温暖な湘南にある海沿いの町、二宮へは年に二回ほど散策に出かける。昨年よりは気が早いが駅前の小山が自然公園になっている吾妻山の名物、菜の花が目当てである。急な階段を登った山頂までの途中で西側に見える相模湾の海は静かな凪模様だ。階段沿いの斜面を埋め尽くす水仙は二月の声をきくと満開になる気配である。いまはまだ三分の咲き具合である。
頂上を目指す途中でこの水仙や植樹された蝋梅の仄かな香りを時々吸い込む風情は早春らしい散策の冥利なのだと思う。連日の厳寒日には平塚や伊勢原の平野からはっきりした雪の富士山が仰げたものだが、あいにくの曇り空で富士山は遠く薄手の雲に隠れて煙っている。一眼レフを持参したカメラマン達は菜の花が群生するショットに富士山を上手く重ねて焦点化させたいようだが、遠近の両立したバランスが上手くいかないことに苦慮している空模様である。しばらく山頂の視界を楽しんでいたら日が翳ってきた。
連れと大磯にある「クラニテ」というカフェに寄る予定だったが、アイフォンの検索によると、営業日が外れているようで、急遽、二宮からそう遠くない小田原の小八幡にある三寶寺内「邪宗門」へ寄ってみることになった。カフェの閉店までは残す所一時間しかない。幸い大病から快復された住職が居合わせてしばらく雑談を兼ねた音楽鑑賞をする。前に聴いたことのある山梨県のインディーズ的オーディオメーカー「フィストレックス」製になる励磁型フルレンジスピーカーがメインの様子である。漆塗装による木目のトーンも燦然とした小型の高級機である。この前に寄った時よりも音量が大きいせいか、音の見通しが理解しやすくなった。現代励磁型スピーカーの透明感溢れる響きと定位の素晴らしさが楽しめた。
別室の壁を飾る棟方志功の傑作「釈迦の十大弟子」などの長尺ものの大型版画やジョルジュ・ルオーの母子像などの静謐な版画作品にも目を奪われているうちに、クルマへ積みこんであるバッハの「無伴奏チェロ組曲1・2・3」をこのスピーカーで聴いてみたくなった。絶対に適所な筈である。1996年に収録したジャズサックス奏者清水靖晃がサクソホネットでソロ演奏した営為の滲み出ている演奏だ。
住職が快諾されてしばらく清水の無伴奏サクソホネットに耳を集中する。組曲が進んできて第二番の収録は宇都宮にある大谷石の採石場をバックにしている演奏だ。ちょっと長めな「サラバンド」や短い「メヌエット」にも石切場に木霊する不思議なエコーの色が踊ってサックスのダイナミックレンジが面目を発揮する美しいテイクである。しばらく耳を傾けていた住職も感動したらしい。このCDを入手したいと仰ってきた。「邪宗門」の装置や周りの調度にマッチしたCDソースとの出会いを啓発できたようで、喜ばしい限りである。どこかで見つける機会があったら入手しておきますと、応えて店をあとにした。