とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(番外) 1985-1995 中山美穂CM集

2024-12-11 17:30:49 | 日記
私は中山さんの「タン塩」のCMを突然思い出しました。お亡くなりになったというニュースを知った直後です。
突然の知らせ。コンサートを予定していたとか。病気ではない。えっ、そんなところで。恐ろしい出来事だ。
フアンの一人としてできることは、映像をアップすることしか。謹んでお悔やみ申し上げます。

1985-1995 中山美穂CM集


中山 美穂
別名義 北山 瑞穂、一咲
生年月日 1970年3月1日
没年月日 2024年12月6日(54歳没)
出身地 日本の旗 東京都小金井市
死没地 日本の旗 東京都渋谷区
国籍 日本の旗 日本
身長 158 cm
血液型 O型
職業 女優、歌手、 アイドル
ジャンル 女優:映画、テレビドラマ、舞台
歌手:アイドル歌謡曲、J-POP
活動期間 1982年 - 1984年:モデル
1985年 - 2024年:女優、歌手、タレント
配偶者 辻仁成(2002年 - 2014年)
著名な家族 中山忍(妹)
事務所 ボックスコーポレーション(1982年 - 1984年)
アイズ/ウェーブ(1984年 - 1985年)
ビッグアップル(1985年 - 2024年) (Wikipediaより)



あちこち「SYOWA」818【雨音はショパンの調べ】小林麻美

2024-12-02 17:56:42 | 日記
【雨音はショパンの調べ】小林麻美


イタリアの男性歌手ガゼボの歌唱による1983年の楽曲「アイ・ライク・ショパン / I Like Chopin」「雨音はショパンの調べ」は日本語カバー曲のタイトル。
小林麻美によるカバーとして1984年4月21日にCBS・ソニーから発売された。

作詞:Gazebo, P. L. Giombini 日本語詞: 松任谷由実
作曲:Gazebo, P. L. Giombini

ばやし あさみ
小林 麻美
本名 田邊 稔子(たなべ としこ)
(旧姓:小林)
生年月日 1953年11月29日
出生地 日本の旗 日本、東京都大田区
出身地 日本の旗 日本、福島県郡山市
職業 モデル・元女優・元歌手
ジャンル テレビドラマ、映画
活動期間 1970年 - 1991年、2016年 -
活動内容 1970年:ライオンのCMに出演しデビュー
1971年:ドラマ『美人はいかが?』で女優デビュー
1972年:「初恋のメロディー」で歌手デビュー
1977年:資生堂を中心にモデルとして活動
1980年:映画『野獣死すべし』
1981年:映画『真夜中の招待状』
1984年:「雨音はショパンの調べ -I Like Chopin-」で歌手としてヒットを放つ (Wikipedia より)


