獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

今年を振り返って:個人的にベストな記事は?

2023-12-31 01:52:14 | 日記

今年もあと1日でお終いですね。

振り返れば、よく頑張って毎日記事を書いたものだと思います。

自分を褒めてあげたいです。

その中で、自分の中でのベストの記事を選んでみました。

1月は、山崎浩子さんの著書を読みました。
統一教会の「内在的論理」を理解するのに役立ちました。

その後、乙骨正生さんの『怪死』をテキストに、「東村山市議転落事件」について考察しました。
たしかに、この事件は、女性市議の死を自殺と考えるには怪しいことがいろいろあって創価学会に疑いの目が向かうのもやむを得ない部分がありますね。

しかし、ジャーナリスト宇留嶋瑞郎氏のブログを読んで、この事件に対しての見方が、ガラッと変化しました。
「東村山市議転落事件」の当事者である矢野穂積氏があまり評判の良くない人物だったようで、本来味方であるはずの乙骨正生さんともトラブルを起こしたというのです。

乙骨正生さんにメールで確認したところその件についてはお認めになりました。

さて、乙骨正生さんの著書『怪死』は、当事者である矢野穂積氏の情報をもとに書かれている部分が少なくありません。

私は、宇留嶋瑞郎氏がブログで書いているような疑問点をいくつか指摘し、乙骨正生さんにメールで質問をしたのですが、それに対する回答は今のところありません。
乙骨正生さんは、ジャーナリストとしての誠意をもって、矢野穂積氏の情報の真偽を一つ一つ確かめる作業をするべきでしょう。
もし、著書に誤りがあるなら、それを正すべきです。
私は、遺族である朝木直子さんは、ずいぶんと故・矢野穂積氏に振り回されたような印象を受けました。
矢野穂積氏はもういないのですから、朝木さんは乙骨さんと協力して、事件の「ほんとうのこと」を話してほしいと思います。


その後、アメブロの方で、プーリッチュとかいうふざけたヤツが個人攻撃を目的にブログを立ち上げました。
タイミング的に、また攻撃の対象がSGKMKさんを批判していたtulipさんだったこともあり、プーリッチュはSGKMKさんではないかと疑われました。

でも、誰も「私が犯人です」と名乗り出ることはありません。
そこで、対話ブログでのSGKMKさんの足取りを、シリーズで記事にしました。
じっくり一人のひとのコメントを追っていくと、その人の性格はかなり分かるものです。
どうも、SGKMKさんはあのネチネチ野郎ことプーリッチュではないような気がしました。
私は、アメブロのメッセージ機能を使って、ダサイ親父さん(SGKMKさんの成りすましと目されている)に聞いてみました。
その結果、ダサイ親父さんはSGKMKさんであることを認めましたが、プーリッチュではないときっぱり否定しました。

結局、プーリッチュのブログは曽根さんがSGKMKさんに成りすましてやったことが判明。
界隈に激震が走りました。
もう曽根さんが界隈に復活することはないでしょう。
謀略が露見した「広宣部」くずれほどみじめなものはありません。


4月になり、村木厚子さんの本をもとに、冤罪事件を起こした検察のひどさを学びました。

そういえば、創価学会でもあの「大阪事件」は冤罪であり、池田大作氏は無実の罪を一度は認めて、裁判闘争の末に勝利を勝ち取ったと言われています。
アンチ界隈では、それをまともにとらえる人は少なく、池田氏は実際に選挙違反をしたが、裁判闘争で、かろうじて無罪を勝ち取った、というようにささやかれています。
でも、実際、検察が自分たちの思い通りの筋書きで、証言を捻じ曲げることなど少なくないと知り、この「大阪事件」の真実はどこにあるんだろうと、偏らない立場で検証してみたくなりました。

5月に入ると、友岡雅弥さんの言葉をネットから拾う作業に取りつかれました。
知れば知るほど凄い人です。
おそらくは高倉教授が不用意に奥さんに渡した日記が創価学会中枢に渡り、その中で友岡さんが中心となった勉強会のことが書かれていたことが原因で、友岡さんは創価学会執行部による査問を受けたのでしょう。
査問は想像を絶するひどさだったようです。
精神的に大きなダメージを受け、それが遠因となり、友岡さんはボランティア活動先の東北で帰らぬ人となりました。

友岡さんの言葉は、現在の創価学会のあり方に疑問を持つ人にとって、大きな力になります。
ネットを中心に創価学会に批判的な発言を積極的にしている正木伸城氏も、友岡さんから影響を受けた人の一人です。
今は亡き友岡さんを中心に、点と点を結び、面となって、創価学会を根底から改革する動きが始まることを期待しています。


私は、ツイッターをもっぱら読むだけなのですが、「七ツ星さん」という方が、創価学会から明らかな、スラップ訴訟を受けていると知りました。
明日は我が身ですから、スラップ訴訟に屈しない「七ツ星さん」の勇気をたたえ、応援のエールを送りました。

その後、「創卒の女神さん」という方が、創価学会による「スラップ訴訟」を起こされたとツイッターに投稿されているのを見かけました。

これも創価学会によるスラップ訴訟か? その1(2023-09-23)

これには違和感を持ちました。
「女神さん」は、熊野正士元参院議員の事件の「被害者」というか「告発者」でした。
熊野氏の奥さんから訴えられたのを、創価学会による「スラップ訴訟」だと言い張るのです。
この事件を週刊誌の記事をもとに検証し、「女神さん」の胡散臭さを浮き彫りにしました。

その後、ツイッターでは少なからず反響があったようです。
だれかが上手いこと言っていました。
熊野氏の事件の本質は、彼女が起こしたリベンジポルノではないかと。

それを受けて、こんな記事をかきました。

これも創価学会によるスラップ訴訟か? その5(2023-10-20)

ある時期まで、ラインで熊野氏と仲良くやり取りしていたのに、なんらかのトラブルの後、公明党の幹部にセクハラ行為があったと訴えた。
しかし福島元副会長(弁護士)から「早く目を覚ましなさい」と「強迫メール」が来たのをきっかけに、週刊誌にリークをしたという。
あのポルノまがいの、相手の嫌がるラインをリーク。

