週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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七仏通誡偈 (後編)

2011-01-19 00:55:36 | 法話のようなもの
            (1月のお経の会の法話より-前編中篇の続き)


さて、簡単なようで、とてつもなく難しいこの七仏通誡偈ですが、この諸仏の教えは宗派に寄っては現代でも大切にされています。
その宗派は聖道門、自分の力で成仏するという自力の宗派です。

修行を積み、戒律を守ることが善行、良いことになり、その善行を積み重ねることで得られる功徳で成仏するというのが自力です。

では、浄土宗、浄土真宗の浄土門、阿弥陀さまに成仏をおまかせする他力の宗派は、この偈文をどうとらえたのか。

親鸞聖人が師事した法然上人がおっしゃられたことをまとめた書物には、
「廃悪修善は、諸仏の通誡なり。しかれども、当時のわれらは、みなそれにそむきたる身どもなれば、ただひとえに、別意弘願のむねを深く信じて、名号をとなえさせ給わんにすぎ候まじ」とあります。 (【和語燈録】 巻五 第二二 145箇條問答 真宗聖教全書四 670頁)

意訳しますと…。

悪を廃し、善を修めることは、仏の教えです。
しかし、今の私たちは、誰もがその教えに背いている存在なのだから、ただ一心に、阿弥陀さまの「全ての生きとし生けるものを救わなければ、私は仏にはなるまい」と誓われたお心を深く信じ、南無阿弥陀仏のお名号を称える他に、救いの道はありません。

ということが書かれてあります。

他力とは、阿弥陀さまが仏となるために修行したときに詰まれた全ての功徳を、自身のために使うのではなく、悪を廃し、善を修めることのできない私たちに使うことで、自力で成仏できない私たちをお浄土に往生させ、仏とならしめて下さるということです。

他力の他とは、阿弥陀さまのこと。
阿弥陀さまのお力なしには、私たちは成仏することなどできないのだから、このご恩に感謝してお念仏を称えるというのが浄土真宗のみ教えです。

「やればできる」ということも、「自分の力次第でなんとかなる」ということも、相手を見ることもなく、関係性を無視した、独りよがりの考え方に過ぎません。
その独りよがりの考え方を持つ私が、状況によって、感じる心によって、ころころ変わる善と悪を、 本当の意味で区別することなどできるはずもありません。

だからこそ、そんな私たちこそが救われる道を、親鸞聖人は示してくださいました。
そして、阿弥陀さまのみ教えに照らされたとき、自分の心の物差しを唯一絶対のものだと、無意識に信じてしまっているということに、気づかされます。

悪いことはしたくない…けれど知らずにしていることもある。
良いことをしたい…自分にではなく、相手にとっての良いことを思い計ろう。
綺麗な心は、綺麗な心ではない私を受け止めてくださる、阿弥陀さまの中にある。
これが、浄土真宗のみ教えに生きる私たちの、阿弥陀如来ただ一仏を正信し念仏する偈ではないでしょうか?  

日常を破壊する音

2011-01-17 01:15:27 | ひとりごと

今から16年前の朝。
6時過ぎに起きてテレビをつけると、明かり一つない暗闇の神戸の街が映ってた。

大きな地震があったことと、停電していること。
分かったのは、それだけ。
だから、いつものように朝ごはんを食べて、身支度を整えて、学校へ行った。

その暗闇の中に。
恐怖や不安、痛みや苦しみ、助けを求める声や家族を捜す声。
大切な人を失った嘆きや、迫りくる火を身動きができないまま見つめる絶望。
訳も分からないまま失われた命。

そういうものがあることに、気付くことなく、いつもと変わらぬ朝を過ごした。

私の日常を壊すことのなかった16年前の1月17日の火曜日の午前5時46分。
けど同じ時、多くの人の日常が壊されていた。

そして、20年前の1月17日の朝。
テレビをつけると、暗闇の中を閃光が走る映像が流れてた。

多国籍軍がイラクを空爆して、湾岸戦争が始まった朝だったけど。
私はいつものように朝ごはんを食べて、身支度を整えて、学校へ行った。

その闇の中にも、一人一人の悲鳴があったはずなのに。
多くの人のあるはずだった日常が壊されていたはずなのに。
私の日常が壊れることはなかった。

壊れなかった日常が有り難いものだと、壊された日常を見て思う。

そんなことを少しでも考えてしまった自分自身の有り様が、何よりこれは他人事なんだという意思の表れのようで、情けなく恥ずかしい。

世界中のそれぞれの場所で。
ひとりひとりの、それぞれの1月17日がある。

生きるということは、決して容易なことではないという現実を、突きつけられる日。

それが私の1月17日。


御正忌報恩講法要

2011-01-16 00:55:28 | 行事のご案内

またまた法話の途中ですが…。

本日1月16日は、親鸞聖人の御命日にあたります。
そして、今年は749回忌です。

親鸞聖人は90年のご生涯を求道と伝道に費やされました。

9歳で得度し僧侶となり、比叡山で厳しい修行を積みますが、20年後に山を降ります。
法然上人との出逢い、妻帯、越後への流罪、関東での布教、京へ戻り多くの書物を執筆、息子との義絶、そして入滅。

