獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(2)

2023-08-31 01:05:50 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡 雅弥講演(1)(August 24,2006)

読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。

 


■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/1994(平成6)年
■会合名/不明

 「大聖人は「血脈」否定論者だった」

(つづきです)


例えば御書の中に「霊山浄土」ていう言葉がありますね。
あれを死んでから、ぷかぷか浮いて行く霊山浄土があるて思てる人がいてるんですね。
そんなこと全然ゆってへんのですよ。
「浄土」いう言葉ほど日本の仏教が誤解した言葉は無いんです。

もともとのインドの経典では、「浄土」は、
「現実を変革する」「自分の住んでる地域を改善する」ていう意味の言葉なんです。

菩薩は、地域を改善する仕事をするんだと。
どんな修業をするか。

砂漠に住んでいる菩薩達は砂漠に井戸を掘って果樹を植え、砂漠を緑化していく。
それから、戦争の被災地に派遣された菩薩達は、施設に両親を戦争で無くした子供達を集めて大人になるまで育て続けるというんです。

この地域を改善する実践が菩薩の「浄土」の行である。
こういう事が書いてあったんですよ。

これが中国に伝わって、中国人がその言葉を「浄土」と訳したんです。
それは良かったんですよ。

今から約2千年前、その当時の中国の言葉では「浄土」の「浄」というのはまさにその通り、「改善する」という意味やったんです、その通り訳したんです。

でもね、言葉っていうのは時代と共に変わるんです。
だから我々も御書を読む時も、今の時代のつもりで読んだらあきませんねん。

例えば、御書に『すみざけ2樽、給い候いおわんぬ』てある。
すみざけって清酒ですわ。
で、これ読んで、
『ああ、大聖人、お酒2樽もらったんや、えらい豪勢やのー。大聖人もお酒好きやったんかー。わしも2樽もらいたい。(笑)』て言うとるおっさんがおるんですね。(笑)
その直後のところに、また『すみざけ1樽』とあるのを見て、
『ああ、もう大聖人2樽あけてもうたんかー。「かわのり」とか「むしもち」とか食べながら、空けたんかなあ。いいなあー。』とか言うてる人がおるんですね。

大きな誤解なんですよ。(笑)
あの当時、酔うために飲むお酒、『女房と酒うち飲みて・・』の酒というのは「どぶろく」なんですよ。白いにごり酒なんですわ。
それを蒸留して「すみざけ」にする。
その当時蒸留技術が未熟だったので、「すみざけ」には、いろんな不純物が混ざり込んで、
とうてい飲めるような品物と違うんですよ。
しかも、アルコール度数90%のアルコールで、もう変な匂いのするアルコールなわけですよ。飲んだらまずいし胃がやけてしまう。

何に使うかって、傷の手当てとか、それから薄めて、まずくて『うぇー』て言いながら、
「胃の炎症」とか「腸の下痢」とかを止めるために飲んでた薬なんです。

だからあれを「お酒」と読んだらあかんのんですよ。
「消毒用アルコールまたは医薬品」と読まんといかんのです。

それを日顕教学でね、昭和40年代から、彼が教学部長になってから、自分の酒好きを肯定するために、あれを「お酒」「お酒」「お酒」と訳させたわけですわ。

一挙に変えるわけにいきませんから、皆んなお酒と思てはるわけやから。
それを驚かさないように、徐々に、これから一つづつ、直して行きますけどね。

で、『女房と酒うち飲みて・・』の酒はちゃんとお酒です。
ということで、その当時の人から見たら全然今の常識は通用せえへん事があるんですね。

(つづく)


解説
友岡さんは、『すみざけ2樽、給い候いおわんぬ』の「すみざけ」を例にとって、大聖人の当時の常識と現代の常識の異なること、そこに注意する必要がある点を指摘しています。
「すみざけ」(清酒)は飲むものではなく、「消毒用アルコールまたは医薬品」と解釈すべきだと言っています。
しかし、そのような用途の「すみざけ」を2樽も3樽ももらうものでしょうか。
そこには無理があるような気がします。
素直に、底冷えのする身延山で生活するための「お酒」と捉えてもいいような気がします。

