失われるれもの、残るものーー承前
昨日、1日、そして今日、2日と続けて私がかつて調査・研究のために訪れた出西岩樋と来原岩樋の現地へ何十年ぶりに行った。
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出西岩樋に行ったときは、小雨の中ある初老の男のお方が近くで農作業をしておられた。私が昔が懐かしくなってやって来ました、というと、そのお方は心を開いていろいろと説明された。
「岩樋はかつてはもっと大きな規模で舟に荷を積んでいてもゆうゆうと通れたし、高瀬川ももっと広かった。自動車道路優先ということで狭くなってしまいました。バスが通っている斐伊川の土手も昔と比べて随分整備され、広くなりました」
見ると、岩樋の右斜面は草がきちんと刈られすっきりしていたし、左岸に生えていた樹は伐採されていた。入り口付近は変わりがないが、ちょっと見た印象は昔の方が歴史を感じさせる趣があった。
続いて人柱荒神さんの話をすると、
「ああ、あれは、近くのお寺に合祀されました。次第に荒神さんのことを知らないものが増えたし、ほっといたら荒れて何が何だか分からなくなるので、その方がよかったでしょう」
という返事が返ってきた。
私は、合祀されたことを知っているものがいなくなったら、その話もいつしか消えてしまうだろうなあと思った。だから、私の人柱荒神の写真は貴重な史料になることだろう。
本当に人を埋めたんでしょうか。私が尋ねると、「そりゃ、ほんとうですよ。感謝しくなては、ばちがあたります。横つぎをしたものが埋められたそうですよ」という返事。私は、ええっ、と思った。もともとの話とは随分違うなあ。こういう話としても地元に伝わっていたのか。私は思わぬ収穫を得た気がした。
ついで、本日、来原岩樋に出かけた。ところが、神戸川への合流工事の地点にあって、全く昔とは違う光景が広がっていた。どこに岩樋はあるのか見当もつかなかったのである。
もしかして、岩樋を壊して別の水路をつけたのではないのか、という不安が頭を過ぎった。では、上の写真のような付属の建物も壊されたのか。私は、愕然とした。
事実は後日確認するが、時代の波はそういう貴重な文化的遺物を飲み込んでしまっている可能性は大である。私は、意気消沈して帰路を急いだ。
その後、神戸川放水路の工事関係者に電話で確認したところ、上の写真の建物、岩樋ともに残す方針で工事を進めているという返事を頂きました。ほっとしています。
こういう記事は史実にのっとって書くことが求められます。万全を期すことの困難さを痛感しています。
昨日、1日、そして今日、2日と続けて私がかつて調査・研究のために訪れた出西岩樋と来原岩樋の現地へ何十年ぶりに行った。
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出西岩樋に行ったときは、小雨の中ある初老の男のお方が近くで農作業をしておられた。私が昔が懐かしくなってやって来ました、というと、そのお方は心を開いていろいろと説明された。
「岩樋はかつてはもっと大きな規模で舟に荷を積んでいてもゆうゆうと通れたし、高瀬川ももっと広かった。自動車道路優先ということで狭くなってしまいました。バスが通っている斐伊川の土手も昔と比べて随分整備され、広くなりました」
見ると、岩樋の右斜面は草がきちんと刈られすっきりしていたし、左岸に生えていた樹は伐採されていた。入り口付近は変わりがないが、ちょっと見た印象は昔の方が歴史を感じさせる趣があった。
続いて人柱荒神さんの話をすると、
「ああ、あれは、近くのお寺に合祀されました。次第に荒神さんのことを知らないものが増えたし、ほっといたら荒れて何が何だか分からなくなるので、その方がよかったでしょう」
という返事が返ってきた。
私は、合祀されたことを知っているものがいなくなったら、その話もいつしか消えてしまうだろうなあと思った。だから、私の人柱荒神の写真は貴重な史料になることだろう。
本当に人を埋めたんでしょうか。私が尋ねると、「そりゃ、ほんとうですよ。感謝しくなては、ばちがあたります。横つぎをしたものが埋められたそうですよ」という返事。私は、ええっ、と思った。もともとの話とは随分違うなあ。こういう話としても地元に伝わっていたのか。私は思わぬ収穫を得た気がした。
ついで、本日、来原岩樋に出かけた。ところが、神戸川への合流工事の地点にあって、全く昔とは違う光景が広がっていた。どこに岩樋はあるのか見当もつかなかったのである。
もしかして、岩樋を壊して別の水路をつけたのではないのか、という不安が頭を過ぎった。では、上の写真のような付属の建物も壊されたのか。私は、愕然とした。
事実は後日確認するが、時代の波はそういう貴重な文化的遺物を飲み込んでしまっている可能性は大である。私は、意気消沈して帰路を急いだ。
その後、神戸川放水路の工事関係者に電話で確認したところ、上の写真の建物、岩樋ともに残す方針で工事を進めているという返事を頂きました。ほっとしています。
こういう記事は史実にのっとって書くことが求められます。万全を期すことの困難さを痛感しています。