Aが創刊した『出雲文学』を今ここで振り返ります。内容は『座礁』のHPからそのまま引用しました。書いたのはA自身です。
思い出の『出雲文学』
「出雲文学」回顧 1 瀬本明羅
「出雲文学」創刊号。
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「座礁」のページでも村上氏が触れおられるが、私としても、これから11回ほど、この同人誌について紹介したい。
そういう気持ちになったのは、やはり、ずっと、かつての同人の各メンバーにお詫びしなければ、という気持ちに捕らわれていたからである。紹介しつつ、私は一人ひとりに、中断したことの責任を感じ、衷心よりお詫び致します。このことはひとり村上氏の責任ではない。
さて、「創刊号」である。
最初は大学時代、高校時代の仲間が5人で相談して発刊にまで漕ぎ着けた。最初は、宍道昭訓氏と私が相談し、意見の一致をみたので他の友達に働きかけた。メンバーは、次の5名である。
中野武治 宍道昭訓 野間口隆文 川津愛子 須田 璋
今、このメンバーは、それぞれの世界で責任ある立場にあり、日々活躍をしている。
作品リスト
巻頭評論 地方文学史研究の課題 池野 誠
小説 雨児の呟き 須田 璋
夜と白波 中野武治
詩 たった二つの破片 宍道昭訓
無条件反射 野間口隆文
犀川断章 川津愛子
編集者 須田 璋
発行 昭和47年12月1日
「出雲文学」回顧 2 瀬本明羅
「出雲文学」第2号。
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編集後記でこう書いている。「スローガンで大きく構えることはない。要は未熟な我々にとってのかけがえのない発表の場であればいいのだ。そこで鍛えられたたかれてもいい。そういう営為自体が自己の人生と深く関わっていて、その上自己を試すチャンスともなるのだ。」
創刊号は物珍しさからか、ローカル面で、各紙が揃って紹介してくれた。そのこともあって、同人が、15名に増えた。布施良一郎氏も加わって頂いた。
詩 女滝故に 漁火 小雨降るイースター 一週間 サタンの言葉
白と黒 ・・・・森脇久美子
海・・・宍道昭訓
メルヘンーーあいを教えてくれた人・・・勝部温子
ピカドンの家 幸せって 道化・・・琴川輝正
小さな箱の中で・・・今岡登良子
小説 神話ーー海神に・・・勝部温子
旅・・・・塚村英幸
連載 鳩の報告書・・・布施良一郎
毛虫・・・原 茂巳
学園の中にて・・・須田 璋
随筆 むかしの出雲文学のこと・・・原 宏一
短歌 今岡登良子 玉木重子
発行 昭和48年7月10日
「出雲文学」という同人誌が、戦後まもないころ、出雲市から発行されていたことを原宏一氏の文章から知ることができた。因みに、この雑誌は3号で中断している。私たちは、奇しくもこのかつての同名の雑誌を復刊させたことになったのである。
「出雲文学」回顧 3 瀬本明羅
出雲文学 第3号。
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この号から、朝日新聞の出雲市駐在の記者、藤井汎郎氏が入会された。氏は、「島大文学」で活躍していたキャリアがあり、同人誌評にも何回か取り上げられたライターであった。氏の居られる支局にも、出雲市役所の記者クラブにも何度か出入りするうちに、記者の方たちとも知り合いになっていった。
藤井氏は、合評会などに押しかけてくる他誌のもの書きの酷評を、じっと聞いていて、彼らが帰った後で、「あいつらみたいな者を、同人誌ゴロと言ってね、怖いんだよ」などと慰めて頂いた。
私は「風土性」などということを、柱に立てたくて、四苦八苦していた。人柱のことをしきりに研究していた。ある読者が、「あんなこと書いて、ひとつも面白くないよ。だれも読まないよ。でも、私は面白かった」と言った。誉められたのか、貶されたのか、よく分からなかった。
小説 胸を抱く・・・藤井汎郎
随想 「風土性」ということ・・・須田 璋
森山のこと・・・布施良一郎
詩 確信 もしもおまえが 九月・・・高橋留理子
深秋・・・森脇久美子
怒りに・・・今岡登良子
句集「しぐれ鹿」抜粋・・・作 森山夕樹
寄稿 米子市法勝寺町法勝寺焼と山菜料理と観賞行楽・・・吉村一夫
昭和49年1月 発行
編集後記に、「ともかく定期的に出すことが急務で、出雲という土地にパイプが打ち込められれば、他からの栄養の質的吸収は可能になる」と記している。
「出雲文学」回顧 4 瀬本明羅
「出雲文学」第4号。
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この号で、同人は22名になった。しかし、「同人誌としての本格的な活動にはまだ程遠くその過程としての準備段階である」と編集後記で、琴川氏が述べているように、誌の質的な面では、地方の核になるようなレベルに到達していなかった。