これによって熊野氏は、あまりにも大きな社会的制裁を受けました。
もともと熊野氏は立候補に乗り気でなかったのに、公明党から立候補させられたとか。
しかも、1期でやめることを願い出たが許されなかったとか。
こんな愚痴を、気の置けない仲の女神さまにもらして、慰めてもらっていたのに、いきなり週刊誌に恥ずかしいラインをリークされて……可哀想すぎます。

妻子ある身でありながら、あんな破廉恥なラインを送りつける熊野氏もどうかとは思いますが、彼にだって人権はあるはず。

そもそも、不倫は犯罪ではありません。
ただ、配偶者への裏切り行為ですから、夫婦間で十分話し合ってください。

女神さま、関係が破綻したからといって、なんでも暴露していいってもんではないでしょう。

男が、別れた相手の裸の写真をネットに曝す行為と、あまり変わらないように思います。

(中略)

頑張れ、熊野氏。
死ぬんじゃないぞ。

この記事を、今年のベストとします。


それまで、アンチ界隈では、この件も、創価学会によるスラップ訴訟とみなされてきました。
気楽非活さんなどは執拗に、暴露されたラインの画像を貼りつけ、「問題を隠そうとする公明党執行部」の責任を問うような投稿をしていましたね。

私のこの記事を境に、そういう論調はピタッと止んだようです。

「女神さん」はそれまでのツイッターのアカンウントを削除して逃げてしまいました。

その後、別のアカウントを作成し、名前を頻回に変えて、記事を再開しているようです。
(Mission →女神のMission →Mission2→Mission3→Mission4……)
以前のアカウントで書いていた内容はもう見ることはできませんが、そこに書かれていたことが不都合だった、あるいは虚偽を含んでいたためアカウントを削除したものと思われます。


私の記事が、アンチ界隈のおかしな考えを、少しは整理できたかなと思うと、少々誇らしいです。

さて、今年もお終いですね。

ブログを読んでくださった読者の皆様。

温かい応援、ありがとうございました。

来年もコンスタントに記事を書いていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

良い年をお迎えください。


獅子風蓮


PS)
「女神さん」に忠告です。
アンチなら誰でも正しいと思ってリポストするのはどうかと思います。
たとえば、長井秀和
麻生泰ドクターをボロクソに言っている動画を観ましたが、ひどい内容でした。
長井氏を評価しているとしたら、あなたの人間性が疑われますよ。
あと「つばさの党」代表の黒川敦彦氏。
彼は、創価学会批判の風潮に乗っかって創価学会批判のデモなどを企てたりしていますが、彼は、反創価の風を自分の政治活動に利用しているだけです。
まともな人は、彼を相手にしていません。

「女神さん」は、ときどき素人はだしの素敵なイラストを載せたりして、才能にあふれる方だというのは分かります。

自分に対する批判の声にも謙虚に耳を傾け、少なくとも、ツイッターで相手をブロックするような真似はなさらない方がいいと思いますよ。

来年は、もしかしたら仲良くお話ができる関係になれるかもしれません。そうなるといいですね。

コメントをお持ちしています。

獅子風蓮


「宿業」について つれづれに

2023-12-30 01:18:48 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
「宿業」について つれづれに(May 2, 2023)


「宿業」について つれづれに

まず、基本的なことをいうと、

例えば、過去世の宿命で今が何か問題があるといったとき、その問題というのは、「病気」「障がい」「貧乏」なのですよね。

ということは、それは「悪いことなのか」という素朴な疑問がありますよね。

日本の障がい治療の原点と言われる呉秀三医師は、精神障がいにとっての悲劇は、「日本の国に生まれたこと」と述べ、むしろ、日本社会のほうに、問題があるとしています。

今の世界的な「障がい」のとらえ方というのもそうですよね。社会のほうが、変わらないといけないというね。

「障害」だけでなく、今、世界の標準的な考え方(right‐based approach)では、「努力するのは社会の側」というのが普通になってきています。

難病について、同じような考え方が主流です。

遺伝子レベルで、何万分の一の確率で発生する難病にたまたま罹ったのは、その人の問題ではなく、

むしろ、私たちが罹ったかもしれない病気に、その人がなってしまったのだから、罹ってない私たちは、申し訳ないと支援しよう、という考え方が主流です。

次に大聖人の「価値観」を考えてみます。

「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」

というのが、大聖人の価値観ですよね。

蔵の財闇の財よりも、心の財に価値をつけていくわけです。

だから、例えば、あの社長は傲慢だ。社員に非人間的な扱いをする。それで大もうけしている。あいつは、よほど過去世に宿業積んできたに違いない。

というように、

もし、もし、過去世の宿業とかというならば、「今」については、「こころの問題」を考えねばならないですよね。

しかし、財や身体の問題を宿業と考えるのは、これは世法です。世間の考え方です。

かの仏の御法(みのり)を聞けば、富と貧(まず)しきは前世(さきのよ)の脩(よき)否(あしき)によるとや。此はあらましなる教へぞかし。前世にありしときおのれをよく脩(をさ)め、慈悲の心専らに、他人(ひとこと)にもなさけふかく接(まじ)はりし人の、その善報によりて、今此の生(しやう)に富貴の家にうまれたり。おのがたからをたのみて他人(ひとこと)にいきほいをふるひ、あらぬ狂言(まがごと)をいひののじり、あさましき戎(えびす)こころをも見するは、前世(さきのよ)の善心かくまでなりくだる事はいかなるむくひひのなせるにや。仏菩薩は名聞利要を嫌(いみ)給ふことこそ聞きつる物を、など貧福の事に係(かか)づらひ給ふべき。

前世で、いいことをしたから金持ちに生まれたのならば、金持ちが傲慢に他人をののしるのは、いったい、どんな因縁があるのかね?

