獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その8

2024-04-25 01:06:47 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)


かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
□プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
■第3部 孤独な心
 7)悲劇の予兆
 8)相つぐヒットの陰で
 9)ショービズ界の恋
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆


(つづきです)

その後、1972年の夏のツアーの起点となったヒューストンのコンサートで、その曲をはじめて披露した。「新しいアルバムからちょっと一曲」とリチャードが言い……〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉の演奏へと入ると、群衆はやんやの喝采を浴びせた。
そのツアーのあいだずっと、その曲にたいする観客の反響が大きかったので、リチャードとカレンは顔を見合わせ、戸惑った。アルバムからの一曲がそれほどの大きな反響を呼ぶとは考えてもみなかったのだ。何がなんだかわからないうちに、その成功にはずみがついていった。
「A&Mの日本支社があの曲を独自でシングル・カットして、ゴールド・ディスクになったんですよ」
リチャードが言う。
「まもなくリン・アンダースンがレコーディングして、それがカントリー・チャートのトップになった。あの曲についてはいろいろ手紙をもらいましたよ。子供たちがぼくたちの実家にやって来て、両親に訊いたりもしたようです。いつ小さなレコードは出るのかってね。シングルのことですよ。リクエストだけでチャートに入れたラジオ局もありました」
しかしながら、アメリカではそうした不思議な形をとってヒットが生まれることはめったにない。リチャードとカレンは1年間というもの、その曲にたいする大衆の関心が高まっていくのを見守ったが、あいかわらずアルバムのなかの1曲という位置にとどまった。シングルにするのなら、もっとすばやく動けばアルバムの売上げも伸びたのではなかろうか。だがようやく、1972年も後半に入ったころになって、彼らはその曲をリミックスし、シングル盤をつくる決心をした。9月、ラスヴェガスに飛んだ彼らは、ステージからそれを“次のシングル”として紹介した。
だが、それを聞いたA&Mレコードのギル・フリーザンにはべつの思惑があった。ラスヴェガスのローカル・ラジオ局がアルバムから〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉をかけ、これが次のシングルだとDJが紹介するのを聞いたとき、彼はわざわざラスヴェガスに飛び、楽屋にいたカーペンターズに、〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉はシングル・リリースしない、と言った。たしかにヒットになる可能性はあるが、同じアルバムからあまりにも多くのシングルがすでにカットされているからだめなのだ、とフリーザンは付け加えた。
そうしたやりとりの結果、リチャードは放送でそのことを言ったDJに苛立ちを覚えながら、リリースを諦めた。
だが1972年6月から1973年9月のあいだに、〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉には永遠のヒット曲となる兆候がいろいろとありすぎて、リチャードは無視できなくなった。ファンからの要求も動きはじめた。リチャードは大いなる可能性に気づいた。いずれにせよ、フリーザンやほかの人々は〈シング〉のときにも疑問を抱いたが、結果はすばらしいものだったじゃないか! 今度は誰にも邪魔させない、自分の直感を信じよう。
リチャードは車を勢いよくカーヴさせ、A&Mレコードの駐車場に入った。フリーザンが歩み寄る。
「聞いてくれ。〈シング〉にかんしてわたしはたしかに間違っていた。〈イエスタデイ・ワンス・モア〉が大好きだったんだよ。だがとにかくもう、シングル・カットの選曲についてはもう何も言わないことにするよ」 
「よかった。〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉はリリースすることにしましたから」 リチャードが即答した。
カレンはオリジナルのヴォーカルに不満な点があり、その他にも改良すべき点がいくつかあったので、録音し直すことになった。バディー・エモンズのスチール・ギター、トニー・ペルーソのエレクトリック・ギターを加えたサード・ヴァージョンはヒット・チャートを駆けのぼり、(〈遥かなる影〉についで)2曲目のナンバーワン・ヒットとなった。5位まで行ったイギリスでは、この曲は現在も人気があり、よくラジオから流れてくる。アップビートな歌詞は幅広い層にそれぞれ異なる感情を訴えかけ、宗教的な歌だとかスピリチュアルな歌だとかとらえる人すらいたのである。 


