週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

台風一過

2012-06-20 23:42:25 | 勝田山 最乗寺

台風一過の朝。

物凄い突風に吹かれ続けた木々が、多くの葉っぱと枝を落としていました。

そして、境内の砂利の上には緑の実が無数に散乱していました。

    

これでも一度掃いた後に撮った写真。(汗)
掃いても掃いても、吹き続ける強い風によって落ちてくるこの実の正体は……。

    

銀杏です。

もともと自然に摘果するのですが、今回の暴風でそれ以上に落ちてしまったような印象も受けました。

例年、秋のお彼岸が過ぎた頃くらいから熟した銀杏が落ちてきます。
それまでまだまだ時間があるのに、既にこんなに大きな実となっていたことに驚きました。

凄まじいまでに葉っぱに覆われてしまった境内も、植木屋さんのご尽力の下、すっかり元どおりになった上、伸びていた枝を剪定していただいたお陰で、だいぶ明るくなりました。

蒸し暑い中での作業、本当にありがとうございました。


思いどおり

2012-06-19 14:11:59 | ひとりごと

ここ数日、思うようにいかないことが多々あり、少し気持ちが凹み気味です。

思い通りにならないということ、それこそが人間が根本的に抱えている苦しみの根源であると、お釈迦さまは悟られました。

ふだんは「ふーん、そうだよなぁ」と思う程度ですが、今のような気分のときはしみじみと感じ入ります。

それでも、思い通りにならなくても幸せに思えることもあるということにも気づきます。

    

「やめなさい」といくら声をかけても、何度も何度も段差を上り下りする龍くん。

この思い通りにならない存在が傍にいるだけで、本当にいろんなことに気づかされます。
そしてそれが不本意な気づきであっても、最後には幸せに思えるから不思議です。

それが同じ思い通りにならない若住職だったら……、「むかつくーーーっ」と叫ぶだけでしょうけど。(笑)


ヤモリ

2012-06-16 00:29:40 | ひとりごと

見かけると「夏だなぁ」と思うものが現れました。

     

ヤモリです。 (苦手な方は、今すぐbackっ!)

どうやら寒くなると冬眠するようなので、気候があったかくなった証拠でもあるのでしょう。

ヤモリは漢字で「守宮」、もしくは「家守」と書きます。
家の周りの害虫を捕食してくれることからついた名前とのこと。

窓に張り付くヤモリは、獲物を虎視眈々と狙っている様子を家の中から見ることができます。
数十センチ先にいる小さな蛾をロックオンしたヤモリは、そろりそろりと気配を消しながら近づいて……パクリっ!!

思わず「おー」と歓声を上げてしまいますが、同時に一つのいのちが終わりを告げたことに気づきます。

どちらに主観を置くかによって異なってくる感情の変化に気づくことは、ありきたりの日常の中では難しいことのように思います。
そしてその変化に気づいたからといって、所詮は第三者の立場から捕食の現場を見ていた私の価値観に左右された主観であることに変わりはありません。

「よかったね」とか「可哀想だな」とか、薄っぺらい感想を述べることは、食物連鎖という縁起の中に自らを組み込まずに高見の見物を決め込んでいるからなんだなと思ったりしました。

さて、ヤモリに似た生物でイモリというのもいます。
ちなみにこちらは両生類で、ヤモリは爬虫類。
イモリは「井守」と書き、「井戸を守る」「井=田を守る」ものという意味で付けられたそうです。

まぁ、どちらも守ってくれると判断された生物なのでしょうが…なんともご都合主義のようにも思えたり。(笑)
でも、どちらも可愛い名前なので、気にしない気にしないっ。


シダ植物

2012-06-15 02:17:56 | ひとりごと

雨が降っては、境内の草木が緑を濃くしていっています。

その中でも、特に生き生きしてきているのはシダです。

    

    

小さい頃は、シダをオジギソウと思っていて、触っても葉を閉じないことに首を傾げていました。

一言でシダといっても、その種類は本当に様々で、幾多もの系統に分かれていてます。
写真のシダのように見た目だけでシダ植物と分かるものも多いのですが、コケのようなシダ植物もあったりして、見た目だけでは分からないものも多いのが特徴と言えば特徴です。

たとえば、一般に山菜と言われている「ワラビ」や「ゼンマイ」も、シダ植物の一種。
でもワラビやゼンマイを食べて、シダを食べてるなんて思ったことありませんよね。(笑)

最乗寺の境内にシダ植物が多いのは、シダの大家と言われた今は亡き前坊守の影響が多大にあります。
生前は、室内で温度管理がされたケースの中で、珍しいシダを育てていたのが印象的です。

境内の植物のことなら、前坊守に聞けば何でも分かるくらいの専門家でした。
そのころは、住職も坊守もあまり興味がなかったようですが、今では二人に聞けばきちんと植物の名前が返ってきます。

そしていつか私も………たぶんそうなることでしょう?(笑)


友の結婚

2012-06-13 00:03:21 | ひとりごと

昨日は、築地本願寺の東京仏教学院に聴講生として通っていた頃に知り合った友人と会ってきました。

聞けば、9月に結婚が決まり、披露宴に招待していただけるとのこと。
私と同じ跡取り娘という立場にある彼女の吉報は、我が事のように嬉しく思いました。

しかし、結婚を報告する彼女は浮かない顔。
どうやら披露宴の準備に頭を悩ませ、最近では生い立ちを写真で映像で紹介するプロフィールフィルムをどうしようかと頭を痛めているところだそうです。

もともとイベント事が苦手な彼女は、できることなら披露宴もやりたくないのが本音でした。
ただ、両親にきちんとやりなさいと説得され、しぶしぶながらも準備を進めていると零していました。

そんな中、段々と思考が煮詰まってきて、最終的には「なぜ披露宴をするのか?」というところまで突き詰める結果に…。

そして彼女が出した結論は、「両親や出席してくれた人たちに感謝する場」、ということでした。

自分たちのお披露目と思ってやりたいことをやる披露宴は、ただの自己満足でしかないから嫌だったんだということに気づいたそうです。

彼女の気づいたことを聞いて、私は素直に凄いと思いました。

思い返してみれば、私は披露宴の準備の最中は常に戦闘的で、当日は戦場へ赴くくらい攻撃的な気分だったような気がします。
たぶん、私が変なのでしょうが、優柔不断の私が1人で決めなくてはならない事柄の多さに疲弊していたのも一因だったのでしょう。

だから、披露宴の最中に「感謝」という言葉は何度も用いていましたが、本当に感謝していたかと言えば……ちょっとしかしていなかったのかもしれません。

けれど彼女は、最初から「感謝の場」としての披露宴を作ろうと努力しています。
彼女と私とでは、第一歩の方向性がすでに違いました。

その違いはとても大きいはず。
やりたくないと思っても「もてなす」ため、「感謝」を伝えるためには実行し、悩んで苦しんで作り上げた彼女の披露宴が、今からとても楽しみです。