朝の蝶

2024-11-25 16:51:13 | 創作
朝の蝶

瀬本あきら

 年度末に、退職に関する引継ぎ事務が無事済んだ。

 「ここと、ここ。引継ぎ文書に判子をお願いします」

 後任の総務部長に、そう私は促した。新部長は捺印を済ますと、「長い間お疲れさまで

した」と労いの言葉をくれた。随分昔から勤務生活最後の瞬間の厳粛さを思っていたが、

あっけなくその時が過ぎ去った。そうして、文字通りあこがれの無職の生活が始まった。

 退職して一番したいことは、空を飛ぶことであった。いや、飛行機に乗ることである。

そうすれば、どこへでも行かれる。妻と二人で初めての海外旅行にも出かけられる。アメ

リカで仕事をしている娘にも会いに行かれる。その願いを叶えるためには、私の閉所恐怖

症を克服しなければならないという難しい問題が横たわっていた。

とまれ、さしずめ時間を気にせずゆっくり寝たいものだという願いもあった。ところが、

退職してからは、却ってすっきり安眠できない。ほとんど毎朝三時前後に目が覚める。そ

して目覚める直前まで見ていた夢のことを思い出そうとする。大体が過去の失敗や挫折に

関わる悪い夢である。それから、しばらく眠れないので携帯ラジオを点けてイヤホンで聴

く。寝ぼけているので放送の中味は記憶していても断片的である。

 数日前、また目が覚めたのでラジオを聴いていた。通信員か誰かが最近の珍しい出来事

についてレポートしていた。私の頭には「アサギマダラ」という蝶の名前と「渡り」とい

う言葉が断片的に記憶されていた。春は北上し、秋は南下するらしくその渡りのことをレ

ポートしているらしかった。私はぼうっとした意識でその二つの言葉を思い浮かべていた。

蝶が渡りをする、何だか聞いたことがあるな、と思ってイメージを作っていた。すると、

誰の詩だったか忘れたが、「春」という題名の一行詩をふと思い出した。

<てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った。>

 「アサギマダラ」と「渡り」の二つの言葉が自然に「春」の詩に繋がったのである。韃

靼海峡というのは確か北海道より北の海峡である。春とはいえ寒々としたとした北の海を

一匹の色鮮やかな蝶が飛んでいる。私は頭の中でその姿を追っていた。

 そしていつのまにか、蝶は私だ、空を飛びたい気持ちが叶えられた、と思っていた。す

ると、私は深い孤独の闇に飲まれていった。私の体は空を飛んでいる。その浮遊感が心地

よかった。そして、何時の間にかまた寝入ってしまった。

 こんな日の朝は決まって頭痛がする。アサギマダラ。渡り。頭を抱えて起き上がると、

舌の上で何度もその言葉を転がしてみた。

 「海か……」

 突然私はそう呟いた。

 久しく行ったことがない。水平線を見ていると、心持ち曲線に見える。そして、丸い天

体である地球を思う。すると、今住んでいるところが世界のすべてではない、という思い

が病のように湧きあがってきて、虚無的な気持ちになる。また、海にいるのは人魚ではな

い、海にいるのは浪ばかり、という誰かの詩を思い出したりする。海の空への限りない呪

いを詠ったものだ。そうかも知れない。海は限りない空に制圧されているのだから。

 海を見ていると、そんなことも実感していたたまれない思いがすることもあるけれど、

その朝は少しばかり違うような気分がした。何か大きなものに動かされているような気が

した。

 海へ行こう。今朝は無性に海が見たくなった。

 自由な時間? 自由な時間が一時に襲い掛かると、何かしなければ、何かをと躍起にな

るのである。自由は明らかに人を強迫する。

 歯磨きをしていると、朝日に輝いている洗面所のガラスに鳥の影が写って消えた。鳥は

海を越えていく。私はすぐさまそう思った。海は春のべた凪だろう。

 身支度を整えていると、妻が訝るように、「どこへ?」と言う。

 「海だ。散歩してくる」と私。

 「散歩と言っても……」

 妻がそういうのももっともである。家から海まで三十キロ以上の道のりである。

 「変な気を起こさないでね。私たちこれからなんだから……」

 「これから?」

 「二人でどこへでも……」

 「そうだ、そうだ。分かっている」

 そう言い残して私は車に乗った。間もなく島根半島突端の日御碕に着いた。駐車場で車

を降りて、海への小道を歩き出してから、出かけるときの妻の言葉を私は反芻した。「変

な気?」。どういう意味だ。海とそれがどんな繋がりを持っているのか。私はただ夕べ見

た夢に出てきた海を確かめたいだけだ。妻は変に気を回す。それも悪い方へ。いや、そう