「トップ・オブ・ザ・ワールド」

なんて素敵な気分なのかしら
見るものすべてが驚きよ
大空には雲ひとつなく
目にはお日さまが映るだけ
これが夢でも
ぜんぜん驚かないわ

私が望んでたものが全部
今 特別に叶えられようとしてる
理由はカンタン
それはあなたがここにいるから
あなたは私が知る中で
最高に天国みたいな人

私は今世界のてっぺんから
下界の創造物を見下ろしてる
その理由はただ一つ
あなたと出逢って知った愛のせい
あなたの愛が私を
世界の頂上に舞い上がらせたの

 

(以下省略)

 

 


解説
名曲〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉は、いろいろな経緯を経て、シングルカットされたのですね。

この曲もアメブロで紹介したいと思います。

 

このシリーズは終わりです。


獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その7

2024-04-24 01:04:48 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)


かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
□プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
■第3部 孤独な心
 7)悲劇の予兆
 8)相つぐヒットの陰で
 9)ショービズ界の恋
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆


(つづきです)

アルバムはたちまちのうちにアメリカで百万枚を売り上げたのち、すでに根強い人気のある日本でも急上昇し、〈イエスタデイ・ワンス・モア〉のシングルは日本で75万という驚くべき枚数を売り上げた。イギリスとならび、日本はそれから先何年もにわたり、カーペンターズの主要マーケットとなるのである。

「イエスタデイ・ワンス・モア」

若い頃は
好きな曲を待ちながら
よくラジオを聴いていたわ
そしてその曲がかかるとニコニコしながら
一緒に口ずさんだものだった

そんな幸せなひとときは
それほど昔のことじゃないのに
あの歌はどこへ?と どんなに心配したことか
でもここにあの歌の数々は舞い戻ってきた
久しく会わなかった友だちのように
私はどの曲も大好き

今でも“シャラララ”や“ウォウウォウ”の
コーラスの一つ一つが
光り輝いているわ
“シング・ア・リング・ア・リング”と
歌い始めるのも
とても素敵

今でもすごくドキドキするの
まるで初めて聴いた時みたいに
心を奪われてしまう
まるであの頃のように
過ぎ去った日よ もう一度


カーペンターズのアルバムのイギリスでの総売上げは三十万枚を超え、A&Mレコードのイギリスにおける経済基盤となった。1973年、炭坑労働者による産業ストライキが工場の週3日操業をやむなくさせ、レコード業界にも悪影響がおよんで、生産がままならなくなった。エネルギー危機は深刻なビニール不足を招いた。需要に応えるべく、A&Mの販売ディレクター、ジョン・ディーコンはカーペンターズのレコードをドイツ、オランダ、その他ヨーロッパの各地でプレスさせてはロンドンに送らせた。 
A&Mレコードのミュージシャンや重役のなかにはいまだに彼らを“退屈”だと考える者もいたが、ロンドン支社のスタートにあたってこれほど強力な経済的後押しをしてくれたカーペンターズにたいする感謝の念も存在していた。
「カレンは見るからに心配症で、リチャードは彼女をがっちりと保護しているという感じでした。彼のことを、そう、扱いにくい、と言う人もいましたね」
ディーコンが当時を振り返る。
ヒット・チームはここで協力体制を固める。リチャードとジョンが何か月か前に手がけたカントリー調の〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉が時間をかけてトップの座についたのだ。アルバム《スーパースター》以降、リチャードは曲選び、制作にもっと時間をかけたいと考えた。なぜなら《スーパースター》は 満足のいく曲をそろえてのアルバムづくりだとは思えなかったからだ。そしてつぎのアルバム《トッ プ・オブ・ザ・ワールド》がそれになるのだが――のため、A&Mの出版部門アルモからおりてくる曲を ふるいにかけはじめた。
最初のうち、カレンとリチャードは仕上がりのヴァージョンにたいした意気込みを抱かなかったが、やがてその曲はカーペンターズのスタンダードとなり、民間旅客機の離陸のときにしばしばかかるようになった――それは曲が生まれたときの状況と奇しくも一致していた。アイディアがはじめてベティスにひらめいたのが、ナッシュヴィルからロサンゼルスまでのフライトの途中だったのである。
いったん完成させてアルバムに収めてみると、いい曲ではあるが平凡だと本人たちはみなした。だが早い時期の評に、〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉がきわだった曲だというのがあり、カーペンターズはおおいに驚いた。彼らはその他の数曲、とりわけ 〈愛にさようならを〉を優先させていたのだ。

