さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

モノクロ写真で昔懐かしむ(3)

2018-03-10 | 日記
会津坂下町から船渡(ふなと)片門(かたかど)を通って束松(たばねまつ)に行く坂道の右に鎮守様でしょうか神社があってその前の道脇に木製の頑丈な小さなほこらがあって前の戸はがっちりした格子戸で鍵がかかっていて開けることは出来ませんでしたけど格子戸の隙間から中を覗くとこんな立派な石像が安置されていました。


                                             
三面四臂の憤怒像、合掌している中央のおもてには小さな馬のかしらが乗っています。馬頭観世音、馬の守護神なんでしょうね。こんな素晴らしい馬頭観音の石像を見たのは初めてでした。     

昭和前期頃までは馬は農家にとって絶対に必要な家畜でした。物資の運搬、田畑の耕耘、それに馬が踏む馬小屋の藁や草は馬の糞尿が混じっていて堆肥にするととてもいい肥料になるのでした。

私の古里奥会津は豪雪地帯で農家は曲がり屋になっていました。母屋の棟に馬小屋とトイレがついた棟がL字型になってついているんです。一般の農家の母屋は日常囲炉裏を囲んで生活する居間と、一段高くなってはれの日や改まったお客さんがおいでになったときなどにつかう畳の間と、その奥に座敷や仏間の隣の寝室(二部屋くらい)の間とがありました。

馬小屋とトイレの棟は一番下の日常家族が生活する居間にL字型に接続していました。ですから馬小屋の棟の板戸を開けると馬の姿が見えるのです。取り入れが終わったはれの日などに餅を臼でつくときふかしあがった餅米を臼にあけ餅をつき始める前に一握りの餅米を馬にあげるのです。家族と馬が同じものを一緒に食べるのです。

家の主人が馬小屋を通って外出するときなどは馬は「どこへいくの」と言う顔で主人を見送り、帰ってくる気配を感じると「ひひーん」といなないて前足で土をかくのです。

馬は農耕に必要な家畜だけでなく農家のだいじな家族の一員なんですよ。そういう馬の守護神にはどうもこの三面四臂の憤怒像はに似合しくないような気がしてなりません。集落のあちこちにみれるこんな馬頭観音の碑が農家の馬の守護神が適当なように思うのです。
      


ですからこの会津と越後を結ぶ重要な越後街道の脇にある三面四臂の憤怒像はこの街道にふさわしいなんか別の意味、別な物語があるんではなかろうかと私は思っているんですよ。

モノクロの写真で昔懐かしむ(2)

2018-03-09 | 日記
標高500mの柳津町久保田集落の小高い丘陵の斜面には三十三体の観音石象が5-6m置きに安置されており「まわり観音」と呼ばれています。安政元年(1818)集落の人々が願いを込めて一戸一体を刻んで観音像を安置したと伝えられています
(ネットからのコピペです


その中の一体、七番の観音像は他の観音像と違って洗練されたお姿で微笑笑んでいらっしゃいます。そしてお体のうしろの左手で高々と十字架を掲げていらっしゃるんです。石像のうしろには「佐藤宗五良、文政元年寅」と刻まれております。


    
「マリア観音」と呼ばれて有名な石像です。この像は隠れキリシタンの石像なんでしょうか? それともキリスト教と仏教の観音信仰とが習合した石像なんでしょうか? 私には分かりません。でもこの石像がキリスト教と関係があるのは間違いないと思います。

会津のキリスト教は天正18年(1590)キリシタン大名蒲生氏郷によって会津に伝えられ会津若松や猪苗代に教会だ建てらてれ人々をキリスト教に導き、会津若松では人口の3割が信者になったと伝えられています。

しかし江戸時代になるとキリスト教禁令が厳しくなり加藤明成の寛永12年(1635)会津若松黒川の薬師堂河原で棄教しないキリスト教信者や宣教師など60余名が逆さ吊りや、はり付けや、斬首などの極刑で処刑されたと伝えられております・
会津のキリスト教についてはネットで調べ抜粋しました。

私はこの地を訪れてこのマリア観音の前に立ったとき、会津にも厳しいキリスト教禁令から逃れてこの地で隠れキリシタンとして密かに信仰を守り続けた家系があったことを知って感動しました。十字架を高く掲げて頬杖をついて笑顔のマリア観音は明るくて美しいです。

モノクロの写真で昔懐かしむ(1)

2018-03-08 | 日記
「私の好きな家あちこち」はNO14で終わります。でもまだ足の捻挫か完治せず痛みが残っていて残雪のある道の散策をすることが出来ず新しい写真を撮ることもできません。

と言うことで、50年ほど昔私が40歳台だった頃オリンパスOM-1で撮ったモノクロの写真が見つかったのでしばらくはその写真の内から思い出の深いものを選んで投稿してみようと思い立ちました。

これは私の古里奥会津のあちこちの集落のはずれなどに見られる石像です。双体道祖神と言います



向かって左の酒を入れたひょうたんを右手に持っている石像が男の神で、右の左手に皿の形の盃を持っているのが女の神の石像なんです。酒を入れたひょうたんは男の神のシンボルを、盃は女の神のシンボルを表しておりこの石像は男の神と女の神の和合を暗示していると言われております。

