獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その17)維新府政・市政は財政を健全化したか?

2024-05-31 01:51:33 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt34 - 社会資本の厚い蓄積がよりコスト削減効果が

2018年9月3日 投稿
友岡雅弥


Guardian紙(2018年4月12日)によると、

イギリスでは、(今の日本全体の傾向や大阪のこの10年ほどの実態と同じですが)、保守党により、公営住宅の民間への売却、住宅手当の凍結(2016年)が行われました。

大阪の維新府政、維新市政もそうなんですが、そうすることによって、支出を減らして、財政が健全化するというのです。

では、結果としてどうなったか。

ホームレスが増加し、2010年以降、「一時的な救護施設」の利用が61%も上昇しました。

これだけではなく、医療費が払えない人たちが、医者に行けず、かえって病気が悪化して、高額医療の対象となったり。

というわけで、結果としてどうなったか?

自治体の支出は39%も増大したんです。

結局、目先の「支出カット」や「民営化」のほうが、公共への恒常的な支援よりも、財政的に高くつくわけです。

これには、正式な調査研究がありまして、
ここです。

https://www.crisis.org.uk/media/238700/homelessness_monitor_
england_2018.pdf


これをもとに、分かりやすくGuardianが記事にしてくれています。

https://www.theguardian.com/society/2018/apr/12/england-
homeless-families-temporary-housing


ヨーロッパ全域についても同じことがいえて、
例えば、フィンランドが、ホームレスの数を減少させ、財政的にも効果的だったのは

1)シェルターなどの緊急サービスではなく、住宅手当による安定した施策

2)追い出し(evictions) の予防

ホームレスは、排除すべき「悪」ではなく、ホームレスを生みだす社会の「悪」をきちんと少なくしていけば、結果として、ホームレスは少なくなる。
当たり前の話です。


「結果としてのホームレス」を社会問題として、どうこうするよりも、「ホームレスの原因」である社会資本に投資した方が、財政的にも、効果的にも、よりよい結果が生まれるわけです。

当たり前のことです。

そして、それは、私たち自身の暮らしを、他人をけ落とす「世知辛い」今の状態から、豊かなものと変えていくでしょう。

 

 


解説
イギリスでは、(今の日本全体の傾向や大阪のこの10年ほどの実態と同じですが)、保守党により、公営住宅の民間への売却、住宅手当の凍結(2016年)が行われました。
(中略)
では、結果としてどうなったか。
ホームレスが増加し、2010年以降、「一時的な救護施設」の利用が61%も上昇しました。
これだけではなく、医療費が払えない人たちが、医者に行けず、かえって病気が悪化して、高額医療の対象となったり。
というわけで、結果としてどうなったか?
自治体の支出は39%も増大したんです。

西欧のデータによると、目先の財政支出を減らすことより、ホームレスを生むような社会の病巣を手当てする方が、結果的に、財政は健全化するということですね。

日本の場合はどうなんでしょうか。
大阪の維新府政、維新市政が行った「改革」によって、目先の財政はたしかに健全化したのではないでしょうか。
友岡さんはそのことについて言及していないので、ちょっとインパクトに欠けます。

私の印象では、それまでの大阪府政、大阪市政は、あまりにも無駄が多い行政だったので、「改革」によって、財政は健全化したように思うのです。
でも、長期的にみると、さまざまな矛盾が表面化する可能性はあります。
ホームレスの数も増えてくるかもしれません。
生活保護受給者の数も増えるかもしれません。
多方面から、経過を見る必要があるでしょう。

この方面の、詳細なレポートをどなたかしてくれれば幸いです。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その16)大阪市中央公会堂と棚塩集会場

2024-05-30 01:01:49 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt32 - 2つの集会の場 大阪と福島

2018年8月20日 投稿
友岡雅弥


今年は、中之島にある大阪市中央公会堂ができて、ちょうど100年目にあたります。

1911年、東日本大震災の百年前に、当時、日本最大の株式の町、大阪北浜の株式仲買人、岩本栄之助が、当時の100万円(だいたい十億円ぐらい)を大阪市に寄付、それをもとに作られました。