(つづく)


解説
リチャードとジョンが何か月か前に手がけたカントリー調の〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉が時間をかけてトップの座についたのだ。

〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉もいい曲ですね。

 

獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その6

2024-04-23 01:01:56 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)


かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
□プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
■第3部 孤独な心
 7)悲劇の予兆
 8)相つぐヒットの陰で
 9)ショービズ界の恋
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆

(つづきです)


1973年、ポップス・ファンは20年さかのぼった時代に豊かな遺産があることににわかに気づかされた。カレンとリチャードは1972年の夏以来、オールディーズ・メドレーをコンサートでやってきており、絶賛を浴びていた。1973年初頭のある日、ハイランド・アヴェニューをA&Mレコードめざして車を走らせていたリチャードは、郷愁をそそる曲を頭のなかで探すうち、あるメロディーと詞を“聞いた”。やがてそれは彼らの曲のうちでもいちばん特記すべき賛歌となる。
「若い頃は、よくラジオを聴いて いたわ――」
A&Mに到着したときにはもう、スタジオBにいたカレンにコーラス部分を歌ってみせるところまでいっていた。その夜、彼は一番の歌詞を書きあげてから、ジョン・ベティスに電話をして〈イエスタデイ・ワンス・モア〉を完成させるように頼む。完璧な仕上がりだった。リチャードはオールディーズをテーマとしたアルバムを締めくくる曲を探していたのだった――アルバム《ナウ・アンド・ゼン》のコンセプトはこうした生まれた。

〈イエスタデイ・ワンス・モア〉をつくったときを思い出しながらジョン・ベティスは語る。
「われわれはニューヴィルの家にいました。彼が小さなコンドミニアムくらいありそうな大きなスピーカーを並べてつくった幻想的な場所です。リッチーはいつも古いレコードの中毒にかかっていましてね、わたしよりひどかったんです。その彼がアルバムの片面をオールディーズで埋めてみようと言ったんです。ついでにそのための賛歌が欲しいとも」
リチャードの頭には最初の何かがすでにあり、ベティスがそれを補って歌詞を完成させたとき、ふたりは宝石を手にしたのだ。
新曲を聴きに部屋に足を踏み入れながら、カレンはほかの曲についてたずねた。リチャードとジョンがディスコグラフィーに目を通してオールディーズのタイトルを探しているのを知って面食らったのだ。
「〈イエスタデイ・ワンス・モア〉の2番に古い歌のタイトルを入れようと思ってるんだ」
ふたりはカレンに言った。
「えっ? いやだわ、そんなの!」 
カレンが言った。
そのアイディアは、体裁をととのえるのがあまりに大変だということがわかってボツとなり、結局、歌詞は最終ヴァージョンのように完成するのである。
「最初の相談では何も決まらないんですよ」 
彼らの曲 づくりについてベティスは語る。 
「つねに模索、発見なんですけれど、それがまったく非科学的で、われわれふたりにしかわからない作業でしたね」

ポップスの黄金時代だった“あの幸せな日々”にノスタルジックな思いを馳せる雰囲気をたたえた〈イエスタデイ・ワンス・モア〉はカレンの哀調をおびた声質を存分に発揮できる曲となった。リチャードがアルバムのアイディア――片面をオールディーズで、もう一面をよりコンテンポラリーな曲でまとめるという――を聞かされた母親が、《ナウ・アンド・ゼン》ってタイトルはどうかしら、と提案した。つぎに彼は、ポップス華やかなりし時代のラジオ局やファンの熱狂を伝えるため、オールディーズ・メドレーを調和よく編成しようとしていた。カレンが懐かしい名曲、スキーター・デイヴィスのバラード〈この世の果てまで〉をよみがえらせ、さらにクリスタルズの〈ハイ・ロン・ロン〉やシフォンズの〈ワイ・ファイン・デイ〉といったきらきらした曲が元気のいいスタートの語りにふくらみをつけていく、そしてそれがすべてひとつのラジオ番組であるかのように構成された。その部分はコンサートでも使われ、絶賛を浴びた。