いう勘ぐりをする性癖は、私の性格が長年かかって作りあげたものかも知れない。私は、

妻と希望や夢などを語ったことがあるのか。勤めているときは妻がいつも私に気を遣って

いた。これからお互い自由に暮らしたい。しかし、私の自由は制限つきの自由だ。二人で

遠くへ出かけることも出来ない。まるで羽根がぼろぼろになった蝶だ。

 そう思っていると、岬の灯台が見えてきた。崖下ではかすかな波音がする。潮の香りが

鼻腔に染み込んできた。遠くでは漁船が沖へ急いでいる。と、不意に白い鳥が岬に続く道

路を横切って松林から海原へ出た。そしてあっという間にどこかへ消えた。朝の海は眩し

いほどに白く輝いていた。

 私は岩場に立った。水平線がぼやけて見える。思った通りのべた凪だった。波がかすか

に白く岸に打ち寄せるのが見えた。海が空を呪う? 私が今見ている海は山陰の海。日本

海。冬は険しい顔つきで岩を噛むが、春の海は穏やかである。その大きな器に私も抱かれ

ているような感じである。

 私は気持ちがうきうきしてきたので、岩鼻に腰掛けて足をぶらぶらさせた。すると、お

いおい、飛び込むのはまだ早い。心の中の誰かがそう囁いた。すると、また頭痛がぶり返

した。私は頭を抱えて崖下を見た。深い渕が物足りなさそうにのたりと広がっていた。足

をぶらぶら。このままずり落ちるかもしれない。自然にそういう感覚が頭をよぎった。足

をぶらぶら。

 すると、崖下から私を呼ぶ声がした。

 「おーい!」

 私は声のする方を目で探した。しかし、人影らしきものは見えなかった。しばらくする

と、今来た道から誰かががこちらに走ってくる。男のようだ。私はその姿を目を凝らして

見つめた。人影がしだいに近づき、座っている私にのしかかるように見えた。日焼けした

顔が引きつっていた。

 「早まるな!」

 私はぎょっとした。そして驚きのあまり、ほんとに落ちそうになった。もしかして、私

は本当に飛び出そうとしていたのかも知れない。そんな突拍子もない感覚にもなった。

 「間に合った!」

 男はぜいぜい言わせながら私を後ろから抱きかかえた。というより、愛撫といった感じ

であった。

 「あんたは、まだ若い。これからだ」と男は背後で言った。

 私は、その男の腕をほどくと、振り返って改めて男を見上げた。七十台前半と思われた。

土地の漁師かもしれないと思った。私は暫く弁解する気力を失っていた。内心のたりと広

がっている渕を飛び越えられると錯覚していたかもしれないからである。海上の浮遊。こ

れは甘美である。しかし、この男は必死に走ってきて、私を抱きかかえてくれた。ありが

たいことだ。

 「そんな風に見えたんだね」

 「当たり前だ!」

 「ぶらぶらさせていただけだよ」

 「ふざけちゃいけないよ!」

 「いやね。頭痛がね」

 「頭痛?」

 「頭痛が悪いんだよ」

 「何を言いたいのだ!」

 「いやね、気持ちが和らぐと思ってね。それで、ぶらぶらして……」

 「ばかばかしい!」

 漁師は怒りながら私を小道まで引っ張っていった。そして、何も言わずに帰っていった。

残された私は海を見つめて、また岩鼻に戻り、足をぶらぶらさせてみた。今の私はこうす

るしかない。誰にも理解されなくても。私はそう思って深い渕を見下ろした。しかし、ほ

んとに飛んだりしたらどうなるのか。私は次第に正気を取り戻しつつあった。漁師の言葉

通り、私はまだ若いはずだ。これからだ。私は抱きかかえられた時の漁師の体温を改めて

感じた。海を見たいという衝動は、気持ちの底の浮遊感に起因していたかもしれない。

それから土産物品店を歩き回った。どの店も閑散としていた。裏通りに出て、民家の間か

ら見え隠れする青い海を見ていた。子どもたちが不思議そうに私を振り返って見た。私は

何しにここへ来たのか?しきりに反問した。

 「おーい!」

 すると、また私を呼ぶ声がした。さっきの漁師だった。右手に大きな魚をぶらさげてい

る。

 左手に竹篭を持っていた。ゆったりとした足取りで私に近づくと、笑顔で言った。

 「元気出しなよ」

 「ありがとう」

 漁師は籠に魚を入れると、ソレッと言って私に手渡した。私は思わぬ戴きものをしたの

でとまどっていた。ずしりと重かった。中を覗いてみると、イシダイのようだった。

 「俺について来てくれないか?」と漁師は少し声を低くして言った。先ほどの笑顔は消

えている。

 「見てもらいたいものがある」

 「えっ、何ですか?」

 「いや、黙ってついて来てくれ」

 そう言って、岬の丘の上に向かって登り始めた。私は言われるがまま籠をぶらさげて、

熊笹の路を後からついて登った。

 数百メートル行くと、見晴らしのよい所へ出てきた。白い灯台が真下にあり、その遠く

