獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

東大OB医師の告発 その4

2024-06-29 01:08:13 | 犯罪、社会、その他のできごと

東大OB医師である坂本二哉(つぐや)氏が「鉄門だより」に寄稿した「告発文」についての雑誌の記事を紹介しました。

実は、私も東大医学部のOBですので、毎回「鉄門だより」が送られてきます。
しかし、坂本二哉の記事は、表題も地味だったので、スルーしてしまいました。
慌てて、古紙の束をひもといて該当の記事を探し出しました。

鉄門だより 令和6年4月10日発行(毎月1回10日発行)

晩鐘の時 
坂本二哉氏(1954卒)

その中に、次のような記述がありました。

Kさんは、別の疾患で東大医学部とは古くから非常に縁の深いセンターを受診、そこで後で見ると上述のMVPによる僧帽弁閉鎖不全で手術に失敗、東大に搬送され延命処置を行ったが、冠動脈への過剰な空気漏れという考えられない重大ミスで心筋梗塞を起こしており、救命には至らなかった。事の詳細は最近の朝日新聞にも載っている(2024年3月6日)。もう3年近く経ち、奥様は多くを語られないが、その友人の患者さんはことあるごとにそのセンターの対応を非難しており、また事故原因究明を行わず、再発防止策も講ぜずに診療を継続していることに対し、多くの著名な心臓外科医がそれを批判し、学会でも問題にしていると聞き及んだ。不肖、私の家内もそこで随分ひどい目に遭っていたので、他人事とは思えなかった。

気になったので、該当する記事を求めてネットで検索しました。

これがヒットしました。
一部引用します。


朝日新聞DIGITAL
心臓手術の2カ月後、命落とした兄 無念の弟は医療事故調査を求めた

 予期せぬ死亡事故の原因を調べ再発防止につなげようとする「医療事故調査制度」が始まり、8年。希望しても医療機関側に調査をしてもらえないと無念の思いを抱える遺族は少なくない。医療事故を減らすため、何が今、求められているのか。
(米田悠一郎、編集委員・辻外記子)

 東京都新宿区の国立国際医療研究センター病院で2020年12月、当時72歳だった男性は心臓手術を受けた。

 心臓の弁が閉じず血液が逆流する「僧帽弁閉鎖不全症」という持病があったが、週に1度以上、水泳をするほどで症状はなかった。股関節の痛みで受診したところ、その治療前に心臓の手術が必要と判断された。

 切開の範囲が小さい低侵襲心臓手術(MICS)という方法で、医師からは「年内に退院できる」と言われ、4時間ほどで終わる見込みだった。ところが10時間以上かかった。

「心臓を止めている時間が長くなった。心臓の動きが悪くなっている」。家族は執刀医からそう説明された。3日後、男性は都内の大学病院に転院。心臓の機能は回復せず、約2カ月後の21年2月、息を引き取った。

「医療事故には該当しない」不十分な説明
 15年に始まった医療事故調査制度では、予期せぬ死亡事故が起きた場合、第三者機関の医療事故調査・支援センターに報告。院内で調査して、結果は遺族に説明することになっている。ただし、調査するかを決めるのは、病院長だ。

 遺族は男性の死の直後から病院に対し、制度にもとづく調査を求めた。だが病院側は「このような転帰は可能性として予期された。医療事故には該当しない」などと説明。遺族が再度求めても十分な答えはなかった。

 対応を問題視した日本心臓血管外科学会の高本真一名誉会長は、22年9月の学会誌で、心臓を守る心筋保護液が正しく注入できていなかった疑いなどを指摘し「病院の判断に大きな疑問が残る」と批判した。

 病院は22年10月、センターに医療事故として報告。調査を始めた。院内での調査結果をまとめた報告書には、死亡から報告までに1年以上かかったことは触れられていない。男性の弟は一連の対応に不信感を募らせる。「隠すつもりだったのではないか」。遺族は昨年12月、国立国際医療研究センターと当時の執刀医を相手取り、損害賠償を求める裁判を東京地裁に起こした。

 病院側は朝日新聞の取材に対し、「係争中のためコメントは差し控える」としている。(米田悠一郎)


遺族「納得できない」
 この制度の目的は、個人の責任追及ではなく、再発防止や医療の質向上をめざすものだ。センターに報告するかどうかは医療機関が判断し、遺族側に決定権はない。報告数は年300件台で推移している。

 医療事故の当事者や家族でつくる「医療過誤原告の会」は23年11月、制度開始から7年間に起き、制度の対象になるとみられる医療事故の遺族を対象としたアンケート結果を公表した。

 相談があった194家族のうち、約3割の59家族が回答した。「センターに医療機関が(事故を)報告をしたか」の質問に「報告した」と答えたのは8家族。うち5件は遺族からの要望を受けての報告だった。41家族は「しなかった」と答え、その理由は「(医療機関側から)事故ではないと否定された」が最多。「説明がない」「過失がない」などだった。

 「事故報告しないという説明に納得できたか」の問いに答えた33家族中、31家族が「納得できない」と答えた。医療機関に望むことは、「遺族が事故を疑って医療機関に申し出た場合、センターに報告してほしい」が最多。「家族の死を無駄にしないでほしいという遺族の気持ちを尊重してほしい」「再発防止策を示してほしい」と続いた。

 宮脇正和会長は「医療機関が調査を始めるかを判断する現状のままでは、一部の病院しか調査しない状態が続き、泣き寝入りする遺族が減らない。再発防止推進のために制度をもっと周知し、遺族の声を聞く公的な窓口をおくとともに、遺族側の求めで調査を開始できるようにしてほしい」と話す。

