中国語で唄う姿は初めて見ました。中国で人気があるとは聞いていましたが。中国語で唄ってたの。しかし旨い。私も中国語専攻だけど発音がいい。いろいろあったけど、日本でも活躍してほしいと思います。
酒井法子微笑
アイドル時代
1986年(昭和61年)
4月29日、『Momoco』誌が開催したイベント「'86 モモコ・パーティー」におけるオーディション、『第2回 ミスモモコクラブ』で「ミスVHD賞」を受賞した酒井は、同年11月21日に VHDソフト[注 3] 『YUPPIE』を発売し、本格的にデビューを飾った[16]。VHDソフトを用いたアイドルのデビューは世界初であった。またこの作品では、彼女が初めてレコーディングをした『お願いダーリン』が挿入歌として使用されている。同ソフト内の特撮ドラマ「エイリアンハンターP」の衣装デザインは漫画家の江口寿史が担当している。テレビでは同時期放送開始のTBS系『モモコクラブ』にレギュラー出演し、畠田理恵、白田あゆみと共に番組の中心メンバーとして人気を博す。この時期から酒井は「のりピー」(→ 人物:#「のりピー」を参照)と自称、同時に「のりピー語」を用いるようになった[17]。
1987年(昭和62年)
2月5日、ビクター音楽産業より『男のコになりたい』でアイドル歌手デビューし、オリコンチャート最高6位と幸先のいいスタートを切る。1年間地道に準備活動をしてきたことから、既にテレビ・ラジオのレギュラーも持ち、結成前からファンクラブの予備軍も3000人と、大型アイドルに相応しいデビューとなった[18]。女優先行型アイドルが主流となっていた中で、アイドル歌手としては正攻法で行く正統派であった[19][20]。歌手デビュー同期には我妻佳代、秋山絵美、五十嵐いづみ、石田ひかり、伊藤智恵理、伊藤美紀、小川範子、小沢なつき、工藤静香、後藤久美子、白田あゆみ、立花理佐、統乃さゆみ、中村由真、仁藤優子、畠田理恵、速水昌未、真弓倫子、森高千里、守谷香、ゆうゆ、渡瀬マキ、うしろ髪ひかれ隊、BaBe、パンプキンなどがいる。
2月19日、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』へも第10位に初ランクイン。同じく第9位で『STAR』の浅香唯と二人一緒に当番組へ初出演を果たしている[21][注 4]。以降、1990年までシングル16作連続でオリコン10位圏内にランクインするなど、多くの歌番組、雑誌、テレビ・ラジオ番組、イベントなどに出演する人気アイドルとなる[22]。8月、日比谷野外音楽堂にて開催されたモモコクラブのコンサート「Momoco Party」では、前日まで仕事で地方に居たためヘリコプターと地下鉄を乗り継いで会場へ向かい[23]、島田奈美や杉浦幸、畠田理恵などと共に中心メンバーとして出演した[24]。9月、ファーストソロコンサート「のりピーYUPPIEコンサート」開催。同月、1年間所属したモモコクラブを卒業する。
同年の新人賞レースには数多く参戦し、伊藤智恵理、坂本冬美、立花理佐、仁藤優子、畠田理恵、BaBeなどとの激戦をくり広げた[25]。
1986年から1989年にかけて江崎グリコのCMキャラクターとなり、「ジャイアントカプリコ」のCMではジャイアント馬場と共演。「ポッキー」の本田美奈子や「セシルチョコレート」「アーモンドチョコレート」の南野陽子などと共に、同社の多数の商品のCMに出演した。また、夏の甲子園の応援ポスター(「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーン、1987年、1988年)や日本赤十字社の献血ポスター(1987年、1988年)、郵政省の年賀はがきのポスター(1987年)、消防庁の防火ポスター(1987年度)など、多数の企業・団体・官公庁のキャンペーンガールに起用された。
1988年(昭和63年)
4枚目のシングル『夢冒険』がNHK『アニメ三銃士』の主題歌となった他、第60回選抜高等学校野球大会の入場行進曲となりファン層を広げる。楽曲が甲子園の入場曲となったことはデビュー2年目で酒井が国民的アイドルに成長した印象を与え、"のりピー"の愛称を一段と認知させるきっかけにもなった[26]。5月、自身も出演するライオン・「Ban16」のCMソングとなった6枚目のシングル『1億のスマイル』がオリコン週間チャートで自己最高位の2位となる[27][注 5]。音楽番組『ザ・ベストテン』へも5週連続でランクイン[28]。中森明菜、南野陽子、浅香唯、工藤静香などのトップアイドルと共にランキングを賑わせた。海外からの中継も入るなど露出的に高い楽曲となり、「Ban16」のCMで「ヒャピー、ヒャピー、ヒャピー」と叫ぶ酒井が話題となった[26]。
8月、春のツアーに引き続き夏のコンサートツアー「のりピーYUPPIEコンサート'88」開催。その他大学の学園祭やバブル景気を背景とした地方博覧会などのイベント、各地方テレビ局主催の多くのイベントや公開放送などに出演した。またフジテレビ系『ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会2』に白組トップバッターとして出場。ミス・フォトジェニック賞を受賞し注目を集めた[29]。
10月、ガイナックス制作のアニメ『トップをねらえ!』の主題歌(OP『アクティブ・ハート』・ED『トライAgain…!』)を担当する。
12月、恵比寿に自身のタレントショップ『NORI・P ・HOUSE』オープン。中高生が殺到し、グッズの売り上げは一説では30億円を超えるとも言われた[30]。
オリコンによると、1988年のシングル売上枚数は36.2万枚で22位。女性アイドルでは南野陽子、工藤静香、中森明菜、浅香唯、中山美穂、荻野目洋子、松田聖子に次ぐ記録であった[31]。
1989年(昭和64年/平成元年)