仏菩薩は、名聞冥利を嫌うはずなのに、宿業論は、なんで貧乏金持ちにこだわるのかね。

シンプルですが、まさにそうです。

心の財がだいじなんちゃうん。

(友岡雅弥さんの随想)


解説
今の世界的な「障がい」のとらえ方というのもそうですよね。社会のほうが、変わらないといけないというね。
(中略)
難病について、同じような考え方が主流です。
遺伝子レベルで、何万分の一の確率で発生する難病にたまたま罹ったのは、その人の問題ではなく、むしろ、私たちが罹ったかもしれない病気に、その人がなってしまったのだから、罹ってない私たちは、申し訳ないと支援しよう、という考え方が主流です。

同感です。


前世で、いいことをしたから金持ちに生まれたのならば、金持ちが傲慢に他人をののしるのは、いったい、どんな因縁があるのかね?
仏菩薩は、名聞冥利を嫌うはずなのに、宿業論は、なんで貧乏金持ちにこだわるのかね。
シンプルですが、まさにそうです。
心の財がだいじなんちゃうん。

まったく同感です。
友岡さんの指摘は、一部の創価学会員に今も根強く残っている、悪しき「宿業論」への痛烈な批判になっていますね。


「すたぽ」にも同様の記事があります。

freak68- 「宿業」についてつれづれに

友岡さんの文章が読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮


「恩」は返さずに

2023-12-29 01:51:44 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
「恩」は返さずに(April 29, 2023)


友岡さんがまだ創価学会に幻想を抱いていたころの講演ですから、多少割り引いて読む方がいいかもしれません。

(明らかな誤字脱字は訂正しました)

 


「恩」は返さずに

初期仏教には、「恩」という言葉に対応する原語がありません。
 
つまり、もともと仏教には、知恩、報恩という概念はなかった。
 
後の時代、中国や日本で作られた仏典、また中国で訳された仏典の訳には、それがバンバン出てきます。
 
あえていうとupakāra, prarikāraということばがそれに当たるのですが、これは、「他人を助けること」です。

バラモン教では、シヴァやヴィシュヌなどの、超越的な神に祈願し、その恩返しとして、いけにえや財宝を捧げたのですが。

初期仏教では施(ほどこ)し、つまり貧者や困窮者に食べ物などの支援をすることだけが、唱えられていました。

これは、社会的にいうとこうなります

最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。

悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴーダマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、

ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。

その考え方は、今現在の社会で、身体的なハンディを持っていたり、経済的なハンディを持っていたりすることを、過去の因によるとして、固定してしまうからです。

でも、この考え方は、ごく一面、浅い意味ですが、いい部分もあります。
なぜならば、来世に悪いところに生まれないために、今、悪いことをしないでおこう、というように、犯罪の予防、社会の安定につながるからです。

でも、それは、いつも自分の所業を監視する、自己監視型の、ミシェル・フーコーのいうような社会を作ってしまうことは目に見えています。

事実、江戸時代中期、京都石清水正法寺の大我は、徳川幕府体制の御用僧侶だったのですが、このような言葉を残しています。

「一たび仏法を聞き因果を信ずる者は、深淵に臨みて薄氷を踏むがごとく、戦戦競競(=戦々恐々)として敢えて心を放(ほしいまま)にせず。……万民(悪行の)来報を恐れて、君を戴くこと日月の如くす」(三彝〈い〉訓)

仏法の因果を聴いた人たちは、悪業を犯さないように犯さないように、びくびく生きて、徳川幕府様を日月のように尊敬する、というのです。

結局、このように「因果」への恐怖から作られる社会は、安定しているように見えて、監視型社会なわけです。

他人から強制されるのでもなく、また因果を恐れるのでもなく、自らを律して行く、そして、それを社会に及ぼして行く。

まさに、そのために「困っている人を支えること」「まず与えること」を、初期仏教は唱えた訳です。

輪廻・業思想を排除した仏教は、倫理的な個の自立を考えたわけです。

それで、バラモン的な超越的存在への供養だけでなく、他者への贈与。

それによって、個人も、社会も混乱を静めることができると考えたわけです。

自立(自律)した人たちが支え合う社会――これは、社会の根本に「恐れ」ではなく、「信頼」が醸成されていくでしょう。

まさに「恩送り」の考え方は、それです。

企業の「社会的責任」の文脈で使われる「ペイフォワード」も同様の意味でしょう。
「ペイフォワード」の反対語は「ペイバック」です。

恩返しが「ペイバック」ではなく、「恩送り」が、「ペイフォワード」に当たるでしょう。

 

あるアメリカのIT企業の社長が来日して驚いたのは、重い荷物をもって困っている人に「お手伝いしましょうか?」と言ったら、断られた。何か別の目的があるのではないか、と思われたようなのです。

アメリカでは、子どものころから普通にボランティアをするので、世の中には、普通に困っている人がいて、そして「上から」ではなく、同じ立場で、お互いさまだからと支えることを、子どものころから、体で覚えている。

そして、大人になって、何らかの社会的成功を得たならば、それを困っている人に、普通の行為として、ペイフォワードする。

こういうことが、自然に身につけている人が多い。
――というのです。

 

ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目指した社会のために、少しでも恩送りできたらなぁと、思っています。

 


(「友岡雅哉さんのセミナー」から)

 


解説
輪廻・業思想を排除した仏教は、倫理的な個の自立を考えたわけです。

初期仏教では輪廻・業思想を排除したというのは本当でしょうか。
一般的な仏教理解では、ブッダの生きたインドの社会では、輪廻・業思想は当然のものとされた。その苦しみの業・輪廻から解放されるために、ブッダは法を説いた。
そして、解脱した者だけが苦しみの業・輪廻から解放されるとした……。

不勉強は私としては、判断しかねるところですので、今後の課題としたいと思います。

 

ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目指した社会のために、少しでも恩送りできたらなぁと、思っています。

同感です。

 

ちなみに「すたぽ」にも、友岡さんのこの講義の全文が載っています。

Salt45-「恩」は返さずに 

友岡さんの講義が読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮


「難」って「何」やねん?/椎地四郎殿御書

2023-12-28 01:50:34 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
「難」って「何」やねん?/椎地四郎殿御書(April 26, 2023)


友岡さんがまだ創価学会に幻想を抱いていたころの講演ですから、多少割り引いて読む方がいいかもしれません。

(明らかな誤字脱字は訂正しました)