に朝の海が広がっている。漁船の小さい影があちこちに見える。

 漁師は、その広場の隅の少し窪んだところへまた降りていく。私は何かがまた起こるの

ではと思いながらやはりついていった。すると二人は墓地に出た。そこには都合五十くら

いの墓石が立っている。漁師はその中の一つの前にしゃがんで、墓石を見つめたまま言っ

た。

 「俺の家内と息子の墓だ」

 「えっ」

 「家内も息子もこの日本海で死んだ」

 私は、漁師の尋常ではない話し振りのために、言葉が出なくなっていた。

 「五年前だ。この沖合いで、家内と息子と三人で漁をやってたとき、隣の爺さんの船が

横波を食らって沈みかけていた。爺さんを助けようと、息子が先ず飛び込んだ。とっさの

ことだったので、俺は止めることも出来なかった。で……、二人とも浮き上がって来なか

った。」

 私はいよいよ黙してしまった。

 「それからといもの、家内は私を責め、自分も責めていた。狂ったようになって、あの

とき止めなかったことを悔やんでいた。そういう毎日が続いたので、私も家内も疲れ果て

てしまった」

 「……」

 「それから、二人で漁に出る度に、花束を投げてやった。許してくれ。そう祈っても、

どうにもならないことだが。それから、半年後、……家内は崖から身を投げて死んだ。今、

あんたが腰掛けていたあの崖から……。私も何度かあの崖に立って後を追おうと思ったが、

誰かが、止めろ!と言って止めるんだよ。だから、こうして生き延びている……」

 「えっ」

 私は体が硬直した。

 「線香も花も何も持ってきてないが、おまえさん、これも何かの縁だ、どうか墓を拝ん

でやってくれ。お願いだ」

 私は籠を傍に置いて、言われるがままひざまずいて墓石に向かった。二本の塔婆に戒名

が記してあった。私は般若心経を唱え、その戒名を読み上げながら供養を終えた。供養を

済ますと、早くして亡くなった両親や弟のことが思い出され、漁師が何だか他人でないよ

うな心地になってきた。

 「ありがとう。すまないね。そんなことまでして貰って」

 漁師は頭を下げた。

 「いや、これもご縁です。私こそ感謝しています」

 二人は並んで沖の白い海を眺めた。そして、私は再び籠を持った。ずしりと重く感じら

れた。



 家に着いたときは、昼時だった。

 「今までなにしてたの?」

 玄関で出迎えた妻が尋ねた。

 「ぶらぶらをやってきた」

 「ぶらぶらって?」

 「足をぶらぶらさせてた」

 「どこで?」

 「岩鼻に腰掛けて」

 「ええっ!」

 そう言うと、妻の顔が見る見る青ざめた。

 「蝶だよ。アサギマダラ」

 「何、それ?」

 「分からないならしかたがない」

 「で、この魚は?」と妻は竹篭を手に取って言った。

 「漁師に貰った」

 「どうして?」

 私は答えに窮した。いくら詳しく説明しても分かって貰えないことだと思ったからであ

る。私は妻にとっても、私にとっても、良いことをしたのではなかったかもしれないとも

思った。私は、改めて籠の中のイシダイを確かめた。いい色をしていた。私は、妻の手か

ら竹篭を取って、魚を数回持ち上げてみた。この重さ。漁師の笑顔。私は生きている。

 部屋に入ると、すぐさまアサギマダラの姿を見たいと思った。百科事典で調べると、ア

ゲハチョウによく似た模様がある美しい蝶だった。模様の部分はほとんどが水色で、下の

部分が鮮やかな紅色だった。私は死んで生まれ変わってもこんな素晴らしい蝶にはとても

なれないと思った。

 私はそういうことがあってから、ぶらぶらだけはもう決してすまいと思ったのである。

                                     (了)

同人誌「座礁」より転載 http://www.zasyo.jp/




あちこち「SYOWA」817 悲しい時はいつもMad 神風特別攻撃隊 

2024-11-04 16:41:08 | 日記
この笑顔はどうしたものか。国家のために死ぬ。戦死。いや、ただの戦死ではない。笑顔で死に赴いた少年兵士。だれが命令したのか。これは曖昧になっている。こういう覚悟を生んだ時代性を私は憎む。わたしは命令されても決して国家のために死にたくない。国家のために死ねといわれたら、逃亡するか自死するかもしれない。亡国者、弱虫といわれても。本当は自死する勇気も出ないかもしれない。ただ、そういう状況を作りだしてはならないのだ。時の指導者、為政者の言動、腹の内を常に観察していなければならない。S19年生まれとして常に覚悟していたい。
Wikipediaの解説は詳細かつ緻密である。ここでは最初の一部を引用した。