1月1日発売の8枚目のシングル『ホンキをだして』が、1980年代の酒井のシングルでは自己最高のセールスを記録するヒット曲となる。2月、高校卒業と18歳の誕生日を迎えたことを期に「のりピーちゃんを切り離して"酒井法子"として、より素敵な曲を歌っていきたい」と決意表明[32]。デビュー以来酒井の楽曲は一貫して「明るさ」「元気」「ハツラツ」「一生懸命」というコンセプトで作られてきたが、10枚目のシングル『Love Letter』では作詞・作曲に尾崎亜美を起用し、"歌手・酒井法子"にメロウなファクターを与えることで、それまでの"元気で明るい"イメージから路線変更していくこととなる[33]。6月発売のスタジオ・アルバム『Blue Wind/NORIKO Part IV』では作曲家陣に尾崎の他浜田金吾、上田知華、南佳孝、財津和夫らを起用。ミディアムやスローなナンバーでは歌手として大人の落ち着きを見せるようになっていく[34]。
女優への挑戦
1990年、NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』レギュラー出演。歌手としてだけでなく、女優にも挑戦。山村美紗原作『舞妓さんは名探偵!』シリーズでは愛くるしいヒロインを演じた[35]。また、舞台・ミュージカルにも出演し、確実に芸の幅を広げていく[36]。
1990年3月21日発売のベスト・アルバム『Singles 〜NORIKO BEST〜』でシングル、アルバムを通じて初のオリコンチャート首位を獲得。それまでの最高売上であった4thアルバム『Lovely Times』を上回る、最も高いアルバムセールスを記録した[37]。
中国語圏での人気
酒井が「ずっとのりピー路線でやっていくのは限界があるな」と感じていた頃、転機となるアジア進出のオファーが到来する[11]。1992年当時、日本の芸能界が目を向けていなかった台湾での活動を始め、香港、中国本土など、中国語圏各地においても、日本での評価以上の人気と知名度を獲得。中国語歌唱による楽曲も発表した。当時の所属事務所社長・相澤秀禎は、酒井のアジア進出の経緯について次のように語っている。
ところが、日本人のタレントが向こうで活躍したというケースがほとんどなかった。歌としては、たとえば谷村新司の『昴』であるとか、千昌夫の『北国の春』などが流行しているが、歌手の名前は知られていないことがほとんどだ。そこで私は、アジアの時代に向けて日本のタレントを向こうで売り出そうとしたのだ。その第一号が酒井法子である。そもそも、五年ほど前、台湾のプロダクションから日本のタレントの中で酒井法子がとても人気があり、ぜひ、台湾に来てくれないかという話があった。当初は、日本で売れているのに、なぜ台湾まで行くのか、スタッフの中には疑問を持つものもいたようだ。でも私は、「これからは絶対にアジアの時代になる」とこの話に乗ったのである。
— 相澤秀禎、『人気づくりの法則』[38]
1992年(平成4年)5月には初めての海外公演として台北市でのコンサートを成功させた[注 6]。当時平均初任給が役12万円の台湾で、7000円の高額チケットが発売と同時に完売。海賊版のCDや写真集も飛ぶような売れ行きとなる人気だった[39]。現地のテレビ番組やCMにも出演し、日本人アイドルの人気投票でも3年連続で1位となる。同年10月31日と11月1日、夏のコンサート・ツアー『マンモス』のファイナル2公演を同市にて開催し、2日間で隣で開催されていたプロ野球台湾シリーズの動員数1万4千人を上回る3万人の観客が集まった[40]。こうした現地での高い人気から、日本のマスメディアは酒井を"アジアの歌姫"と呼んだ[41]。
遡って台湾での初コンサートを開く前、事務所スタッフから「台湾で人気が高まっている」と言われても、本人はピンと来なかった[9]。しかし台湾の空港に着くとものすごい数の報道陣が花束を持って押し寄せたことで、驚きと共に人気を実感した[9]。当時は数年前から日本の歌番組のランキングでベスト10入りしても、翌週はランク外になって悔し泣きをするということが多かった[9]。そのような状況の中、台湾ではライブ会場いっぱいのファンが熱狂的に盛り上がり、中国語で名前を呼ばれるなど、台湾のファンの熱い声援は本人にとって大きな自信を与えた[9]。
1994年、アルバム『微笑』で中国本土の音楽市場に参入する[42]。同時期に酒井の所属するレコード会社、ビクターの系列であった松下電器の中国・台湾でのCMキャラクターとなり、シングル『夢冒険』[注 7]がCMソングとして使用された。酒井の出演した『ひとつ屋根の下』『星の金貨』などのドラマも中国語の吹き替えで放送されて絶大な人気を得た[43]。
1998年には、中国の中国唱片社が発行する音楽情報誌『音像世界』5月号に掲載された同年3月分のランキングで1位に登場し、同誌6月号では表紙を飾った[44]。
1990年リリースのシングル『微笑みを見つけた』を中国の標準語(普通話)による歌詞でセルフカバーしている(タイトルは「微笑」)。広東語バージョンは黎瑞恩の歌による「你知我想說甚麼」。
女優・歌手としての活躍
1993年、脚本家の野島伸司に引き立てられ、出演したドラマ 『ひとつ屋根の下』(フジテレビ系)が最高視聴率37.8%[注 8]を記録する大ヒット作となる。1994年、『出逢った頃の君でいて』(日本テレビ系)では不倫OL役を演じる。ゴールデンタイムで主役クラスを続けて演じて話題となり、1995年の主演ドラマ『星の金貨』(日本テレビ系)も最高視聴率23.9%と立て続けにヒットする。同ドラマの主題歌となったシングルCD『碧いうさぎ』は自身初のミリオンセラーの大ヒット曲となり、デビュー9年目にして初めて 『第46回NHK紅白歌合戦』(1995年)に出場した。ドラマでの役柄に合わせて、酒井はこの楽曲を、NHK紅白歌合戦史上初めて、日本手話を交えて歌った。デビュー9年目にして大ブレイクし、"新・視聴率女王"と称され、また1990年代の「女性アイドル冬の時代」において凋落していく元アイドルが多かった中で、アイドル性を保ちながらも女優・歌手として大ヒットを飛ばしたことから、"今世紀最後のアイドル"とも称された[41][注 9]。
1996年(平成8年)3月には、個人事務所 「エヌ・コーポレーション」(東京・南青山)設立、継母と共に取締役に就任した。同年、『続・星の金貨』(日本テレビ系)にも引き続き主演を務め、最高視聴率26.4%を記録。ドラマ主題歌のシングルCD『鏡のドレス』もヒット作となった。