新たな同人として、シナリオや小説でかなりの活躍をしてこられた、中村びん氏、山陰中央新報の学芸部記者の岡部康幸氏を迎えることができた。
中村氏のシナリオ「地方都市」は「新日本文学」の公募賞の候補となった。賞の名称は失念した。
「4号」までは、準備号だという心積もりでいたので、さて、次の「5号」は、大きく打って出ようと覚悟をしていた。
「島根文学連盟賞」が創設されたのもこの年である。
シナリオ 地方都市・・・中村びん
随想 「セツ」そして「巌」・・・須田 璋
幻の北山原人(楯縫郡史補遺)・・・岡部康幸
詩 洗濯・・・伊藤俊子
夜更けの幻想・・・高橋留理子
春一番・・・森脇久美子
その他 書簡批評など・・・須田 璋
昭和49年8月30日 発行
「出雲文学」回顧 5 瀬本明羅
「出雲文学」第5号。
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「書店で、雑誌を見て、同じ金をかけるならもっとすっきりしたデザインにならないものかと、じっとしておられない気持ちになりました」
ある印刷・出版会社の専属デザイナーをなさっていた杉原孝芳氏は、私にそう仰った。
そりゃ願ってもないことです。早速5号からお願いします。・・・私は、即座にそうお応えした。
そういう善意からの申し出もあり、5号は隅から隅まで杉原氏のセンスで統一され、見違えるようにグレードアップしたようになった。今でも、氏の無償のご助力に感謝している。「座礁」の各ページの背景、カットも氏の作品である。氏は当時県内では新進気鋭のデザイナーとして将来を嘱望されていた。県の芸術文化祭でも、デザイン部門で金賞を受賞しておられた。
さて、この5号から本格的に出発をしようと、誓い合っていた我々同人は、作品のレベルアップに努めた。だれも、今度こそは、という気迫を漲らせていた。そのために、掲載の規準が引き上げられ、没になった原稿もあった。本人には了解を得ていたが、このことは、多少のしこりを残すことになった。後で退会者も出た。
会の名称を「出雲文学同人会」から「出雲文学の会」に改めた。
誰も、今までの段階から抜け出すことを考えていた。
結果、「文学界」の同人誌評に、名前だけが初めて載った。飛び上がって喜んだ。
布施良一郎氏の「冬の系譜」と瀬本の「年の瀬に」の2作品が「印象に残った」作品として、一番最後に紹介された。
小説 冬の系譜・・・布施良一郎
年の瀬に・・・瀬本明羅
評論 晩年の河上肇と「自叙伝」・・・川上昌男
詩 街 ジャム作りの日・・・高橋留理子
今岡登良子氏の後記に、「誌の体裁に負けぬよう出雲文学の共通の目標である、書くことを通しての人間研究、をもう一度頭に叩き込み、この不可解である人間をさぐるための糸口をさがし、一歩一歩努力を続けたいと思う」とある。
発行 昭和50年2月28日
「出雲文学」回顧 6 書痙 瀬本明羅
「出雲文学」第6号。
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きょう、マギーがくる。学校で一日のばしてくれないかと話したが、予定にはいっているので、今日を外すことはできないと言う。翌日は、まる一日お茶の会に呼ばれている、これはことわるわけにはいかない、ということだ。おなたの家へいけなくなると、午後わたしは空白の時間をもつことになる、とマギーは眼を大きくしていった
これは、「マギー」という女の子が日本に留学にきて、ホームステイをし、家族と生活文化の違いからくるのいろいろなハプニングを起こすという物語の、布施氏の作品「マギーの日」の冒頭文である。
小説 マギーの日・・・・布施良一郎
交差点で・・・・・藤井汎郎
随想 鴎外と県人会・・・岡部康幸
この号の岡部氏のエッセイは、恩師の池橋達雄氏が見つけられた鴎外の新資料に基づくもので、岩波書店の鴎外全集にも載っていない資料として注目された。
そこで、岩波書店は、この号に掲載されている新資料を「月報」という形で全集に入れた。これは、岡部氏から後で聞いた話である。
布施氏の作品は、文学界の同人誌評で評価されたと記憶している。
この号からは、どうあっても第5号のレベル以上の質を保持せねば、ということで結束していた。
ところが、個人的なことを言うと、瀬本は、「書痙」に悩まされ、まともに字が書けなくなりつつあった。
今、思い返してみても、苦しい毎日であった。ほんの数枚書くのに数時間もかかっていた。右腕が完全にいかれていた。仕事にも支障が出てきた。
やむなく休筆せざるをえなかった。