悲しい時はいつもMad 神風特別攻撃隊 「多くの若い命が散った作戦」


神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]、しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]、旧字体:神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊」[10]。隊名の発案者[注 1]・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画[11]で訓読みの「かみかぜ」と読んだものが上映されたことでこれが定着した[7]。昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した。

日本国内では戦後になって、軍が組織的に兵士(国民)に自爆攻撃を強いたことに対する批判がされてきたが[12]、アメリカ海軍を主力とする連合国海軍に多大な損害を与えたこともあって、米国戦略爆撃調査団から「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」と評され[13]、アメリカ海軍大学校の教科書では「Kamikazeは人間が操縦する巡航ミサイルであり、精密攻撃の時代の海戦を予兆していた。」とも指摘されている[14]。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」816「学校」ラストシーン

2024-10-24 17:33:19 | 日記
西田敏行さん死去。この悲しい知らせを知り、真っ先思い出した映画は「学校」でした。名優と評価されていたお方ですが、こういう場面にすべての人間性が表れるのだと思っています。「ここだけを転載するな」という書き込みがありました。もちろん全体を見ている人にしかわからないと思います。私に転載する資格がないかもしれません。でも、ここだけでも西田さんの深い味わいは出ていると私は思います。まだ全編を見ていないお方はDVDを借りて見てください。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。いずれ消されると思います。でも、残っている間でもたくさんの人に見てほしいのです。

「学校」ラストシーン


本格的に役者へ
1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員となる。同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台を踏んだ。この時少年Aを演じ、「テアトロ」に「西田敏行という俳優が面白い」と書かれた、西田はこの切り抜きを大切に持っていて、その記事を読んだ師匠の中台祥浩(1928-1980[10])は西田に「こんごともおもしろい役者ということをお前の命題にしてやっていけ」といった、そのため西田は「いまでもうまい役者になりたいとは、思わない」という[9]。1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』(作:矢代静一)では早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せた。その後は役者として不遇の日々を送るが、1976年(昭和51年)にレギュラー出演した『いごこち満点』と『三男三女婿一匹』(共にTBS)で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得した。1977年(昭和52年)には『特捜最前線』(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)には『西遊記』(日本テレビ)に重要な役でレギュラー出演した。さらに1980年(昭和55年)には『池中玄太80キロ』(日本テレビ)と『サンキュー先生』(テレビ朝日)で主演を務め、翌1981年(昭和56年)にもNHK大河ドラマ『おんな太閤記』で準主役を務めるなど、連続ドラマに出演した。

また、歌手活動も精力的に行い、1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)は大ヒットとなった。この頃の体重は81kgだった[9]。なお、NHK紅白歌合戦において、基本の4パターンである司会、歌手、審査員、応援(ナレーションを含めると5パターン)全てで出演経験があるのは西田のみである。素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアン・エンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』を始め、数多くの番組に出演し、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮している。

1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』の主演を務めた。西田にとっては明大農学部の先輩で、映画公開の2年前の1984年2月にマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己を演じた。この作品ではモンブラン(フランス)、エベレスト(ネパール、中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行した。話題となったが、7か月に及ぶ長期ロケは過酷なもので西田は死を覚悟して臨んだ[11]。「実際に大自然と対峙し、つくづく抗えないことがあるんだと痛感させられました。同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたという意味で、エポックメーキングになった作品だと思います」と、自身にとって大きな転機となった作品だとしている[12]。2年後の1988年6月公開の映画『敦煌』でも長期の現地ロケに参加した。一時は「極地俳優」の異名をとった。

1988年(昭和63年)から映画『釣りバカ日誌』シリーズに出演した。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の1つとなった。ちなみに西田の映画初出演作品は、三國主演の『襤褸の旗』(監督:吉村公三郎、足尾銅山鉱毒事件を題材にした作品、1974年)で、反体制派農民の一人、多々良治平という役だった[13]。

1994年(平成6年)、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢され、その後7年にわたり出演した。