その後、結婚・出産を経た酒井は、育児と女優活動を両立、2003年(平成15年)には、伊藤忠商事とサンミュージックが設立した洋服ブランド、『ピーピーリコリノ (PP rikorino)』のプロデュースを始める[46]。さらに、日中文化スポーツ交流年(2007年)・文化親善大使となって、様々なイベントに参加し、当時の内閣総理大臣・安倍晋三とも面会[47]、また、最高裁判所制作による、裁判員制度のPR映画『審理』(2008年)に主演するなど、芸能人としてのステータスを高めていた。
覚醒剤の所持及び使用事件とその後
2009年(平成21年)、覚醒剤を所持・使用し、逃亡を計り、当時の夫である高相と共に、覚せい剤取締法違反で東京地方裁判所から懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。
押尾学事件が発覚直後に起きたこの事件では、テレビ局が報道特別番組を放送[注 10]、警察庁長官が事件に言及するなど[48]、世間の注目を大いに集めた。また、酒井は事件前、同年に始まった「裁判員制度」紹介のための広報映画『審理』(最高裁判所制作)に主演(#映画)するなど[49] していた。
事件の経過
酒井の逮捕
8月3日、夫が東京都渋谷区道玄坂の路上で覚醒剤を隠し持っていたところを現行犯逮捕される[50]。酒井も警視庁渋谷警察署から任意同行を求められたが、「子供がいるので、後で行きます」と署員に告げ、知人男性の車で現場から立ち去る。その後、都内の別の知人に長男を預け、行方不明となった[51]。現場を離れた後、新宿区と中央区のホテルに宿泊[52]。現金数十万円を都内のコンビニのATMで引き出し、身の回りの品を都内の量販店などで買い揃えた後[53]、8日夜に警視庁に出頭するまでの6日間、知人の会社会長から運転手付きの車を借りて、継母と2人で山梨県身延町の継母の妹宅や、会長や親族が所有する東京都東大和市のマンションと神奈川県箱根の別荘に宿泊していた[54]。
8月7日、夫が酒井の覚せい剤使用を供述。警察は酒井の自宅から微量の覚醒剤(8マイクログラム)と酒井の唾液が付着した吸引具を発見、覚せい剤取締法違反(所持)容疑で酒井への逮捕状を取った[55]。その翌日の8月8日、酒井は東京・文京区の警視庁富坂分庁舎に出頭し、逮捕された[51]。
8月28日、検察は覚せい剤取締法違反(所持)で酒井を起訴、それを受けてサンミュージックは酒井とのマネジメント契約を解除、所属レコード会社のビクターエンタテインメント(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)も酒井との契約を解除した[54]。その後、酒井は事件前、滞在先の奄美大島のホテルで覚醒剤を吸引していたことも判明[注 11]、覚せい剤取締法違反(使用)で追起訴されている[56]。
同年9月17日、保釈保証金 500万円を納付し、それまで勾留されていた東京湾岸警察署から保釈された酒井は、警察署の玄関前で謝罪、さらに同日、東京都内において記者会見を行った[57]。
裁判と事件の影響
酒井は同年10月26日に東京地方裁判所で始まった刑事裁判で起訴事実を認め、「離婚をして、お互いに更生する努力が必要」、「介護を学び、仕事で生かしたい」などと述べた[58]。中国のインターネット上では「永遠に酒井法子を支持する」などの書き込みも目立ち、国外での根強い人気をうかがわせた[58]。この公判は世間の関心を集め、裁判傍聴の抽選には20席の傍聴席に対して6,615人が参加した。330倍の倍率は日本の刑事裁判史上最高で、抽選に集まった人々の人数もオウム事件の麻原彰晃に次ぐ多さである[59]。11月9日、酒井は懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受け[60]、検察側・弁護側とも控訴せず刑が確定した。
なお、この事件では興味本位での報道が過熱したため、放送倫理・番組向上機構が警告を行った[61]。
事件後
2010年(平成22年)12月18日及び25日放送のTBS系『情報7days ニュースキャスター』にVTR出演。12月3日に発売した自叙伝『贖罪』(朝日新聞出版、2010年)のPRで、本と同様、事件当時の胸中を振り返る内容になった。18日放送分は酒井にとって逮捕後初のテレビ出演となった。
2011年、中国禁毒大使のキャンペーンとして、中国に招聘され、イベントに出席した。
2012年11月の復帰時に、事件の際に前所属事務所サンミュージックが、約5億円の損害賠償を肩代わりしたことが明らかになった[62]。
復帰後の活動
2012年9月27日に、12月から上演される舞台に主演することが発表[63]。役柄は信長の妹お市を演じることとなった[64]。同年11月23日に執行猶予期間終了。翌24日に復帰会見を行った[65]。
2013年1月、中国ネットサイトの年度文化、ファンション賞「アジア最注目女優大賞」。5月29日には23日に病没した先代社長・相澤秀禎の告別式にも参列。「出来の悪い不良娘で申し訳ありません」と霊前に詫びた。
2013年10月、『さんまのまんま』(関西テレビ)にゲスト出演し、バラエティ番組にも復帰。
2014年、今井雅之の舞台『手をつないでかえろうよ〜シャングリラの向こうで〜』に出演予定だったが、所属事務所オフィスニグンニイバが直前の1月16日になって辞退を申し入れる。代役は高橋明日香[66]。
2016年9月22日、16年ぶりの正式なコンサート『酒井法子30th ANNIVERSARY コンサート』を開催[67]し、2017年2月14日には、26年ぶりのバースデーイベント『酒井法子 30th ANNIVERSARY FINAL ?BIRTHDAY & VALENTINEファンミーティング-』を開催した[68]。
2017年10月には、5年ぶりの主演舞台『うんちゃん2』に出演[69][70]。
2018年1月20日、18年ぶりの香港単独コンサート『Welcome Back! Sakai Noriko Live in Hong Kong』を開催。
2018年7月18日、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団の「子どもの健全育成大使」に任命された[71]。
2019年3月15-16日、海外初めてのディナーショー 『酒井法子 ディナーショー ~台湾ツアー~』を開催。
2019年7月13日、『「Miss you」 酒井法子 香港ミュージックシェアリングライブ2019』を開催。