 報告数の格差は、データからもみてとれる。センターを運営する日本医療安全調査機構によると、人口100万人あたりの報告数は全国平均で年2・8件。最多は5・3件の宮崎で最少は1・1件の福井。医療事故が少ないために報告されていない可能性もあるが、5倍近くの開きがある。

 医療事故に詳しい堀康司弁護士は「調査に積極的な施設と消極的な施設とで極端に分かれ、まだらの状態」と指摘する。制度では、調査すべきか迷う場合、医療機関はセンターに助言を求めることもできる。だが「報告を推奨する」と助言されても、報告・調査しない事例も少なくない。

 一方、堀さんは「調査を重ね患者側と信頼関係を構築できている施設もある」と述べ、「医療の信頼性向上のために透明性を高めることが出発点だったはず。調査しない医療機関を公表するなど、何らかの手立てが必要だ」と語る。

 日本心臓血管外科学会元理事長の高本真一名誉会長も、院長が判断する現状の制度では不十分と指摘。「院長が事故に詳しくなく、病院組織を守ることを優先してしまうこともある。死亡事案が起きた際、専門学会に依頼して判断を仰ぐようにすれば改善につながる」

 運営側はどう受け止めるか。日本医療安全調査機構の木村壮介常務理事は「どの施設でも同じ判断がされるとの期待があるが、そうなっていない実態の表れ」と話す。

 どうすれば改善できるか。医療機関は調査するかの判断について、地域の医師会など支援団体に相談ができる。木村さんは格差の背景に支援団体の意識の差があるとし、「医療機関の相談にのったり、講習会を開く事業を医師会が積極的にしたりする地域は報告数が多い。こうした事業を促すことが重要だ」と話す。(編集委員・辻外記子、米田悠一郎)

 

 


解説
 15年に始まった医療事故調査制度では、予期せぬ死亡事故が起きた場合、第三者機関の医療事故調査・支援センターに報告。院内で調査して、結果は遺族に説明することになっている。ただし、調査するかを決めるのは、病院長だ。

せっかく「医療事故調査制度」という素晴らしい制度を作っても、病院側に調査する意思がないのでは、医療事故の被害者は浮かばれませんね。

坂本二哉先生の告発が、この問題の解決に一石を投じることになればと思います。


獅子風蓮


東大OB医師の告発 その3

2024-06-28 01:06:13 | 犯罪、社会、その他のできごと

東大OB医師である坂本二哉(つぐや)氏が「鉄門だより」に寄稿した「告発文」についての雑誌の記事を紹介しました。

実は、私も東大医学部のOBですので、毎回「鉄門だより」が送られてきます。
しかし、坂本二哉の記事は、表題も地味だったので、スルーしてしまいました。
慌てて、古紙の束をひもといて該当の記事を探し出しました。

貴重な資料になるかもしれませんので、全文を引用したいと思います。
(読みやすいように、適宜見出しをつけ、改行しました。明らかな誤字脱字は訂正しました)


鉄門だより 令和6年4月10日発行(毎月1回10日発行)

晩鐘の時
坂本二哉氏(1954卒)
(つづきです)

肉親も医療過誤に
個人的なことを申すのは気が引けるが、私の長兄も東大での不作為によって死亡した。精神科医の兄はC型肝炎患者に噛みつかれ、十年ほど後に皮膚の奇病発症。結局、C型肝炎起因の肝癌のためとされ、東大消化器科で2~3年に亘り繰り返しラジオ波焼灼を受けかなり緩解したが、毎度便潜血が陽性であることを気にした兄が消化管検査を依頼したところ、その返事は異様であった。「消化器専門医」の返答は「消化管には興味が無いもんで」。兄はその言葉に驚き帰郷、検査結果は末期胃癌、緊急手術は勿論無駄であった。死亡後、その医師は新年会で先輩たちや医局員の前に名乗り出て私に陳謝したが、以前から尊敬していた医師で、その真摯な態度を汲み、更にその場にいた教室主任のメンツもあって、それ以上の追及を諦めた。むしろ少なくとも2年以上長生き出来たことに対し、その医師には感謝すべきだと強く自制した。
同じく精神科医の末弟の死も医療ミスの結果だった。患者思いの彼は倒れ、働き過ぎと動脈硬化症として勤務先の神経疾患専門のセンター病院に入院。暫くして見舞に訪れた私は脈を触れて絶句する。手元の温度板には体温と脈拍数が表示されているが、明らかに心房細動だ。看護婦に詰問、いい加減な記入の告白を聞き、婦長は陳謝した。しかし血栓症の疑いがあるにもかかわらず、循環器医にも見せず、対処もしないので転院のため一旦退院。その夜半に胸痛発作、駆け付けると急性心筋梗塞の兆候、救急車で一時間ほど掛けて三井記念病院へ急行、知らせを受けてすべてのスタッフが待機、結果は冠動脈血栓で、血栓溶解剤で血栓がころころと溶けて行くのが見えて、症状は實解した。だが、その後の医師はワーファリン投与時、弟の三度々々の納豆摂取に注意するのを怠り、結果として巨大脳梗塞を起こし、死を迎えた。病歴採取のずさんさと毎回の採血検査結果への侮りが不幸な結果を招いたとしか考えられない。妙な因縁だが、私はそのセンター元・総長の父上の東大角帽を引き継いでおり、元・総長には東大入試以来何かとお世話いただき、弟の就職にもその関係が大あり、気弱な私はそれ以上何も言うことが出来なかった。