「難」って「何」やねん?
  /椎地四郎殿御書

■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)のセミナー
■日付/不明
■会合名/不明


「椎地四郎御書」には、次のように記されています(p1488)。

末法には法華経の行者必ず出来すべし。但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流入る。されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ。


一人の人間の人生において、およそ「難」は二つの形で、「出来」してきます。

一つは、個人の人生の「老病死」や、経済的に立ち行かなくなること、他者との衝突など。

もう一つは、「社会」とのあつれきです。


例えば、独裁国家において、「報道の自由」を求めれば弾圧されます。
そして、それは「独裁国家」だけではありません。普通の社会でも、その社会から偏見・差別をもって見られる人たちは、普通の人生を送ろうとするだけでも、さまざまなあつれきがあります。

例えば、私の身近でいうと。

友人に精神的な障碍があり、30歳過ぎから、家から出られず、仕事もやめねばならなかった男性がいます。
当然、障がい年金をもらって暮らしているのですが、テレビ番組で「生活保護」についてのバッシングが出るたびに、具合がとても悪くなり、「死にたい」と電話がかかってきます。
実際、いままで、昼間うろうろしててて、「あんた仕事してへんのか」、とか言われた経験があったり、喫茶店に入ってもジロジロと見られたり、また「仕事せんで、お金もらって気楽なもんや」と、噂されたこともあり、そのことで、また、自身を責めて暮らしてきたのです。

だから、「生活保護バッシング」などの、いわゆる「弱者叩き」の風潮には、極端に敏感で、昨今の風潮の中で、どんどん病態は悪くなり、おびえながら暮らしています。

1990年代には、デイサービスみたいなところに行けた! とか、明るい電話が多かったのですが、この数年、ひどくなりました。

それは、社会がそれだけひどくなったということでしょう。

さて、長くなりましたが、これは「社会側」に原因があり、それが圧力=難となって、人生に覆いかぶさってきているといえるでしょう。

よく考えれば、一つ目の個人的な難についても、周辺のサポートとか、「老いること」「病気になること」について、周囲に成熟し、思慮深く、共感してくれる社会が広がっているならば、もう少し楽に暮らせるかもしれません。

そういう意味では、一つ目と二つ目は重なり合っています。

で。

そういう、成熟し、共感性が高い社会へと変えていこうと、積極的に行動したら、まだ、未熟で、無関心が広がる社会は、その行動を止めようとしてきます。
だから、「難に難が重なりあってくる」わけです。

ものすごく、個人的な感触なのですが、「法華経の行者」と「難」の関係というのは、そういう、新しい社会を積極的に作ろうとする者と、それを阻もうとする者との間のあつれきのような感じがしてならないのです。

大聖人は、「法華経の行者」と「難」の関係について、「火」と「薪」、「大海」と「衆流」に例えられていることが注目されます。

壁とかの行く手を阻み、妨害するものとしてではなく、むしろ、それによって、より勢いがましてくる、また水の供給源。

つまり「難」は、乗り越えるべき障害ではなく、もっと積極的な意義を持つ、「存在や活動を支える源泉」といえるもの。

もちろん、法華経勧持品や不軽品に出てくるような妨害するものが現われ、その迫害を身で受けることにより、『法華経』を「身読」できて、法華経の行者であることが証明されるということもあるわけです。

もっと積極的に、そのような(固陋な社会とあつれきが生まれるような)人生を歩んでいけ、それによって、人の価値はさらに高まる、と言われているように思えるのです。

忖度や同調圧力とかに負けない人生が、勧められているように思えるのです。

ちなみに「行者」と言う言葉ですが、大聖人当時、大きく二つの宗教集団に用いられていた言葉です。

一つは、貴族などに近づいた巨大寺社を離れ、山岳で苦行に勤しむ山伏たち。

もう一つは、同じく貴族などに近づいた巨大寺社を捨て、町や村の中に向かった一遍らの「捨聖」「市の聖」と呼ばれた宗教者たち。

いずれにしろ、「行者」は、時の世俗権力と結んだ寺社勢力からは、異端と憎まれた存在でした。

 

(友岡雅弥さんの講義から)

 


解説
つまり「難」は、乗り越えるべき障害ではなく、もっと積極的な意義を持つ、「存在や活動を支える源泉」といえるもの。……
もっと積極的に、そのような(固陋な社会とあつれきが生まれるような)人生を歩んでいけ、それによって、人の価値はさらに高まる、と言われているように思えるのです。

何かをなそうとする人に対して、勇気を与えてくれる言葉です。


ちなみに「すたぽ」にも、友岡さんの「椎地四郎殿御書」講義が載っています。

freak21 - 「難」って「何」やねん? /椎地四郎殿御書

友岡さんの御書講義が読める「すたぽ」はお勧めです。

 

 

獅子風蓮


生きるための宗教・仏教

2023-12-27 01:36:38 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
生きるための宗教・仏教(August 29, 2021)

友岡さんがまだ創価学会に幻想を抱いていたころの講演ですから、多少割り引いて読む方がいいかもしれません。


生きるための宗教・仏教 

       友岡雅弥

◎『仏法と健康・豊かさを考える

創価学会学術部セミナー集② 1995』から

 「生きるための宗教・仏教」

     友岡雅弥 ともおか まさや

   東洋哲学研究所研究員(※当時)

昭和29年生まれ

(財)東洋哲学研究所委嘱研究員

大阪大学文学部卒業後、同大学大学院博士課程修了(インド哲学専攻)。1991年には、インドと日本の国交回復40周年を記念する政府公式行事の環境問題シンポジウム(ニューデリー)で講演。

主要論文に「プラシャスタパーダの二種のサーマーニャ」、「ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開」など。

日本の常識は世界の非常識

 今日お話ししようと思うのは、単純な事実です。

 つまり、「日本の常識は世界の非常識である」ということです。

 カレル・ウォルフレンという人が書いた『人間を幸福にしない日本というシステム』という本が、ベストセラーになっています。その中で彼は、日本が “ フォルス・トゥルース ” つまり、「偽りの真実」に覆われた国であるとしています。日本では、一部特権的階級のみが真実を知り、彼等が、すべての人々に「偽りの真実」を「真実」と思いこましているというのです。

