A whiSper Of memOrieS

☬Murmure de mémoire☬

Urayasu-356

2018-07-23 | Urayasu
<怒ること・怒られること>全うな理由でひどく怒られたことがある、また自分も誰かに真剣に怒ったことがあるというのは、後々、思い返してみると大切な経験である。/怒りという感情を日常からなるべく排除し、「怒り」を目の当りにしても、「馬鹿みたい」「異常だ」などと否定的に見てしまうとすれば、事なかれ主義を超えて、浅慮であり、悪くすればひとの愚かさを助長しかねない。/怒っている人が「大人気ない」のではなく、怒らずに平然としていられるほうがむしろ幼稚で無思慮に見えてしまうというケースは実は結構ある。/怒るといっても、別に怒鳴り散らしたり、怒っているポーズを取る必要はない。また、消費者という偉くもなんともない立場を嵩に着たクレーマーの「常習的怒り」には異常性とさもしさを感じる。/ただ、悪辣な嘘や犯罪などに対して、怒(いか)りや憤りが心の中から自然にこみ上げてくる、そのための習慣や訓練は大事ではないかな。/一方、「怒られる」ことについてはどうか。幼少時代とは違い、年齢を重ねれば誰しも怒られる機会はめっきり減る。長年怒られていないと、たまに誰かに文句を言われただけでも、自分を責めるのではなく相手を責めたい衝動に駆られ、時には逆ギレしそうになることもある。/それが理性的で、当人にとって本当に幸いなことなのか。そもそも、誰しも歳を取るごとに、右肩上がりに賢こくなっていくものなのか、自分を含め甚だ怪しい。であれば時々、誰かに注意を受けたり、怒られたりすることがあっても全く不思議ではない。/しかし、現代の日本においては、「喜怒哀楽」という人間の基本的感情のなかで、「怒」だけがネガティブに捉えられ、抑え込まれているかのように感じる。抑え込まれているから、怒りが憎悪に変わり、陰湿化もする。/「悲しみ」にはすんなり共感でき、受け止めることにも慣れているのに、「怒り」には無条件に反感を覚えてしまうという傾向が強い。/「怒ること」も「怒られること」も、ともに「質」が肝心であり、「慣れ」も必要である。不機嫌な人間にならないためにも、「いい怒り方」や「いい怒られ方」というものがあるという認識があったほうがよい。それが心の不満のガス抜きにもなるだろう。//BGM:Arto Lindsay "Cuidado Madame"、BGB:『みんなちがって、みんなダメ』(中田考著、KKベストセラーズ、2018年)
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