獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その90)

2024-10-26 01:48:09 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
■あとがき


あとがき

石橋湛山ほど異色の政治家はいないだろうと思われる。早稲田大学を卒業後、言論人として社会に出た湛山は、経済評論家であったが、その実践のために戦後は政治の道を歩んだ。
改めて年譜を見て驚かされるのは、昭和22年(1947)4月に静岡県第二区から衆議院選挙に立候補して初当選してから、9年8ヶ月の31年(1956)12月に、内閣総理大臣に就任していることである。
10年足らずの間に初当選から政治家としての最高位にまで上り詰める政治家が、今存在するだろうか。
これは時代と国民とが、石橋湛山という政治家を希求した結果ではなかったか。
歴史に「もしも」は許されないが、敢えて「もしも」があるとしたら、石橋湛山が僅か2ヵ月で政権を投げ出さざるを得なかった病魔に冒されなかったならば、とそう考えたくなる。日本の政治と経済は、もっとニュートラルに変わっていたはずである。
それは吉田茂、岸信介「他力本願」外交とは違う「自らの力」でアジア地域に立脚した外交を展開し、それを軸にして世界平和を求めたに違いないと確信するからである。
湛山は、自由主義と個人主義という人間が生きていく上で一番基本になる考え方を訴え実践した。国家のために国民があるのではなく、国民のために国家があることを主張した。

「小日本主義」とは、反帝国主義、反植民地主義に基づく愛国心を言う。その上に世界平和があるのだと、明治末期から大正という時代に『東洋経済新報』で訴え続けた。
そうした湛山思想の根底には、山梨県立第一中学校(現在の県立甲府一高)で出会った大島正健から薫陶を受けた「ビー・ジェントルマン(君子たれ)」があった。このクラーク博士の言葉を湛山は大島正健を通して「自分の良心に従って行動せよ」と受け取ったのである。また、早稲田大学で田中王堂から得た「プラグマティズム(功利主義)」も、その後の湛山の生き方に寄与している。

湛山の父親・杉田湛誓の生まれた町、幼い湛山が尋常高等小学校に通った同じ町(山梨県増穂町)に生まれ育った筆者は、湛山が総理総裁になった昭和31年の冬、小学2年生であった。町を挙げての堤灯行列に加わって湛誓の実家まで寒風吹きすさぶ中を「万歳」「万歳」と大声を上げながら歩いたことをおぼろげながら覚えている。筆者と湛山との縁があるとすれば、それだけである。

湛山は大正4年(1915)にこう述べている。
「如何なる場合に於いても『最高の支配権』は全人民に在る。代議政治はその発言を便宜にする方法で、現在の処之れに代わるべき手段はない」。
昭和42年(1967)に書いた「政治家にのぞむ」の内容は、現在の政治家に聞かせても十分通用するものである。それほどに現在は政治家が小型になり、国家・国民のためという政治の本質を忘れ去っているのである。
21世紀を見据えた場合、現在の政治家が最も参考にすべき先輩政治家は石橋湛山であることは間違いがない。「湛山の心」、「湛山の目」で国内を見つめ、国際政治・経済を見つめ、考えることこそ現在の政治家に一番必要なことではないか。

もとより、本書は湛山の評伝ではない。
小説である。
湛山に対して尊敬と畏怖の思いがあったからこそ書き上げることが出来た小説である。

平成11年4月25日 
石橋湛山26年目の命日に

江宮隆之 

 


解説

21世紀を見据えた場合、現在の政治家が最も参考にすべき先輩政治家は石橋湛山であることは間違いがない。「湛山の心」、「湛山の目」で国内を見つめ、国際政治・経済を見つめ、考えることこそ現在の政治家に一番必要なことではないか。

著者の意見に、私も賛同します。

 

もとより、本書は湛山の評伝ではない。
小説である。
湛山に対して尊敬と畏怖の思いがあったからこそ書き上げることが出来た小説である。

小説の形を用いたことにより、湛山の心の内面にまでつっこんだ表現ができたのでしょう。

私も、将来池田大作氏のことを書くとき、このような小説の形をとりたいと考えています。

著者(江宮隆之)の作風は、そのときいい参考になることでしょう。

 


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その89)

2024-10-25 01:41:26 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

昭和42年10月、吉田茂死去。

湛山は手足のマヒだの肺炎だので、聖路加病院への入退院を繰り返す。
湛山の看病に疲れた梅子が同じ聖路加病院に入院し、46年(1971)8月9日死去した。
その6日後、アメリカにドルショックが起こり、大統領ニクソンは金とドルとの交換を停止した。

45年(1970)東洋経済新報社から出版されていた『石橋湛山全集』全15巻が完結したのが47年(1972)9月。
この年の自民党党大会は、「三角大福」と呼ばれた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人が、「ポスト佐藤栄作」を巡ってしのぎを削った。そして決選投票で福田を破った田中が総裁に就任した。
湛山は、病床で「決選投票」に思いを馳せた。
その田中角栄が訪中して、日中共同声明に調印したのが47年9月29日のことであった。これをもって日中国交が樹立された。すでにアメリカはキッシンジャー外交で中国との関係を改善。岸、佐藤内閣の対中国をめぐる情報不足が指摘されていた。