今現在でも、完治していない。こうしてキーを打っていても、右手がいうことを利かなくなる。苦しさは今も続いている。
こういう中で、瀬本の創作集「雨蛙の呟き」は、出雲文学の会から発刊された。
いろいろなお方に贈呈した。時を同じくして、中村びん氏も「いのしし」という作品集を出版された。結果、ローカル新聞で二つの作品集が並べて紹介された。中村氏は10年位前、帰らぬ人となった。
発行 昭和50年8月1日
「出雲文学」回顧 7 苦肉の策 瀬本明羅
「出雲文学」第7号。
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夢のごとき「鴨山」恋ひてわれは来ぬ誰も見しらぬその「鴨山」を
斎藤茂吉
この歌人は、人麻呂終焉の地を探し探しして、ついに島根県邑智郡の湯抱温泉の近くの「鴨山」に辿り着き、ここに違いないと断定したことで当時話題になった。そして、「鴨山考」を上梓した。
このこと等を例にあげながら、「歌枕」の現代性に触れて、歌と「風土性・土俗性・地方性」への関わりの重要性を論じた「はらふくるるわざ」を「なかむら・びむ」氏が巻頭で発表した。
小説 ある日曜日・・・・大倉正嗣
祭壇・・・・・・・布施良一郎
インクブロット・・瀬本明羅
随想 はらふくるるわざ・・なかむら・びむ
また瀬本の「書痙」のことを書くが、この号では一層ひどくなっていて、整形外科や整骨院に幾度となく通っても少しも治癒の糸口がつかめなかった。
しまいには、精神科に通うことになって、いろいろテストを受けた。結果は、精神的な疲労という風な診断で、メンタルな異常はないということで、一応安心はしたが、治らないことに変わりはなかった。
そういう、もやもやした心境を「インクブロット」という作品に纏め上げた。会話だけの小説である。シナリオでもない。中にテストに使われるインクブロットの絵を挿入した。絵の制作は、杉原孝芳氏に依頼した。
「深夜まで作っていて、わたしも頭が混乱してきました」。自宅にお邪魔して部屋中に並べられた黒い不気味なインクの模様を見て、氏のすさまじい格闘ぶりを知り、頭の下がる思いがした。
杉原氏には、本当にお世話になった。私の自費出版の「雨蛙・・」、なかむら氏の「いのしし」のデザインもすべて杉原氏にお願いした。
昭和51年3月10日 発行
「出雲文学」回顧 8 村上氏入会 瀬本明羅
「出雲文学」第8号。
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去るものは去り、残るものは残り、志あるものは入る。何も強要はしない。これが、会の原則であった。
同人数16名。
しかし、定例の会合のメンバーは、いつも限られていて、時には私ひとりが1時間以上も待っていて、今日は止めようかなあ、と思っていると2,3人が来ることもあった。あの待っている時間の複雑な気持ちは今も忘れていない。
とまれ、志ある人はこの会の存在を知り、駆けつけて下さった。その代表は、村上馨氏である。この号から入会された。皆若い同志を得たことで、勇気付けられた。
理系の大学出身ということで、余計印象に残っている。
詩 砂の伝承 発火点の風景・・・・高橋留理子
小説 山峡へ・・・・瀬本明羅
もみじ葵に想う・・・山本圭子
徒花・・・・・金山紀九重
祭壇 二・・・布施良一郎
女性の小説が2つ揃って出てきたのは、初めてである。金山氏は詩人、山本氏は歌人でもあった。布施氏の連載ものがいよいよ本格的に動き出した。
瀬本の作品は、僻地の分校に転勤したことをきっかけに、自然発生的に生まれたものである。
しかし、「書痙」は、一向に治らないので、一念発起して左手で書き始めた。ほぼ百枚くらい書いて初めて左手が自由に動かせるようになった。ありがたいことだと思った。釘の折れ曲がったような字であったが、何とか書けたことがとても嬉しかった。
しかし、瀬本は、このころから次第に書けなくなっていった。今考えても、その理由はよく分からない。
昭和51年11月1日 発行
「出雲文学」回顧 9 校正畏るべし 瀬本明羅
「出雲文学」第9号。
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「後生畏るべし」ならぬ「校正畏るぺし」。このことは、あらゆる活字出版物に共通した恐ろしさである。
このことが大変なことになってしまった。
小説を初めて発表した「村上馨」氏は、正しくは「村岡馨」氏であった。確かに目次には、「村岡」とあるが、本文にはどうしたことか、「村上」となっていた。
本名山村氏は、この時相当とまどわれたと思う。しかし、意を決して、「じゃ、これからは、村上馨で通します」と仰った。編集担当をしていた瀬本は、大変な見落としをしたわけで、謝ったが後の祭り。