日本の専門医制度の問題
時代は下る。大学を去って市井の病院や診療所通勤となると、一兵卒となって自由度が増す。危険な事態も激減した(かに見えた)。いろいろな会に出席して毎度批判めいた議論をしたりして楽しんでいるとき、びっくりするような会話を耳にした。「僕のところなんか、心タンポナーデなんかしょっちゅうだよ」。冠動脈検査用のカテーテルが動脈を突き破るという事態は滅多に見られないが、そこの病院ではそうしたミスがよく起きるという。振り返ると東大循環器内科の教授であった。私は恥ずかしくなってその場を離れた。聞くところによると、専門医の資格を得るために、患者が実験対象になっているという。
私は日本の専門医制度を根本から疑問視している。それはアメリカ留学時のそれと全く違う。その昔、私はある学会の理事長として同類の学会から半ば強制的な勧誘を受けたが、その話だけで専門医制度を疑問視し、強硬に断った。某学会では巨万の富を得て巨大ビルを占有し、あるいは帝国ホテル別館の一フロアを占拠して、理事たちは優雅に振舞っている。公金横領で除籍された理事もいる。一般会員は言わば献金団体各位、学問的に得るところはほとんど無い。

MVP閉鎖不全例での考えられない手術失敗例
私の所属する日本心臓病学会は、おそらく日本でただ一つ、専門医制度を持たない患者本位の臨床医学に直結した学術団体で、その代わりの制度と言うか、ほぼ十年以上の臨床や学会発表経験を持ち、患者対応、人格なども考慮、会員層からの推薦、厳重な審査、審査員全員の賛同を得て特別会員の資格(Fellow of the Japanese College of Cardiology, 国際的に FJCC, 論文に明記) を授けている。新任は年に20数名程度だが、学会司会などの中枢的な業務を行い、学会参加費は不要、数々の特典も与えられている。College であるから半分は教育で、研究会や教育も毎年行われる。
その中で、私はかつて僧帽弁逸脱症候群(MVP)の研究会を5年に亘り司会し、基礎から手術的治療に至る迄、63論文と討論、総計705頁、全5冊を出版、その内容は招待論文としてアメリカのエンサイクロペディア的書物に掲載され、アメリカ各紙の絶賛を浴びた。そういう患者さんのデータは大規模な学童・生徒健診や米国進駐軍、あるいは外来患者から集められ、弁閉鎖不全例は手術に回された。弁置換をしないで矯正手術をする岩手医大にも多くの患者が送られ、そして手術失敗は皆無、現在も皆さん元気でいる。
なぜこんなことをわざわざ記すかと言うと、近年、MVP閉鎖不全例での考えられない手術失敗例を、私の外来患者さんから聞かされたからである。都内で確実な心臓手術を行える施設はそう多くはない。いつぞやは東京の某医大で助教授が4例立て続けに弁膜症手術に失敗し、死亡させた事件があった。東大でも似たようなことがあった。
その患者さんの御亭主Kさんは、別の疾患で東大医学部とは古くから非常に縁の深いセンターを受診、そこで後で見ると上述のMVPによる僧帽弁閉鎖不全で手術に失敗、東大に搬送され延命処置を行ったが、冠動脈への過剰な空気漏れという考えられない重大ミスで心筋梗塞を起こしており、救命には至らなかった。事の詳細は最近の朝日新聞にも載っている(2024年3月6日)。もう3年近く経ち、奥様は多くを語られないが、その友人の患者さんはことあるごとにそのセンターの対応を非難しており、また事故原因究明を行わず、再発防止策も講ぜずに診療を継続していることに対し、多くの著名な心臓外科医がそれを批判し、学会でも問題にしていると聞き及んだ。不肖、私の家内もそこで随分ひどい目に遭っていたので、他人事とは思えなかった。そしてひょんなことから、死亡例の弟御が鉄門の後輩であり、またその血縁に医学部の恩師福田邦三生理学教授や憧れの哲学者・出隆東大教授がおられることを知り、他人事とは考えられなくなった。そして一方では、時代が変わっても一部の医師には依然として昔のような隠蔽気質が残っており、それが鉄門の医師たちでもあることを知りとても悲しくなった。これは隠匿と言うより背徳である。残念だが許せない。
義を見てせざるは勇無きなりと言う。私は率先して関係する会に出席し、さらなる最近の実情を知って驚愕した。不審な事態は「医療事故調査制度」に報告する然るべき慣例があるのだが、それを順守している病院は微々たるもので、よしんば患者からの要請があっても、真面目に応じる病院は稀であり、皆、逃げ口上に終始している。医療の風上にも置けない状態と言っていい。
土台、実験的な手術(これは医学の進歩のために欠かせない)ならばいざ知らず、既に確立された手術手技を施行する際、「万が一を想定する」というような誓約書に患側の署名を要求するとう医療制度はおかしいのではないか。それなら医師側に対して患者側から「手違いや(死亡も含めて)患者側に万が一のこととがあればいかに対応するか」という具体的な対処を求める誓約書があって然るべきである。そうすれば、医師側は否応なく謙虚になり、更に真剣に対処するようになるのではないか。