東京駅の設計で有名な辰野金吾と片岡安(二人で辰野片岡設計事務所を経営していた)が、実施設計を行いました。

東京駅と並ぶこの辰野の傑作にはいくつか特徴があります。

建物のファサード(正面)は、とても重厚で、みなさんも、いろんな写真でごらんになったことがあると思います。

でもある意味、それはこの当時の建築の共通様式の範囲内、といえるかもしれません。

より特徴的なことがあります。

建物側面にはたくさんの入り口があるのですが、ここに、かなり大きな庇(ひさし)があり、赤レンガ、雄勝石、緑の屋根の重厚な建築には似合わない、とても、庶民的というか、生活色の強い感じを辰野は出しています。

これは、岩本の意思が大きく反映されたデザインです。

岩本の意思とは、「ここは、利用する人たちだけではなく、広く、市民に開かれた場所である」ということで、雨宿りとかで、大勢の人がちょっと利用できるように、ということです。

普通の公会堂という利用目的からすると、外れているかもしれませんが、「公会堂」が、人々の交流する場と捉えると、根本的目的には合致しています。

一番大きなホールの名前にも、それが現われています。「講堂」ではありません。「大集会室」です。

だれかエラい人が来て、演説、講演をする場ではなく、たくさんの人々が集う場、つまり、「主体」としてそこには、「エラい人」ではなく、「一般参集者」、市民を見ているのです。

例えば、部落解放運動の黎明期、青年たちが自主的に差別撤廃運動を起こそうとしましたが、警察は危険思想の持ち主とみなし尾行などを続けます。当時の『中外日報』には「水平社の方は常に官憲の圧迫を受けて居るから余ほど固い意志を持たねば発会と同時に解散の憂き目を見るやもしれないと、前途を悲観しているものが多い」とあります。

1922年(大正11年)2月21日、青年たち、つまり大日本平等会が創立大会を行ったのは、大阪中之島公会堂。その時に、公会堂の天井から、全国水平社創立大会開催を案内するビラ1万枚が撒かれます。

そして、全国水平社創立大会がその10日後に行われるのです。

もちろん、部落解放運動だけではなく、多くの、自由と平和と平等を求める人たちが、以降、ここに集いました。

そう言えば、福島で三番目の原発を作らせなかった浪江町棚塩の農民たちが、その拠点としたのは、公民館という名の施設ではなく「棚塩集会場」。

集うこと、出会うことは、とても大切なことですね。

しかし、棚塩集会場は、今は、津波に襲われ、しかも、除染の残土・ガレキの巨大集積場のど真ん中に、ぽつんと立っています。

もし、浪江町に行かれたときには(その時は壊されているかもしれませんが)、是非、立ち寄って、地元民の反対への熱と、また、今の無念さを感じていただければ。

 

 


解説
中之島にある大阪市中央公会堂について、調べてみました。


大阪市中央公会堂

大阪市中央公会堂は、大阪市北区中之島にある集会施設。国の重要文化財。
設計デザインは、「懸賞付き建築設計競技」(最終的に13名が参加)により、当時29歳だった岡田信一郎のデザイン案が1位に選ばれ、その岡田のデザイン原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。辰野金吾は東京駅の建築家でも知られる。
大阪市中央公会堂は日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定された。
(Wikipediaより)

 


ネットで拾った大阪市中央公会堂の正面です。
きれいな建物ですね。

 

 


これは、建物側面の庇が分かりやすい写真をさがして拾ったものです。

大阪市中央公会堂、いいですね。いちど見学に行きたくなりました。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その15)目の前の何かをいつくしむこと

2024-05-29 01:31:19 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
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「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
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Salt31 - 「土」をいつくしむこと