そういう訳で、現在の「村上馨」の名前は、校正ミスの所産であった。氏に対して、深くお詫びする次第である。ハプニングと言ってすませる問題ではなかった。
氏の寛大な心に対して、改めてここで敬意を表します。
詩 神話 春宵花歌 創傷・・・・高橋留理子
ハムスター・・・・・・・大倉正嗣
小説 翔けてゆく少女・・・・村上馨
かの人たち・・・・山本圭子
書評 「雨蛙の呟き」 「いのしし」・・・・長谷川泉
合評会で、「翔けてゆく少女」について、相当な時間をかけて意見を出し合った。記憶によると、あまり肯定的な意見は少なかったが、若々しい感性を支持する意見もあったと思う。ところが、「文芸」の同人誌評を後日見て驚いた。なんと、トップに取り上げられ、しかも2ページにも亘る批評が載っていた。「出雲文学」始まって以来の大事件となった。しかも、問題点になっていた表現の個所がことごとく評価を得ていた。これを読んで、私は、自分の読みの甘さを猛省した。
まさに大物新人の登場ということになったのである。
この時の「文芸」の批評文は、村上氏個人のページに全文が掲載されているので、ご覧頂きたい。このページとリンクしている「座礁」のリンク集に村上氏のページのバナーがあるので、クリックして、ぜひご一読下さい。
そして、瀬本となかむら氏の作品集の書評を、文芸評論家の長谷川泉氏に書いて頂いたことも収穫であった。
「出雲文学」回顧 10 使命感 瀬本明羅
「出雲文学」第10号。
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編集人の瀬本は、後記で次のように述べている。
「書かねばならないという義務感だけが自分をしめつけてくるようになる。・・・しまいには、書くこと自体に対する敵意も頭を擡げ、それまで自分を統べていた書くという行為が内部から総括されるという状況にまでなった。そして、書くという前提でものを見ていたその眼が徐々に変容していったことも事実だ」
「義務感」というか、使命感というか、そういうもので相当のプレッシャーを感じていたのである。同人数は当時13名いたが、作品提出を期待できる人は限られていた。そういう中で、続けて書くことの負担は年々重荷になってきていた。加えて、右手が不自由とあっては、相当の意志がなけねば継続できなかった。
しかし、同人の協力、中でも、若い村上氏の創作意欲の支えがなかったら「10号」は出ていなかった。私は、氏に相当期待していた。
とまれ、「10号」は、質・量ともに一応の到達点を示す記念碑的な号とすることが出来た。
小説 草の色・・・・村上馨
シダの周辺・・・・瀬本明羅
サルビア・・・・金山紀九重
祭壇・・・・布施良一郎
詩 道・・・・高橋留理子
「シダの周辺」は、その年の島根県文学連盟賞を受賞した。
発行 昭和54年9月30日
「出雲文学」回顧 11 休刊 瀬本明羅
「出雲文学」第11号。
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詩 黄色い分布図の時間・・・・金山紀九重
小説 しあわせな女・・・・布施良一郎
雲の城・・・・村上馨
この3作で、この号は発行された。編集人は、村上馨氏である。前号との間隔は次第に次第に広がり、この号を出すのに2年かかっていた。
これは、村上氏の責任ではない。私自体が「書けなく」なっていたことにある。原因は、今振り返ってみると、「強迫観念」ではなかったかと思えてくる。
定例会で、会の代表者を代わってほしい。何も私は会を退くわけではない、とお願いした。
しかし、みんなの意見は、私が代表者を退けば、だれもやるものはいない、瀬本さん、あなたが書かなければ、出雲文学は続けていくことはできない、・・・とにかく書いて下さい、そういう内容だったと記憶している。それでは、自ら退会して下さい、という厳しいお叱りの言葉も出てきたと思う。
私は、答えに窮した。そこで、第12号は、村上さんに編集して頂こう、それまでもう一度じっくり考え直してほしい、という意見が出た。・・・記憶が曖昧なので、そうではなかったかなあと、ぼんやり思い出している。
それから、長い間のブランクが出来た。・・・・私は、もう再び「出雲文学」には戻れないと思った。発起人自らが休刊に追いやった。罪深い男だ。そう思いつづけて、同人諸氏に心の中で謝っていた。
ほんとうにごめんなさい。・・・どう言われても言い訳がたちません。
私は、今まで30年間謝りつづけてきました・・・・。心の中で、復刊させたいものだとは思っていました。
ところが、村上氏のご好意で、「座礁」という名前で復活しました。このご恩は終生忘れません。村上氏に感謝しております。
昔のメンバーに呼びかけたいのですが、今それだけは私に出来ないと思っています。