日本の古代の集落の人々は男神と女神のシンボルの組み合わせや男女和合の石像は集落を訪れて進入しようとする邪悪の神や疫病神を退ける霊力を持っていたと信じられていたと聞いております。ですからこの双体道祖神の石像は集落に進入しようとする邪悪の神や疫病神から集落を守る神様であったといわれているんです。

私の子供の頃の奥会津では新築の家の棟上げの時の大工棟梁の大事な仕事のひとつに男性のシンボルと女性のシンボルを太い丸太や厚い木板に刻んで、棟下の東はじに男性のシンボルを西の棟下に女性のシンボルをで固定して拝しました。それは双代道祖神の信仰と同じく新築の家を邪悪な神や疫病神から守るための大事な信仰行事なんだといわれていました。

私の子供の頃暮らしていた小立岩の集落では旧暦正月15日には子供たちが門松や古いお札や正月飾りと一緒に稲藁などをそれぞれの家から集め集落のはずれに持っていき、それを集落の若者が大小双つの「さいの神」に作りました。そして夜集落の人みんなが集まってそれを燃やし集落の健やかな一年を祈るのでした。さいの神(歳の神)ではありません、さいのかみ(塞いの神)と言われておりました。これも本来は双体道祖神と同じ根の信仰の行事だったんでしょうね。

また隣の古町村木伏(きぶし)の集落には巨大な男のシンボルの石像が立っていました。「金精(こんせい)様」と呼ばれていました。たぶんこれも双体道祖神と同じくこの男根の石像が邪神や厄神から集落を守ると信仰されていて建立されていたんでしょうね。でもまもなく良識のある人々がそのようなみだらなものを人々の目につくところにたたせておくわけには行かないと囲いをこしらえてみることが出来なくしてしまいました。古代の人のおおらかな、でも不思議な信仰が完全消されてしまったのです。

また奥会津の双体道祖神の中には丸くて細長い石がいっぱい供えられてるのがあると聞いています。これもおそらくは木伏の男根の石像と同じ根の考えかも知れません。

このように古代の日本の人々はおうらかに男性のシンボルや女性のシンボル、あるいは男女の和合のシンボルが霊力を持っていて邪悪な神や厄病神の進入を防ぐと考えられていたんですね。でも時代とともにその考え信仰は変わっていきました。

集落のはずれの双体道祖神は集落の人たちが旅に出るとき旅の安全を願ってお祈りするようになりました。そしていつのまにか双体道祖神は旅の道の安全を守る神に変わっていきました。そして男神のもつ酒の入ったひょうたんの意味も女神のもつ酒うけの皿の意味も消えていきました、そして夫婦円満や子孫繁栄や縁結びの神や子どもを守る神などにも信仰は変わっていきました。

奥会津三島町の大谷の双体道祖神にはこんな悲恋の物語が語り継がれております。
昔この村に愛しあっている若者がおりました。しかし娘は親の言いつけで富貴な家に嫁がなければならなくなりました。

娘の嫁入りの前日二人は人目を忍んで集落のはずれで密かに会いました。娘は言いました「私は魂だけになっても必ず帰って参ります」と、若者は黙してうなずいて涙を流すだけでした。

やがて若者は娘が婚家で命を絶ったことをしって悲しみのあまり河原から大きな石を最後に会って別れた集落のはすれに運び一心に別れた二人の像を刻み、刻み終えると自分も命を絶ちました。集落の人たちはそれを哀れみその石像を厚く祀り慰めました。

信仰っていろいろに変わって行くんですね。「塞えの神(さえのかみ)」が「歳の神」になり新しい年の無病息災を祈る行事になり、ところによっては悲恋の物語にもなるんです。

でも私は集落のはずれに双体道祖神を見るととっても嬉しくて楽しくなるんですよ。

明日は心筋梗塞の定期診察で会津若松中央病院まで行ってきます。

2018-03-06 | 日記
脚の捻挫がなかなか完治せず、定期診察を2週間のばしていたんです。いつものようにバスで行こうとすると、ばばちゃんは脚が不自由なんだからタクシーで行きなさいと強くいいます。タクシーで行くと往復で1万円ちょっとかかります。ばばちゃんはタクシーでいくよう強くいってるのにその補助金は出す気がまったくありません。爺いのへそくりが結構あることを見抜いていて兵糧攻めにするつもりなんです。ばばちゃんの慧眼怖い怖い。鬼のばばちゃんです。                                
主治医の先生は心筋梗塞で危うくあの世逝きだった私をこんな元気にして下さった名医さんなので文句はいえないんですけど11時診察の予約なんですけど、予約外の患者がわんさと押しかけてくるので私の診察はいつも3時間ほど遅れます。10時頃から血液と尿検査心電図検査がありますから病院での拘束時間は4時間近くになります。診察は10分程度で終わります。定期診察は大変です。

病院のすぐ近くの薬局のお地蔵さんです。帰る時よかったねといってくれるとおもいます。



今日こんな投稿をするのは、じつは今日投稿しようと思っていたことの構想がまとまらず投げてしまったからなんです。これって認知症の始まりかも。困ってしまいます。恥ずかし恥ずかです。