とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」678 瞳のささやき 秋吉久美子 UPB‐0065

2020-05-10 23:16:28 | 日記
一見、気怠い印象なのが魅力でした。しつこくない。自然体。これも魅力。今、こういうタイプの女優はいないと思います。

瞳のささやき 秋吉久美子 UPB‐0065



秋吉 久美子(あきよし くみこ、1954年7月29日- )は、日本の女優。
静岡県富士宮市出身で、徳島県日和佐町(現・美波町)、福島県いわき市育ち。本名は小野寺 久美子(おのでら くみこ)。身長162cm。最終学歴は早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻修了。学位は公共経営修士(専門職)。
アジア映画祭主演女優賞、日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞などを受賞している。2013年「「わたし」の人生(みち) 我が命のタンゴ」でモナコ国際映画祭主演女優賞を受賞。そのほかは#受賞歴を参照。



略歴

生い立ち

北海道函館市の出身で研究者だった父親が戦後結核を患い、静岡県富士宮市の療養所に入り、地元出身の看護師だった母親と結婚し当地で生まれた。妹が一人いる。その後、父が徳島県日和佐町(現・美波町)の高等学校に化学教師として赴任したため家族で移り住む。しかし高温多湿の気候が体の弱い父には辛く、本人が小学校入学直前に福島県いわき市に移り、6歳から18歳までいわき市で暮らす。父は小名浜の福島県水産試験場に勤務し、アクアマリンふくしまの立ち上げにも尽力した。福島県いわき市小名浜第一中学校、福島県立磐城女子高等学校(現・福島県立磐城桜が丘高等学校)卒業。高校時代は文芸部の部長をしていた。あちこちの雑誌やテレビなどでもらした言葉を集めた「つかのまの久美子」(1977年、青春出版社)ではユニークで鋭い感性が光っており、五木寛之も「静かな平凡を夢見る卓抜な個性」と帯に感想を書いている。

1972年高校三年生の時、受験勉強中に聞いたラジオの深夜放送、吉田拓郎の『パックインミュージック』で、吉田が音楽を担当した松竹映画『旅の重さ』のヒロイン募集を聞き、親に内緒でオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけ。

女優として

『旅の重さ』の主役オーディションで、高橋洋子についで次点となり、自殺する文学少女に扮して本名で映画初出演。夏休みの一週間だけ撮影に参加し、出演料は7万5千円だった。撮影現場の空気は肌に合ったが、女優になろうとはすぐには思わず、大学へ行こうと思い受験勉強に励む。翌1973年、大学受験に失敗し大きなショックを受ける。いわき市で予備校通いをしたが、浪人も面白くなく、予備校も休みがちになってブラブラしていたとき、隣町で観たアングラ演劇、はみだし劇場に感銘を受け、同劇場の劇作家・内田栄一の夫人・内田ゆきに身柄をあずけ上京。内田ゆきは秋吉のマネージャーになった。最初の仕事は赤福もちのCM。

同年、斎藤耕一監督の『花心中』に一シーンだけ顔を出したのち、芸名を「秋吉久美子」として松本俊夫監督の『十六歳の戦争』に主演して本格的に映画デビュー。しかしこの作品は難解だという理由で1976年まで公開されなかった。1974年、藤田敏八監督の青春映画『赤ちょうちん』で、奇妙な魅力をたたえた女優などと評価されヒット、名が浸透する。続けて秋吉主演で『妹』、『バージンブルース』(日活)と立て続けに製作され、人気が急上昇した。愛くるしい表情、70年代を表現する繊細な存在感、今までの日本の青春映画を脱却した大胆な脱ぎっぷりで一躍フォークソングとベトナム反戦の時代の寵児となる。