また、「浄土」の捉え方についても、もともとのインドでの意味は友岡さんの言われる通りなのかもしれませんが、日本に伝わった時点で、「霊山浄土」の「浄土」は、浄土宗で言う所の「西方浄土」の「浄土」と同じように、現世とは別のところにある、清らかな場所という意味に転じたのではないでしょうか。
おそらく大聖人も、そういう意味で「霊山浄土」を使っておられると思います。

教学力のない私には、あまり深い議論ができませんが、今後の課題とさせていただきます。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(1)

2023-08-30 01:55:37 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。

同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

勝手に引用させていただきました。

karagura56さんありがとうございました。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡 雅弥講演(1)(August 24,2006)

読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。

 


■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/1994(平成6)年
■会合名/不明

 「大聖人は「血脈」否定論者だった」

以前は、出版物の最終チェックは、全て日蓮正宗がやってたんです。
何故かて言うと、それは、日本の宗教団体ていうのは、全部、坊さんに「教義解釈権」があるんです。
これが日本の宗教の風習やったんです。

普通は正しい事を知ってる人間が説くんですけど、日本の場合は、やっぱり江戸時代の封建檀家制度で、坊さん以外は教学を説いてはいけなかった。
一般信徒が説くときも坊さんと違うことを言ってはいけなかった。

この事件(編者注:第2次宗門問題)が起って
『最初から悪いてわかってたら、言うてくれたらいいのに。今頃になってそんな事言うのおかしいし』
という人もおるんですけど、実はそういう事だったんですね。
教義解釈権が向こうにありましたので、全ての文書に関して向こうが最終にチェックしてたんですね。

「唯授一人血脈付法」は、大聖人の御書にはひとつも載ってないんですよ、実は。
御書には、2箇所だけ出てくるけど、それは有名な「百六箇抄」と「本因妙抄」の“小さい字の所”ね。
有名な、後の時代に付け加えた偽物の所でね。
あそこにしかない言葉なんですね、これをやっと言えるようになったんですが。
実は大聖人というのは日本の歴史上、非常にめずらしくて、血脈を否定された人なんですね。
やっとこれを言えるようになったんですよ。

ぼくは入信した時、創価学会はすごいなって思てたんですけど、折伏されると腹たったんですね。
何故かって言うとね、
『この仏教はすごいぞ、唯授一人血脈付法の御法主の法水写瓶……』とか言うんですね。(笑)
『創価学会・日蓮大聖人って、すごいのに、そのあなたたちが、何故そんなことを言うのか?』と。

みなさん、あの言葉ね、日蓮正宗だけの言葉と思てたでしょ。
実はあの言葉は「典型的日本仏教」の言葉なんですよ。

禅宗でも、真言宗でも、浄土真宗でも同じ言葉使ってます。
もちろん一般の人には知りませんけど、坊さんが友達にいらっしゃる方がいたら聞いてみて下さい。

『あんたんとこ、血脈て言葉、使うか?』そうすると、『うん使う』て言いますから。

それで「血脈」ていうのはもともと仏法用語じゃないんですよね。
「血脈」ていうのは、法主になったら不思議な境涯があるっていうことでしょ。

仏教は、みんなの心の中に仏界があるっていうのが特徴でしょ。十界互具でしょ。
あの人だけに不思議な境涯があるっていうのは、明確に仏教の考え方とは正反対なんですよね。

13年前に実は先生がこれを「生死一大事血脈抄」を使って言おうとしたんですね。
あの御書に書いてあるものは、唯授一人否定ですよね。後でゆっくり言いますけど。

 ここで、憶えてもらう言葉がひとつあるんですよ。
「書いてあるけど書いてない」(笑い)

はい、みなさんごいっしょに、「書いてあるけど書いてない」(くすくす)。

(つづく)

 

 


解説
「唯授一人血脈付法」は、大聖人の御書にはひとつも載ってないんですよ、実は。
御書には、2箇所だけ出てくるけど、それは有名な「百六箇抄」と「本因妙抄」の“小さい字の所”ね。
有名な、後の時代に付け加えた偽物の所でね。
あそこにしかない言葉なんですね、これをやっと言えるようになったんですが。
実は大聖人というのは日本の歴史上、非常にめずらしくて、血脈を否定された人なんですね。