アルバムの“いま風”な面は〈シング〉ではじまり、レオン・ラッセルの名曲の決定ヴァージョン〈マスカレード〉と〈ヘザー〉がそれにつづく。そのつぎには、その後ずっとラジオから流れるようになる軽快な〈ジャンバラヤ〉が来て、さらにこれまたカレンの心の内を鏡に映したかのような曲、ランディー・エズルマンの〈アイ・キャント・メイク・ミュージック〉が最後を締めくくる。カレンはこの、閃きを失ったソングライターを歌った曲をどちらかというとあまりよく理解していないかのように歌っている。

またあの感覚がよみがえってくる
傷ついて 不安で怖くて
少しは成長したと思ってたのに またこんな風
こんな自分を何とかしたいけど
何一つできないでいる私

この陰鬱な曲は2年後のカレンの葛藤を予言していたのだが、いま聴いてみると、謎めいた不気味さをおびている。陽気な曲ばかりのアルバムのなかにあって、これだけが唯一の内省的な曲でもあった。


(つづく)


解説
名曲〈イエスタデイ・ワンス・モア〉はこうして生まれたのですね。

 

獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その5

2024-04-22 01:59:20 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)


かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
□プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
■第3部 孤独な心
 7)悲劇の予兆
 8)相つぐヒットの陰で
 9)ショービズ界の恋
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース


第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆

(つづきです)

〈愛にさようならを〉はその後ずっと、カレンにとってカーペンターズのレパートリーのなかでの大好きな曲のひとつとなる。そのときはまだ歌詞とカレンの孤独とを重ね合わせて見るのは、カレンの一生においてもキャリアにおいても時期尚早ではあったものの、何年かがたってみると、それはじつに辛辣に現実をついていた。自分を素通りしていく恋を、ひとりで生きていく決心を、孤独と虚しい日々だけが唯一の友だちである世界を、カレンは歌っていたのである。


愛にさよならを告げましょう
私が死のうが生きようが どうせ誰も気にしてくれない
何度も何度も 恋のチャンスは私を素通りして 
私が知る愛なんて 愛なしに生きることだけ
どうしても見つけられそうにないわ 

だから私は生涯一人で生きると心に決めた
もちろんやさしいことじゃないけど
結局 心のどこかではずっと気づいてたみたい
私は愛にさよならを告げるのだと 

私の心に明日はない
きっと時がたって この苦い想い出が消えれば
信じて生きていける人が見つけられるかも 
生き甲斐を見つけられるかも 

長い間の無駄な探究は やっと終わったわ
これからは 
孤独と虚しい日々だけが 私の唯一の友だち
愛が忘れ去られるこの日から
私は精一杯生きるだけ

未来のことは謎でしかないし
運命を予測することもできない
いつかは私が間違っていたことを 
知る時が来るかもしれないけど 
でも今のところ これが私のテーマ曲
それは愛にさよならを告げる歌
愛にさよならを告げましょう 