 私の言う「日本の常識は世界の非常識」ということも、ウォルフレンの「偽りの真実」ということも同じことを意味しています。

 例えば、昨年(※1994年)2月、ヨーロッパのある国、確かフランスかどこかだったと思いますが、その新聞におもしろい記事が戦っていました。その記事は、「日本生まれ」のある風習がとうとう我が国に上陸した、困ったものだと嘆いていました。

 日本で生まれた風習とは何か。それはバレンタイン・デーに女性が男性にチョコレートなどの贈物をすることです。

 どうですか。日本では「バレンタイン・デーに女性が男性に贈物をすることは、西洋のキリスト教の風習だ」と思われています。しかし、真実は日本生まれの風習なのです。これが「偽りの真実」、世界に通用しない「日本の常識」の一例です。

 バレンタイン・デーは、本来ウァレンティノス、イタリア読みにしたらバレンチノ、英語読みではバレンタインになります。ともかく、そういうキリスト教の司祭が、皇帝クラウディウスに弾圧され虐殺された日です。他者のために自分の命を犠牲にしたバレンチノの行為を偲(しの)ぶのが、バレンタイン・デーの意義です。「献身」が本質といえるかもしれません。

 従って、もともとヨーロッパでは、親が子に「他者への献身」の貴さなど、人生の教訓を書いたカードを贈り、子が感謝の言葉を書いたカードを返す、というような行為が主に行われました。

 この「本来のバレンタイン・デーの精神」は、昔日本に入ってきたのですが、何十年経っても日本では根づかなかったのです。

 それを、今から数十年前に、ある日本の二つのチョコレート・メーカーがいろいろと考え、「この日には、西洋では女性から男性に愛を告白し、チョコレートを贈ります」なんてことを言い出したら、みんなそれが真実と思い込み、定着してしまった。

 イギリスに「スイート・ハート・デー」という日があります。この日にイギリスでは、日頃お世話になった信頼すべき人に、ハート型のチョコレートなどを贈る風習があります。もちろん、2月14日の「バレンタイン・デー」とは何の関係もありません。この風習と、本来それとは何の関係もない「バレンタイン・デー」が日本で完全に結びついたのです。

 最初、今から約60年前に、あるチョコレートメーカーが考えたバレンタイン・デーのプレゼントは、女性から男性にだけ贈るものではありませんでした。どちらからでもよいし、友だち同士でもよいし、同僚でもよい。親でもいいし、子でもよい。

 もちろん当時は、女性から男性に贈物をするなど「はしたない」と考えられていたので、主に男性から女性に贈りました。ただ、贈物としてチョコレートをあげるということを、流行らそうとしたらしいのです。

 しかし、これは定着しませんでした。

 私の考えですが、恐らく一つの理由は、歳暮や中元など、他の「物を贈る慣習」の中に埋没してしまったからでしょう。

 その後、今から40年ほど前、次のメーカーは、若干戦略を変えました。その時「女性から男性に愛を告白し、チョコレートを贈る」という新たな「作られた真実」が加わることになりました。すると、ほどなく日本国中に定着してしまいました。本来の真心の精神は、何十年かかっても、定着しなかったにもかかわらず……。

 もちろん、これほど定着してしまったのだから、いまさらどうこうではありませんが、本来の「人生について深く考える」とか「恵まれない人のためを思う」という精神が完全にカットされていることは、問題と思われませんか。

 後の話を先にするようなかたちになりますが、日本での仏教に関する常識も、同じ流れで考えられます。

 日本の「バレンタイン・デー」。呼び名は、「バレンタイン・デー」ですが、内容は似ても似つかぬもの。同様に、呼び名は「仏教」ですが、日本の仏教は「仏教」とは、似ても似つかぬものである、という意見を私は持っています。そして、これが私の最終結論でもあります。

 さて、話を元に戻しましょう。日本が「世界の非常識」「偽りの真実」の通用する国である例として、他にこんなこともあります。

 今から数年前、信じられない驚異的な視聴率を記録した衛星同時中継のテレビ放送がありました。それは「ある人」の誕生日を祝うために開かれたコンサートです。出す曲出す曲がミリオンセラー、主演映画「ボディーガード」も大ヒットし、日本でも有名な女性歌手、ホィットニー・ヒューストンも、そのコンサートに出演しました。日本では知られざる事実ですが、彼女はそのコンサートだけでなく、いつもその「ある人」を頭に、いや「心」に浮かべながら歌を歌っているのです。その「ある人」は誰でしょうか。

 昨年(※1994年)、ホイットニーはその人の国に行き、その人に会いました。彼女は感動の余り気を失い、やっとの思いで言った言葉が「アイ・ラブ・ユー、マディバ」。「マディバ」というのは、「ある人」の出身の部族の名です。そろそろ「ある人」が分かってきた人もいらっしゃると思います。そうですネルソン・マンデラです。南アフリカ黒人解放運動の指導者、28年、1万日の拷問に耐え続けた男、マンデラです。

 彼の即時釈放を要求してイギリスの歌手、ピーター・ガブリエルたちが世界各国のアーチストに呼び掛けて、イギリスのサッカー場で開催したのが、その驚異的視聴率のテレビ中継なのです。そ模様は、ほとんど全世界に中継されました。もちろん南極大陸や北極には中継されていない。砂漠地域にも。戦争中の国も。しかし、通常の国のほとんどがその中継に協力しました。

 その中で、日本は中継しなかったのです。乾いた砂漠と同じなのかも知れません。人間性が「砂漠」のように枯渇しているのかも。北極と同じ「氷の世界」が人々の心の中に広がっているのかも知れません。

 そのコンサートでステージに立ったある人が、感動して言っていました。

 「マンデラには、こんなにたくさんの友達がいる」

 どうも、我々日本は、マンデラの友達ではないようです。世界の真心が集い合う時に集い合えない。知らない。大変悲しいことです。こんなに情報が氾濫しているのに肝心のことは知らされていない。