さらなる活躍
2000年(平成12年)、『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -」』(テレビ朝日、2001年5月28日放送)の収録のため、南米最高峰アコンカグア(標高 6,962メートル)登山に挑戦している。この当時、焼肉とビールをこよなく愛し、大食漢で大酒飲みでありながら、運動といえば数か月に1度のゴルフ程度の上、1日の喫煙量は80本以上のヘビースモーカーという生活で、体重は94kg。そのため中性脂肪が人並外れて高いなど身体的な不安材料を抱えながらも、8月からネパールでの高地トレーニングを開始した。11月上旬にアタックを開始したが、強風や低温など天候に恵まれず、スケジュール的に無理と判断し、高度6,830m地点で登頂を断念している。なお、『植村直己物語』の撮影以来、知己の関係である小西浩文を登山隊長に迎え、国内有数の登山家がサポーターとして同行した[14][15]。

2001年(平成13年)、朝日放送テレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、1月26日放送分から2019年11月22日放送分まで、約19年間にわたりレギュラー出演した(詳しくは後述の『探偵ナイトスクープ』参照)。初代局長・上岡龍太郎が2000年3月末で芸能界引退のため降板した(番組では4月放送分まで)。西田は番組からの熱心な打診を受け内諾していたものの、大河ドラマ『葵 徳川三代』の収録が完了するや上述のアコンカグア登山のスケジュールに追われており、その収録を終えなければ出演できない状況だった。そのため番組内では登場まで西田の名前を伏せ、局長席に「鋭意交渉中」の札を掛け続けて探偵、顧問が週替わりで進行役を務めた。局長としての初出演は日本への帰国直後、そのままABCホールに直行しての収録となり、ニットシャツにジーンズ、顔中に無精髭をたくわえたワイルドな出で立ちでの登場となった。

同年11月7日、首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫され、手足がしびれる「頸椎性脊髄症」を患い入院した。15日に神経圧迫部位を除去する手術を行い、翌月には退院・復帰している[16]。

2003年(平成15年)3月3日夜、自宅で心筋梗塞のため倒れ緊急入院した[17]。処置が早く、症状も安定していたため28日には退院している[18]。この入院が原因で、紀伊國屋ホールで主演予定だった 青年座「乳房」市川森一:作の舞台を降板している。なお舞台は代役を立てて上演された。 上述の通り肉食中心の生活でヘビースモーカーだったが、入院中、吉永小百合から手紙をもらい、そこに書かれていた「タバコだけはやめてね、西やん」の言葉に一念発起し禁煙宣言した[注釈 2]。また体重も82kgまで減量した。復帰後のインタビューで「ここで死んだら遺作(のタイトル)が『ゲロッパ!』になるが、それだけは避けたかった」と、この時の出演映画の告知とユーモアを交えたコメントを述べ、全快をアピールしている。

2004年(平成16年)1月1日、前日をもって青年座を退団した。元青年座スタッフで、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍した。これは自身の健康上のこととともに2001年10月18日、師事していた青年座元プロデューサーで青年座映画放送代表取締役の金井彰久(声優、かないみかの父)が65歳で死去[19] したことが契機となっている。

2008年(平成20年)11月、長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章[20]。

同年4月からNHKラジオ第1のラジオドラマ番組『新日曜名作座』に竹下景子とともに起用される。森繁久彌と加藤道子のコンビで50年にわたり放送された『日曜名作座』の番組スタイルを継承している。

2009年(平成21年)には里見浩太朗の後を受け、日本俳優連合第5代理事長に就任した[21]。俳優の資質や地位の向上・権利問題などにも取り組んでいる。


2018年5月11日、国立劇場での旭日小綬章伝達式にて
2010年(平成22年)3月、『釣りバカ日誌』シリーズで、22年の長きにわたり国民に笑いと感動を与え続け、日本映画界へ残した数々の功績を讃えられ、三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞した[22]。

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、出身地である福島県も甚大な被害を受けたことを受け、支援ライブへの出演[23] のほか、積極的な支援活動を行っている。震災以降、月に2 - 3回は単身、地元・郡山に戻り長期滞在する生活になっているという[24]。

2012年(平成24年)3月15日、社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞した[25]。

2013年(平成25年)3月27日、『池中玄太80キロ』で恋人役で共演した坂口良子が57歳で死去した[26]。西田は談話を発表し「早過ぎるよアッコ・・・池中玄太は号泣しています」と、ドラマ内での役名(暁子=アッコ)で呼びかけ、その無念さを表した[27]。また、4月14日には『釣りバカ日誌』シリーズでコンビを組んだ三國連太郎が急性呼吸不全で死去した。7月19日にグランドハイアット東京で営まれた「お別れの会」で西田は祭壇に“お別れの言葉”を述べ、故人を偲ぶとともに「実に見事な生涯でした」と、90年の生涯を称賛した[28]。