私は、日蓮正宗の信徒ではありますが、友岡さんの言葉は素直に耳に入ります。


獅子風蓮


友岡雅弥さんのセミナー

2023-08-29 01:26:00 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

勝手に引用させていただきました。

karagura56さんありがとうございました。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡雅弥さんのセミナーです。1(April 7, 2006)

読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。

 


■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/2001年11月9日(金)
■会合名/京都・東山錦州県「地区婦人部長会」

大学院の頃入信。
そのことで、国家主義的先輩のいじめに会い、大学にいることができなくなりました。
創価学会に入らなければ、子供の頃からの望みどうりになる予定の道を歩んでいましたが、学会に入るためそれを蹴ったことになります。
が、おかげさまで、現在、東洋哲学研究所員であり、聖教新聞の記者でもあります。
私は内の気持ちもわかるし、学会員でない人の気持ちもわかります。

よく、セミナーに出ますが、池田先生からは、
「セミナー終わって、個人折伏を手伝ってはいけない」と言われています。
それでは組織が賢くならない、と。

山口県でセミナーのあと、婦人部のおばちゃんが乱入してきました。
「この人、折伏してるんだけど、なかなかその気にならないから決めてください」
30歳前の男性を連れてきました。
その人は、ある事業をやっていて、まじめすぎて、儲けを考えない人。時代に取り残された人でした。
親子で事業をやっているが負債続きで店をたたもうか……とのこと。
「福運が切れたからやわ。信心したら大丈夫。お金入ってくるゆうてあげてください」
「信心したら、すべてうまくいくって言って!功徳があるって!」
おばちゃんは口々に言います。
私は言いました。
「入ったらダメです」
「入ってお金儲けするような宗教はダメです」
「信心していて借金雪だるま式になった人、いっぱい知っています。信心で乗り越えよう。がんばろ、がんばろ、がんばろで、潮時、辞め時がわからなくなる。仕事の成功を考えての信心ならやめなさい。でも、人間磨こうと思ったら有力な手です。この信仰で金儲けはダメです」
そうしたらその人、涙を流して……
「やらしていただきます」
入りたいと思っていても、おばちゃんの言葉で入れなかった。
「お金はいらない。功徳はいらない。人間として立派になりたかった」
いろんな大変な場を見て、彼は言った。
この信心で人間変われるかと思ったが、おばちゃんのおかげで入れなかった。

大事なのは相手をガンガンやるのではない。生き方を見直してもらいたいのです。生き方が変わらなかったら折伏ではない。信心して、
「ああ、大事なことはお金儲けじゃなかったんだなー」
ここからがほんとの折伏です。
ガンガンいくか、ゆっくりいくかは関係ない。しんどいから、後ろさがるんじゃない。後ろにさがることができるのかどうかです。

私は海外の来客があって、信心を語るときまず、京都に行きます。京都の寺めぐりをするのです。はじめに太秦の広隆寺。日本の菩薩の第一号のあるところです。来客は喜びます。
像の顔は朝鮮系でなんです。そもそも太秦=ペルシャの意です。
そこで、庭掃除のおっちゃんに聞いてくださいといいます。
「信者何人いるのか?」
答えは「ゼロ」です。信者ゼロの宗教です。観光客で食べている。それはもう、博物館であり、宗教施設じゃない。
次は南禅時。徳川幕府、立派な建物。
「説明書きを読んでください」(英字でも書いてあります)
「○○将軍寄進」「△△天皇建立」
金閣寺でも、銀閣寺でも、□□将軍、◎◎将軍……。
パリの大聖堂では、「パリ市民がつくった」と書いてる。権力者が喜ぶ必要なんてない。そんなものではない。
だんだんガッカリされている来客を、今度は創価会館に連れて行く。おばちゃんがいっぱい。信者だらけである。他は観光客だらけで、修行者の声は聞こえない。
美術、芸術はすごいが博物館以外の何ものでもない。創価学会はすごいですね。生きていますね。と入信。
邪宗に連れていくことが折伏になる場合もある。見識のキッチリある人であればです。
人によっては、他の寺のすばらしい門を誉め、折伏につながる場合もあるということです。

こちらが信仰に対する見識があればいい。大事なのは折伏の視点です。
よく、学会員がいうことですが、真言はダメダメ、長男が立たへん。ボクの家は真言宗だったのですが、ボクも親も、それを知らないでいたくらいです。
真言は長男が!といわれても、ボクも父親も元気だし、かえって不信を抱く。
その言葉は少なくとも相手の家庭を調べてから言って下さい。ピンとこないではいけない。
ピンとこない折伏。時代は変わっているのです。