今こそ破邪顕正の剣を
現今、医師の「上から目線」がちらついていて気になる。私の家内の場合は、同じセンターに緊急入院し、数十日も遅れてから呼び出され、5時間も待たせられた挙句、暗がりで誓約書を読む暇も無く、「とにかく早く署名捺印せよ」で押し切られた。乱暴なセンターで、術後の説明もほとんど無く、電話すると「うるさいな」で終わりであった。明らかに「手術してやったのだから後はかれこれ言うな」という態度で、私は呆れ、更に数十日経って、退院許可を出したがらない病院側を無視して強引に転院させた。3ヶ月ほどの絶食、寝かせきり状態で手足は硬直化し、家内はミイラ状態となっていた。
このように、医師の無責任体質と隠蔽体質は残念ながら昔も今も変わらない。今現在、事故は間断なく発生し、しかも巧妙に隠蔽され、患者が臍を噛む事例がほとんどである。
今般のKさんの手術ミス事件には、病院側に加担する海千山千の鉄門医師たちもいるが、大方の善意の医師は手術の失敗を指摘している。しかし半ば傍観的で、孤軍奮闘してでも、積極的に膺懲の剣を取ろうとされる権威者は残念ながら多くはない。だが本来慈悲深い人間であらねばならぬ医師が、弱い者いじめの権威至上主義の徒であってはいけないのだ。
老躯のわが身は、鉄門諸君が破邪顕正の剣をかざし、声を大にして立ち上がって欲しいと念願する。今まさに不正の医師を弾劾すべき時である。そうでなければ、心配の種が尽きぬまま、無念残念、私はあの世へ旅立つことになってしまうのである。

 


解説
聞くところによると、専門医の資格を得るために、患者が実験対象になっているという。

ここは、厳しく追及してほしいと思います。専門医制度の問題点として……


老躯のわが身は、鉄門諸君が破邪顕正の剣をかざし、声を大にして立ち上がって欲しいと念願する。今まさに不正の医師を弾劾すべき時である。

鉄門の先輩である坂本二哉先生が「破邪顕正」という言葉を使っているのに、少し驚きました。
「破邪顕正」という言葉は、日蓮系の宗教教団でしばしば使われる言葉だからです。
ネットの辞書で調べると「破邪顕正」は仏教語と出ます。『三論玄義』が出典だそうです。でも、日蓮系に限った言葉ではないようですね。

獅子風蓮


東大OB医師の告発 その2

2024-06-27 01:22:36 | 犯罪、社会、その他のできごと

前回、東大OB医師である坂本二哉(つぐや)氏が「鉄門だより」に寄稿した「告発文」についての雑誌の記事を紹介しました。

実は、私も東大医学部のOBですので、毎回「鉄門だより」が送られてきます。
しかし、坂本二哉の記事は、表題も地味だったので、スルーしてしまいました。
慌てて、古紙の束をひもといて該当の記事を探し出しました。

貴重な資料になるかもしれませんので、全文を引用したいと思います。
(読みやすいように、適宜見出しをつけ、改行しました。明らかな誤字脱字は訂正しました)


鉄門だより 令和6年4月10日発行(毎月1回10日発行)

晩鐘の時
坂本二哉氏(1954卒)

患者思いの開業医だった父
小生は、多くの同級生が幽明境を異にし、残りは鉄門名簿で一頁半にも足りず、寥々たる数となっては同窓会など夢のまた夢となった。
私の父は北海道は霧の街釧路の開業医、5人の息子はそれぞれ医師となったが、長男と末弟は病院医師の不注意で疾病を見落とされ、かつその後の検査・治療を閑却されて死去、そして次男の私も多病、年がら年中病気にかかって残すところ幾ばくも無い。
長兄が中学入学の際、父は子どもたちにとても広い自分の書斎を与えたが、部屋の壁には絵画好みの父がどこかで手に入れたミレーの「晩鐘」が飾られていて、農民夫妻が夕べの祈りを捧げていた。画面が汚れていたせいか、その薄暗い絵の印象はまさに今の私にぴったりである。
父は街の人にとり慈父のような存在で、私は子どものころから医師と患者との睦まじい交流をよく見て来た。その父は診察中に眼底出血で倒れたが、その日の臥床後間も無く往診依頼があり、「どちらも患者、その場合は?」と言う往診を示唆する母のきつい言葉を最後迄聞くことなく、父は廊下の壁を伝わって往診、帰り際、病院玄関で倒れ、そのまま不帰の客となった。58歳だった。脳室を含む大出血で、火葬時、拳大の凝血塊を見た。その父は私の打った「鉄門ついに我が足下に服す 戦い勝てり 舞わんかな 歌わんかな」という合格電報で、診察中に聴診器を落とすほどの喜びを味わい、その翌日、釧路市初めての東大医学部合格者の親として皆さんが父母を祝ってくださったと後で聞いた。実は母からは北大受験を約束させられていたのに、家には内緒の東大受験で、「鉄門」が東大医学部であることなど誰も知らず、その意味を知っていたのは京大医学部出身の父だけだった。