第11号で休刊(昭和56年)
ウエブ同人誌「座礁」
思い出の『出雲文学』
「出雲文学」回顧 1 瀬本明羅
「出雲文学」創刊号。
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「座礁」のページでも村上氏が触れおられるが、私としても、これから11回ほど、この同人誌について紹介したい。
そういう気持ちになったのは、やはり、ずっと、かつての同人の各メンバーにお詫びしなければ、という気持ちに捕らわれていたからである。紹介しつつ、私は一人ひとりに、中断したことの責任を感じ、衷心よりお詫び致します。このことはひとり村上氏の責任ではない。
さて、「創刊号」である。
最初は大学時代、高校時代の仲間が5人で相談して発刊にまで漕ぎ着けた。最初は、宍道昭訓氏と私が相談し、意見の一致をみたので他の友達に働きかけた。メンバーは、次の5名である。
中野武治 宍道昭訓 野間口隆文 川津愛子 須田 璋
今、このメンバーは、それぞれの世界で責任ある立場にあり、日々活躍をしている。
作品リスト
巻頭評論 地方文学史研究の課題 池野 誠
小説 雨児の呟き 須田 璋
夜と白波 中野武治
詩 たった二つの破片 宍道昭訓
無条件反射 野間口隆文
犀川断章 川津愛子
編集者 須田 璋
発行 昭和47年12月1日
「出雲文学」回顧 2 瀬本明羅
「出雲文学」第2号。
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編集後記でこう書いている。「スローガンで大きく構えることはない。要は未熟な我々にとってのかけがえのない発表の場であればいいのだ。そこで鍛えられたたかれてもいい。そういう営為自体が自己の人生と深く関わっていて、その上自己を試すチャンスともなるのだ。」
創刊号は物珍しさからか、ローカル面で、各紙が揃って紹介してくれた。そのこともあって、同人が、15名に増えた。布施良一郎氏も加わって頂いた。
詩 女滝故に 漁火 小雨降るイースター 一週間 サタンの言葉
白と黒 ・・・・森脇久美子
海・・・宍道昭訓
メルヘンーーあいを教えてくれた人・・・勝部温子
ピカドンの家 幸せって 道化・・・琴川輝正
小さな箱の中で・・・今岡登良子
小説 神話ーー海神に・・・勝部温子
旅・・・・塚村英幸
連載 鳩の報告書・・・布施良一郎
毛虫・・・原 茂巳
学園の中にて・・・須田 璋
随筆 むかしの出雲文学のこと・・・原 宏一
短歌 今岡登良子 玉木重子
発行 昭和48年7月10日
「出雲文学」という同人誌が、戦後まもないころ、出雲市から発行されていたことを原宏一氏の文章から知ることができた。因みに、この雑誌は3号で中断している。私たちは、奇しくもこのかつての同名の雑誌を復刊させたことになったのである。
「出雲文学」回顧 3 瀬本明羅
出雲文学 第3号。
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この号から、朝日新聞の出雲市駐在の記者、藤井汎郎氏が入会された。氏は、「島大文学」で活躍していたキャリアがあり、同人誌評にも何回か取り上げられたライターであった。氏の居られる支局にも、出雲市役所の記者クラブにも何度か出入りするうちに、記者の方たちとも知り合いになっていった。
藤井氏は、合評会などに押しかけてくる他誌のもの書きの酷評を、じっと聞いていて、彼らが帰った後で、「あいつらみたいな者を、同人誌ゴロと言ってね、怖いんだよ」などと慰めて頂いた。
私は「風土性」などということを、柱に立てたくて、四苦八苦していた。人柱のことをしきりに研究していた。ある読者が、「あんなこと書いて、ひとつも面白くないよ。だれも読まないよ。でも、私は面白かった」と言った。誉められたのか、貶されたのか、よく分からなかった。
小説 胸を抱く・・・藤井汎郎
随想 「風土性」ということ・・・須田 璋
森山のこと・・・布施良一郎
詩 確信 もしもおまえが 九月・・・高橋留理子
深秋・・・森脇久美子
怒りに・・・今岡登良子
句集「しぐれ鹿」抜粋・・・作 森山夕樹
寄稿 米子市法勝寺町法勝寺焼と山菜料理と観賞行楽・・・吉村一夫
昭和49年1月 発行
編集後記に、「ともかく定期的に出すことが急務で、出雲という土地にパイプが打ち込められれば、他からの栄養の質的吸収は可能になる」と記している。
「出雲文学」回顧 4 瀬本明羅
「出雲文学」第4号。
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この号で、同人は22名になった。しかし、「同人誌としての本格的な活動にはまだ程遠くその過程としての準備段階である」と編集後記で、琴川氏が述べているように、誌の質的な面では、地方の核になるようなレベルに到達していなかった。