 さて、ネルソン・マンデラ釈放要求コンサートは、全世界で放映され、世界各地にマンデラ釈放を求める声が高まりました。そして、そのうねりは、とうとう南アフリカ政府も無視できないほどの高まりとなり、そのうねりの中で、マンデラは釈放されたのです。

 彼は、釈放要求コンサートの開かれたイギリスのサッカー場にやってきて、今度は釈放を祝賀するコンサートに出たんです。感動的なスピーチを行いました。

 「あなたたちの歌声が、牢獄の分厚い壁を通り抜け、私の耳にとどきました。ありがとう、本当にありがとう」

 そのマンデラが日本に来ました。その時の日本国民の対応と、某女性歌手の「不倫の相手」と騒がれたタレントが、アメリカから来日したときの騒ぎとを比べて見ると、「日本の常識は世界の非常識」という私の主張が、分かっていただけると思います。

 テレビでどちらの方が、長い時間扱われたかを、みなさんご承知でしょう。

 「マンデラよりもタレント好き」――これが、日本人の性質かも知れませんね。その中で、創価学会がどうマンデラと友好の絆を結んだか、それは言うまでもないことでしょう。池田SGI会長との長時間の対話も、ご記憶の通りです。

 本来、歴史的事件だったはずのマンデラ来日。しかし、週刊誌はどのように書きたてたでしょうか。悲しいことに何と、 “ マンデラは、金儲けのために来た ” 的な記事が載っていた。

 私事ですが、知人にマンデラとSGIとの友好関係の話をした時、「どうせ、お金を積んでいるのだろう。俺は全部知ってるぞ。お前は創価学会にだまされてる」なんてことを言うんです。

 一体、何を知ってるんですかね。膨大な歴史資料や極秘文書が閲覧できるアメリカの公文書館にでも行って調べたのでしょうか。南アフリカのヨハネスバーグに飛んで調査したんでしょうか。何が批判の基準なのでしょうか。

 週刊誌――それが、恐らく彼の唯一の判断基準です。

 「ではあなたはマンデラさんについて、どれ程知っているのですか。彼が何年獄中で拷問に耐えたか知っているのですか」「1万日の拷問に耐えた人が、釈放されてすぐ、お金欲しさに行動するのですか」って、言うと、彼は、何も反論しませんでした。

 また、マンデラさんは、その当時まだ大統領でもなんでもない。南アフリカでまだ弾圧が続けられているANCのメンバーです。その人に少しでもやましいことがあれば、ANC弾圧の口実を与えてしまう。

 こういう “ 生の事実 ” を「判断基準」にするべきではないでしょうか。加工されたり、手を加えられていない生の事実を、正しい判断基準にしないと、権力者たちの思うままになってしまう――それが歴史の教訓です。

 “ アウシュビッツにはガス室はなかった。ナチスは虐殺などしていない。被害者は腸チフスで死んだ。生き残った人の証言はウソだ ” などという記事が、 “ 大スクープ ” として取り上げられる。「日本の土木技術は世界一だ」と信じこまされ、逆に、肝心の活断層の知識が、まったく伝えられていない。

 「世界の常識は日本の非常識」「日本の常識は世界の非常識」、「偽りの真実が通用する国・日本」の正体です。

創価学会のどこにひかれたか

 ともかく、「日本の常識」は、疑ってみる必要があることはご理解していただいたと思います。そのような「日本の常識」を打ち破っているから、学会は批判される。しかし、世界の常識からすると学会は評価すべきものらしいです。

 海外で書かれた創価学会に関するきちんとした論文の数は、2百を超えます。20人以上の人が、創価学会研究で博士号を取っています。

 常識を持つということは、幸せな人生を送るための正しい「価値判断の基準」を自分の中にきちんと持つ、ということでしょう。

 私が創価学会に入ったのは、今から 14年前です。入会前に大学院で、哲学や宗教学を学んでおり、様々な宗教のことを批判的に研究しておりました。

 例えば、第2次世界大戦や、それに先立つ中国での戦争の時、日本の各宗教団体はどのような態度だったでしょうか。ほとんどが翼賛体制におもねり、軍部に協力、支持したのです。

 そんななかで、創価学会の牧口初代会長、戸田第二代会長は、最後まで軍部権力に反対を続けたのです。これを知った時、感動しました。

 「権力のいうがままになる宗教団体がほとんどだったなかで、何という信念か」と感心しました。

 友達でもそうです。調子の良い時にだけやって来る友達は、本当の友達ではないかもしれない。困っている時、大変な時に力になってくれる友こそ、真の友人ではないでしょうか。

 宗教も同じだと思うのです。大変な時に民衆の側に立った宗教か、権力の側に立った宗教か――この違いは大きいと思うのです。

 「日本の常識」として、「宗教は全部同じ」というのがありますね。そのくせ “ ブタの肩ロース肉 ” (笑い)。「こっちのスーパーは、肩ロース百グラムが88円。いやもっと安いとこがあるはず」と、必死になってチラシで勉強する。そして「あったやないの。87円のスーパーが。この違いは大きい」。でも「宗教はみんな同じや」(笑い)。

 すこし変でしょう。

 枝葉ばかり気にして、一番大事なことが疎(おろそ)かになっている。

 「学会に入ると自由がなくなる」なんて、批判する人がいます。

 では、「自由」とはなんでしょうか。

 モンテスキューという哲学者は、『法の精神』という書物の中で「もしある人が、法律によって禁じられていることを行うことができるなら、彼は自由ではない。他の人々も、同じような権利を持つからだ」などといっていたかと思います。

 赤ちゃんを抱えたお母さんがいる。その横でタバコをスパスパ吸っていて、「俺は自由だ。何をやってもよい」なんて言ってる人は、自由でしょうか。

 それは自由ではありませんね。そのような考えの究極は、独裁ですね。「自分は好きなことをする。自分のためなら、他人はどうなってもよい」と考えるのは暴君ですね。そんなのは、絶対に自由なんかじやない。みんなが他人の迷惑など関係なしに、自分勝手に振る舞う社会――そんな社会は決して「自由社会」ではありませんね。