田中は中国に出発する前日の25日、下落合の自宅で病床にあった湛山を訪ねた。
「石橋先生、中国に行って参ります。先生の努力がやっと実現する時が参りました」
田中は紅潮した顔で言って、湛山の手を握った。
「先生のこの手の代わりに、自分のこの手で、国交樹立の署名をします。しかし、これは私の仕事ではなくて、本来は先生がなすべき仕事なんです」
「田中君、今日は僕の米寿の誕生日なんだよ。嬉しいねえ。最高の誕生日プレゼントじゃあないか。よろしくお願いしますよ」
湛山は、日中国交正常化の実現を告げるテレビニュースを見ながら、満面に笑みを浮かべ、何度も頷いた。
「石田君、やっと播いた種が実を結んだよ」
湛山は、見舞いに訪れた石田博英に向かって、嬉しそうに微笑んだ。

昭和48年(1973)4月25日、湛山は下落合の自宅で大往生を遂げた。
88年の生涯であった。
「和彦、やっと、やっと会えるなあ」
湛山は、薄れていく意識の下で、長い間自分とともにいながら見ることのなかった次男に、そう呼びかけた。
和彦が26歳のままの笑顔で湛山に笑いかけていた。

 


解説

田中は中国に出発する前日の25日、下落合の自宅で病床にあった湛山を訪ねた。
「石橋先生、中国に行って参ります。先生の努力がやっと実現する時が参りました」
田中は紅潮した顔で言って、湛山の手を握った。
「先生のこの手の代わりに、自分のこの手で、国交樹立の署名をします。しかし、これは私の仕事ではなくて、本来は先生がなすべき仕事なんです」
「田中君、今日は僕の米寿の誕生日なんだよ。嬉しいねえ。最高の誕生日プレゼントじゃあないか。よろしくお願いしますよ」
湛山は、日中国交正常化の実現を告げるテレビニュースを見ながら、満面に笑みを浮かべ、何度も頷いた。

湛山は、田中角栄による国交樹立を見届けて、しばらくして大往生を遂げました。

悔いのない一生だったと思います。

 


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その88)

2024-10-24 01:30:57 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

同じ年の10月23日、湛山は甲府第一高等学校(旧・甲府中学)の大島正健彰徳碑の除幕式に招かれて出席した。友人の中村星湖も一緒であった。
青空の下、81歳になっていた湛山は祝辞を述べるために登壇した。
黒の礼服姿の右手には一本の杖を持ち、それに心持ち身体を預けるようにして壇上に立った。
「私は甲府一高の前身である甲府中学で二度ほど落第しました。落第したということは、生徒として不名誉なことで、だれも人前で言い出したくはないことです。けれども、今日、私はこのことをおこがましくも自らお話ししようと思います。その理由は、もし私がその頃、普通の勉強家であったなら、明治32年か3年には卒業していなければならなかったからです。そうだとすると、私は大島校長の顔も知らず、声も聞かず、あの先生の教育方針の根本となった、クラーク博士の遺訓なるものをも知らなかったでありましょう。事実はそれとは反対に、私は幾度か落第したために甲府中学に長く居残って、明治34年の春、大島先生が来任されてから1年間、先生の教えを受けることが出来ました。そして私は、それまでの私とはよほど違った覚悟と方針とをもってここを卒業し、その後の学生生活を営み、人生の長い道中を歩いて来ることが出来ました。……この私の落第のために中学卒業が遅れたということ、大島先生に出会ったために、学問や生活への覚悟なり方針なりを切り換えたということは、世間にありふれたことと言えば言えましょう。けれど……」ここまで静かに話してきた湛山は、突然絶句した。
無量の感慨が湛山の胸を突き上げてきたのだった。湛山は俯いて歯を食いしばると、やがて青空を見上げるように上を向いた。
星湖は、持病の喘息が起きたのでは、と慌てたが、湛山はしばらく黙り込んだ後で、再び言葉を続けた。
「……そう、不思議なことです。……実に不思議と言うよりほかはありません……」
湛山は、だがそれだけを付け加えると、静かに頭を下げて壇を降りた。
星湖は、湛山の言葉を「大島正健という名校長と巡り合ったことが自分の生涯の運命の分かれ目であった」と受け取った。そして「実に不思議と言うしかない」という結びの言葉に「奇跡的な出会い」という意味を重ねていた。湛山にとって「奇跡的な出会い」は、大島正健だけではなく、望月日謙から石田博英まで、すべてがそうであったが。
椅子に座った来賓席の人々は立ち上がって拍手を送り、整列して話を聞いていた生徒たちも大きな拍手で湛山の言葉を讃えた。

(つづく)