体験発表で病気が治るというのは、外部の人間にはピンとこないものである。
病気が不幸なら、最後はみんな不幸になってしまう。誰にでも死はあるのだから。

むしろ、私が感動したのは、ガンの闘病中の人の話である。
「病気に絶対負けない」
「自分も病気の人の気持ちがわかるようになり、人を励ますことが出来るようになった」
克服しつつある人の体験の方が感動を生む。
「病気が治る」では他宗もやってる。
「手かざし」が一番治る。そのかわり「手かざし」は再発しやすい。ストレスなどで病気になる。「手かざし」で治り、でもそれは根本的な原因は治らないまま、「してもらった」という経験として、再び病気の中に戻っていく。そして、よりいっそう弱くなっていく。

病気が治るというランキングでは、学会は「中の上」くらいです。そのかわり再発しにくい。単に治るだけではダメなのです。
治った人は仏ではない。=(イコール)健康な人です。お金儲けが出来た人は=(イコール)ただの金持ちです。
いろいろあっても関係なく思う。「生きていこう」というのが、「学会らしさ」である。
奇跡でコロンはないのです。冥益です。薄紙を剥ぐように……

包み隠さず全部いったほうがいい。
「学会はやりすぎ」とか「いたらないこともある」など。
「学会は確かにやりすぎやなぁ。でもココが私としては好きなんだ」
相手の話に、
「そんなことはない!学会はそんなことない!」
「そんなこと言ったらアカン!」などではピンとこない。
プラスの面もマイナスの面も包み隠さず言ったうえで、
「何ものにも負けない自分に!」
これがこの時代にピンとくる。
全部いうスタンス。
100%すごいのよ!では、ヘンなカンジ。
「まだまだ勉強しないとダメやと思う。でも、こんだけ言うのは、あなたにこうなってほしいから」
誠実さ。これが押し。境涯の広さがものをいう。
「ここがおかしい」と言われたら、「そんなことはない!」とは絶対言わない。
「そんなこともあるわなぁ」、包み隠さず言う。
「でも、この部分はあなたに言いたい」と。
相手はいろいろ言うけれど、相手は充分ものを考えないでいってる場合がある。

「宗教は弱い人間がするものやろ」という人がいる。
「ほんまにそう思うの?ほんまに?ほんまに?」
「そしたら、言って!具体的にだれか言って!宗教している弱い人!」
「学会さんは他の宗教を悪く言う。そんなことない。どんな宗教も立派やと思う」という人がいる。
「どんな宗教も立派?全部立派というのなら、たとえば浄土真宗の場合、どこがすぐれているか言って。どこがいいか見ずに立派というのは、それらの宗教に対して失礼ですよ」
人は先入観や噂で言ってる場合が多い。相手の言ってることに逆に投げ返す。
「あなたの質問は逆ではありませんか?」
そうすると、「ああ」と、バカバカしいことに気が付く。

ある女子部が、彼氏に質問されて答えられなくて、ボクに電話がかかった。
「池田先生がゴルバチョフに対して5億円贈ったって、言われています。
贈ったいない証拠を見せたいんですけど」
ロシアでは、個人に対して80万円以上贈ると違反になる。アメリカの「タイム」が、ゴルバチョフに1万ドル支払ったことから、エリツィンに訴えられたことの話をとおし、まして、5億円贈呈の話なんて考えられないと、答えました。
また、その女子部から電話。
「今度は○○さんに先生が××円渡したって……。渡していない証拠を見せろと……」
女子部の彼氏は「○○円贈呈」を問題としているのではなく、彼女が自分の質問で右往左往しているのを、楽しんでいるだけであった。
彼女には彼氏のわからない学会という世界があり、おもしくない。そんな彼女を自分が支配し、動かしたかったにすぎない。
「そんなに○○円渡したというのなら、あなたが先に渡したという証拠を見せてください」と言ってみなさい。
口と心ではちがう事が出たりする。
心にくいこむことが大事である。


