さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

60年前 子らの遊びいろいろありました(1)

2018-03-16 | 日記
おままごと遊びです



今のお若い方には「おままごと」なんて言ったって分かる人は少ないでしょうね。女の子が筵(むしろ、稲藁で編んだ敷物)を敷いて「おままごと」しようと男の子を招いてお遊びをするんです。

女の子はお母さんかおばさんに、男の子はどこかの旦那さんかお客さまになったつもりになって遊ぶんです。

どこからか見つけてきたお店の商品の空き箱はテーブルで、筵はきれいな畳敷きのお座敷に見立てられているんです。どこかで拾ってきた欠け茶碗もカンッズメの空き缶もきれいな食器です、手ごろの板切れは包丁です。摘んできた野草や木の実は立派な食材です。 女の子はそれらをあき箱の上に並べて料理して美味しいご馳走をつくるんです。「はいお餅です」といって差し出せばそれはお餅になって美味しく食べるまねごとするんです。

招かれた男の子は「今日はお招き頂いてありがとうございます」と挨拶し、女の子の作ったご馳走を頂くのです。野の草も木の実もそれはそれは美味しいご馳走になるんです。

招かれた男の子はどこかの家の立派なご主人のお客になりきって楽しみます。その時の満ち足りて嬉しい気持ちはいまでもはっきりと思い浮かべることができます。

誰に教えてもった分けでもない昔からずっと伝えられている、楽しい「おままごと」あそびなんです。語源はよくはわかりません。


「モノクロ写真見て昔懐かしむ」はNo8で終わります。
でも困ったことに打撲の痛みが完治せず思うような散歩がまだ出来ません。春がきたのに残念です。

と言うことで60年ほど昔、カメラのライカ1台の価格で家1軒が新築できたといわれるようにカメラが高価な時代にリコーフレックスという格安の2眼レフがカメラが手にはいり撮りためてあったモノクロの子供の遊びの写真がありましたのでしばらくその中から選んで投稿させていただくことにいたします。

モノクロの写真で昔懐かしむ(8)

2018-03-15 | 日記
約半世紀ほどの昔、40歳台だった私は50ccの本田カブのミニバイクに乗ってあちこちの石仏を撮って楽しんでいました。会津若松氏一箕町金堀の山の神様を訪れた時のことです。



私はそこ珍しいものを見つけて驚いてしまったのです。写真の石段を上がった左側、普通の神社で狛犬さんが座っている場所にこんな石像が注連縄を回らして座っていたのです。私は驚いてしまいました。



会津には保科正之公の藩内のみだらな民間信仰の排除政策によって、奥会津御蔵入り(幕府の直轄地)の集落のはずれのあちこちに多く見られる双体道祖神や金精様が見られないと聞いていました。

それなのに会津若松市にそう遠くない金掘集落の山の神様の境内には金精様が座ってやしろを守っているのに驚いてしまって、右側ある同じように注連縄だ巻いてある石の像に注意して見ることを忘れていたようです。でもそこにある石像がどんなものかわ想像することはできます。

集落に残る古い信仰って意外に強く残っているんですね。今金掘集落の人たちはこの山の神さんの石像をなんと呼んでいるうんでしょうね、聞いて見たいです。

モノクロ写真で昔懐かしむ(7)

2018-03-14 | 日記
桧枝岐村の石仏は美しかったり可愛かったりする石仏ばかりではありません。こんな石像もあって村の人たちに慕われているんですよ。
橋場のバンバの石像です。



前歯が1本欠けて二つのボインも小さく垂れていてなんか怖い感じがしますけど目のあたりを見ると微笑んでいるようにも見え心優しいおばあさんにも見えます。

私が訪れた50年ほど昔は鎮守のおやしろの参道の中ほどに座って祀られていました。石像の脇にこんな大きい板に橋場のバンバについての解説が書かれて掲示されていました。



橋場のバンバ
橋場のバンバは大変慈悲心が深く
昔から子供たちを水難から守ってくれるので                    
親たちの信仰が深い

御覧のように笑っている顔は前歯が一本欠け
ボインもだらりと垂れ愛嬌のある石仏だが
これが珍しいことに恋のとりもちをするという
ありがたい仏でもある。

昔から人知れず恋に悩んだ
若者の男女がこっそりバンバに祈りみんな
幸せを得ている。また悪縁を切るたいときは
切れハサミを供え、良縁で切りたくないときは
さびた切れないハサミを供えれば彼や彼女の
蒸発防げる便利な慈悲を持った
バンバさまである。

また椀のフタを
頭にかむせるといかなる願いも
かなえてくれると言われている

村人に慕われ、村の子供や若者を愛し、村人の願いを叶えて下さる橋場のバンバさんなんですね。私も側にあったお椀のフタを橋場のバンバさんの頭にかぶせて願いをこめてお祈りしました。50年ほど昔の話です。