 自由とは、自分だけが主張するのではなく、お互いに相手を認め合うものだと思うんです。全員で、他人の自由を認め合う社会こそが、最高に自由な社会ですね。その点で、日本は自由な国でしょうか。

 また、こういうことも言えますね。

 今、「平和」だとか「戦争反対」といっても、みんな「その通り」と賛成します。しかし、今から数十年前には、「戦争反対」とか「戦争に協力しません」などというと、不敬罪で捕まり、拷問を受けたんです。

 そんな時に「戦争反対」とはっきり言えることこそ、本当の自由ではありませんか(拍手)。その意味で、創価学会の歴史こそ、「真の魂の自由」を掲げた歴史なのです。

 もう一つ、私が創価学会にひかれた理由があります。それは、霊魂崇拝ではないこと。

 野田正彰さんという有名な精神分析学者がいらっしゃいますね。災害救援問題の第一人者でもある、温かい心、鋭い知性の人です。あの方が、昨年『泡だつ妄想共同体』(春秋社)という本を書かれています。副タイトルが「宗教精神病理学からみた日本人の信仰心」。

 そこにはっきりと書かれているのは、「悩みを自我との係わりにおいて把え直すのではなく、悩みを外因化し」「悩む個人の人格はそのままで、『先祖が苦しんでいる』という」(『泡だつ妄想共同体』)日本人の宗教心。これは、日本の伝統的な宗教にも、新・新宗教と呼ばれる新しい宗教にも、共通していると野田さんは指摘し、さらに、こう続けています。

 「個人の精神的悩みを自我の闘いとして分析していくのではなく、すべての原因を『先祖の霊魂の問題』と把え、一気に教祖を信じることによって救済されるとする」(同)

 実は、その野田さんは、創価学会を「ロゴスの宗教」といっています。悩みを外因化する「霊魂崇拝」とは違う宗教、と定義しているんです。「ロゴス」とは「言葉」という意味ですね。現実的な「言葉」で、悩みを「克服すべき課題」として示す宗教だというわけです。

 さあ、この会場にいらっしゃる皆様のうち創価学会の方で、今まで何か問題にぶつかり、先輩に相談しにいった時「うーん。君の右肩におじいさんの霊がとりついている」(笑い)とか「それは、君の先祖のお墓がちょっと傾いているからや」(笑い)とか、言われたことがある方は、いらっしゃいますか?

 (会場)……

 いません(笑い)。

 例えば「君の悪い癖は、始めての人にもあまりに馴々しくすることやで。君の仕事は営業やろ。世間にはいろんな人がいるから、注意したほうがいいで」などと、言われますね。「霊の祟り」ではなく、きちんと、「克服すべき課題」として示すのです。

 私も、学会の教義体系のなかに「霊魂崇拝」や「超能力」などがないのを知って、他の日本の宗教とは違うなと思いました。この違いは、「ブタの肩ロース肉の違い」より大きいと思いますが、いかがですか(拍手)。

 ここで私が大学院で学んできた「宗教学」の立場から、日本ではびこる宗教上の「偽りの真実」に関して、さらに述べましょう。

 先程、本来のバレンタイン・デーが全く違うものとして日本では広まっている、と述べました。全く同じことが、仏教でもいえます。その実例を幾つか上げたいと思うのです。

 例えば、「袈裟」。日本では坊さんが衣の上に着ける物ですね。とにかく、本来の仏教は、日本の仏教をそのまま逆にすればよい。つまり、もともとは、坊さんじゃなく民衆が着る服だった。

 「袈裟」というのは、サンスクリットの “ カサーヤ ” という語の音を漢字で写したものです。では “ カサーヤ ” とは何か? インドで、最も虐げられた人々、チャンダーラとかプックサとか言われていましたが、そういう差別された人々が来ていた粗末な一枚布。それが、 “ カサーヤ ” なのです。

 ガンジーを思い出して下さい。彼は弁護士でしたが、民衆の中に飛び込み、その人達と同じ “ カサーヤ ” を身にまとったのです。釈尊も同じでした。王子の衣服を脱ぎ捨て、貧しい人とともに暮らしたのです。本来の袈裟は民衆救済の精神を表すのです。

 しかし、日本で「袈裟」は、最初から民衆との衣服とは掛け離れた華美な衣でした。その中で私の心を捕らえたのが、日蓮大聖人の姿でした。いわゆる日蓮遺文、大聖人が信徒に残した手紙を貪るように読んだ記憶があります。内村鑑三、矢内原忠雄など、日本の軍国主義に反対した人々が、不思議なことに日蓮大聖人を “ 代表的日本人 ” “ 余の尊敬する人物 ” と呼んでいますが、彼等も日蓮書簡の虜になっている。これほど、社会の底辺にまで温かいまなざしを注いだ人はいない。しかし、権力に対しては、敢然と立ち向かっている。

 私の心を打ったのは、自然に死んだ鹿の皮衣をまとい、木の皮で葺いた粗末な小屋に住んだ大聖人の姿でした。また、「貧乏人と病人の集まり」と表された創価学会でした。そして、権力に対峙し、牢獄に入ることを恐れなかった創価学会の歴代会長の存在でした。

 日本では軽蔑の意味で、創価学会に「貧乏人と病人の集まり」という言葉が投げつけられたこともありました。しかし、正しくその言葉は、創価学会が貧乏人と病人を救って来た証しなのです。感動しました。釈尊、日蓮大聖人、創価学会が、一本の糸でつながったのです。

 「浄土」という言葉があります。日本では、この世を離れた「あの世」のことです。

 「おじいさん。もうこの世では、ええことない。こうなったら、ひたすら阿弥陀さんにすがって、死んでから極楽浄土の池の蓮の花の上で、幸せになろう」

 「蓮の花の上で幸せになる」……アマガエルの夫婦じゃない(笑い)。

 「日本の仏教を逆にすれば本来の仏教」という「方程式」を使いましょう。日本の仏教では、「浄土」はあの世。とすれば、本来の仏教では「浄土」はこの世、つまりこの現実です。