折伏で、相手のいいなりに右往左往するのでは、(相手の)思うツボです。
よく、「先祖代々○○宗です」と言われますが、先祖代々全部読破したという人はいない。
仏壇が代々好きなんです。
学会の場合、きっちり子供、孫にまで教えていってる。世間では知らされない。教えられていない。
「代々……」はない。「代々仏壇磨き」なだけ。
「親鸞の言葉、言ってみ?」「そんなん“しんらん”」(笑)
「代々……ってやってないでしょ?教えでしょ?心でしょ?」
教えも守らないでは宗教とちがう。
田中家?
女性の場合おかしい。実家の山下は先祖じゃないのか?
自分からたどっていったら、1億人の先祖がいる。その先祖代々?
それはないでしょ?
自分の子や孫が人間として頑張っているのなら、その方がよっぽど先祖は嬉しいはずです。
孫が『仏壇磨き』と、学会で『心をみがく』のとでは、どちらが嬉しいのか?

とにかく、相手の言葉をあまり信じないでいい。考えないで言ってることが多いから。
また、努力と信念でやっていくという人に限って、そうでなかったりする。
車にお守りつけたり、笹好きだったりする。
無神論者じゃなく笹信心。一番程度が低い。
新年にお賽銭なげて「おめでとー」言ってる。

信念を持ってる……英語で「ビリーブ」という。
信仰を持っているも同じ「ビリーブ」という。
信念を持っている=信仰を持ってるともいう。

18万6千の宗教が日本にあるが、獄死したトップは牧口先生ただひとり。
こういう人を信念のある人というのではないか?
学会はお守りを持たない。世間では成田山でステッカーもらって、車にはったりする。
交通安全を願うなら「ヒヤリハット」(配達員交通安全運動)のほうがよっぽど交通安全になる(笑)

学会をバカにしてた、ある大手企業の重役。
ある刑事事件の汚職にまきこまれた。
会社を守るため、会長を守るため。結局、会社からの裏切りに会う。
信じてはいけないものを信じた。財産や地位など。
その後、悲惨な目にあい、病に倒れる。
死期を知っていたのか遺書が書かれていた。
「世間に恥ずかしくない立派な葬儀を出してほしい」
彼の人生は「世間に恥ずかしくない立派な家」であり、「立派な車」であった。
世間の為の人生でないはずなのに。
お経を読んだ、身延派の僧侶には340万円。
お経を読むが、時々ぬけたり、もどったり、まわったり。途中で解らなくなったのか、「でーでーだーだー」と言っていた。
こういうのを「香典ドロボー」という。
終了後、その僧侶に「さっきのお経は方便品と壽量品でしたね」「だいぶ抜けていましたね」と声をかけた。相手はごまかしていた。
戒名130万。「院」の字がないと80万。
あなたの宗の開祖は金をだしたら「院」がついたのか?
ちゃんとした僧侶は困った人にこそ尽くすべき。少なくとも今はおかしい。

戒名は江戸時代のものであり、開祖が言ってるわけじゃない。徳川が身分をつけたにすぎない。
仏壇は客間にあり、その仏壇に戒名を置き、「ああ、ちゃんとしたお宅ですね」と思わせる手段にすぎない。

差別について、徳川に最後まで戦った人。いわば、英雄の人達。その人達の戒名には「畜生」の「蓄」の字がつく。
「蓄男」「蓄女」と書いて、墓に放り込む。
18年前までその「蓄」のつく戒名があった。
6歳で亡くなった女の子の墓に、「童昨蓄女」との戒名を見た時、日本の宗教がイヤになった。
差別戒名の実態を知っているのか?!
戒名のことなど、経典のどこにも出てこない。もし、一般が読んだらばれる。そのことを恐れ、信者は経を読んではならない。毎日祈ってはならない。
初詣だけ手を合わせる。……ということを、寺子屋の教科書にまで出した。
祈りもしない○○宗。多くの人は祈らない宗教である。徳川の考え方を未だにやっているのである。
日顕の戦いと同じです。日顕は葬式仏教であり、江戸時代と同じです。
ほんとの仏教とはなんなのか?
江戸時代に何があったのか?仏壇教にも、江戸教にもつかえます。
心を折伏するのです。その人、その人、その人に応じて、考えてやったら、むこうから……入ったら……いいんですけどね~。(笑)

 


