友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: SALT OF THE EARTH
「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。
2018年8月6日 投稿
友岡雅弥
民俗学者、「旅する巨人」宮本常一は、財界人であり、民俗学者でもあった渋沢敬三からの信頼厚く、渋沢の依頼もあり、全国の民具、民俗的習慣の調査を続けていました。また、ある意味、もっとも広く日本各地の農山漁村の有り様をよく知っている人物でもありました。
宮本常一の自伝風著作『民俗学の旅』には、淡々と、驚くべき出来事が描かれています。当時、宮本は大阪から東京にでて、渋沢の仕事を手伝っていました。
1943年(昭和18年)の「九月であったか、ドイツのハンブルクが米空軍によって絨毯爆撃されたことを新聞で読み、情報にくわしい人からそれがどういうものであるかを知らされて愕然とした」。
それで、当時、日本銀行副総裁(まもなく、総裁。幣原内閣では、大蔵大臣) であった渋沢敬三のところに行きます。渋沢は、驚くべき話をします。まったく肩書きのない宮本でしたが、私心のない人でしたし、渋沢の信頼も抜群であり、また農村事情に詳しかったからなのでしょう。
「日本の爆撃せられる日が急速に近付きつつある」
東京空襲が現実になるのは、翌19年の11月以降で、特に20年4月5月のそれは、まさに大空襲でした。そして、渋沢は、宮本が「足で歩いて全国の農民の現状を見ている」ことを高く評価し、
「この上はどのようなことがあっても命を大切にして戦後まで生きのびてほしい。敗戦にともなってきっと大きな混乱がおこるだろう。そのとき今日まで保たれてきた文化と秩序がどうなっていくかわからぬ。だが君が健全であれば戦前見聞したものを戦後へつなぐ一つのパイプにもなろう」
と願うのです。
とりあえず、東京は離れたほうがいいだろうと、1944年(昭和19年)初めに、宮本は大阪に戻ります。とは言っても、大阪もやがて大空襲に会い、宮本の大事な資料のかなりの部分は焼けてしまいました。
大阪に帰ってきた宮本は、大阪府泉北郡鳳町(現在堺市鳳)に住んで、奈良県の郡山中学校に勤めることになります。そして、翌45年4月5日に、大阪府庁に来るように、言われて、当時の池田清知事に会うのです。
知事は、今、食糧事情がひっ迫しているので、大阪府に勤めて、特に生鮮野菜増産にちからを貸してくれと頼まれるのですが、宮本はその場では態度を保留。すると、長文の電報で、また府庁に呼び出されます(17日)。これはただごとではないと、宮本はある程度の腹を決めて行きます。長文ですが、『民俗学への旅』を引用します。
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そのとき知事は実に、こまごまと日本のおかれている状況について話した。それをかいつまんで書くと次のようである。
「四月の末には硫黄島をとられる。六月の末には沖縄が完全に占領される。その頃から本土の都市の爆撃が盛んになり、七月の末には日本の工業生産力がほぼ壊滅する。 そして八月の末に敵が本土上陸をするが、味方は戦力を失っているので全面降伏になるだろう。ただ日本列島の上に住んでいる八千万の農民はまだ無疵であり、社会的にも道徳的にも乱れていない。この人たちが中心になって、もう一度日本を立て直す日が来るであろう。そのためにはこうした民衆を守らねばならぬ。それには食料を何とか確保しなければならぬ。主食料は何とか手を打つが、生鮮食料の補給がもうきかなくなっている。愛知県から来ていたものが統制経済のために来なくなった。そのことについて協力してもらえないか」
知事は私の疑問や質問に答えつつ、二時間あまりにわたって説明してくれた。私自身は役人でも政治家でもない。一介の農民にすぎない。その私に何ができるのであろう。
しかし、日本の命運はあと四カ月にせまっている。それまでの間のことなら府庁へ勤めてみよう、敗戦後のことはまた考えればよい。
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このような経緯で宮本は大阪府に勤め始めるのです。
池田清は、内務官僚で、朝鮮総督府警務局長、大阪府知事、そして警視総監、海南海軍特務部総監、そして大阪府知事に再任。旧明治憲法の時代は、「知事」は、選挙によって選ばれず、官選でした。
なにか、とても日本のダークサイドを見るような役職で、宮本の記憶からも「国家」のことは考えても、なかなか国民の一人一人のことはあまり考えてないのではないか、という印象を受けます。
でも、そういう彼でも、いやそういう彼だから、冷静に(冷徹に、冷酷に)日本の敗戦を見据えていたという感じはします。
つまり、日本の負けは確実に予測されていた。おそらく、それは多くの「高級」官僚がそうだったのでしょう。
20年ほど前、戦争当時、大蔵省(本庁)に勤めていたかたと親しくしていただいていました。もうお亡くなりになりましたが、予算編成のプロセスで、もうこれは敗けだなと、ほとんどの周囲が感じていたと、おっしゃっていました。
ということは、冷静な目を持った人間たちが、流れを恐れぬ「声」を持っていたならば、沖縄戦や本土空襲、そして広島・長崎の悲劇は、避けれたのではないかという思いがしてなりません。
あまりにも、 無念です。
それが、官僚というものなのでしょうか?
ということは、そういうどうしようもない「慣性」をもった時代が動き出す前に、何ができるかを、一人一人が考えてみなければならないのだと思います。
【解説】
ということは、冷静な目を持った人間たちが、流れを恐れぬ「声」を持っていたならば、沖縄戦や本土空襲、そして広島・長崎の悲劇は、避けれたのではないかという思いがしてなりません。
あまりにも、 無念です。
それが、官僚というものなのでしょうか?
ということは、そういうどうしようもない「慣性」をもった時代が動き出す前に、何ができるかを、一人一人が考えてみなければならないのだと思います。
現在の日本の、世界の状況は絶望的です。
たしかに「敗戦前夜」なのかもしれません。
でも、日本の危機を食い止めるために、第3次世界大戦を起こさないために、今何ができるか、私たち一人一人が考えてみなければならないのだと思います。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