  詞:ジョン・ベティス/曲:リチャード・カーペンター


私生活を思い起こさせるこの詞をしばしばくりかえすにつれ、カレンは〈愛にさようならを〉の詞の意味を余すところなく引き出した。いま聴いてみると、カレンの声はかろうじて涙をこらえながら、自らの心の機微が織りなすタペストリーを撫でているような気がする。
この宝のような曲のレコーディングには意外な秘密兵器が隠されていた。セッションに加わった貧相な新参ギタリスト、トニー・ペルーソにリチャードが言ったのだ。
「きみのソロ部分だが、頭の5小節はメロディをやってもらいたいんだ。その先は即興でかまわない」
リチャードは内心、何か意外な結果が得られるような気がしていた。そしてそのとおりになった。ペルーソは穏やかなカーペンターズのレコードの一部をなすプレーというよりは、完全にぶっとんだときのジミ・ヘンドリックスばりに、大胆で、創意に満ちた、ファズ・トーンのギター・ソロをやってのけた。
カレンとリチャード、そしてスタジオにいた誰もがペルーソの思いきったブレークに喝采を送った。新たな境地を開拓しようとするリチャードの野心と爽快なギター・ソロがぴたりと合い、この試みはその先何年にもわたって、ミュージシャンやレコードを買った人々によりポピュラー・ミュージックのあらゆる観点から語られ、褒め称えられることとなった。
曲には2か所のギター・ソロがあり、数回のテイクでOKが出たが、トータルで15分となるプレーはのちにリチャードが編集をおこなった。ペルーソはたちまち不安になった。華麗なカーペンターズのサウンドをすさまじいロックンロールで踏みつぶすのは、冒険にもほどがあるのではないかと考えたからだ。こうしたタイプのパワー・バラードは後年にはごく当たり前のこととなるが、ペルーソは当時を振り返る。
「あのころ、彼らのようなきれいで洗練された音楽にファズ・トーンのロックンロール・ギターを入れるなんてとんでもなかったですよ!『おいおい、こんなことしてめちゃくちゃになったりしないのかい? 彼らのキャリアをおれがぶち壊しちゃったらどうするんだ?』って感じでした」
そればかりではなかった。彼はリチャードとカレンを完成したミュージシャンとして偶像視していたため、自分はどこかべつのリーグから侵入してきた成り上がりのロックンローラーであるような気がしてならなかったそうだ。
「でも、彼らはあのわたしのソロを機に壁をはね飛ばしたんです」
それはペルーソの人生とキャリアにとっても重大な瞬間だった。
「あれからいろいろな人たちとレコードを百万枚もつくってきましたが、あの夜みたいな魔法を感じたのはあれ一回きりでした」
曲の情熱的な流れのなかで彼のソロが強力に効いていることには誰もが気づいたが、彼はこう言う。 
「曲を気にいってましたし、なんといってもリチャード、カレンとのはじめてのセッションでした。でも観客がどう反応するのか、見当がつきませんでした」
リチャードがペルーソのすばらしい独創性に惚れ込み、1972年6月、彼はカーペンターズのツアー・バンドに加わった。ステージでは“オールディーズ”メドレーでのDJ役を得意とし、楽しんだ。
まもなく革新的なレコードにたいする観客の反応が返ってきた。“いやがらせの手紙”も寄せられた。〈愛にさようならを〉は一部のカーペンターズファンを混乱させたのだ。彼らの音楽がもつ質の高さを放棄した、ロックンロールに走った、悪魔の音楽をプレーした、などの理由でリチャードは糾弾された。
コーラスを使ったエンディングでは、リチャードは腕によりをかけてこのレコードを主題と音楽の両面からの傑作に仕上げたつもりだったが、カーペンターズ・サウンドを“売った”とか“歪めた”、とか責められて意気消沈した。
イギリスでは、曲と催眠術的なギター・ソロは評論家筋に絶賛され、その創意にたいしてはいつもは斜に構えている連中も褒めそやした。カーペンターズはここにいたってようやく、おぞましい“イージー・リスニング”の範疇以外で評価を受けることができたのである。

ジョン・ベティスはこの歌詞にかんしてはほんの思いつきだったことを認め(「本当のところを書いてみたら、うまくいってしまったんですよ」)、リチャードについてはこう語る。
「バラードが主流の時期にあんなふうにエレクトリック・ギターを使ったのは彼が最初でした。草分けですよ。いま見ても、まだみんなあのころのカーペンターズの即興フレーズをコピーしているんですから」
リチャードはその曲にかんして自尊心と傷心がないまぜになった気持ちを抱いていたが、ベティスはプレーバックを聴いてうれし涙があふれたという。シングル盤は全米チャートを7位まで駆けのぼった。
しかし、ファンからの不評が一時的にであれ、領域を広げていこうとするリチャードの自信を砕き、彼はしばらく安全なプレーに徹した。カーペンターズのつぎのシングルは6か月後の1973年2月に発売された軽妙な〈シング〉で、テレビ・シリーズ《セサミストリート》に使われた、子供のコーラスが入った曲だった。音楽的にはなんら新境地を開拓することはなかったものの、覚えやすいメロディーは、彼らに手堅くミリオンセラーの地位を取りもどし、グラミー賞2部門でノミネートされた。
またしてもリチャードとベティスは勢いづいた。ふたりはいつも、ダウニーの自宅のリチャードが大切にしているボールドウィン・ピアノのそばで曲をつくっていた。ジョンはその家ではすでに“家族”として迎えられていた。ここで仕事をすることの障害はプライヴァシーがないことだったが、アグネスとハロルドが行き来したり、カレンがひそひそ話しかけてきたり、友人や犬がうろついたり、といったカーペンター家の騒がしい生活のなかでも、どういうわけか、リチャードとジョンのコンビはお互いを発火点まで高めさせることができた。