2021年2月5日公開の『空蝉の森』に主演[72]。女優復帰してから初めての映画作品で、映画主演は2008年の裁判員制度PR映画『審理』以来13年ぶり[72]。2014年に撮影され、2015年に公開予定だったが、公開前に製作会社「ニューウェーブ」が倒産し、お蔵入りの危機を乗り越えての公開となった[72]。
2021年4月30日、所属事務所オフィスニグンニイバを退所[7]。個人事務所「株式会社スマイル」を設立[7]。
人物
「のりピー」
デビュー当時、酒井のニックネームは、中学校時代からの渾名と同じ「のりっぺ」であり、「のりピー(のりピーちゃん)」は、自身がイラストで描くキャラクターの名称であった。1986年3月19日に開催された業界関係者の会合「第一回のりピー族会議」で、酒井の愛称を『のりピー』とすることが正式決定される[14]。当初は酒井の一人称が「のりっぺ」、他人が酒井を呼ぶ場合は「のりピー」という使い分けがなされていたが[73]、程なくして混同されるようになり、酒井自身が『のりピー』を自称するようになる。また、「やっピー」「うれピー」「マンモスラッチー」等、酒井の独特の言葉遣いを『のりピー語[注 12]』と称した[74]。その軽い語感から当時の中高生を中心に流行した[30]。のりピー語は酒井自身デビュー前から使っていた言葉が最初で、そこから自然派生していったものということで、売れっ子ばかりの芸能界の中で何か目立たなきゃいけないということで色んな言葉を作っていったという[75]。当時の事務所社長・相澤秀禎は、「のりピー語」が、酒井を売り出すための戦略だった事を明かしている。
酒井法子は売り出しのテクニックとしては面白い現象だと思うんです。いわば遊び感覚でアイドルになった例です。彼女をどうやって売り出していくかという時に、初めはパソコン少年を対象として「のりピー」という愛称を浸透させ、さらに「のりピー語」を作ったり、「のりピーマン」というキャラクターを作ったりと、遊び感覚でいきながら、歌も歌えるし、芝居もできて、漫画も描けるというマルチタレントで売り出していったんです。
— 相澤秀禎、『増補 アイドル工学』 第2章 アイドルが語る時代[76]
のりピー語については後年、「20歳を越えた頃から似つかわしくないと思うようになった」と本人が語っている。
『ザ・ベストテン』(TBS)では酒井直筆の歌詞がそのままテロップになって表示されたこともあって「変体少女文字を書く新人類」と言われたこともあった[11]。
1991年から1992年にかけて「のりピーハウス・レーシングチーム」というチーム名でN1耐久レース(現在のスーパー耐久)にも参加。チーム監督として酒井が着任し、レース車両(日産・パルサー、ホンダ・シビック)のデザインも自ら行った[77]。のりピー語と同様に酒井のプロモーション戦略の一環であったが、2000万円程の費用が生じたという[78]。
「のりピーちゃん」
アイドル時代、酒井の活動は多岐に渡り、芸能活動のほかにイラストレーター・漫画家(ペンネームは平仮名の“さかい のりこ”)としても活動した。中学2年の時に酒井の落書きの中で誕生したというキャラクター『のりピーちゃん[注 13]』は日本自動車工業会の交通安全ポスターに使われた他[79]、1988年5月から小学館の少女漫画雑誌『週刊少女コミック』に酒井自身の執筆により4コマ漫画として連載され[80]、単行本化[81]やアスミックよりOVA化もされた。"のりピーちゃん"のマンガは雑誌の連載前から酒井のファンクラブ"のりピー族"の会報の中で既に掲載されてファンからは大きな反響となっており、そのキャラクターに注目した小学館からマンガ連載の打診が来た際、サンミュージックのプロモート事業部部長、相澤正久(現・会長)は次のように語ったという。
法子は歌手であるが、それ以上にタレントとして育てていかないと、いつか、必ず限界にきてしまう。アイドルを育てにくくなりつつある現在、他のアイドルより目立たせるには、法子のキャラクターを前面に出して話題を提供していくしかない。その上で、歌のヒットを考えていくのが、最もベストな形なのかもしれない。だとしたら、今は、絶対に"のりピーちゃん"をプロモート戦略の第一に考える必要がある。できれば、"のりピーちゃん"が社会現象になるような展開をしていきたい。それが、結果的に法子にはねかえってくるはずだ。
— 相澤正久、『ORICON NO.1物語 Singles 酒井法子』 第三章「のりピー音頭」の誕生[82]
その『のりピーちゃん』のキャラクターグッズは直営ショップ 「NORI・P ・HOUSE」[注 14]で販売されて人気を博し、当時のタレントショップブームの一翼を担った。1988年7月、富士山の8合目(標高3300m)の山小屋にグッズ店「のりピーちゃんハウス」を開店。「日本一標高の高いタレントショップ」として話題となった[83][84]。1988年7月6日には「のりピー」名義で企画シングル『のりピー音頭』[注 15]もリリース。同年8月には東京・大阪・名古屋で「全日本のりピー音頭カーニバル」というイベントも行われた[85]。これらの一連の活動は酒井の"のりピー"という愛称を一段と認知させ、ローティーン以下のファン層を拡大することに繋がり、"のりピーちゃん"も一種の社会的ブームとなった[86]。
1989年9月に来日したシンディ・ローパーと対談した際は、「のりピーマン」や富士山をモチーフにした「ふじピーマン」人形などの自身のグッズをプレゼントした。1991年には5合目の山小屋に富士山2号店がオープンしている。
こうした事務所の売り込み戦略について、酒井は次のように語っている。
正統派のアイドルとは違っていても、具体的な戦略を提示されたのはありがたかった。ひと言で言えば、それは「変化球」で勝負すること。
わたしが小さいときに夢見ていたアイドルたちは、歌とか、容姿とか、女の子が憧れる要素を武器にして売り出し、成功を収めてきた。そういった「直球」では勝負できないから、わたしの場合には人と何か違った「変化球」でアピールするしかない。アイドルの王道とは異なる変化球を一つ、また一つと考えて投げ込んでいくことによって、ここにのりピーがいるぞという存在感を出していく。それがわたしたちの戦略だった。そう教わって、納得もして、斬新で突拍子もないアイデアを実践することに夢中になってのめり込んでいった。