解説

湛山にとって「奇跡的な出会い」は、大島正健だけではなく、望月日謙から石田博英まで、すべてがそうであった

湛山は、この奇跡的な出会いのおかげで、昭和の日蓮主義の人たちのような国家主義的にならず、リベラルで偉大な政治家になったのです。

 


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その87)

2024-10-23 01:22:44 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

岸は退陣して、池田勇人が内閣を組織した。
「岸さんは、言論の自由こそ民主政治の要であることを忘れた。デモは、岸さんがその言論の自由を無視したから起きたのだよ」
湛山は、石田に語った。
「石田君、君なら分かるだろう?」
湛山も石田も、言論の自由を求めて戦ってきた仲間であった。
「先生の潔い退陣に比して、岸さんの政権に執着する醜さが、あまりにも対照的すぎますな。党内でもみんな囁いています」
「石田君、それもこれも運命だよ。僕は、一生を『ビー・ジェントルマン』で生きてきた。これからもそのつもりだよ」

8月、中国は政府間協定貿易、民間貿易、個別的配慮取引の「貿易三原則」を日本側に提示した。これによって、断絶していた日中貿易が再開された。
3年後の昭和38年(1963)9月、湛山は要請を受けて「北京・上海日本工業展覧会」総裁に就任した。この立場で湛山は二回目の訪中を実現した。
湛山は、人民大会堂で周恩来らと懇談し、続いて毛沢東主席、劉国家主席、朱徳全国人民代表大会常務委員長と個々に接見した。国慶節のパレードは、中国のこうした最高幹部とともに見学したのである。
「中国側は、石橋先生を最高の待遇でもてなしてくれた」
新聞を読んで、石田は仲間とともに、湛山の中国での活躍ぶりを喜んだ。こうした湛山の中国との国交回復の努力が実を結ぶのに、これからまだ十年の歳月を必要とする。

昭和42年(1967)『東洋経済新報』2月11日号の「時言」に湛山は「政治家にのぞむ」と題して、政治家のあり方について書いた。

〈私が、いまの政治家諸君をみていていちばん痛感するのは、「自分」が欠けているという点である。「自分」とはみずからの信念だ。自分の信ずるところに従って行動するというだいじな点を忘れ、まるで他人の道具になりさがってしまっている人が多い。政治の堕落といわれるものの大部分は、これに起因すると思う。
政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ。金を集めることがじょうずで、また大ぜいの子分をかかえているというだけで、有力な政治家となっている人が多いが、これはほんとうの政治家とはいえない。
政治家が自己の信念を持たなくなった理由はいろいろあろうが、要するに、選挙に勝つためとか、よい地位を得るとか、あまりに目先のことばかりに気をとられすぎているからではないだろうか。派閥のためにのみ働き、自分の親分のいうことには盲従するというように、いまの人たちはあまりに弱すぎる〉
〈政治家にだいじなことは、まず自分に忠実であること、自分をいつわらないことである。また、いやしくも、政治家になったからには、自分の利益とか、選挙区の世話よりも、まず、国家・国民の利益を念頭において考え、行動してほしい。国民も、言論機関も、このような政治家を育て上げることに、もっと強い関心をよせてほしい〉

この湛山の論旨は、時空を超えて政治家の本来の姿を捉えており、それに伴う国民や言論機関の役割を明確に指摘している。

(つづく)


解説

政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ。金を集めることがじょうずで、また大ぜいの子分をかかえているというだけで、有力な政治家となっている人が多いが、これはほんとうの政治家とはいえない。

令和の時代の自民党裏金議員たちに聞かせたい言葉です。


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その86)

2024-10-22 01:19:07 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

湛山の「日中米ソ平和同盟」の提案を裏付けるように、キャンプ・デービッドでアイゼンハワーとフルシチョフによる米ソ首脳会談が行なわれた。これは冷戦の雪解けを象徴する画期的な会談と言われた。
湛山は昭和35年(1960)1月、渡米する岸に手紙で、
「日米両国は日本と中国の国交正常化のために協力することと、アジア安定のために、日中米ソ印の五カ国会談開催を提案し、アイゼンハワー大統領の同意を得てほしい」
と、依頼した。だが、岸は否定的な態度であった。
この年、今度はアイゼンハワー大統領の訪日が政治日程に上がると、「安保反対岸退陣」の声が湧き上がり、全国で抗議デモが起きた。国会前では東大文学部の女子学生が警官隊との衝突で死亡する事件まで発生した。アイゼンハワー来日を自らの保身と政権維持に利用しようとした岸は、女子学生死亡という犠牲を出しても反省するところはなかった。
「石橋先生が健在であってくれたなら」
良識派とされる自民党議員は、岸内閣のあり方に失望していた。
この年の6月19日午前零時、33万人が国会を包囲する中で新安保条約が自然成立した。だがアイゼンハワー訪日中止が、岸退陣の引き金になった。

(つづく)


解説

「石橋先生が健在であってくれたなら」
良識派とされる自民党議員は、岸内閣のあり方に失望していた。

石橋内閣が短命に終わらなければ、日本の政治状況は現在とはずいぶん違うものになっていたことでしょう。


獅子風蓮