東大に入り第二内科に入局
だが患者に慕われる父を見て育った私は、入局後、極度の不信に陥った。まるで表と裏、医師と患者との考えられないほどの葛藤、相克がそれだった。よく言われたが、「医師と看護婦の専横を許容し、過酷な検査に耐え、不味い食事を我慢するだけの『健全な』身でなければ東大病院には入院出来ない」というのは半ば事実であった。そしてわが身もそれに従わされ、回顧すればするほど、患者に対して優しくするよりはいかに過酷な態度を取って来たかという自分に対し、未だに深く自責の念に駆られているのである。
顧みると昭和30年初頭迄の入院患者は実際可哀想であった。一般家庭にはまだ電話が無かったから、入院は電報通知で慌てて駆け込み、ベッドは藁ベッド、布団、枕など一式は当時の好仁会から一日幾らかで借り受ける。冷たい食事は8、12、16時の4時間おき、大部屋はカーテンなど無く10~12人部屋、個室にもトイレや風呂は無く、入浴は小さな風呂で週2回の順番待ち、無論テレビは無く、ラジオは無音。野外に好仁会喫茶はあったが患者はまず利用無用。これでは強制収容所に等しく、窓からの飛び降り自殺もあった。また患者に対し、あえて苗字を呼ばず、「お前、貴様」などと呼ぶ医師とは、時として病室前の洗面兼料理台でこっそり不法な調理をしている患者などとの刃渡り喧嘩さえあった。大きな当直室でマージャンに熱狂していて、臨終に立ち会えなかった不埒な医師もいた。
ここで乾坤一擲、清水の舞台から飛び降りる覚悟で言えば、内科での検査死亡、あるいは今様に言えばヒヤリハットがとても多かったということである。私自身の患者で言えば、管を通して向こうが見えるような生検針での肝穿刺で腹腔内出血死、心カテ死(1例は全共闘が中央検査室に迫って罵声を挙げ、青年患者が驚いて飛び跳ね、そのまま死亡)、注射容量を命じられるままに実に十倍量注射して突然死、逆に1/10量の注射を続行させて無効・死亡(規定量の投与でも死亡していたかも知れないが)、胸腔穿刺で大量喀血(明らかに肺動脈損傷)、脊髄穿刺での下半身麻痺も見た。胃穿孔を起こしていることを知りながら緊急手術を待たせ、バリウムが腹腔内を走る写真を求めて検査を強行、続く手術時、外科医に対してバリウムの流れを追って行けば穿孔箇所が分るよと自慢した医師、許せないと思ったが、勇気の無い駆け出しの私は為す術も無かった。その医師は自慢屋だったが、心筋梗塞患者を胃潰瘍と誤ってバリウム胃透視し、患者は突然横倒れになって死亡した。もう少し早く来院していれば助かったのにという偽証が家族への説明(申し開き)であった。黒板には「死亡」ではなく「上がり」と書かれた。私はそのとき初めて上司に噛みつき、消化器検査係を罷免された。
受持医はその度に八方駆けずり回るが、恐るべきことにいずれも何事も無かったかのように処理されていた。受持医は内心ホッとするが、とても納得出来なかった。肝生検例の奥さんは看護婦で剖検を希望したが、私は最後迄拒否することを命じられ困惑した。大変納得し難い顔で引き下がった家族に対し、今もって胸が痛む。13名の同級入局者の一人でさえこういう事態であるから、全員ではではどうなるか、考えるだけでもぞっとする。そしてそのような事件を起こした多くの先輩が、その後、教授として後輩の指導にあたっておられたことは脅威でもあった。
手術に回した患者(殊に心疾患)は多いが、ここにもなお今もって胸を痛めている数々の患者がおり、想起すると意気阻喪して語りたくもなくなるが、でも懺悔せざるを得ないのである。特に大学の秩序が乱れた東大紛争後は酷かった。
大動脈弁操作中、誤って肺動脈迄傷つけて出血死した青年。また二弁置換はまだ無理とされ ていた時代、患者(大学生)の前途を危惧し主たる大動脈弁置換のみと断っていたにもかかわらず、手術室の台上には予め二種の人工弁が置かれていた。大動脈弁置換が終ったと思ったら、予定外の僧帽弁置換が始まっており、結果としては心拍が再開せず死亡した。教授はどこかに去ったが、室内の関係者は私も含めて数時間室内待機、その後、懸命に努力したが死亡(と誤魔化して)、家族が納得しない例もあった。患者の兄が弁護士で訴え出、証人の私も東京地裁に出頭したが、やはり教授の発言は強く、裁判長は無名の医師よりも教授の意見を重く見、患者側は敗訴。兄は怒って入院・手術費支払いを拒否したが、最終的には執行官の取り立てで田舎の父の小さな書店は釘付け閉鎖に追い込まれた。
一番ひどく泣いたのは5歳女子のファロー四徴症手術過誤死だった。手術が終わって帰室する際、気管内挿管が緩んでいるのに気付いた医師が搬送中に歩きながら再挿入し、それが気管を突き破り、以後、酸素濃度が下がって行くのを見て慌てたが後の祭りだった。葬儀では父親から「お前が殺したのだ」と怒鳴られ、「起訴を……」と言いかけたが玄関から追い出された。そしてその後、外科側からの説明や謝罪は全く無かった。
大学の他の科でもおかしいと気付き始め、君子危うきに近づかずとばかり胸部外科送りは頓挫し、私はそれ以後、すべての患者を新潟のA教授の許へ送っていた。

(つづく)


解説
昔の東大病院ではありますが、患者を人間とも思わない一部の医師の態度に、私も憤りを感じます。

 

獅子風蓮


東大OB医師の告発 その1

2024-06-26 01:37:49 | 犯罪、社会、その他のできごと

d-マガジンでこんな記事を読みました。

引用します。


週刊現代2024年6月22日号

同校OB・日本心臓病学会創立者が決意の告発
知人の兄の医療事故を 契機に「告発」を決めたという坂本氏
「東大病院よ、
医療ミスを隠すな!」

日本の医療界の中枢に位置する東大病院。
坂本氏の声は届くか

歴史ある東大名門クラブの機関紙に突然掲載された長文。そこに記されていたのは、医学界を震撼させる告発だった。いったいなぜ医師はこの手記を寄せたのか。医学界の改善を願う本心を聞いた。

