Aは、次の作品を改めて読んで、母の思いを噛みしめました。
(前略)垢で汚れた手術室の磨りガラスの隙間から、血に染まった手がまた見える。彼の中では、
もうそれは不吉の前兆でもなかった。だから、彼は、バイクの音が平野のかなたに響いて
いくのを、同時に快く感じることができた。
「もう見ない方がいいよ」
そう言って、覗いていた親戚や家族のものをそのガラスの隙間の位置から追いやって、
得郎はそこに立ちふさがったのである。そして彼は目を瞑った。医者の血の手は、患者で
ある母の何であろうか。そう思うと、入院の勧告を受けた日の母の顔(いやもうそれは、
人の顔というよりも、蝋人形のそれ)が浮かんできた。そして、よかったんだ、これで、
と彼は自分に言い聞かせた。
───二時間も待ったろうか、手術室のガタピシの扉が開いて、医者が二人出てきた。
「このごろ急に眼がかすんできましてね」
主任の医者は、黄銅製の皿のようなものの中に入っている、巨大なさつまいも様の異物
を、手術鋏で敵意でも持っているように突付けながら、彼の前に立ち止まった。
───そうだ、忘れもしない奇怪な塊。もともと卵大のそれは、全く予想もつかない程
膨らんで、はちきれんばかり。まるで嬰児を宿しているかのようだった。
「こことここ。ああ、それからここにも筋腫ができている。子宮壁内筋腫ですね。ひど
いもんだ」。そう言う医師の縫い繕いした手術着が、汗でぴったり肌にひっついていた。
煙草の煙がどこからとなく漂ってきて、その皿の辺にまとわりついた。
むくんだ一塊。彼は思った。そこに自分の生命の秘密がくるまれているような、空しい
ような。これが自分の肉体の抜け殻か。医者の鋏によって切開された子宮は、皿の中で奇
妙に歪んで、波打つ肉の盛り上がりを見せていた。
彼は、走りながら、母の子宮の中で苦悶している自分を思う。が、その苦しみはかえっ
て愉悦さえ伴うものだった。肉壁はいくら脚で蹴っても、強靭な弾力性ではじき返す程で、
そのリズミカルな抵抗感は言い様もなく彼の心を痺れさせた。(後略)(小説「S」より再掲)
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