解説
2001年11月に京都で行われた「地区婦人部長会」での友岡さんのセミナーです。
友岡さんがまだ創価学会に「幻想」を持っていたころの話ですから、ある程度差し引いて読む必要があるかもしれません。

「信心したら、すべてうまくいくって言って!功徳があるって!」
おばちゃんは口々に言います。
私は言いました。
「入ったらダメです」
「入ってお金儲けするような宗教はダメです」

ここ、面白いですね。
逆説的ですが、友岡さんのこの言葉で、相手は入会を決意したとのこと。

 

学会員がいうことですが、真言はダメダメ、長男が立たへん。ボクの家は真言宗だったのですが、ボクも親も、それを知らないでいたくらいです。
真言は長男が!といわれても、ボクも父親も元気だし、かえって不信を抱く。
その言葉は少なくとも相手の家庭を調べてから言って下さい。ピンとこないではいけない。
ピンとこない折伏。時代は変わっているのです。

ここも面白いですね。
私も、学生部のころ、私の連れて行った同級生に、先輩が「君の出身はどこか? 徳島? あそこは真言の……」とやり出したのに驚き、そこから信心に躓きました。


友岡さんの言われるような折伏に、全面的に変わったかというとそうでもなく、ダブルスタンダードのように、昔のやり方も残っているのが、創価学会の不思議なところ。

もっと、古いやり方を一掃することはできなかったのでしょうか。

 

獅子風蓮


創価学会によるスラップ訴訟

2023-08-28 01:17:12 | 創価学会・公明党

d-マガジンで興味深い記事を読みました。

引用します。


週刊文春 8月3日号
入信43年信者に創価学会が
419万円訴訟を起こした訳

〈被告は、原告に対し、419万1500円及びこれに対する令和元年10月24日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え〉

今年7月、広島県在住の現役創価学会員A氏のもとに、学会本部から65ページもの分厚い訴状が届いた。一体、どうして?

学会二世のお笑い芸人、長井秀和氏が、学会による訴訟について語る。
「私は、昨年12月の西東京市議選で、主に学会批判をして当選しましたが、選挙中の演説が名誉毀損にあたるとして学会より民事で訴えられ、現在係争中です。1969年の『言論出版妨害事件』が有名なように、学会は、批判的な言論をする組織や個人に対し、訴権を使って抑え込もうとしてきた歴史があります」
その直近の事例が冒頭のA氏だ。1980年に入信し、活動歴43年のA氏 はこう振り返る。
「友人の熱心な勧誘を受けて、大学2年で入会しました。学校や地域の『拠点』と呼ばれる活動場所へ毎日のように通って座談会で議論に参加し、学会の教学を勉強する日々を送りました」
社会人になると、活動は月数回に減りはしたものの、国政選挙で周囲へ公明党への投票を呼び掛けるな どの活動を続けてきた。
ところが―――。
「2014年に、教義改正という信仰の根幹に関わる大きな変更がなされたのです。教義や本尊の解釈が変わり、それまでの考え方と矛盾すると感じた。また執行部の説明は理屈が通っておらず、到底、納得できるものではなかったのです」
学会執行部に対する不信感が高まり、「ああ、もうダメだな……」と気持ちが離れていったというA氏。
その頃から匿名のネット掲示板で学会批判を投稿するようになったが、すぐに身元を特定され、「査問」という呼び出しを受けた。「地元の会館で、初対面の幹部3人に交友関係やネット掲示板への投稿の有無を聞かれました。一番許せなかったのは、幹部が、30年以上付き合いのある親友を『組織批判の活動で役職解任された危険人物』と名指しで批判し、付き合わないよう警告したことです」
そこでA氏は活動場所をツイッターへ変え、以下のような投稿を繰り返した。

〈新聞、選挙、財務の三位一体アタック(笑)〉(18年5月17日)

〈参院選各選挙区でしか会合が開催されない(中略)有様では、宗教団体ではなく政治団体。創価学会ではなく選挙学会と言われても仕方がないな〉(19年5月10日)

