週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

築地で研修会

2011-04-10 00:00:10 | ひとりごと

数日前のことですが、築地の研修会に参加してきました。

いつものように東京タワーが真正面に見える道を通っていると、なんだか違和感が…。

        3月11日の震災で先端が折れ曲がったそうです。

さて、築地本願寺に到着。

    

周りを囲む塀には、節電や買占めストップを呼びかけるポスターが貼られています。

      

      

       職員さんのアイディアに脱帽です。


さてさて、今回の目的は研修会でした。
会場はこちら、振風道場というお座敷の部屋でお勉強します。

    お坊さんの研修会ならではの会場です。

この研修会の主催は、私が所属する東青僧の社会部で、今回は私の企画が採用されての開催だったので、ちょっとだけ緊張しました。

結果は上々、しっかり勉強してきたので、今後に活かせればと思っています。


親鸞聖人750回大遠忌法要・開式

2011-04-09 00:01:34 | 行事のご案内

7日の余震による被害が明らかになってきました。
被災地では、気持ちの休まる間もないままの大きな揺れに、更なる心の傷を負われたことでしょう。
被災された皆さまには、改めて心よりお見舞いを申し上げますと共に、少しでも早く安心して暮らすことのできる環境が調うことを願いつつ、最乗寺としても最大限の支援をさせていただきたいと思っております。



さて、本日より本山・西本願寺にて親鸞聖人750回大遠忌法要が始まります。

この法要のポスターが本山より配布されたのは、今から5年ほど前のことでしょうか。
初めて拝見したときは、「まだまだ先の話だ」と、のんびり構えていたことを思い出します。

それから今日までの間に、最乗寺ではいろんな出来事がありました。
中でも家族が増えていくことは、何にも勝る喜びということを身をもって体感いたしました。

もちろん、皆さまにもいろんな出来事があったことと思います。
私と同じように、結婚・出産によって家族が増えた方や、進学・就職・定年などで環境が変わられた方がいらっしゃる一方、大遠忌法要を一緒に参拝しようと約束していたお連れ合いとの別れを経験された方もいらっしゃいます。
そして、今回の未曾有の災害によって、想像だにしていなかった状況の中に、いま私たちは立っています。

たった5年の歳月です。
けれど、そのたった5年の間に、私たちの生活は瞬く変化を繰り返してきました。
そして750年という歳月の変化は、日本史の教科書の大半を占めるほど、大きな変化の繰り返しでした。

時と共に、人も社会も生活も政治も変わっていきます。
何ものも変わらないままではいられません。
しかし、その世において、ことわりを説く仏さまの、み教えだけは変わることはないのです。

移ろいゆくことを時に喜び、時に悲しむ私たちを、静かに見守り続けてくださった阿弥陀さまのみ教えを、生涯をかけて説き続けられた親鸞聖人の思いは、750年の歳月を経た今なお、変わることなく伝わり続けています。

その変わらぬ確かなものを、自らの目で確認なさいませんか?


西本願寺のホームページでは、大遠忌法要のページが作られています。
その中に、法要の模様を生中継で見られるページがありますので、どうぞご覧になってくださいませ。

そして以前、記事にも書きましたが、6月の団体参拝は、被災された方々の願いを辿る行程となるよう心を傾けながら、大遠忌法要に臨席いたしましょう。


花まつり

2011-04-08 00:42:58 | 近況報告

 
        


この世界に生まれてくる命があれば、お浄土に生まれる命もある。
それら全ての命の尊さを、「天上天下唯我独尊」という産声で教えくれた人がいる。

亡くなることが無常ならば、生まれることもまた無常。
それら全ての無常を、「諸行無常」という悟りで教えてくれた人がいる。

その人こそが、「お釈迦さま」

今日はお釈迦さまがお生まれになられた日(花まつり)です。

春の寺報に、お釈迦さまの誕生日である4月8日が、あらゆる人や物に感謝するような「ありがとうの日」になってほしいと書きました。

「あって当たり前」のものは何もない。
すべてが有ることが難しい「有り難い」もの。

そのことが、今は何より心に響き、染み入ります。

「ありがとう」と言えるのは、「いつか」ではなく、「いま」しかない。
その「いま」が、忘れ去られてしまうのも人の世の常ならば、せめて年に一度は意識的に言葉にしていきましょう。

私が本当にいろんなものに支えられて、今ここにいるということを思い出す日になってほしい。
「縁起」という繋がりを悟ったお釈迦さまの誕生日が、そういう当たり前に感じている繋がりへの「ありがとう」の心を育てる日になってほしい。

だから、まずは私から皆さまへ。

あなたの存在が、私を生かして下さいます。
この世界を、共に歩むことを適えてくれた全てのご縁に感謝します。

お釈迦さま、お誕生日おめでとうございます。
そして皆さま、尊いご縁をありがとうざいます。

それから、今後も宜しくお願いいたします。 合掌


女神の天秤 ― 映画『HERO』の感想

2011-04-07 08:35:58 | ひとりごと

            