2018年8月13日 投稿
友岡雅弥


野村胡堂の「銭形平次捕物控」は、300数十を超える大連作シリーズです。

その中に「土への愛着」というとても現代的なタイトルの一作品があり ます。

強欲な金貸しに、先祖から伝わる土地を奪われた初老の松蔵。
平次の子分の八五郎は、「土は日本国中どこの土でも同じ」などとデリカシーのないところを見せますが、

松蔵は、「私一家の汗を何百年吸い込んだ土」と語ります。

彼はなんとにくむべき強欲の金貸しのところに、タダ働きの労働者として住みこんでいるのです。

たしかに、強欲金貸しは憎んでも憎みきれない相手かも知れませんが、彼が(タダで)管理をまかされたのは「愛する土」だったのです。

強欲金貸しは殺され、彼の悪が露見し、土地はすべて松蔵のもとに帰ります。

この短編の最後は、土をもみほぐし、においをかぎ、撫でる松蔵の姿の描写です。

胡堂は、平次シリーズ執筆の「意図」を明確に記しています(『随筆 銭形平次打明け話』)

「庶民に同情しようと思い定めた」
「侍階級に対する反抗を企てていた」

胡堂の先祖は、「全くの水呑み百姓である」(同)。また、歴史にも名を残す天保の「三閉伊一揆」に、先祖の幾人もが加わっています。

「胡堂」はペンネーム。「胡」は「異民族」の意味です。また、彼はよく知られたクラシック音楽の評論家でもありました。

クラシック評論の時のペンネームは「あらえびす」。「えびす」は「胡」と同じく「異民族」。「あらえびす」は、「おとなしくなった異民族」を示す「にぎえびす」とはちがい、まだ反抗のちから盛んな異民族のことです。

そんな胡堂ですが、彼が最も尊敬し愛したのが、故郷・岩手で先祖からの土地を受け継ぎ、それを更に豊かにしていった弟さんです。

彼は、一揆に加わった先祖を尊敬しつつも、それは「昔物語に過ぎない」(同)と述べて、弟さんの「今」と対照させるのです。

時間をかけながら少しづつ社会を変えること。そして、実効ある変革って、目の前の何かをいつくしむことなのかなあ、って思ったりしています。

 

 


解説
時間をかけながら少しづつ社会を変えること。そして、実効ある変革って、目の前の何かをいつくしむことなのかなあ、って思ったりしています。

心に刺さる言葉です。


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獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その14)「敗戦前夜」なのかもしれません

2024-05-28 01:28:13 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt30 - 敗戦前夜

2018年8月6日 投稿
友岡雅弥


民俗学者、「旅する巨人」宮本常一は、財界人であり、民俗学者でもあった渋沢敬三からの信頼厚く、渋沢の依頼もあり、全国の民具、民俗的習慣の調査を続けていました。また、ある意味、もっとも広く日本各地の農山漁村の有り様をよく知っている人物でもありました。

宮本常一の自伝風著作『民俗学の旅』には、淡々と、驚くべき出来事が描かれています。当時、宮本は大阪から東京にでて、渋沢の仕事を手伝っていました。

1943年(昭和18年)の「九月であったか、ドイツのハンブルクが米空軍によって絨毯爆撃されたことを新聞で読み、情報にくわしい人からそれがどういうものであるかを知らされて愕然とした」。

それで、当時、日本銀行副総裁(まもなく、総裁。幣原内閣では、大蔵大臣) であった渋沢敬三のところに行きます。渋沢は、驚くべき話をします。まったく肩書きのない宮本でしたが、私心のない人でしたし、渋沢の信頼も抜群であり、また農村事情に詳しかったからなのでしょう。

「日本の爆撃せられる日が急速に近付きつつある」

東京空襲が現実になるのは、翌19年の11月以降で、特に20年4月5月のそれは、まさに大空襲でした。そして、渋沢は、宮本が「足で歩いて全国の農民の現状を見ている」ことを高く評価し、

「この上はどのようなことがあっても命を大切にして戦後まで生きのびてほしい。敗戦にともなってきっと大きな混乱がおこるだろう。そのとき今日まで保たれてきた文化と秩序がどうなっていくかわからぬ。だが君が健全であれば戦前見聞したものを戦後へつなぐ一つのパイプにもなろう」

と願うのです。

とりあえず、東京は離れたほうがいいだろうと、1944年(昭和19年)初めに、宮本は大阪に戻ります。とは言っても、大阪もやがて大空襲に会い、宮本の大事な資料のかなりの部分は焼けてしまいました。

大阪に帰ってきた宮本は、大阪府泉北郡鳳町(現在堺市鳳)に住んで、奈良県の郡山中学校に勤めることになります。そして、翌45年4月5日に、大阪府庁に来るように、言われて、当時の池田清知事に会うのです。