一言申しておきたい
〈老躯のわが身は、鉄門諸君が破邪顕正の剣をかざし、声を大にして立ち上がって欲しいと念願する。今まさに不正の医師を弾劾すべき時である〉
「鉄門倶楽部」の機関紙「鉄門だより」の最新号にこんな「告発文」が掲載され、医学界を震撼させている。
鉄門倶楽部は東京大学医学部のOBと学生らによる親睦団体。旧東京帝国大学医科大学時代の1899年に創設された。
役員はすべて東大医学部の卒業生。現東大医学部長の南學正臣氏と、東大医学部附属病院長の田中栄氏が会頭、副会頭を務め、國土典宏・国立国際医療研究センター病院理事長など医学界の実力者らが理事に名前を連ねる、いわば「オール東大医学部」の団体だ。
その歴史ある団体の機関紙に「告発文」を書いたのは、坂本二哉(つぐや)氏(94歳)だ。'54年に東大医学部を卒業して、第二内科に入局。シカゴ医科大学などで研鑽を積み、東大医学部講師などを経て'90年に東大健康管理センター教授に就任するなど、長く東大の医療機関に従事してきた。また日本心臓病学会の創立理事長でもあり、心臓手術に関係する著作も多数ある。
今年5月まで霞が関ビル診療所で患者を診療してきた坂本氏が鉄門倶楽部に寄稿した文章は、表向き回想録の形をとってはいるが、
〈大動脈弁操作中、誤って肺動脈まで傷つけて出血した青年がいた〉
といったように、坂本氏が見聞きしてきた「医療事故」について詳細に記されているのだ。
「鉄門だよりは東大医学部OBの近況や行事を伝える記事がほとんど。このような記事が載るのは前代未聞です」(東大医学部関係者)
東大OBが機関紙にこの記事を寄せたのはなぜか。その意図を坂本氏はこう語る。
「私は長年の経験の中で、医療事故を隠蔽する医師をたくさん見てきました。ここに記したのは私が過去に見聞きしたケースですが、時代が変わっても一部の医師には依然として昔のような体質が残っています。残念であると同時に許せないと思い、医学界に一言物申しておきたい、と筆を執りました。
他の大学や大きな病院は、東大のやることを注目しています。今回東大の恥部を露にしたのは、まずは東大が変わらないと日本の医療界は変わらないと考えたからです」
坂本氏が執筆した医療事故の中身は衝撃的だ。
まず、坂本氏が入局した昭和30年代の東大第二内科(心臓・循環器)の医師らの感覚に驚かされる。坂本氏によると〈患者に対し、あえて苗字を呼ばず、「お前、貴様」などと呼ぶ医師〉が幅を利かせていたというのだ。その中の1人の、異様にプライドが高い医師が医療事故を起こした。当時消化器検査係だった坂本氏いわく、「自慢屋」の医師が心筋梗塞患者を胃潰瘍と誤診し、検査入院していた患者の胃にバリウムを入れて透視検査をしたところ、患者が「突然横倒れになって死亡」したというのだ。
さらにこの医師は、突然の死に呆然としている遺族に対し「もう少し早く来院していれば助かったのに」と平然とうそぶき、伝達事項を伝える医局の黒板に「上がり」と書いたという。
「死亡ではなく『上がり』と書くとは、本当にショックでした。むろん『一丁上がり』の意味で、患者を物扱いするようで心が痛みました」(坂本氏)


5歳の女児が死亡
また、昭和33年頃には別の医師が肝臓の生検中に男性患者を大量出血死させたこともあった。予期せぬ夫の死に、妻は納得せず、遺体の解剖を強く要求。だが検査担当の講師が最後まで解剖を拒否し、真相は解明されなかったという。
坂本氏が当時の状況についてこう証言する。
「私が見た医療事故と思われるケースはすべて表沙汰にはなりませんでした。当時は上司の指示や命令は絶対で、下が“おかしい”と言っても左遷されるのがオチ。だから皆沈黙せざるを得ず、表に出なかったのです。現に私は『自慢屋』の行為を組織内で批判した途端、上司から消化器検査係を罷免されましたから」
こうした実態を目の当たりにして、坂本氏は「極度の不信」に陥った。というのも坂本氏は、患者に慕われる医師であった父を見て育ったからだ。
坂本氏の実家は、北海道釧路市で唯一の私立病院を経営していた。おカネに頓着せず、無料で診察することもしばしば。父は診察中に眼底出血で倒れたが、それでも依頼に応じて往診に出かけ、病院に帰り着いた直後に玄関で急死した。患者を物扱いするような医師とは天と地の差があった。
「医療は患者のためにあるもので、その逆ではない。それを父の姿から学んでいたので、当時の東大病院の体質に強い違和感を覚えたのです」
東大病院では、第二内科から手術のために外科に回した患者が亡くなることも再三あったという。最も悲惨だったのは、坂本氏が担当した5歳女児の死亡事故。外科手術が終わって帰室する際に、ある医師が搬送用ベッドの女児の気管内挿管が緩んでいることに気づくと、「歩きながら再挿入」したため、「それが気管を突き破った」というのだ。
「私の長女と同い年でした。帰室後、その子が血を吐き、気管が突き破れたことがわかりましたが、手の施しようがなく死亡した。私は上司の指示で事実を隠したものの、良心の呵責に耐え切れませんでした。真相を話すため葬儀に行ったのですが、父親に『坂本先生は逃げた』と言われて追い返された。いま思い出しても胸が痛みます」
坂本氏は、この女児の写真をいまも自分のアルバムに残している。


