「私の好きな家あちこち」はNO14で終わります。でもまだ足の捻挫か完治せず痛みが残っていて残雪のある道の散策をすることが出来ず新しい写真を撮ることもできません。
と言うことで、50年ほど昔私が40歳台だった頃オリンパスOM-1で撮ったモノクロの写真が見つかったのでしばらくはその写真の内から思い出の深いものを選んで投稿してみようと思い立ちました。
これは私の古里奥会津のあちこちの集落のはずれなどに見られる石像です。双体道祖神と言います
向かって左の酒を入れたひょうたんを右手に持っている石像が男の神で、右の左手に皿の形の盃を持っているのが女の神の石像なんです。酒を入れたひょうたんは男の神のシンボルを、盃は女の神のシンボルを表しておりこの石像は男の神と女の神の和合を暗示していると言われております。
日本の古代の集落の人々は男神と女神のシンボルの組み合わせや男女和合の石像は集落を訪れて進入しようとする邪悪の神や疫病神を退ける霊力を持っていたと信じられていたと聞いております。ですからこの双体道祖神の石像は集落に進入しようとする邪悪の神や疫病神から集落を守る神様であったといわれているんです。
私の子供の頃の奥会津では新築の家の棟上げの時の大工棟梁の大事な仕事のひとつに男性のシンボルと女性のシンボルを太い丸太や厚い木板に刻んで、棟下の東はじに男性のシンボルを西の棟下に女性のシンボルをで固定して拝しました。それは双代道祖神の信仰と同じく新築の家を邪悪な神や疫病神から守るための大事な信仰行事なんだといわれていました。
私の子供の頃暮らしていた小立岩の集落では旧暦正月15日には子供たちが門松や古いお札や正月飾りと一緒に稲藁などをそれぞれの家から集め集落のはずれに持っていき、それを集落の若者が大小双つの「さいの神」に作りました。そして夜集落の人みんなが集まってそれを燃やし集落の健やかな一年を祈るのでした。さいの神(歳の神)ではありません、さいのかみ(塞いの神)と言われておりました。これも本来は双体道祖神と同じ根の信仰の行事だったんでしょうね。
また隣の古町村木伏(きぶし)の集落には巨大な男のシンボルの石像が立っていました。「金精(こんせい)様」と呼ばれていました。たぶんこれも双体道祖神と同じくこの男根の石像が邪神や厄神から集落を守ると信仰されていて建立されていたんでしょうね。でもまもなく良識のある人々がそのようなみだらなものを人々の目につくところにたたせておくわけには行かないと囲いをこしらえてみることが出来なくしてしまいました。古代の人のおおらかな、でも不思議な信仰が完全消されてしまったのです。
また奥会津の双体道祖神の中には丸くて細長い石がいっぱい供えられてるのがあると聞いています。これもおそらくは木伏の男根の石像と同じ根の考えかも知れません。
このように古代の日本の人々はおうらかに男性のシンボルや女性のシンボル、あるいは男女の和合のシンボルが霊力を持っていて邪悪な神や厄病神の進入を防ぐと考えられていたんですね。でも時代とともにその考え信仰は変わっていきました。
集落のはずれの双体道祖神は集落の人たちが旅に出るとき旅の安全を願ってお祈りするようになりました。そしていつのまにか双体道祖神は旅の道の安全を守る神に変わっていきました。そして男神のもつ酒の入ったひょうたんの意味も女神のもつ酒うけの皿の意味も消えていきました、そして夫婦円満や子孫繁栄や縁結びの神や子どもを守る神などにも信仰は変わっていきました。
奥会津三島町の大谷の双体道祖神にはこんな悲恋の物語が語り継がれております。
昔この村に愛しあっている若者がおりました。しかし娘は親の言いつけで富貴な家に嫁がなければならなくなりました。
娘の嫁入りの前日二人は人目を忍んで集落のはずれで密かに会いました。娘は言いました「私は魂だけになっても必ず帰って参ります」と、若者は黙してうなずいて涙を流すだけでした。
やがて若者は娘が婚家で命を絶ったことをしって悲しみのあまり河原から大きな石を最後に会って別れた集落のはすれに運び一心に別れた二人の像を刻み、刻み終えると自分も命を絶ちました。集落の人たちはそれを哀れみその石像を厚く祀り慰めました。
信仰っていろいろに変わって行くんですね。「塞えの神(さえのかみ)」が「歳の神」になり新しい年の無病息災を祈る行事になり、ところによっては悲恋の物語にもなるんです。
でも私は集落のはずれに双体道祖神を見るととっても嬉しくて楽しくなるんですよ。