1979年、青い三角定規のメンバーで作曲家の岩久茂と結婚。男児を産みおよそ2年ほど芸能活動を休止したが後に離婚。。復帰後、ソープ嬢を演じた『の・ようなもの』 (1981年)、冷めているが可愛げのあるヒロインに扮した『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』 (1981年)を始め、『さらば愛しき大地』 (1982年)、『夜汽車』 (1987年)、『異人たちとの夏』 (1988年)、『誘惑者』 (1989年)、『レッスン LESSON』 (1994年)、『深い河』 (1995年)などがある。2004年、『透光の樹』では、深遠な性愛シーンを披露した。

近年

近年はバラエティにもゲスト出演している。TBS系人気番組『クイズダービー』にもゲスト解答者としても数多く出演。しかも1988年10月の特番で、当時産休中だった竹下景子に代わり、4枠に座っていた。ちなみに成績は12勝20敗、3割7分5厘と好成績を修めていた。

作詞家としても活躍しており、DOGGY BAG、松尾光次にも楽曲を提供している。
2004年12月に26歳年下の日系アメリカ人と結婚したが、翌年夏に離婚。しかしその後、同じ男性と2006年2月に再び入籍した。
2006年8月12日、第38回NHK『思い出のメロディー』で司会に初挑戦。会見で「あのころは"痛がる時代"だったと思う」と独自の理論を披露した。

2007年1月からTBSでアナウンサーの中井美穂と共に一視聴者と同じ視点に立った素直な切り口で『世界陸上大阪大会 秋吉&中井 We Love アスリート』の司会を務めた。なお、番組内で出演した各アスリートの写真を秋吉自らカメラマンとなって撮影し、ポスターを制作するコーナーがあった。この時の写真が好評で、世界陸上の会場にポスターの展示場が開設された。

最終学歴は高卒であったが、個別の入学資格審査を経て、2007年9月より早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻に入学。2009年9月、同研究科を10人中の総代として修了。 2009年公共経営修士取得。世界遺産登録5周年記念事業「熊野古道国際交流シンポジウム尾鷲2009」にパネリストとして参加。 2013年には出身地である福島の風評被害払拭のため消費者庁「東北未来がんばっぺ大使」に就任のほか、「三重県文化審議会委員」も務める。 2013年「わたしの人生〜我が命のタンゴ」でモナコ国際映画祭主演女優賞を受賞。
2014年に、映像クリエーターの二人目の夫と離婚。
2015年1月、35歳の長男が事故死した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 677 山口百恵 志村 けん 8時だョ!全員集合 1980年

2020-05-07 17:43:51 | 日記
八時というと「全員集合」を楽しみにしていた。この映像は永久保存版と言ってもいいほどの価値があると思う。志村けんさんは遅れてメンバーに加わったと記憶している。お亡くなりになったお方のご冥福をお祈り申し上げます。

山口百恵 志村 けん 8時だョ!全員集合 1980年



『8時だョ!全員集合』(はちじだョ!ぜんいんしゅうごう)は、1969年(昭和44年)10月4日から1971年(昭和46年)3月27日、および1971年10月2日から1985年(昭和60年)9月28日までTBS系列で放送されていたお笑い番組・公開バラエティ番組である。全803回。
本項では、番組が終了した後のつなぎ番組である『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』についても記述する。

概要


主演はザ・ドリフターズ。番組名は「全員集合」と略される場合もある。
毎週土曜日、20時(午後8時)から実尺53分間の放送。稀に数回ほど、放送時間を拡大しての放送を行うことがあった。番組の終了後には、通常20時54分からスポットニュースの『JNNフラッシュニュース』が放送されていた。
番組は16年にわたって放送された。ただし途中、1971年4月から9月までの半年間は、ドリフの先輩格であるハナ肇とクレージーキャッツがメインの番組『8時だョ!出発進行』が放送されていた。