2013年5月26日に東京競馬場で行われた第80回東京優駿(日本ダービー)で国歌「君が代」を独唱した。この日のレースでは武豊が騎乗した1番人気キズナが優勝しており、西田も単勝馬券を購入した。「第80回という記念すべき日本ダービーで東日本大震災の復興の合言葉である“絆”という名の馬に出合えたことは、私が被災地の福島出身でもあり、非常に縁を感じることができました。こんなにドラマチックな日本ダービーを体験したのは初めて」とコメントした[29][30][31]。

2014年(平成26年)7月1日、9月12日から16日に開催した「第7回したまちコメディ映画祭in台東」でコメディ栄誉賞を受賞することと、リスペクト上映として第1作目の『釣りバカ日誌』の上映が決定した[32][33]。

2016年(平成28年)2月1日、自宅ベッドから転落して首を痛め、「頸椎亜脱臼」と診断される[34]。出演中のドラマ『家族ノカタチ』の撮影には参加を続けたが、12日に大阪の朝日放送で予定されていた『探偵!ナイトスクープ』の収録は、大事をとって欠席(3月4日・11日放送分)した。2月26日、収録に復帰した[35]。4月19日、腰椎の一部を頸椎に移植する手術を受ける[36]。手術後に胆のう炎を発症した。5月6日に予定されていた『探偵!ナイトスクープ』の収録を取りやめ[37]、5月12日に胆のうの摘出手術を受けた[38]。5月19日、『人生の楽園』のナレーションで仕事に復帰した。6月3日、『探偵!ナイトスクープ』の収録(6月24日、7月1日放送分)でテレビ画面への復帰を果たした[39]。6月11日に退院[40]。この際に入院などについて薬物使用疑惑などのデマが流れ、同年8月、所属事務所は警視庁赤坂警察署に被害届を提出[41]、「違法な書き込みに対して、書き込みした人物を特定し、業務妨害及び名誉毀損を理由として、刑事、民事の責任追及を現在進めているところ」といった警告文を発表した[42]。同年10月4日、ドラマ『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』(第4シリーズ)の制作発表会見で、西田は「(2016年4月、5月に頸椎亜脱臼の手術と胆嚢炎の手術のため)入院についても、いろいろネットのニュースで書かれて、『シャブ隠しのために入院したらしいぞ』とまで言われた。私は“シャブ中”ではございませんので、一つよろしくお願いします」と、ネット中の噂話を明確に否定した[43]。

2017年(平成29年)7月5日、警視庁赤坂署は実際には(前述の)薬物などの使用の事実はなく、書き込みは虚偽の内容だと判断し、偽計業務妨害容疑で男女3人を書類送検した[41]。

2018年(平成30年)4月の春の叙勲で旭日小綬章を受章[44]。 同年7月30日、福島県が県民栄誉賞を贈ることを発表し、内堀雅雄知事は同年4月の旭日小綬章の受章が直接のきっかけになったと記者会見で語った。なお、表彰式は同年9月17日に福島県郡山市で行われた[45]。

2019年(令和元年)11月22日放送分をもって19年間局長(司会者)を務めてきた関西の人気バラエティー番組・『探偵!ナイトスクープ』を卒業した。

2021年、『池中玄太80キロ』で競演した杉田かおると『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』で再共演することでも話題となる[46]。

死去
2024年(令和6年)10月17日、東京都世田谷区の自宅でベッドで冷たくなっているところを付き人により発見され、死亡が確認された[47][48][49]。76歳没。同月8日の映画『劇場版ドクターX』[注釈 3]の完成報告会見に出席しており、亡くなった当日も仕事の予定を入れていた[51][52]。遺体は即日警察に回送されて検案された[53]。警察での遺体検案の結果を受けて18日に所属事務所がコメントを出し、死因は虚血性心疾患であることを明らかにした[54][55]。

葬儀は同月23日、東京都内の寺院で執り行われた。戒名は「芸月院敏那覚優居士」[56]。(Wikipediaより)