— 酒井法子、『贖罪』 第四章 萌芽[87] (Wikipediaより)
酒井法子微笑
アイドル時代
1986年(昭和61年)
4月29日、『Momoco』誌が開催したイベント「'86 モモコ・パーティー」におけるオーディション、『第2回 ミスモモコクラブ』で「ミスVHD賞」を受賞した酒井は、同年11月21日に VHDソフト[注 3] 『YUPPIE』を発売し、本格的にデビューを飾った[16]。VHDソフトを用いたアイドルのデビューは世界初であった。またこの作品では、彼女が初めてレコーディングをした『お願いダーリン』が挿入歌として使用されている。同ソフト内の特撮ドラマ「エイリアンハンターP」の衣装デザインは漫画家の江口寿史が担当している。テレビでは同時期放送開始のTBS系『モモコクラブ』にレギュラー出演し、畠田理恵、白田あゆみと共に番組の中心メンバーとして人気を博す。この時期から酒井は「のりピー」(→ 人物:#「のりピー」を参照)と自称、同時に「のりピー語」を用いるようになった[17]。
1987年(昭和62年)
2月5日、ビクター音楽産業より『男のコになりたい』でアイドル歌手デビューし、オリコンチャート最高6位と幸先のいいスタートを切る。1年間地道に準備活動をしてきたことから、既にテレビ・ラジオのレギュラーも持ち、結成前からファンクラブの予備軍も3000人と、大型アイドルに相応しいデビューとなった[18]。女優先行型アイドルが主流となっていた中で、アイドル歌手としては正攻法で行く正統派であった[19][20]。歌手デビュー同期には我妻佳代、秋山絵美、五十嵐いづみ、石田ひかり、伊藤智恵理、伊藤美紀、小川範子、小沢なつき、工藤静香、後藤久美子、白田あゆみ、立花理佐、統乃さゆみ、中村由真、仁藤優子、畠田理恵、速水昌未、真弓倫子、森高千里、守谷香、ゆうゆ、渡瀬マキ、うしろ髪ひかれ隊、BaBe、パンプキンなどがいる。
2月19日、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』へも第10位に初ランクイン。同じく第9位で『STAR』の浅香唯と二人一緒に当番組へ初出演を果たしている[21][注 4]。以降、1990年までシングル16作連続でオリコン10位圏内にランクインするなど、多くの歌番組、雑誌、テレビ・ラジオ番組、イベントなどに出演する人気アイドルとなる[22]。8月、日比谷野外音楽堂にて開催されたモモコクラブのコンサート「Momoco Party」では、前日まで仕事で地方に居たためヘリコプターと地下鉄を乗り継いで会場へ向かい[23]、島田奈美や杉浦幸、畠田理恵などと共に中心メンバーとして出演した[24]。9月、ファーストソロコンサート「のりピーYUPPIEコンサート」開催。同月、1年間所属したモモコクラブを卒業する。
同年の新人賞レースには数多く参戦し、伊藤智恵理、坂本冬美、立花理佐、仁藤優子、畠田理恵、BaBeなどとの激戦をくり広げた[25]。
1986年から1989年にかけて江崎グリコのCMキャラクターとなり、「ジャイアントカプリコ」のCMではジャイアント馬場と共演。「ポッキー」の本田美奈子や「セシルチョコレート」「アーモンドチョコレート」の南野陽子などと共に、同社の多数の商品のCMに出演した。また、夏の甲子園の応援ポスター(「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーン、1987年、1988年)や日本赤十字社の献血ポスター(1987年、1988年)、郵政省の年賀はがきのポスター(1987年)、消防庁の防火ポスター(1987年度)など、多数の企業・団体・官公庁のキャンペーンガールに起用された。
1988年(昭和63年)
4枚目のシングル『夢冒険』がNHK『アニメ三銃士』の主題歌となった他、第60回選抜高等学校野球大会の入場行進曲となりファン層を広げる。楽曲が甲子園の入場曲となったことはデビュー2年目で酒井が国民的アイドルに成長した印象を与え、"のりピー"の愛称を一段と認知させるきっかけにもなった[26]。5月、自身も出演するライオン・「Ban16」のCMソングとなった6枚目のシングル『1億のスマイル』がオリコン週間チャートで自己最高位の2位となる[27][注 5]。音楽番組『ザ・ベストテン』へも5週連続でランクイン[28]。中森明菜、南野陽子、浅香唯、工藤静香などのトップアイドルと共にランキングを賑わせた。海外からの中継も入るなど露出的に高い楽曲となり、「Ban16」のCMで「ヒャピー、ヒャピー、ヒャピー」と叫ぶ酒井が話題となった[26]。
8月、春のツアーに引き続き夏のコンサートツアー「のりピーYUPPIEコンサート'88」開催。その他大学の学園祭やバブル景気を背景とした地方博覧会などのイベント、各地方テレビ局主催の多くのイベントや公開放送などに出演した。またフジテレビ系『ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会2』に白組トップバッターとして出場。ミス・フォトジェニック賞を受賞し注目を集めた[29]。
10月、ガイナックス制作のアニメ『トップをねらえ!』の主題歌(OP『アクティブ・ハート』・ED『トライAgain…!』)を担当する。
12月、恵比寿に自身のタレントショップ『NORI・P ・HOUSE』オープン。中高生が殺到し、グッズの売り上げは一説では30億円を超えるとも言われた[30]。
オリコンによると、1988年のシングル売上枚数は36.2万枚で22位。女性アイドルでは南野陽子、工藤静香、中森明菜、浅香唯、中山美穂、荻野目洋子、松田聖子に次ぐ記録であった[31]。
1989年(昭和64年/平成元年)
1月1日発売の8枚目のシングル『ホンキをだして』が、1980年代の酒井のシングルでは自己最高のセールスを記録するヒット曲となる。2月、高校卒業と18歳の誕生日を迎えたことを期に「のりピーちゃんを切り離して"酒井法子"として、より素敵な曲を歌っていきたい」と決意表明[32]。デビュー以来酒井の楽曲は一貫して「明るさ」「元気」「ハツラツ」「一生懸命」というコンセプトで作られてきたが、10枚目のシングル『Love Letter』では作詞・作曲に尾崎亜美を起用し、"歌手・酒井法子"にメロウなファクターを与えることで、それまでの"元気で明るい"イメージから路線変更していくこととなる[33]。6月発売のスタジオ・アルバム『Blue Wind/NORIKO Part IV』では作曲家陣に尾崎の他浜田金吾、上田知華、南佳孝、財津和夫らを起用。ミディアムやスローなナンバーでは歌手として大人の落ち着きを見せるようになっていく[34]。
