信じ、南無阿弥陀仏のお名号を称える他に、救いの道はありません。
ということが書かれてあります。
他力とは、阿弥陀さまが仏となるために修行したときに詰まれた全ての功徳を、自身のために使うのではなく、悪を廃し、善を修めることのできない私たちに使うことで、自力で成仏できない私たちをお浄土に往生させ、仏とならしめて下さるということです。
他力の他とは、阿弥陀さまのこと。
阿弥陀さまのお力なしには、私たちは成仏することなどできないのだから、このご恩に感謝してお念仏を称えるというのが浄土真宗のみ教えです。
「やればできる」ということも、「自分の力次第でなんとかなる」ということも、相手を見ることもなく、関係性を無視した、独りよがりの考え方に過ぎません。
その独りよがりの考え方を持つ私が、状況によって、感じる心によって、ころころ変わる善と悪を、 本当の意味で区別することなどできるはずもありません。
だからこそ、そんな私たちこそが救われる道を、親鸞聖人は示してくださいました。
そして、阿弥陀さまのみ教えに照らされたとき、自分の心の物差しを唯一絶対のものだと、無意識に信じてしまっているということに、気づかされます。
悪いことはしたくない…けれど知らずにしていることもある。
良いことをしたい…自分にではなく、相手にとっての良いことを思い計ろう。
綺麗な心は、綺麗な心ではない私を受け止めてくださる、阿弥陀さまの中にある。
これが、浄土真宗のみ教えに生きる私たちの、阿弥陀如来ただ一仏を正信し念仏する偈ではないでしょうか?