言葉にしてしまえば短く、90年のご生涯もあっという間の説明で終わってしまいますが、その年月は苦難と葛藤と共に、阿弥陀さまの御本願に出遇われた喜びに満ちたものだったはずです。

そして、親鸞聖人の動乱のご生涯の、その全てが、私たちをお念仏の道へと導き、差別することなく、決して見捨てず、必ず救うという阿弥陀さまの願いが、全ての人に掛けられているというみ教えを、私たちの元へと伝えるために歩まれたご生涯でした。

最乗寺では、昨年の10月に勤められた報恩講法要
これは親鸞聖人への報恩謝徳のために営まれる法要で、京都の本山では【御正忌報恩講】と言い、8日間かけて営まれます。

その8日目が、今日1月16日のご命日であり、法要の最終日となります。



これは、友人のお坊さんからいただいた写真で、昨日の本山の様子です。
また、法要などの中継を西本願寺のホームページから見ることができます。
今日の11時までですが、お時間がありましたらご覧ください。

報恩とは、恩に報いること。
阿弥陀さまのみ教えを、親鸞聖人が90年のご生涯をかけて私たちに伝えてくださったということを忘れないことも、報恩の一つのあり方だと思います。

そして、その報恩の思いを胸に、来年の750回忌の御正忌報恩講法要までの間に営まれる、親鸞聖人の大遠忌法要の参拝を、皆さまとご一緒できればと思っております。


 


七仏通誡偈文 (中篇)

2011-01-15 00:01:21 | 法話のようなもの

   (1月のお経の会の法話より・前編の続き)



さて、この七仏通誡偈ですが、こんな逸話が残されています。

その昔、中国の唐の時代に、白居易という詩人がいました。
この白居易、またの名を白楽天と申します。
この白楽天が、40歳ごろのこと、母と娘を亡くしてことで、儒教では解決できない死への問題に直面し、仏教に関心を持ち始めます。
そして、50歳ごろ、政治的に失脚・左遷を経て、さらに仏教に傾倒します。

そんなあるとき、白楽天は高い木の上で座禅を組んでいる鳥彙道林(ちょうかどうりん)という禅僧に出会います。
木の上で座禅を組むという修行は、バランスを崩せば落ちてしまうし、寝てしまっても落ちてしまうという、自らの心身を極限までコントロールするという苦行の一つでした。

そんな行を修める姿を見て感銘を受けた白楽天は、この禅僧に、「仏教の大意を一言でいうと何なのか」と問いかけます。
すると禅僧は、「諸悪莫作 衆善奉行」と、七仏通誡偈の前半2文を読んで答えました。

それを聞いた白楽天は、「そんなこと、3歳の子供でも知ってますよ」と返します。
しかし禅僧は、「3歳の子供が知っているようなことでも、80歳の老人ですら実行するのは難しいんだ」と答えたというお話。


さて、いかがでしょう。

「悪いことはしちゃダメよ」
「良いことはすすんでやりましょう」

小さい頃から親や先生に言われ続け、生きる上での道徳のようなものとして、当たり前の考え方の中に組み込まれていることではないでしょうか?

そう、これは誰もが言われなくても、「わかっていること」。
けれど、これまでの自分の行いを顧みると、どうやら「分かっている」ということは「できること」とイコールではないということでもあるようです。
そして、やろうと頑張ってみても、最終的にはできないことでもあるでしょう。

何が善か?
何が悪か?

その定義は恐ろしいほど曖昧です。
あるときは良いことであっても、あるときは悪いことにもなる。
良かれと思ってしたことでも、大きなお世話だと気分を害されることもある。

なぜなら、善と悪を決めているのは、一人一人の持つ心の物差しだから。
気分によって伸び縮みする、都合の良い物差しが決めること。
私の善が、相手にとっての善であるとは限らない。

だから、良いことをしよう、悪いことはしてはならないと分かっていても、実際にやろうと頑張ってみても、なかなか上手くはいきません。

それに、思い込みであろうとも、「自分は悪いことはしていない」と踏ん反り返っていう人もいるかもしれません。
良いことをすればしたで、そのことをアピールしたくなる心が生まれてきます。

それは綺麗な心とは程遠い。
そして、なによりたちが悪いのは、「やればできる」「自分の心も努力次第でなんとかなる」と無意識に思い込んでいることではないでしょうか。


                        (後編へ続く)