知事は、今、食糧事情がひっ迫しているので、大阪府に勤めて、特に生鮮野菜増産にちからを貸してくれと頼まれるのですが、宮本はその場では態度を保留。すると、長文の電報で、また府庁に呼び出されます(17日)。これはただごとではないと、宮本はある程度の腹を決めて行きます。長文ですが、『民俗学への旅』を引用します。

___________________

そのとき知事は実に、こまごまと日本のおかれている状況について話した。それをかいつまんで書くと次のようである。
「四月の末には硫黄島をとられる。六月の末には沖縄が完全に占領される。その頃から本土の都市の爆撃が盛んになり、七月の末には日本の工業生産力がほぼ壊滅する。 そして八月の末に敵が本土上陸をするが、味方は戦力を失っているので全面降伏になるだろう。ただ日本列島の上に住んでいる八千万の農民はまだ無疵であり、社会的にも道徳的にも乱れていない。この人たちが中心になって、もう一度日本を立て直す日が来るであろう。そのためにはこうした民衆を守らねばならぬ。それには食料を何とか確保しなければならぬ。主食料は何とか手を打つが、生鮮食料の補給がもうきかなくなっている。愛知県から来ていたものが統制経済のために来なくなった。そのことについて協力してもらえないか」
知事は私の疑問や質問に答えつつ、二時間あまりにわたって説明してくれた。私自身は役人でも政治家でもない。一介の農民にすぎない。その私に何ができるのであろう。
しかし、日本の命運はあと四カ月にせまっている。それまでの間のことなら府庁へ勤めてみよう、敗戦後のことはまた考えればよい。

___________________


このような経緯で宮本は大阪府に勤め始めるのです。

池田清は、内務官僚で、朝鮮総督府警務局長、大阪府知事、そして警視総監、海南海軍特務部総監、そして大阪府知事に再任。旧明治憲法の時代は、「知事」は、選挙によって選ばれず、官選でした。

なにか、とても日本のダークサイドを見るような役職で、宮本の記憶からも「国家」のことは考えても、なかなか国民の一人一人のことはあまり考えてないのではないか、という印象を受けます。

でも、そういう彼でも、いやそういう彼だから、冷静に(冷徹に、冷酷に)日本の敗戦を見据えていたという感じはします。

つまり、日本の負けは確実に予測されていた。おそらく、それは多くの「高級」官僚がそうだったのでしょう。

20年ほど前、戦争当時、大蔵省(本庁)に勤めていたかたと親しくしていただいていました。もうお亡くなりになりましたが、予算編成のプロセスで、もうこれは敗けだなと、ほとんどの周囲が感じていたと、おっしゃっていました。

ということは、冷静な目を持った人間たちが、流れを恐れぬ「声」を持っていたならば、沖縄戦や本土空襲、そして広島・長崎の悲劇は、避けれたのではないかという思いがしてなりません。

あまりにも、 無念です。

それが、官僚というものなのでしょうか?
ということは、そういうどうしようもない「慣性」をもった時代が動き出す前に、何ができるかを、一人一人が考えてみなければならないのだと思います。


解説
ということは、冷静な目を持った人間たちが、流れを恐れぬ「声」を持っていたならば、沖縄戦や本土空襲、そして広島・長崎の悲劇は、避けれたのではないかという思いがしてなりません。
あまりにも、 無念です。
それが、官僚というものなのでしょうか?
ということは、そういうどうしようもない「慣性」をもった時代が動き出す前に、何ができるかを、一人一人が考えてみなければならないのだと思います。

現在の日本の、世界の状況は絶望的です。
たしかに「敗戦前夜」なのかもしれません。
でも、日本の危機を食い止めるために、第3次世界大戦を起こさないために、今何ができるか、私たち一人一人が考えてみなければならないのだと思います。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その13)認知症に対する意識が変われば社会はもっと豊かに

2024-05-27 01:11:26 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt29 - 震災直後の奇跡、その一例