女優への挑戦
1990年、NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』レギュラー出演。歌手としてだけでなく、女優にも挑戦。山村美紗原作『舞妓さんは名探偵!』シリーズでは愛くるしいヒロインを演じた[35]。また、舞台・ミュージカルにも出演し、確実に芸の幅を広げていく[36]。
1990年3月21日発売のベスト・アルバム『Singles 〜NORIKO BEST〜』でシングル、アルバムを通じて初のオリコンチャート首位を獲得。それまでの最高売上であった4thアルバム『Lovely Times』を上回る、最も高いアルバムセールスを記録した[37]。
中国語圏での人気
酒井が「ずっとのりピー路線でやっていくのは限界があるな」と感じていた頃、転機となるアジア進出のオファーが到来する[11]。1992年当時、日本の芸能界が目を向けていなかった台湾での活動を始め、香港、中国本土など、中国語圏各地においても、日本での評価以上の人気と知名度を獲得。中国語歌唱による楽曲も発表した。当時の所属事務所社長・相澤秀禎は、酒井のアジア進出の経緯について次のように語っている。
ところが、日本人のタレントが向こうで活躍したというケースがほとんどなかった。歌としては、たとえば谷村新司の『昴』であるとか、千昌夫の『北国の春』などが流行しているが、歌手の名前は知られていないことがほとんどだ。そこで私は、アジアの時代に向けて日本のタレントを向こうで売り出そうとしたのだ。その第一号が酒井法子である。そもそも、五年ほど前、台湾のプロダクションから日本のタレントの中で酒井法子がとても人気があり、ぜひ、台湾に来てくれないかという話があった。当初は、日本で売れているのに、なぜ台湾まで行くのか、スタッフの中には疑問を持つものもいたようだ。でも私は、「これからは絶対にアジアの時代になる」とこの話に乗ったのである。
— 相澤秀禎、『人気づくりの法則』[38]
1992年(平成4年)5月には初めての海外公演として台北市でのコンサートを成功させた[注 6]。当時平均初任給が役12万円の台湾で、7000円の高額チケットが発売と同時に完売。海賊版のCDや写真集も飛ぶような売れ行きとなる人気だった[39]。現地のテレビ番組やCMにも出演し、日本人アイドルの人気投票でも3年連続で1位となる。同年10月31日と11月1日、夏のコンサート・ツアー『マンモス』のファイナル2公演を同市にて開催し、2日間で隣で開催されていたプロ野球台湾シリーズの動員数1万4千人を上回る3万人の観客が集まった[40]。こうした現地での高い人気から、日本のマスメディアは酒井を"アジアの歌姫"と呼んだ[41]。
遡って台湾での初コンサートを開く前、事務所スタッフから「台湾で人気が高まっている」と言われても、本人はピンと来なかった[9]。しかし台湾の空港に着くとものすごい数の報道陣が花束を持って押し寄せたことで、驚きと共に人気を実感した[9]。当時は数年前から日本の歌番組のランキングでベスト10入りしても、翌週はランク外になって悔し泣きをするということが多かった[9]。そのような状況の中、台湾ではライブ会場いっぱいのファンが熱狂的に盛り上がり、中国語で名前を呼ばれるなど、台湾のファンの熱い声援は本人にとって大きな自信を与えた[9]。
1994年、アルバム『微笑』で中国本土の音楽市場に参入する[42]。同時期に酒井の所属するレコード会社、ビクターの系列であった松下電器の中国・台湾でのCMキャラクターとなり、シングル『夢冒険』[注 7]がCMソングとして使用された。酒井の出演した『ひとつ屋根の下』『星の金貨』などのドラマも中国語の吹き替えで放送されて絶大な人気を得た[43]。
1998年には、中国の中国唱片社が発行する音楽情報誌『音像世界』5月号に掲載された同年3月分のランキングで1位に登場し、同誌6月号では表紙を飾った[44]。
1990年リリースのシングル『微笑みを見つけた』を中国の標準語(普通話)による歌詞でセルフカバーしている(タイトルは「微笑」)。広東語バージョンは黎瑞恩の歌による「你知我想說甚麼」。
女優・歌手としての活躍
1993年、脚本家の野島伸司に引き立てられ、出演したドラマ 『ひとつ屋根の下』(フジテレビ系)が最高視聴率37.8%[注 8]を記録する大ヒット作となる。1994年、『出逢った頃の君でいて』(日本テレビ系)では不倫OL役を演じる。ゴールデンタイムで主役クラスを続けて演じて話題となり、1995年の主演ドラマ『星の金貨』(日本テレビ系)も最高視聴率23.9%と立て続けにヒットする。同ドラマの主題歌となったシングルCD『碧いうさぎ』は自身初のミリオンセラーの大ヒット曲となり、デビュー9年目にして初めて 『第46回NHK紅白歌合戦』(1995年)に出場した。ドラマでの役柄に合わせて、酒井はこの楽曲を、NHK紅白歌合戦史上初めて、日本手話を交えて歌った。デビュー9年目にして大ブレイクし、"新・視聴率女王"と称され、また1990年代の「女性アイドル冬の時代」において凋落していく元アイドルが多かった中で、アイドル性を保ちながらも女優・歌手として大ヒットを飛ばしたことから、"今世紀最後のアイドル"とも称された[41][注 9]。
1996年(平成8年)3月には、個人事務所 「エヌ・コーポレーション」(東京・南青山)設立、継母と共に取締役に就任した。同年、『続・星の金貨』(日本テレビ系)にも引き続き主演を務め、最高視聴率26.4%を記録。ドラマ主題歌のシングルCD『鏡のドレス』もヒット作となった。
その後、結婚・出産を経た酒井は、育児と女優活動を両立、2003年(平成15年)には、伊藤忠商事とサンミュージックが設立した洋服ブランド、『ピーピーリコリノ (PP rikorino)』のプロデュースを始める[46]。さらに、日中文化スポーツ交流年(2007年)・文化親善大使となって、様々なイベントに参加し、当時の内閣総理大臣・安倍晋三とも面会[47]、また、最高裁判所制作による、裁判員制度のPR映画『審理』(2008年)に主演するなど、芸能人としてのステータスを高めていた。
