A whiSper Of memOrieS

☬Murmure de mémoire☬

Urayasu-385

2020-08-08 | Urayasu
最近は、コロナ+酷暑で、より外出を控えるようになったせいもあり、散歩でフォトジェニックな対象と出合う機会はめっきり減った。夜の犬散歩となると尚更である。でも、昨晩は違った。円筒形の台の上に乗り、スポットライトも浴びながらお座りする、虎似のモデル風猫に遭遇。近づいても逃げるそぶりはない。飼い猫?ノラ?「カワイイのぉ。ずっとそこで座っとるんか?暑くないんか?」(本当に話しかける。)「……」||沈思黙考というが、沈黙すれば思考を貯めることはできるのか?いや、思考は貯金のようにこちらの思い通りには貯まらない。だから、半年後、一年後の未来世界がこれほど予測不能な現在にあって、「思いを淀むがまま」に、宙吊りにしておくのもいいだろう。世界も自分も今後どうなるのかわからないのに、思い付いたことをなんでも拙速にSNSで言い放てばいいわけではない、などと考えていた。/一方、コロナに対して長期有効な言論はないかと、文章や記事はそれなりに読んできた。以前より、書籍を読んできた言論人の考えはやはり気になる。これまでのところ一番心の奥に届いたのは、中沢新一氏の「コロナをめぐる三つの瞑想」『すばる』(2020年7月号、集英社)。この人は思考の粘度や練度が違う。中沢氏を論評する資質は私にはないため、読んで確かめてもらうしかない。/ただ、読後に派生した個人的感想はある。/長年、「個人的考えや世界観よりも、ネットワークのほうがプライオリティが高い」という風潮が持て囃されてきたところに、コロナが世界的に大流行し、行動の自粛あるいは自宅待機を余儀なくされた。それにより、人間関係や人間と社会との間に、「すきま」「距離」「寸断」がかつてない程、広がったせいで多くの人が孤立する時間が増え、自省的・内省的にならざるを得なくなった。これだけコロナが長期化すると、生きる目的の不明瞭さやそれにともなう空虚さ、無力さ、やるせなさと、嫌でも向き合わざるを得なくなる。そしてそういう感情をSNSやYouTubeやZoomやGooglemeet等だけでは埋められなくなってきた。勤務先、通学先、バイト先、SNS、テレビ、友人、家族などの外部から入ってくる情報や言葉だけでは、この不安感や苛立ちは埋まらず、意識的に考えようとしなくても言葉が不意に立ち上がってくる。私の周りにもこの半年で、考え方や物の見え方が変わったという人が結構いる。かくいう私は、最近はSNS疲れ、SNS離れに傾きつつある。そこで、じゃ次はどうすればいいんだということについて、中沢氏の文章は発想のきっかけを与えてくれる。政治については、コロナ対策そっちのけで、まだ改憲に固執している現政権はとっくに機能麻痺しており、存在価値はさらさら感じない。「死に体」という自覚がないところが呆れるほどスゴイ。我々もあがきたいがコロナのせいで、あがくにあがけない。ただ、ほとぼりが冷めて内閣支持率が再び上昇するなどということはないだろう。あったとしても、そんな支持率は眉唾物だ。希望的観測ではあるが、多くの国民は健忘症どころか、この異常事態に自分と真剣に向き合わざるを得ず我に帰っている。/コロナが我々個々人の生き方に、本来、明確な答えや対策などはないという現実を長期間、突き付けているという点は、決して悪いことばかりではないだろう。これからも当然、生きていくつもりで自分は毎日を過ごしている。いまはそのために必要な精神的強度を磨き、新たな生活様式を模索する重要な段階にあるのではないか。
コメント    この記事についてブログを書く
« Urayasu-384 | トップ | Tokyo-4 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。