番組は、ドリフによるコントが中心の前半パートと、体操あるいは合唱団などによるショートコントが中心の後半パートとに分かれていた。前半パートと後半パートとの間には、ゲスト出演者による歌のコーナーがあった。
基本的には生放送であったが、事前収録の録画放送となる回もあった。例えば、番組がスタートしてから1か月の間は録画放送であった。また1970年代前半までは、日劇や浅草国際での舞台公演があったこと、ドリフの休暇やスケジュールの都合などから録画放送となる回があった。このほか、ドリフが『ザ・ピーナッツ さよなら公演』に顔出しするため、1975年3月26日に事前収録したものを同年4月5日に流したことがある。この回は、近畿地方におけるネット局が朝日放送から毎日放送へ移行して最初の放送回となった。

毎週各地の劇場・ホールで公開生放送あるいは公開録画を開催した。第1回は三鷹市公会堂からの録画放送。原則としてTBSエリア内の東京首都圏を中心とし、時には系列局の開局記念企画として札幌、仙台、福島(ドリフのメンバー・加藤茶の出身地)、新潟、静岡、名古屋、桑名、金沢、倉敷、広島、福岡、宮崎といった地方での収録も実施している。1984年10月以降はTBS本社(旧社屋)Gスタジオでの公開生放送となることが多くなり、ホールからの中継放送が著しく減った。2005年10月2日の復活特番では、1994年に落成したTBS本社(新社屋)Bスタジオからの公開生放送を実施している。

随時、回り舞台を活用する大掛かりな舞台装置と、入念に練り込んだコントや、大仕掛けの屋体崩しに代表される豪快なオチなど、出演者たちの身体を張った笑いが、小学生を中心とした老若男女を問わず幅広い層の視聴者に熱狂的に受け入れられた。また、生放送にこだわったために停電やボヤ騒ぎやゲストの負傷等のアクシデントに見舞われた回もあった。
ゲストには、当時の売れっ子アイドルや演歌歌手などを3 - 4組ほど招いていた。回によっては三船敏郎、若山富三郎、菅原文太、加山雄三、田宮二郎などの大物俳優やスポーツ選手、TBS系の他番組からゲストが出演することもあり、しかも彼らが積極的に番組のコントに参加していた。

ドリフメンバーのスケジュールは木曜日から土曜日までの3日間押さえており、基本的には木曜日に次週分(9日後)のネタ作り、金曜日に翌日分の立ち稽古、土曜日がリハーサルと本番という流れ。「番組がスランプに陥っている」と言う理由で、通常のレギュラー放送を一時休止して(その間は総集編を放送)、ドリフメンバーによる「合宿」までしたという。このように莫大な労力を費やして制作していた番組であった上、出演者のギャラの高騰などによる費用面の問題・出演者に掛ける保険の費用高騰・安全性の問題・その後の様々な表現規制・芸能事務所の生放送番組に対するスタンスの変化などといった業界事情の変化により、現在ではこの様な規模の公開生放送番組を毎週1回のペースで作ることは極めて困難である。かつてドリフのマネージャーを務め、現在ドリフメンバーが所属するイザワオフィス社長の井澤健も『週刊新潮』のインタビューで「時代が変わり過ぎて、現在ではもう再現不可能な要素が多過ぎる」と語っている。

番組全体の平均視聴率は27.3%で、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)であった。最盛期には40% - 50%の視聴率を稼ぎ、「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率競争でもほぼ無敵の存在であった。このため、この番組が全盛期を迎えていた頃は、TBSでは土曜夜のプロ野球中継が組まれることはほとんどなかった。ただし、長らく40%台の常連であったため、番組末期に30%台以下に視聴率が下がった際には各新聞や雑誌で「ドリフは終わった」と批評されたこともあった。