覚醒剤の所持及び使用事件とその後
2009年(平成21年)、覚醒剤を所持・使用し、逃亡を計り、当時の夫である高相と共に、覚せい剤取締法違反で東京地方裁判所から懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。
押尾学事件が発覚直後に起きたこの事件では、テレビ局が報道特別番組を放送[注 10]、警察庁長官が事件に言及するなど[48]、世間の注目を大いに集めた。また、酒井は事件前、同年に始まった「裁判員制度」紹介のための広報映画『審理』(最高裁判所制作)に主演(#映画)するなど[49] していた。
事件の経過
酒井の逮捕
8月3日、夫が東京都渋谷区道玄坂の路上で覚醒剤を隠し持っていたところを現行犯逮捕される[50]。酒井も警視庁渋谷警察署から任意同行を求められたが、「子供がいるので、後で行きます」と署員に告げ、知人男性の車で現場から立ち去る。その後、都内の別の知人に長男を預け、行方不明となった[51]。現場を離れた後、新宿区と中央区のホテルに宿泊[52]。現金数十万円を都内のコンビニのATMで引き出し、身の回りの品を都内の量販店などで買い揃えた後[53]、8日夜に警視庁に出頭するまでの6日間、知人の会社会長から運転手付きの車を借りて、継母と2人で山梨県身延町の継母の妹宅や、会長や親族が所有する東京都東大和市のマンションと神奈川県箱根の別荘に宿泊していた[54]。
8月7日、夫が酒井の覚せい剤使用を供述。警察は酒井の自宅から微量の覚醒剤(8マイクログラム)と酒井の唾液が付着した吸引具を発見、覚せい剤取締法違反(所持)容疑で酒井への逮捕状を取った[55]。その翌日の8月8日、酒井は東京・文京区の警視庁富坂分庁舎に出頭し、逮捕された[51]。
8月28日、検察は覚せい剤取締法違反(所持)で酒井を起訴、それを受けてサンミュージックは酒井とのマネジメント契約を解除、所属レコード会社のビクターエンタテインメント(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)も酒井との契約を解除した[54]。その後、酒井は事件前、滞在先の奄美大島のホテルで覚醒剤を吸引していたことも判明[注 11]、覚せい剤取締法違反(使用)で追起訴されている[56]。
同年9月17日、保釈保証金 500万円を納付し、それまで勾留されていた東京湾岸警察署から保釈された酒井は、警察署の玄関前で謝罪、さらに同日、東京都内において記者会見を行った[57]。
裁判と事件の影響
酒井は同年10月26日に東京地方裁判所で始まった刑事裁判で起訴事実を認め、「離婚をして、お互いに更生する努力が必要」、「介護を学び、仕事で生かしたい」などと述べた[58]。中国のインターネット上では「永遠に酒井法子を支持する」などの書き込みも目立ち、国外での根強い人気をうかがわせた[58]。この公判は世間の関心を集め、裁判傍聴の抽選には20席の傍聴席に対して6,615人が参加した。330倍の倍率は日本の刑事裁判史上最高で、抽選に集まった人々の人数もオウム事件の麻原彰晃に次ぐ多さである[59]。11月9日、酒井は懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受け[60]、検察側・弁護側とも控訴せず刑が確定した。
なお、この事件では興味本位での報道が過熱したため、放送倫理・番組向上機構が警告を行った[61]。
事件後
2010年(平成22年)12月18日及び25日放送のTBS系『情報7days ニュースキャスター』にVTR出演。12月3日に発売した自叙伝『贖罪』(朝日新聞出版、2010年)のPRで、本と同様、事件当時の胸中を振り返る内容になった。18日放送分は酒井にとって逮捕後初のテレビ出演となった。
2011年、中国禁毒大使のキャンペーンとして、中国に招聘され、イベントに出席した。
2012年11月の復帰時に、事件の際に前所属事務所サンミュージックが、約5億円の損害賠償を肩代わりしたことが明らかになった[62]。
復帰後の活動
2012年9月27日に、12月から上演される舞台に主演することが発表[63]。役柄は信長の妹お市を演じることとなった[64]。同年11月23日に執行猶予期間終了。翌24日に復帰会見を行った[65]。
2013年1月、中国ネットサイトの年度文化、ファンション賞「アジア最注目女優大賞」。5月29日には23日に病没した先代社長・相澤秀禎の告別式にも参列。「出来の悪い不良娘で申し訳ありません」と霊前に詫びた。
2013年10月、『さんまのまんま』(関西テレビ)にゲスト出演し、バラエティ番組にも復帰。
2014年、今井雅之の舞台『手をつないでかえろうよ〜シャングリラの向こうで〜』に出演予定だったが、所属事務所オフィスニグンニイバが直前の1月16日になって辞退を申し入れる。代役は高橋明日香[66]。
2016年9月22日、16年ぶりの正式なコンサート『酒井法子30th ANNIVERSARY コンサート』を開催[67]し、2017年2月14日には、26年ぶりのバースデーイベント『酒井法子 30th ANNIVERSARY FINAL ?BIRTHDAY & VALENTINEファンミーティング-』を開催した[68]。
2017年10月には、5年ぶりの主演舞台『うんちゃん2』に出演[69][70]。
2018年1月20日、18年ぶりの香港単独コンサート『Welcome Back! Sakai Noriko Live in Hong Kong』を開催。
2018年7月18日、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団の「子どもの健全育成大使」に任命された[71]。
2019年3月15-16日、海外初めてのディナーショー 『酒井法子 ディナーショー ~台湾ツアー~』を開催。
2019年7月13日、『「Miss you」 酒井法子 香港ミュージックシェアリングライブ2019』を開催。