新たな同人として、シナリオや小説でかなりの活躍をしてこられた、中村びん氏、山陰中央新報の学芸部記者の岡部康幸氏を迎えることができた。
中村氏のシナリオ「地方都市」は「新日本文学」の公募賞の候補となった。賞の名称は失念した。
「4号」までは、準備号だという心積もりでいたので、さて、次の「5号」は、大きく打って出ようと覚悟をしていた。
「島根文学連盟賞」が創設されたのもこの年である。
シナリオ 地方都市・・・中村びん
随想 「セツ」そして「巌」・・・須田 璋
幻の北山原人(楯縫郡史補遺)・・・岡部康幸
詩 洗濯・・・伊藤俊子
夜更けの幻想・・・高橋留理子
春一番・・・森脇久美子
その他 書簡批評など・・・須田 璋
昭和49年8月30日 発行
「出雲文学」回顧 5 瀬本明羅
「出雲文学」第5号。
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「書店で、雑誌を見て、同じ金をかけるならもっとすっきりしたデザインにならないものかと、じっとしておられない気持ちになりました」
ある印刷・出版会社の専属デザイナーをなさっていた杉原孝芳氏は、私にそう仰った。
そりゃ願ってもないことです。早速5号からお願いします。・・・私は、即座にそうお応えした。
そういう善意からの申し出もあり、5号は隅から隅まで杉原氏のセンスで統一され、見違えるようにグレードアップしたようになった。今でも、氏の無償のご助力に感謝している。「座礁」の各ページの背景、カットも氏の作品である。氏は当時県内では新進気鋭のデザイナーとして将来を嘱望されていた。県の芸術文化祭でも、デザイン部門で金賞を受賞しておられた。
さて、この5号から本格的に出発をしようと、誓い合っていた我々同人は、作品のレベルアップに努めた。だれも、今度こそは、という気迫を漲らせていた。そのために、掲載の規準が引き上げられ、没になった原稿もあった。本人には了解を得ていたが、このことは、多少のしこりを残すことになった。後で退会者も出た。
会の名称を「出雲文学同人会」から「出雲文学の会」に改めた。
誰も、今までの段階から抜け出すことを考えていた。
結果、「文学界」の同人誌評に、名前だけが初めて載った。飛び上がって喜んだ。
布施良一郎氏の「冬の系譜」と瀬本の「年の瀬に」の2作品が「印象に残った」作品として、一番最後に紹介された。
小説 冬の系譜・・・布施良一郎
年の瀬に・・・瀬本明羅
評論 晩年の河上肇と「自叙伝」・・・川上昌男
詩 街 ジャム作りの日・・・高橋留理子
今岡登良子氏の後記に、「誌の体裁に負けぬよう出雲文学の共通の目標である、書くことを通しての人間研究、をもう一度頭に叩き込み、この不可解である人間をさぐるための糸口をさがし、一歩一歩努力を続けたいと思う」とある。
発行 昭和50年2月28日
「出雲文学」回顧 6 書痙 瀬本明羅
「出雲文学」第6号。
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きょう、マギーがくる。学校で一日のばしてくれないかと話したが、予定にはいっているので、今日を外すことはできないと言う。翌日は、まる一日お茶の会に呼ばれている、これはことわるわけにはいかない、ということだ。おなたの家へいけなくなると、午後わたしは空白の時間をもつことになる、とマギーは眼を大きくしていった
これは、「マギー」という女の子が日本に留学にきて、ホームステイをし、家族と生活文化の違いからくるのいろいろなハプニングを起こすという物語の、布施氏の作品「マギーの日」の冒頭文である。
小説 マギーの日・・・・布施良一郎
交差点で・・・・・藤井汎郎
随想 鴎外と県人会・・・岡部康幸
この号の岡部氏のエッセイは、恩師の池橋達雄氏が見つけられた鴎外の新資料に基づくもので、岩波書店の鴎外全集にも載っていない資料として注目された。
そこで、岩波書店は、この号に掲載されている新資料を「月報」という形で全集に入れた。これは、岡部氏から後で聞いた話である。
布施氏の作品は、文学界の同人誌評で評価されたと記憶している。
この号からは、どうあっても第5号のレベル以上の質を保持せねば、ということで結束していた。
ところが、個人的なことを言うと、瀬本は、「書痙」に悩まされ、まともに字が書けなくなりつつあった。
今、思い返してみても、苦しい毎日であった。ほんの数枚書くのに数時間もかかっていた。右腕が完全にいかれていた。仕事にも支障が出てきた。
やむなく休筆せざるをえなかった。
今現在でも、完治していない。こうしてキーを打っていても、右手がいうことを利かなくなる。苦しさは今も続いている。