1970年代後半から1980年代前半にかけては、19時台前半の『まんが日本昔ばなし』【第2期】(1976年1月 - 1994年3月、毎日放送制作)、19時台後半の『クイズダービー』(1976年1月 - 1990年3月)、21時台の『Gメン'75』(1975年5月 - 1982年4月)や『スクール☆ウォーズ』(1984年10月 - 1985年4月)などとともに、TBSの土曜夜の黄金期を象徴する番組であった。しかし、1981年に仲本、志村の競馬のノミ行為事件の影響、春に幕を開けたフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族』の台頭、さらに6月のギロチン事件の影響が重なり、1982年中頃から番組人気に陰りが見え始め、1982年10月2日の放送回で初めてひょうきん族に視聴率を抜かれた。これ以降は視聴率争いに苦戦し、1983年8月13日に視聴率で初の1桁(9.2%)を喫した。

以降は視聴率が10%後半くらいが平均となり、ひょうきん族と抜きつ抜かれつの視聴率争いを繰り広げるが、1985年に入ってからはほぼ後塵を拝した。そして遂に、土曜20時台枠の抜本的な見直しにより、1985年9月28日に通算15年6か月の歴史に幕を閉じた。TBSは、1985年7月19日の打ち切り発表の中で、「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた。

その後、1985年10月5日は『電リクだョ!全員集合』と称し、約2時間枠で電話リクエスト形式で過去の名場面集を放送した。そして年内いっぱいは総集編番組『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』でつなぎ、1986年1月から同じくドリフの加藤茶と志村けんをメインに据えた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。ドリフのメンバーがメインの番組は、1992年9月終了の『KATO&KENテレビバスターズ』まで続いた。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」676 ブルー・シャトー ジャッキー吉川とブルーコメッツ 昭和ポップスGS

2020-05-01 16:30:37 | 日記
ブルコメ。昭和ですね。潔かった。切れが良かった。・・・吉川さんのご冥福をお祈り申し上げます。

ブルー・シャトー ジャッキー吉川とブルーコメッツ 昭和ポップスGS



ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(ジャッキーよしかわとブルー・コメッツ)は、日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズのひとつ。1957年に結成されたロックコンボが母体。グループ名の由来は「どの星よりも光り輝く彗星のように」である。当時の所属芸能事務所は大橋プロダクション(渡辺プロダクションと業務提携)。21世紀の所属事務所はオフィス・アタック。略称は「ブルコメ」が定着しているが、2013年現在公式では「COMETS(コメッツ)」を用いている。


略歴

ジャッキー吉川とブルー・コメッツの前身であり母体であるブルー・コメッツは、1957年9月、大橋道二、ロジェ滋野ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心に結成された。専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動した。1959年6月には、来日したジーン・ヴィンセントの地方巡演のツアーバンドに選ばれる程までに音楽性を高めた。1959年9月、一旦解散するが、彼らのファンだった鹿内タカシによって再興され、1960年4月に新メンバーで再スタートした。当初は鹿内タカシをメインに中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、こまどり姉妹、尾藤イサオ、アイ・ジョージら、多数の歌手のバックバンドとしてコンサートやスタジオ・レコーディングをこなし「日本一の伴奏グループ」を目指していた。フジテレビの「ザ・ヒットパレード」出演を機に注目を集めるようになり、1965年にはザ・ピーナッツのバックで第16回NHK紅白歌合戦に出演を果たす。

1961年に小田啓義が加入するが1年で「田代久勝とウエスタンキャラバン」に移籍。
1962年に大橋の引退により高橋健二が加入。
1963年からはジャッキー吉川がリーダーになり(ジャッキー吉川を参照)、高橋が脱退し、ベーシストの江藤勲に交代。また井上忠夫が加入。
1964年に小田が復帰し、三原綱木も加入。

1965年に江藤が脱退し、高橋が復帰したことにより、グループ・サウンズ全盛時代を築くメンバーがほぼ揃った。
地方公演で電車に降り損ねた尾藤イサオの代役で唄ったのをきっかけにグループ・サウンズとしての活動が始まったとされていたが、小田の証言で「バックバンドとしての紅白出演(1965年)に飽き足らなくなった井上が、『バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ。』とバンドの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(のちの作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至った。」と詳細な経緯が明らかになっている。本格的なデビューに先駆けてブルー・コメッツはマネージャー川村龍夫の助言により「デューク・エイセス」の当時のセカンド・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。