健全な世界を作ってほしい
昔の話ばかりではない。6年ほど前、坂本氏は、ある会合で同席した循環器内科の教授の発言に衝撃を受けたとも記されている。冠動脈検査用のカテーテルが動脈を突き破る事故が、 その教授の病院ではよく起こっているというのである。
「会合では様々な情報交換を行うのですが、その教授は何気ない会話のなかで、カテーテルが冠動脈に穴を開け、血液が心嚢に溜まって死に至ることもある『心タンポナーデ』が珍しくない、と平然と言い放ったのです。そんなことは滅多に起こらない事故です。耳を疑いました」
こうした坂本氏の告発について、東大医学部を卒業し、現在は東大名誉教授の髙本眞一氏もこう証言を加える。
「坂本先生の告発文を読みましたが、その中に書かれた医療事故の事例の一つは私も聞いたことがあるものでした。医療・手術はパーフェクトではないことを前提としたうえで、大切なのは、医師が患者中心の医療を行い、万が一事故を起こしても隠さないことだと改めて思いました」
坂本氏が経験したのは患者の医療事故だけではない。実は坂本氏の兄と弟はがんの見落としなどの医療事故で死亡しているのだ。また、坂本氏の妻も病院側の杜撰な対応のせいで衰弱死しかかり、いまも意識が戻っていない。
家族が犠牲になったことも「告発」を決心する一因となったが、最も大きな動機となったのは、最近起こったある医療事故に対する憤りだ。
「実は今年になって、知人の兄が国立国際医療研究センター病院の心臓血管外科で、僧帽弁閉鎖不全症の手術中に心筋梗塞を起こし、'21年に死亡したことを知ったのです。これは医療事故だと私は考えています。同病院の理事長は鉄門倶楽部理事の國土氏、院長と執刀医も東大OBです。
この事件に触発されて、今年2月に医療事故の被害者団体のシンポジウムに初めて参加し、改めて、医療事故被害者の声が医療界に無視されていることを痛感しました」
この医療事故については、遺族が昨年12月に同病院の運営法人と執刀医を民事提訴し、今年3月には執刀医を刑事告訴している。坂本氏はその経過を見守りながら、医療界全体にこう訴える。
「医療事故は現在も完全にはなくなっていませんし、表になることはまれです。私の告発を機に、事故が一つでも減ることはもちろん、今後起きてしまった場合には過ちを隠さず認め、一刻も早く公表し次の医療に生かす。東大病院が先頭に立ち、より健全な世界を作ってほしいのです」
坂本氏の決意の告発は、医療界の中枢に届くだろうか。
(取材・文/長谷川学)

 


解説
私は東大医学部卒業の医師ですので、「鉄門倶楽部」の機関紙「鉄門だより」が毎号送られてきます。
その記事のことがとりあげられているので、ちょっと驚きました。
でも、いつも「鉄門だより」はざっと見出しに目を通す程度ですの、該当する記事は見逃していました。
家に帰って、さがしてみることにします。


獅子風蓮


『脳外科医 竹田くん』の恐怖 その6)

2024-05-10 01:09:48 | 犯罪、社会、その他のできごと

マンガ『脳外科医 竹田くん』についての記事の続報になります。


d-マガジンから引用します。


週刊現代2024年5月11日号


医療スタッフが決意の告発「このままでは、また死人が出ます」
危ない脳外科医が
大阪の病院で働いている!
急患の骨折を見逃す/キズを縫合中、看護師の指に針を突き刺す/
カテーテルは失敗の連続/患者の情報を取り違える/
仮眠室やトイレで飲酒・喫煙

名門病院の救急部門に、去年やってきた中堅医師。着任からまもなく、現場は大混乱に陥った。その正体が、医療界を激震させている、あの「脳外科医」だったとは――。
恐怖の内部告発スクープ。

(つづきです)

「僕は診ない」といなくなる

A医師は救急部門の中核を担い、多くの看護師・救急救命士に検査や治療の指示を出す立場にあるが、その指示もデタラメだった。7月には、こうした報告が上がり始める。

〈患者診察をせず様々な検査オーダーを入力しており、なぜその検査が必要なのか分からないことが多々ある〉

〈間違えて(検査を)オーダーしていることがわかった。担当の(別の)救急医に不要と確認しキャンセル〉

まともな診察をしないまま、患者を入院させることも頻繁にあった。

〈患者様到着後(A医師は)8分で診察を終了された。この間一度も患者に近づくことなく触診どころか問診もなし。(中略)患者の顔も見ない、話をしない、触診もしない、検査データも見ない、レントゲン画像も見ないで入院となることがある〉

あげく7月末には、患者をさばききれず、症状・病状のデータを取り違えるミスまで起こした。困り果てたスタッフが他の医師を頼ると、A医師は露骨に不機嫌になる。昨年11月に、スタッフがある患者を循環器内科の医師に診てもらうよう提案したときには、

〈「僕が診ている患者なのにコンサル(相談)依頼するなんて失礼だ」(中略)「そんなの僕は知らない。それなら僕は診ない」と、まったく聞き入れてくれず。患者を放置し自室へ戻りその後は一度も患者を診ようとしなかった〉

と、院内で行方をくらましてしまった。さらに別のスタッフが憤る。
「私がいちばん許せなかったのは、昨年12月、発熱で運ばれてきた高齢の患者さんに、カリウム製剤を大量投与するよう指示したことです。カリウム製剤は命にかかわる副作用を起こすことがあるため、慎重に投与するのが当たり前です。
現場スタッフは『先生、それはできません』とはっきり意見しましたが、A先生は聞き入れない。『それでもやると言うなら、ご自分でお願いします』と言うと、先生は休憩室へ引っ込んでしまった。愕然としました」
この頃には、A医師の行状、さらに彼が『脳外科医 竹田くん』のモデルとなった医師であることは院内に知れ渡っていた。同時期、有志が職員アンケートを実施して院長に提出したほか、A医師の懲戒や退職を求める声も上がっている。