こういう中で、瀬本の創作集「雨蛙の呟き」は、出雲文学の会から発刊された。
いろいろなお方に贈呈した。時を同じくして、中村びん氏も「いのしし」という作品集を出版された。結果、ローカル新聞で二つの作品集が並べて紹介された。中村氏は10年位前、帰らぬ人となった。
発行 昭和50年8月1日
「出雲文学」回顧 7 苦肉の策 瀬本明羅
「出雲文学」第7号。
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夢のごとき「鴨山」恋ひてわれは来ぬ誰も見しらぬその「鴨山」を
斎藤茂吉
この歌人は、人麻呂終焉の地を探し探しして、ついに島根県邑智郡の湯抱温泉の近くの「鴨山」に辿り着き、ここに違いないと断定したことで当時話題になった。そして、「鴨山考」を上梓した。
このこと等を例にあげながら、「歌枕」の現代性に触れて、歌と「風土性・土俗性・地方性」への関わりの重要性を論じた「はらふくるるわざ」を「なかむら・びむ」氏が巻頭で発表した。
小説 ある日曜日・・・・大倉正嗣
祭壇・・・・・・・布施良一郎
インクブロット・・瀬本明羅
随想 はらふくるるわざ・・なかむら・びむ
また瀬本の「書痙」のことを書くが、この号では一層ひどくなっていて、整形外科や整骨院に幾度となく通っても少しも治癒の糸口がつかめなかった。
しまいには、精神科に通うことになって、いろいろテストを受けた。結果は、精神的な疲労という風な診断で、メンタルな異常はないということで、一応安心はしたが、治らないことに変わりはなかった。
そういう、もやもやした心境を「インクブロット」という作品に纏め上げた。会話だけの小説である。シナリオでもない。中にテストに使われるインクブロットの絵を挿入した。絵の制作は、杉原孝芳氏に依頼した。
「深夜まで作っていて、わたしも頭が混乱してきました」。自宅にお邪魔して部屋中に並べられた黒い不気味なインクの模様を見て、氏のすさまじい格闘ぶりを知り、頭の下がる思いがした。
杉原氏には、本当にお世話になった。私の自費出版の「雨蛙・・」、なかむら氏の「いのしし」のデザインもすべて杉原氏にお願いした。
昭和51年3月10日 発行
「出雲文学」回顧 8 村上氏入会 瀬本明羅
「出雲文学」第8号。
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去るものは去り、残るものは残り、志あるものは入る。何も強要はしない。これが、会の原則であった。
同人数16名。
しかし、定例の会合のメンバーは、いつも限られていて、時には私ひとりが1時間以上も待っていて、今日は止めようかなあ、と思っていると2,3人が来ることもあった。あの待っている時間の複雑な気持ちは今も忘れていない。
とまれ、志ある人はこの会の存在を知り、駆けつけて下さった。その代表は、村上馨氏である。この号から入会された。皆若い同志を得たことで、勇気付けられた。
理系の大学出身ということで、余計印象に残っている。
詩 砂の伝承 発火点の風景・・・・高橋留理子
小説 山峡へ・・・・瀬本明羅
もみじ葵に想う・・・山本圭子
徒花・・・・・金山紀九重
祭壇 二・・・布施良一郎
女性の小説が2つ揃って出てきたのは、初めてである。金山氏は詩人、山本氏は歌人でもあった。布施氏の連載ものがいよいよ本格的に動き出した。
瀬本の作品は、僻地の分校に転勤したことをきっかけに、自然発生的に生まれたものである。
しかし、「書痙」は、一向に治らないので、一念発起して左手で書き始めた。ほぼ百枚くらい書いて初めて左手が自由に動かせるようになった。ありがたいことだと思った。釘の折れ曲がったような字であったが、何とか書けたことがとても嬉しかった。
しかし、瀬本は、このころから次第に書けなくなっていった。今考えても、その理由はよく分からない。
昭和51年11月1日 発行
「出雲文学」回顧 9 校正畏るべし 瀬本明羅
「出雲文学」第9号。
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「後生畏るべし」ならぬ「校正畏るぺし」。このことは、あらゆる活字出版物に共通した恐ろしさである。
このことが大変なことになってしまった。
小説を初めて発表した「村上馨」氏は、正しくは「村岡馨」氏であった。確かに目次には、「村岡」とあるが、本文にはどうしたことか、「村上」となっていた。
本名山村氏は、この時相当とまどわれたと思う。しかし、意を決して、「じゃ、これからは、村上馨で通します」と仰った。編集担当をしていた瀬本は、大変な見落としをしたわけで、謝ったが後の祭り。