すると、20年12月、情報開示請求で身元が特定され、創価学会の代理人から、東京の法律事務所への“出頭”を求める書面が送付されてきたのだ。
「コロナ禍で面会に応じられないと返答を繰り返していたら遂に昨年1月、訴訟の予告文が届きました」
そして冒頭の訴状を受け取るに至ったのだった。
創価学会は、A氏に対し、聖教新聞の写真を無断でツイッターにアップしたのは著作権侵害であるとして、損害賠償を請求している。
A氏はこう反論する。「私は一銭も利益を得ていない。訴訟の狙いが言論封じ込めなのは明らかです」
ジャーナリストの乙骨正生氏が補足する。
「今秋には原田稔会長の任期切れが迫り、次期衆院選も近い。常勝関西と呼ばれた大阪では、維新の台頭が著しく、学会は危機感を強めている。選挙に勝利するためにも批判的言論を一つ一つ抑えたいのでしょう」
創価学会は以下のように回答した。
「重大な権利侵害や名誉毀損等に対しては法に則り厳正に対処しております」
これでは訴訟学会!?


解説
一番許せなかったのは、幹部が、30年以上付き合いのある親友を『組織批判の活動で役職解任された危険人物』と名指しで批判し、付き合わないよう警告したことです

この親友というのはもしかしたら、友岡さんのことでしょうか?
まさかね。


ネットによると、創価学会から名誉毀損で訴えられたA氏とは、ツイッター(X)界隈では有名な「七ツ星さん」だということです。
私は、捨離子さんの「自分の心に正直でいたい。」というブログで知りました。

英知を磨くは何の為?君よそれを忘れたか?(2023-07-12)

今回の週刊文春も組織で買い占め指示が出たのだろうか?(2023-07-29)


捨離子さんという方は、創価学会2世→法華講→幽霊講員→日蓮界隈を卒業。
という経歴の方で、なかなか鋭い、まっとうな批判を、創価学会および宗門に投げかけている方です。

創価学会は、一学会員のツイッターでの言論を封殺するために、スラップ訴訟を起こしたことは明らかでしょう。
でも、その影響を考えると、捨離子さんが言うように、週刊文春にこのように取り上げられ、世間から、恐ろしい団体だとあらためて認識され、逆効果だったように思います。

でも、創価学会員さんのブロガーの中には、過去の過激な表現を含む記事を削除した方もおられるようで、一定の「見せしめ効果」はあったようです。

私も、創価学会のスラップ訴訟に巻き込まれるのはイヤなので、気をつけなきゃと思いますが、このような方法で個人の言論を封殺しようとする態度、そして多くの弁護士と訴訟費用をかけること、その原資は創価学会員の財務や新聞購読費であるということなどを考えると、創価学会のやり方に腹が立ちます。

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの言葉:SNSより(45)

2023-08-26 01:45:41 | 友岡雅弥

おそらくは、亡くなる1年ほどまえくらいから亡くなる直前までの友岡雅弥さんの言葉が次のサイトに残されていました。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ 友岡雅弥 (1) (April 3, 2019)

おそらくは友岡さんのSNS上の発言が集められているようです。
時系列で並べ直して再構成しました。
友岡さんの発言の前後に、誰がどのような発言をしていたのか分かりませんので、詳しい文脈は分かりませんが、創価学会執行部から疎外され圧力をかけられ、査問を受け、創価学会本部職員を退職するまでの友岡さんの心のうちが明かされた貴重な文章だと思われます。
一部、かいつまんで引用します。


●虐待やDVの加害者は、「つけ入る隙」を常時「監視」している。 そして、その隙を見つけると、言葉や態度の暴力を浴びせる。 だから、その一瞬だけをとると、悪いのは、被害者側に見えたり、加害者側が正しいように、見えたりもする。 常時、被害者を追い込んで、孤立と自己嫌悪に陥らせる
2019年3月14日


友岡さん、本当にありがとうございました。合掌

 


解説
「つけ入る隙」を常時「監視」している。

これは、創価学会執行部に対する批判でしょうか?
だとしたら、恐ろしい話です。

おそらくこのSNS上の発言を最後に、友岡さんの発言は、ネットから消えてしまいました。
そして、友岡さんは、ボランティアに訪れた東北の地で、帰らぬ人となったのです。
もっと、生きて、仲間を増やしてほしかった。
私も、できれば生前の友岡さんにお会いしたかった。
残念でなりません。


最後になりましたが、友岡さんのSNS上の発言を集めてネットに公開してくださったkaragura56さん、ありがとうございました。
連絡する方法がないので、この場でお礼を申し上げます。


獅子風蓮