〈各患者の把握が全くできていない〉

〈何度も意見したり報告書を提出してますが、何も状況変わらない〉

〈カリウムの急速投与未遂やスタッフへの針刺し事故など今までの医師とは明らかに違う。患者の安全だけでなく、スタッフの安全も脅かされる〉

紙幅の都合で書ききれないが、A医師が招いた深刻なトラブルについて、半年あまりで30件以上の報告書が作成された。
「A先生の下にいれば、いずれ重大な医療事故が起こる。そのとき、責任を取らされるのは看護師や救急救命士といった現場スタッフです。資格を剥奪されるかもしれない不安から、すでに別の病院へ移った同僚もいます。なにより、何も知らずに搬送され、A先生の診察や処置を受ける患者さんに申し訳ない。徳洲会を愛する職員として、一刻も早く出ていってほしい」(冒頭のスタッフ)


なぜか幹部は「全力擁護」

メチャクチャなのは、診察や治療だけではなかった。救急医であるにもかかわらず、A医師は着任直後から毎日のように遅刻し、電話をかけても出ない。朝8時から勤務開始のところ、平気で9時過ぎに出勤し、患者情報の引き継ぎもままなら ないことが多発した。
ひどいことに、院内で酒まで飲んでいたようだ。
「仮眠室をA先生が使ったあと、ウイスキーの瓶やチューハイの空き缶が置きっ放しになっている。出勤するとすぐ仮眠室へこもり、トイレの個室でタバコを吸い、定時の19時より早く患者を放り出して帰宅してしまう。人として最低限のルールさえ守れないのです」(同前)
なぜ吹田徳洲会病院は、A医師を雇い続けるのか。キーパーソンと目されるのが、病院の顧問で救急部門長を務めるM医師だ。「日本の救急救命医療の第一人者」と言われる名医で、ある参議院議員の父でもある。
実はM医師は、以前A医師が勤めていた医誠会病院の元院長で、昨年に吹田徳洲会病院へ移った。
「M顧問がA先生を連れてきたことは、院内では公然の秘密です。顧問には多くのスタッフが問題を直接訴えていますが、強く咎める様子もない。あげく、院長が朝礼で『みんなでA先生を支えましょう』などと言い出す始末。なぜか病院の上層部は、総出で彼を守ろうとしているのです」(同前)4月下旬の某日夜、帰宅したM医師を直撃すると、憤りつつこう語った。
「あなた(記者)の見解は結論ありきになってしまっている。彼がそんなに飛び抜けた(悪い)存在か、という疑念もあっていいと思うんだよね。こういう待ち伏せ的な取材は、僕はやられたくないんだ。本当に卑怯だと思う。本当に失礼だ」
また、吹田徳洲会病院に取材を申し込んだところ、高橋俊樹院長が自らこう答えた。
「A医師の赤穂市民病院でのトラブルは、採用時にM顧問から報告を受けていました。昨年3月に面接した際、彼自身も説明してくれた。汗をかきつつ必死に話す彼の言葉を聞くと、患者さんへの謝罪の気持ちと、手術への熱意が感じられました。今は、侵襲がない治療だけを担当する立場で、常にM顧問や私の指導が入る状態で勤務させています。ご指摘のミスは、医師なら誰でも判断に迷うようなもので、彼の責任とはいえません。
たしかに遅刻や喫煙については、なかなか改善されなかったため、この3月にスタッフを集めた説明会を開き、その場で私が叱責しました。ですがA医師は今、一人前に成長しつつあります。われわれには彼を教育する使命があります」

取り返しのつかないことになる前に、一刻も早く対策を講じるべきだ。


解説
吹田徳洲会病院に取材を申し込んだところ、高橋俊樹院長が自らこう答えた。
「A医師の赤穂市民病院でのトラブルは、採用時にM顧問から報告を受けていました。(中略)……ですがA医師は今、一人前に成長しつつあります。われわれには彼を教育する使命があります」

私も徳洲会の病院の院長をしていたことがあるので、吹田徳洲会病院の高橋俊樹院長のつらい立場はよく分かるつもりです。
どんな出来損ないの医師でも、成長を信じて教育していこうとする態度は立派です。ただ、サイコパスの「竹田くん」です。相手が悪すぎます。

私の場合は、鹿児島県の離島、奄美大島の病院(名瀬病院、現在は名称が変わっています)に、落下傘的に院長として赴任しました。35年くらい前の、昔の話です。
開院の準備段階から看護師など職員は十分そろっていましたが、専門的な医師は不足していました。
医師は、東京の徳洲会本部の担当者が探して連れてきてくれます。
私を含め、6人ほどの常勤医がいましたので、日常の診療はなんとかこなせました。
それでも不足している、手術のできる外科、循環器科や脳外科など専門の医師は、関連病院の医師を交代で派遣してくれます。
あと、徳洲会に就職した研修医を数カ月交代で派遣してくれます。離島医療の体制としては恵まれていたと思います。

竹田くんのように人格的に問題のある医師には出会ったことはありませんが、医師の採用にあたり、院長の面接などはなく、ただただ医師の派遣を本部にお願いする立場でした。

その意味で、高橋俊樹院長を責める気持ちにはなりません。

「M顧問がA先生を連れてきたこと」について、もっと情報がないと何とも言えませんが、この人物の責任は少なくないかもしれないと思いました。

獅子風蓮