(つづく)


解説
名曲〈愛にさようならを〉のギターのソロ演奏は、このように生まれたのですね。
友岡雅弥さんがすたぽで書いていたエピソードは、ちょうどこのことですね。

友岡雅弥さんの「地の塩」その1)カーペンターズ兄妹の光と影(2024-04-17)

ペルーソは完全にぶっとんだときのジミ・ヘンドリックスばりに、大胆で創意に満ちた、ファズ・トーンのギター・ソロをやってのけました。
アメブロで、曲の紹介をしようと思っています。


獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その4

2024-04-21 01:56:31 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)


かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
□プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
■第3部 孤独な心
 7)悲劇の予兆
 8)相つぐヒットの陰で
 9)ショービズ界の恋
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆

ほぼ一年後、褒められたことなどすっかり忘れかけたころ、ペルーソの電話が鳴った。かけてきたのはリチャードで、ペルーソのギターの才能にぴったりだと思われる曲があると言った。A&MレコードのBスタジオに姿を見せたトニーを見て、リチャードは思わずあとずさった。驚くほど痩せて、腰のあたりまで髪を垂らしていた。ジャック・ドアティはすでに実績のあるセッション・ギタリストを使いたがったが、リチャードはその忠告を無視してトニーを雇い、そのこだわりは結果的に彼らのサウンドの芸術面での現状打破へとつながることになる。

問題の曲はカーペンターズにとって重大な分岐点だった。1971年、深夜映画でビング・クロスビーが出演した《リズム・オン・ザ・リヴァー》を見ているうちに、リチャードはそのテーマで頭がいっぱいになった。頂点をめざして躍起になっているソングライターがひらめきを失うというストーリーである。物語のなかに登場するソングライターのいちばん売れた曲というのが〈グッバイ・トゥ・ラヴ〉――実際、映画のなかにはそういうタイトルの曲は出てこないのだが。リチャードは筋立て全体が大いに気にいり、それを記憶にとどめたまま、カーペンターズはヨーロッパ・ツアーに旅立った。

ロンドンに着くと、リチャードは頭から離れないメロディーを書き留め、カリフォルニアにもどるや、すぐさまジョン・ベティスに連絡した。ふたりはただちに曲づくりに取りかかった。最初の2行はリチャードが書いた。
「愛にさよならを告げましょう/私が死のうが生きようが、どうせ誰も気にしてくれないから」
歌詞のテーマはタイトルと出だしの言葉からおのずと決まってくるが、これが奇妙なほどカレンについての自叙伝的な内容となった。ベティスはリチャードのつくるメロディに合わせてストーリーを構築しつつ、自分、カレン、そしてリチャードが体験している感情の真空状態について考えをめぐらせた。
「あの時期、誰ひとりとして意味のある人間づき合いなど期待していませんでしたね。われわれの20代はロマンティックないい時代なんかじゃなかった……みんなじつに空虚な思いにとらわれていました」
ベティスが言う。
そうして、無意識のうちにカレンの心理状態に合わせて仕立てたような、胸が張り裂けんばかりの曲ができあがった。カレンにとっては最高にむずかしい歌となった。なぜならリチャードがフレーズを引きのばし、キーとなる何か所かで息継ぎの間がほとんどなくなったからである。
カレンはその曲にすぐさま心を惹かれ、ジョン・ベティスと兄が創造したストーリーとメロディにのめり込んでいった。ヴォーカルとピアノだけで入る冒頭の部分にきわだって人間味ある効果を添えるため、リチャードははっきりと聴きとれるカレンのブレスを残すことにした。エンジニアのロジャー・ヤングが指摘するように、カレンがつい癖で、マイクロフォンにぐっと接近してきわめて小さな声で歌ったため、彼女の声がもつ“強烈な存在感”が強調されたところへ、リチャードからの〈愛にさようならを〉とその他の曲の深いブレスは削除しないようにとの指示があり、予期しなかった独特な次元がそこに開けたのである。

(つづく)


解説
こうして名曲〈愛にさようならを〉が生まれていきます。

獅子風蓮