モノクロの写真で昔懐かしむ(6)

2018-03-13 | 日記
桧枝岐村の石仏に思うことありました

有名な桧枝岐村墓地の石仏といえば、墓地の中央正面に並んでいる六地蔵尊です。でもその写真をいくら探しても見つからないのです。もう半世紀も昔の写真ですからやむを得ません。やむを得ず昨年1月に放映されたNHKの新編風土記「奥会津桧枝岐」から写真2枚をプリントさせていただきました。



村のおばさんたちが六地蔵尊のお体をきれいに拭いて新しい衣装に着せ替えていらっしゃいました。どのお顔も可愛いリアルな童顔のお姿でした。



これは50年くらい前バイクで桧枝岐村を訪れて撮った墓地の子供の墓石に彫られた石像です。やっぱり どのお顔も可愛いリアルな童顔のお姿でした。





聞くところによると今の桧枝岐村は福島県側から尾瀬への登山口で豊かな観光地になっていますけど、古い時代には標高939mの桧枝岐村は稲作は稔らず稗や粟や蕎麦を栽培していて数年に一度は冷害による凶作による飢饉があって生まれてくる子の間引きもあったやに聞いております。その村人や親の悲しい思いが墓地の可愛いリアルな童顔の石仏を作らせたのかも知れません。

私は子どものころ桧枝岐から10kmほど離れた隣の集落に小立岩集落に住んでいました。時おり桧枝岐村の人たち話し言葉を聞きました。それはうぐいす言葉といわれる澄んだ歌うような美しい話し言葉でした。ところがNHKの新編風土記をみて驚いたのは村の熟年のおば様たちまでみなさんきれいな発音のきれいな共通語で話あっていらっしゃったことです。

越後系の奥会津弁にうずもれていた子供の私は澄んだ共通語を話している桧枝岐の人の話し言葉を「うぐいすことば」のように美しいと思っていたのです。桧枝岐村は奥会津とはまったくちがった別天地なんですね。平家の落人伝説もまんざら嘘ではないのか知れません。

モノクロの写真で昔懐かしむ(5)

2018-03-12 | 日記


たくさんあった昔の石仏写真を繰っていたら悲恋の物語の双体道祖神の写真が見つかりました

大沼郡三島町の双体道祖神です


安永三天 九月吉日(1774)とあって優しいお姿の双体道祖神です


この双体道祖神について書かれた朝日新聞福島版連載のコラム。(H12年8月24日)「 奥会津に棲む神々」からが見つかりましたのでコピペしてみました。

 大沼郡三島町の八木ノ瀬の橋のたもとに、一体の道祖神がひっそりと立っておられます。つぼをもった男の神様。優しく寄り添うように盃を持って立っておられるのが女の神様。これは双体の道祖神と呼ばれ、縁結びの神、夫婦和合の神、子の守り神、田の神、水の神、特に耳の病を癒す神として、今もなお厚い信仰があるのです。
 この八木ノ瀬の道祖神には、ひとつの悲しい物語が語り継がれています。

 遠い昔、この村に互いに愛し合った娘と若者がおりました。しかし、二人の幸せを打ち砕くような悲劇が起きました。娘は親の定めた縁談に従わなければならなかったのです。娘の嫁入りの前日のいざよいの晩、二人は人目を忍んで八木ノ瀬の河原で会い、いざよう月影を黙したまま見つめておりました。

 娘は言いました。

「魂だけになっても、私はきっと帰って参ります」

 若者は、ただ黙し頷くだけで、熱い涙がほおを伝って流れました。幾年月かを経て若者が耳にしたのは、嫁いでいった娘が自ら命を絶ったという風の便りでした。若者は血を吐くような慟哭(どうこく)の思いの中で天を恨み、神を恨みました。娘への絶ちがたい慕情を秘めた若者の生活は、魂を失った抜け殻のようになってしまいました。ある日、娘と別れた八木ノ瀬の河原から一抱えほどもある石を運んでくると、七日七晩食を断ち、石に向かってノミを振り続けました。

 男の神に自らの姿を写し、女の神に去って逝った娘の面影を求め、果たし得なかった二人の魂世界を石に託して結実させていったのが、この道祖神だと物語は伝えています。 この物語が何百年もの長い間、地域の中で親から子へと語り伝えられてきたのは何故なのでしょう。それは、この物語が時代を越えた普遍的な情念の世界ゆえではないでしょうか。その情念の世界が崩壊の危機に直面している現代、果たしてこの物語を後の世に伝え遺していけるのでしょうか。二人の慟哭と情念の世界を刻んだ神々の姿も、語り伝えられた物語も、心に留める人もなく時空の果てに消えていくのでしょうか。

 人々の心のなかに、悲しみに流す涙がある限り、この道祖神が語る血を吐くような慟哭の世界を、情念の世界を、心に留めておいて欲しいのです。