2018年7月2日 投稿
友岡雅弥


震災後、実際にあった「奇跡」の話をしたいと思います。岩手県大船渡です。
直接、その現場にも足を運びました。

ある社会福祉法人が運営する二つのグループ・ホームがありました。かなり進んだ認知症のかたがたが入所しています。

今の医療・介護の「常識」、いや「通念」として、あまり知らない人や大勢の人と顔を合わせると、認知症のかたがパニックになる、ということで、小高い丘に「孤立」 してありました。

2011年3月11日、大船渡に津波が襲いました。

下の町は壊滅です。

一つのグループ・ホームは、津波のために道路が寸断され、陸の孤島となった赤崎町後ノ入(のちのいり)にありました。

グループホームは、前述のように、町とは離れた小高い丘にあったので、津波の被害は免れました。

家を流された、下の町の人たちが、泥だらけ、裸足で駆け、無事だったグループホームに駆け込んできました。

知らない人たちがどんどん入ってくる。
暮らしているのは、いつも数人。そこに百数十人です。

入所者は、想定通りパニックになり、騒ぐ。飛び出そうとする。避難してきた住民の人も不安になる。
職員さんは、「これから地獄が始まるか」と思ったそうです。

ところが。

避難してきた人のなかに、一人の女性がいて、子どもさんが行方不明であると、泣き叫びます。

すると、一人の認知症のおばあちゃんが、まるで赤ちゃんをあやすように、「よしよし」と、その女性に添い寝をし始めたんです。

パニックで泣き叫んでいた女性は、安心して、疲れたのか、すやすやと寝息をつきはじめました。(後日、お子さんは無事みつかりました)

翌日です、グループホームなので、食料はあります。でも、ガスなどのインフラが寸断されています。

ここで、別の認知症のおじいちゃんが、枯れ木で火をつけて、かまどでご飯を炊いて、みんなに食べさせはじめたのです。ご飯をもらって、子どもたちが、やっと笑顔を見せました。

自衛隊が数日後来るまで、一つ屋根の下で、百数十人が家族のように暮らしたのです。だれが采配を振るうわけではなく、御高齢の入所者も、壮年も婦人も、子どもたちも、みんな自分で考えて、それぞれの役割で動き、自主的に運営をし、生き延びたのです。

もう一つのグループホームは、平(ひら)地区にありましたが、ここでも同様でした。

この社会福祉法人は、認知症の介護については、高い評価を得ていました。それでも、やはり重い認知症の人は、あまり人と交流はさせないほうがいいと思っていた。それが 「通念」だったのです。

この震災の時の経験、つまり、人の可能性の奇跡、どんな人でも、他者にとって奇跡となる可能性があるということから、法人本部は、考え方を一変させました。

施設入所者と地域の人たち、また地域の人たちが共生し、交流する場所を作ろう。子どもから高齢者までが利用できる場所を作ろう。

名高い「気仙大工」の仕事ぶりが残る古民家を再生し、陸前高田の末崎町で「居場所カフェ」を作り、そこで「産直イベント」も行いました。

その法人が学んだこと――認知や体の障がいなどがでているような高齢者が、住民の人たちとともに暮らせるのだということです。

また、地域の人たちが、認知症のかたと身近に接することができたということ。

認知症のかたは急激な変化などに対応は困難かもしれませんが、ほとんどの時間はおだかやに過ごしています。そういうことを、多くの地域住民が共通に認識したのです。

住民の家族が亡くなったと聴いたとき、みんなで泣いたし、助かったというとみんなで喜んだ。喜怒哀楽の感情をみんなで味わったということも、とても貴重でした。

「認知症」に対する意識が変われば、社会ももっと豊かになるでしょう。

子どもや障がい者、またご病気のかた、高齢者。

――そういうかたを中心に回って行く地域というのは、自発の智恵や、能動のちからがでて、とても強くなっていきます。

「弱者」(この言葉、好きではないですが)を中心にすれば、社会は強くなっていくのです。

 

 


解説
「認知症」に対する意識が変われば、社会ももっと豊かになるでしょう。
子どもや障がい者、またご病気のかた、高齢者。
――そういうかたを中心に回って行く地域というのは、自発の智恵や、能動のちからがでて、とても強くなっていきます。

今回の話は、とくべつ胸に刺さります。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


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