2021年2月5日公開の『空蝉の森』に主演[72]。女優復帰してから初めての映画作品で、映画主演は2008年の裁判員制度PR映画『審理』以来13年ぶり[72]。2014年に撮影され、2015年に公開予定だったが、公開前に製作会社「ニューウェーブ」が倒産し、お蔵入りの危機を乗り越えての公開となった[72]。
2021年4月30日、所属事務所オフィスニグンニイバを退所[7]。個人事務所「株式会社スマイル」を設立[7]。
人物
「のりピー」
デビュー当時、酒井のニックネームは、中学校時代からの渾名と同じ「のりっぺ」であり、「のりピー(のりピーちゃん)」は、自身がイラストで描くキャラクターの名称であった。1986年3月19日に開催された業界関係者の会合「第一回のりピー族会議」で、酒井の愛称を『のりピー』とすることが正式決定される[14]。当初は酒井の一人称が「のりっぺ」、他人が酒井を呼ぶ場合は「のりピー」という使い分けがなされていたが[73]、程なくして混同されるようになり、酒井自身が『のりピー』を自称するようになる。また、「やっピー」「うれピー」「マンモスラッチー」等、酒井の独特の言葉遣いを『のりピー語[注 12]』と称した[74]。その軽い語感から当時の中高生を中心に流行した[30]。のりピー語は酒井自身デビュー前から使っていた言葉が最初で、そこから自然派生していったものということで、売れっ子ばかりの芸能界の中で何か目立たなきゃいけないということで色んな言葉を作っていったという[75]。当時の事務所社長・相澤秀禎は、「のりピー語」が、酒井を売り出すための戦略だった事を明かしている。
酒井法子は売り出しのテクニックとしては面白い現象だと思うんです。いわば遊び感覚でアイドルになった例です。彼女をどうやって売り出していくかという時に、初めはパソコン少年を対象として「のりピー」という愛称を浸透させ、さらに「のりピー語」を作ったり、「のりピーマン」というキャラクターを作ったりと、遊び感覚でいきながら、歌も歌えるし、芝居もできて、漫画も描けるというマルチタレントで売り出していったんです。
— 相澤秀禎、『増補 アイドル工学』 第2章 アイドルが語る時代[76]
のりピー語については後年、「20歳を越えた頃から似つかわしくないと思うようになった」と本人が語っている。
『ザ・ベストテン』(TBS)では酒井直筆の歌詞がそのままテロップになって表示されたこともあって「変体少女文字を書く新人類」と言われたこともあった[11]。
1991年から1992年にかけて「のりピーハウス・レーシングチーム」というチーム名でN1耐久レース(現在のスーパー耐久)にも参加。チーム監督として酒井が着任し、レース車両(日産・パルサー、ホンダ・シビック)のデザインも自ら行った[77]。のりピー語と同様に酒井のプロモーション戦略の一環であったが、2000万円程の費用が生じたという[78]。
「のりピーちゃん」
アイドル時代、酒井の活動は多岐に渡り、芸能活動のほかにイラストレーター・漫画家(ペンネームは平仮名の“さかい のりこ”)としても活動した。中学2年の時に酒井の落書きの中で誕生したというキャラクター『のりピーちゃん[注 13]』は日本自動車工業会の交通安全ポスターに使われた他[79]、1988年5月から小学館の少女漫画雑誌『週刊少女コミック』に酒井自身の執筆により4コマ漫画として連載され[80]、単行本化[81]やアスミックよりOVA化もされた。"のりピーちゃん"のマンガは雑誌の連載前から酒井のファンクラブ"のりピー族"の会報の中で既に掲載されてファンからは大きな反響となっており、そのキャラクターに注目した小学館からマンガ連載の打診が来た際、サンミュージックのプロモート事業部部長、相澤正久(現・会長)は次のように語ったという。
法子は歌手であるが、それ以上にタレントとして育てていかないと、いつか、必ず限界にきてしまう。アイドルを育てにくくなりつつある現在、他のアイドルより目立たせるには、法子のキャラクターを前面に出して話題を提供していくしかない。その上で、歌のヒットを考えていくのが、最もベストな形なのかもしれない。だとしたら、今は、絶対に"のりピーちゃん"をプロモート戦略の第一に考える必要がある。できれば、"のりピーちゃん"が社会現象になるような展開をしていきたい。それが、結果的に法子にはねかえってくるはずだ。
— 相澤正久、『ORICON NO.1物語 Singles 酒井法子』 第三章「のりピー音頭」の誕生[82]
その『のりピーちゃん』のキャラクターグッズは直営ショップ 「NORI・P ・HOUSE」[注 14]で販売されて人気を博し、当時のタレントショップブームの一翼を担った。1988年7月、富士山の8合目(標高3300m)の山小屋にグッズ店「のりピーちゃんハウス」を開店。「日本一標高の高いタレントショップ」として話題となった[83][84]。1988年7月6日には「のりピー」名義で企画シングル『のりピー音頭』[注 15]もリリース。同年8月には東京・大阪・名古屋で「全日本のりピー音頭カーニバル」というイベントも行われた[85]。これらの一連の活動は酒井の"のりピー"という愛称を一段と認知させ、ローティーン以下のファン層を拡大することに繋がり、"のりピーちゃん"も一種の社会的ブームとなった[86]。
1989年9月に来日したシンディ・ローパーと対談した際は、「のりピーマン」や富士山をモチーフにした「ふじピーマン」人形などの自身のグッズをプレゼントした。1991年には5合目の山小屋に富士山2号店がオープンしている。
こうした事務所の売り込み戦略について、酒井は次のように語っている。
正統派のアイドルとは違っていても、具体的な戦略を提示されたのはありがたかった。ひと言で言えば、それは「変化球」で勝負すること。
わたしが小さいときに夢見ていたアイドルたちは、歌とか、容姿とか、女の子が憧れる要素を武器にして売り出し、成功を収めてきた。そういった「直球」では勝負できないから、わたしの場合には人と何か違った「変化球」でアピールするしかない。アイドルの王道とは異なる変化球を一つ、また一つと考えて投げ込んでいくことによって、ここにのりピーがいるぞという存在感を出していく。それがわたしたちの戦略だった。そう教わって、納得もして、斬新で突拍子もないアイデアを実践することに夢中になってのめり込んでいった。
— 酒井法子、『贖罪』 第四章 萌芽[87] (Wikipediaより)