1966年に日本コロムビア(レーベルは洋楽部門のCBSコロムビア)から発売された(ボーカル入りの楽曲としては)デビュー曲となる英語盤の青い瞳「Blue Eyes」が10万枚、日本語盤の「青い瞳」が50万枚のヒットになった。日本コロムビアは家電部門の業績悪化で当時5億円の借金を抱えていたが、ブルー・コメッツの偉業で窮地を脱した。66年には彼らは、ザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演の前座として出演。その際彼らはビートルズよりやや低めの位置に設けられたステージで井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を演奏した。ビートルズのメロディーやハーモニーを重視した曲作りは彼らを経て日本独特のグループサウンズへと受け継がれた。その後も「青い渚」「何処へ」など順調にヒットを連ねていき、1967年に発売された「ブルー・シャトウ」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。

「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時、数多のグループ・サウンズの中でザ・ワイルドワンズと共にNHKへの出演が許され、NHK紅白歌合戦に第17回(1966年)から3回連続(前年のザ・ピーナッツのバックを含めれば4回連続)で出場した。これはまず何より、他のグループ・サウンズよりも圧倒的に音楽的水準が高かったことである。全てのメンバーは読譜力に優れ、作編曲ができ、卓越した楽器演奏とアンサンブル、緻密なコーラス・ワークで、あらゆるジャンルを高い完成度で演奏できるバンドだった。

NHK紅白歌合戦に出演できた理由は、外見が短髪でスーツ姿=銀行員風のサラリーマンに見えることが、評価されたからでもある。(「ジジコメ」というあだ名すらついたこともある。)もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。逆にコンサートなどでかつらを被って長髪を試したところファンに不評だった(ただし、70年代に入ると三原やジャッキー吉川が髪を伸ばすようになっている)。ビジュアルイメージを考えていなかったわけではなく、ショーン・コネリーが演じるジェームズ・ボンドをコンセプトに、全員が移動時にお揃いのアタッシュケースを持っていた(デビュー曲が「サンダーボール」のカバーだったことからもその姿勢が伺える)。

1967年美空ひばりの大ヒット「真赤な太陽」でバッキングを担当。音楽的能力を高く評価され、その後たびたび共演する。
1968年にはエド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米。このときに演奏したのはイントロに琴の音をフィーチャーした、編曲を変えた「ブルー・シャトウ」だった。欧米のロックやポップスに圧倒された井上忠夫は、帰国後すぐにグループの解散を打ち出すつもりだったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。同年発売されたムード歌謡的な傾向が強いシングル「さよならのあとで」がヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、1971年の「雨の賛美歌」から原点回帰を見せつつ、独自のサウンドを展開して曲を次々と発表した。

またこの年に発売したカバーアルバム「G.S.R.」では、バート・バカラック風のアレンジの曲に挑戦するなどした。しかし、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり1969年以降はレコードの売り上げと人気は徐々に下がり、他のGSバンドの解散が続く中でも活動を続けたが、巻き返しはならず1972年10月にコロムビアが契約を打ち切り。井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入、ビクターから再デビューした(GSとしてのブルー・コメッツの終焉でもあり、GSブームを支えた有名グループは既に早期解散していたことから「最後のGS解散」=遅すぎた解散と報道された)。

なお、星勝らのモップスは、この後もバンド活動を継続した。1977年にもメンバーチェンジし、1984年には小田も脱退する。時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。GS時代のメンバーでも懐メロ番組に出演することが度々あったが、井上が2000年5月に自殺してしまう。2002年にGS時代のメンバーでも本格的に再結成した。バンドは、全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続けていたが井上の死去から約20年後の2020年4月、リーダーの吉川が死去した。 (「Wikipedia」より)