そういう訳で、現在の「村上馨」の名前は、校正ミスの所産であった。氏に対して、深くお詫びする次第である。ハプニングと言ってすませる問題ではなかった。
氏の寛大な心に対して、改めてここで敬意を表します。
詩 神話 春宵花歌 創傷・・・・高橋留理子
ハムスター・・・・・・・大倉正嗣
小説 翔けてゆく少女・・・・村上馨
かの人たち・・・・山本圭子
書評 「雨蛙の呟き」 「いのしし」・・・・長谷川泉
合評会で、「翔けてゆく少女」について、相当な時間をかけて意見を出し合った。記憶によると、あまり肯定的な意見は少なかったが、若々しい感性を支持する意見もあったと思う。ところが、「文芸」の同人誌評を後日見て驚いた。なんと、トップに取り上げられ、しかも2ページにも亘る批評が載っていた。「出雲文学」始まって以来の大事件となった。しかも、問題点になっていた表現の個所がことごとく評価を得ていた。これを読んで、私は、自分の読みの甘さを猛省した。
まさに大物新人の登場ということになったのである。
この時の「文芸」の批評文は、村上氏個人のページに全文が掲載されているので、ご覧頂きたい。このページとリンクしている「座礁」のリンク集に村上氏のページのバナーがあるので、クリックして、ぜひご一読下さい。
そして、瀬本となかむら氏の作品集の書評を、文芸評論家の長谷川泉氏に書いて頂いたことも収穫であった。
「出雲文学」回顧 10 使命感 瀬本明羅
「出雲文学」第10号。
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編集人の瀬本は、後記で次のように述べている。
「書かねばならないという義務感だけが自分をしめつけてくるようになる。・・・しまいには、書くこと自体に対する敵意も頭を擡げ、それまで自分を統べていた書くという行為が内部から総括されるという状況にまでなった。そして、書くという前提でものを見ていたその眼が徐々に変容していったことも事実だ」
「義務感」というか、使命感というか、そういうもので相当のプレッシャーを感じていたのである。同人数は当時13名いたが、作品提出を期待できる人は限られていた。そういう中で、続けて書くことの負担は年々重荷になってきていた。加えて、右手が不自由とあっては、相当の意志がなけねば継続できなかった。
しかし、同人の協力、中でも、若い村上氏の創作意欲の支えがなかったら「10号」は出ていなかった。私は、氏に相当期待していた。
とまれ、「10号」は、質・量ともに一応の到達点を示す記念碑的な号とすることが出来た。
小説 草の色・・・・村上馨
シダの周辺・・・・瀬本明羅
サルビア・・・・金山紀九重
祭壇・・・・布施良一郎
詩 道・・・・高橋留理子
「シダの周辺」は、その年の島根県文学連盟賞を受賞した。
発行 昭和54年9月30日
「出雲文学」回顧 11 休刊 瀬本明羅
「出雲文学」第11号。
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詩 黄色い分布図の時間・・・・金山紀九重
小説 しあわせな女・・・・布施良一郎
雲の城・・・・村上馨
この3作で、この号は発行された。編集人は、村上馨氏である。前号との間隔は次第に次第に広がり、この号を出すのに2年かかっていた。
これは、村上氏の責任ではない。私自体が「書けなく」なっていたことにある。原因は、今振り返ってみると、「強迫観念」ではなかったかと思えてくる。
定例会で、会の代表者を代わってほしい。何も私は会を退くわけではない、とお願いした。
しかし、みんなの意見は、私が代表者を退けば、だれもやるものはいない、瀬本さん、あなたが書かなければ、出雲文学は続けていくことはできない、・・・とにかく書いて下さい、そういう内容だったと記憶している。それでは、自ら退会して下さい、という厳しいお叱りの言葉も出てきたと思う。
私は、答えに窮した。そこで、第12号は、村上さんに編集して頂こう、それまでもう一度じっくり考え直してほしい、という意見が出た。・・・記憶が曖昧なので、そうではなかったかなあと、ぼんやり思い出している。
それから、長い間のブランクが出来た。・・・・私は、もう再び「出雲文学」には戻れないと思った。発起人自らが休刊に追いやった。罪深い男だ。そう思いつづけて、同人諸氏に心の中で謝っていた。
ほんとうにごめんなさい。・・・どう言われても言い訳がたちません。
私は、今まで30年間謝りつづけてきました・・・・。心の中で、復刊させたいものだとは思っていました。
ところが、村上氏のご好意で、「座礁」という名前で復活しました。このご恩は終生忘れません。村上氏に感謝しております。
昔のメンバーに呼びかけたいのですが、今それだけは私に出来ないと思っています。
第11号で休刊(昭和56年)
ウエブ同人誌「座礁」