ちょっと前のことだが、月曜に放送された『HERO』(主演・木村拓哉)を観て、思ったこと少しばかり。
 

通りすがりの会社員に対する傷害致死容疑で、一人の男が検察の聴取を受ける。
男は容疑を認めたが、裁判に入ると一転、容疑を否認し始める。
その男は、ある代議士に問われた収賄罪に関わる者であり、代議士が賄賂の受け渡し現場にいなかったことを証明する証人でもあった。

だが、その証明すべき一件と、男が起こしたとされる傷害致死事件が、同時刻であったことから、日本中が注目する裁判へと展開してしまう。

映画の中で、シーンの切換に、裁判所内のテミスの像が何度も登場する。

ギリシャ神話に登場する女神テミスは、右手に天秤を持ち、左手に剣を下げ持つ。
その瞳は開くことなく、目隠しで覆われた、正義の女神。

剣は、司法の権威と権力を。
天秤は、法の公正と公平を。
目隠しは、先入観と予断なき裁きを。

【掟】が神格化された女神には、法に対する、そんな理想が象徴されているらしい。

法の下の平等が、寸分も違うことなき真実ならば、守られる者にとっても、裁かれる者にとっても、導き出された結末に、歴然とした差が生じるはずはない。

けれど、私の主観でしかないとわかっていても、歴然とした差があるように見え、現実には公平ばかりではなく、不公平なことも起きているように見えてしまう。

目隠ししたまま、法の天秤を計るなら、その傾きが、あらゆる真実の重みを示しているのだろうけど…。
それを見ようと目隠しを外した途端、主観が天秤から真実のカケラを落としていっては傾きを変えてゆく。

法の下では平等かもしれないが、法を扱う人の前では必ずしも平等とはなりえない。

そうあってはならないと、いくら努力しようとも。
誰もが同じものを見ることなど、到底かなうわけもなく。
同じものを見ても、それぞれの経験が、そのものに対する先入観と予断を与えてしまう。
そして、情報に流されては、真に見つめるべきものからも、目を離してしまっていく。

大事の前の小事とばかりに、会社員が殺されたという事実が打ち消される。
殺された者にとっては、それ以上の大事など存在しえないはずなのに。
狂った天秤を持つ者たちが、剣だけを振り回しながら、土足で命を踏みにじる。

「これは、一人の人間の、命の重さを知る裁判なんだ」

そう言った主人公の検察官の天秤が、真実の傾きを示すものとは思っていない。
けれど、司法に関わる者だけでなく、他でもない私自身の天秤が、狂っているんだということを、彼の天秤が教えてくれたような…そんな気がした。


合同法要・100年の歴史

2011-04-06 02:09:23 | 近況報告

法要の後は、皆さまとお茶の時間です。

      龍くんの湯のみ茶碗と乾杯。

春と言えど、まだまだ寒い本堂で、長時間お座りいただく法要です。
足が遠のきがちになっても致しかたなく思えてしまう昨今ですが、それでもこれだけ多くの方々にご参集いただけましたことを、この上ないご縁を賜ったと有り難く思っております。
これもひとえに、阿弥陀さまの大慈大悲と、親鸞聖人のご遺徳を偲ぶ心あってのこと。
そして私の拙い司会に渋い顔もせず、温かく見守って下さった皆さまにただただ感謝です。

さて、皆さまが帰られたら、さっそくお片づけ。

内陣の床にはいくつもの落し物が…。

      

これは華葩(けは)・散華(さんげ)といって、法要の際、僧侶が散らす色紙です。
蓮の花をかたどっていて、いろんな絵柄があるのですが、今回はシンプルバージョンで。

続いて、内陣の前卓などをお荘厳する打敷(うちしき)と呼ばれる敷物のお片づけ。
  
     

このお打敷にある文字を拡大すると…。

    宗祖六百五十回御遠忌の文字が…。

今年は親鸞聖人七五〇回大遠忌です。
このお打敷は今から100年前に織られ、それから100年もの間、最乗寺のお荘厳として、内陣を彩り続けていた下さった大切な寺宝です。

大正3年は、前住職である私の祖父が生まれた翌年に当たります。
きっと祖父の誕生を喜ぶ意味合いもあったんだろうなと思うと、100年という最乗寺の歴史と、そこに住んだ家族の思い出が偲ばれ、いつも心が温まる思いがしてきます。
 
      

正絹の織物なので、傷つけないように薄紙を挟んで畳みます。
薄紙の置き場所はパズルのようでもあり、その場所を覚えて畳むのが、小さい頃からの私の役目でした。

こうして、最乗寺と家族の思い出が詰まった宝は、大切に今日まで受け継がれてきました。
そして私はまた次代へと、取り次いでいかなくてはなりません。

    マイク持って踊ってないで、頼んだよ、龍くんっ!