 「浄土」に当たるサンスクリットを想定すると、 “ プラシュッディ・クシェートラ ” となります。これは、自分のいる地域、クシェートラ、を改善、プラシュッディ、するということです。現実変革ということです。

 実際に、古代インドの仏教徒は何をしたか? 砂漠に井戸を掘り木を植える。川に橋を掛ける。無実の囚人の救済連動をする。これが「浄土」の実践だったのです。正しく、環境保護、人権擁護連動そのものです。釈尊は、こうした現実的運動から逃避した信仰には功徳はない、とまで言っています(『スッタ・ニパータ』)。末法では折伏行が大切となります。

 そういう意味で、日本の仏教を見るとどうですか。現実逃避です。阿弥陀信仰だけではなく、禅もそうです。最近、有名な仏教研究者が、「禅は仏教ではない」という歴史的研究を著して評判になっています。いわゆる禅では、深山にこもり、無念無想、何も考えない何も思わないのが「悟り」だ、などといいます。じゃあ、寝とけばいい(笑い)。

 現実の中で悩む人々を捨て、自分の心の安らぎを求めるのは、仏教ではない。その点でも、私は日蓮大聖人の「立正安国」の精神、創価学会の現実に根を張った様々な社会運動のなかに、「仏教そのもの」の魂が脈打っているのを感じたのです。

 話が変わりますが、先日、国際宗教史学会の副会長をしておられるヴェルブロウスキーという方にお会いしました。実は、この博士、日本の「水子供養」のことを知り、「亡き子を偲ぶ親の心につけ込む宗教者の姿勢など、断じて許せない」と思ったそうです。そして長年、古文書類、もちろん日本語のです、を調査してきたのです。

 日本では「水子供養」の風習は昔からあると考えられていますね。しかし、事実は、1968年に始まったのです。新幹線より新しい。どこの寺が始めたのかもよく分かっています。

 博士は言っていました。「医者のマフィアと坊さんのマフィアが結託し、1968年に始めたペテンが水子供養だ」と。

 何か悩みがある。それを「水子が祟りをなしておるぞ」と脅す。その脅しにのってしまって、「早く、私に取りついている霊を、降ろしてください」などという。

 人間として、亡き人を偲ぶのは当然です。しかし、「水子の祟り」といわれた瞬間、亡き子への愛情など完全に忘れてしまって、亡き子を、何か不吉なもののように思ってしまう。こうなったら、おかしいですね。亡き子をないがしろにしている。

 亡き人のことを大切にするんだったら、今生きている我々が、立派に人間として成長することが「最高の供養」ではないでしょうか。

 日本の仏教は先祖供養をもっぱらとしている。「お盆」や「お彼岸」などに、「お線香をくべて、懐かしい御先祖さんに帰ってきてもらって、お坊さんにお経をあげてもらって、供養する」

 こういう日本の仏教常識は、少し考えれば、おかしいことがすぐ分かります。

 まず、御先祖さまとやらは、一人なのでしょうか。皆さん一人一人に父母は二人いらっしゃいますね。その父母に、それぞれお父さんお母さんは二人づつ。その一人一人に父母が二人。今日、家に帰られて大型電卓で計算してください。「二掛ける二掛ける二……」とね。27代で1億超えますから。

 これが、線香一本で「こんにちは」「こんにちは」と帰って来たら大変ですよ(笑い)。しかも27代ではすまない。お猿さんや、恐竜が帰ってくるかもしれない(笑い)。

 また、仏教の生命観から考えてもおかしい。死んで、あの世に行っておしまいではない。先祖は、この世に生まれてくる。先祖の霊がプカプカ浮いているわけではありません。

 それだけ、現実に生きる人を大切にしたのが本来の仏教です。この先祖供養についても、仏法を信じて人間的成長した私達が先祖供養することが最高の供養となることはいうまでもありません。

生きた宗教とは何か

 日蓮大聖人の思想と行動に出会ったのは、日本の仏教に不審を抱いていた最中です。

 御書の中に「衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生(せんしょう)の父母なり」(御書 1046㌻)などの言葉が、たくさん出てきます。

 「みんな家族なんだ。死んだお父さん、お母さん、我が子は、悩んでいるこの人かも知れない。かわいそうに。なんとかして、助けてあげたい」――これが仏教の精神なんですね。魔法や呪術ではない。

 『テーリーガータ』という、釈尊の女性信徒の体験談集みたいな経典の中に、こんな面白い話があります。

 プンニカーという、仏弟子がいました。ある寒い日、インドといっても広大で、特に釈尊達の活躍してきたインドでは冬はかなり冷えます、プンニカーは一人のバラモンが頭から水をかぶっているのを見掛けます。

 「おやおや、バラモンさん。だれに命令されて、こんな寒い日に水汲みをしているのだね」

 「無知なやつめ。水垢離(みずごり)の儀式を知らぬとは」

 「その水垢離修行で、どんな功徳とやらを得ることが出来るのかね」

 「悪業を清め、天国に昇ることが出来るのだ」

 「へーっ。水で『天国』とやらに行けるなら、『天国』は、カエルやカメやワニで一杯なんだね」

 「うー」。バラモンは無言です。

 「水で悪業が流れるの? あらあら、バラモンさん、あなたの善業も流れて行くよ。ほらほら、あなたの足元に」

 バラモンは、キョロキョロと “ 流された善業 ” を探します。

 痛快なエピソードですね。そういえばその通りなんです。この現実性が仏教の本質だと思うのです。そして、プンニカーは言うのです。

 「私は、かって水汲み奴隷だった。逃げるように釈尊たちの所に行ったんだよ。すると、そこには身分の隔ても何もない。感動したね。そして、私はその集いに加わったんだ。今のあんたを見てると、昔寒い時に水汲みをしたことが、思い出されてね、人がそんな冷たい思いをしてるのが、耐えられなかったんだよ」

 この人間的な優しさ。しかも、単なる道徳に止(とど)まってはいません。そこには、宗教的に磨き抜かれた人格の深さが、感じられてなりません。

 ゴータミーという女性が、釈尊のところにやってきました。泣きながら彼女は、こう訴えます。

 「私の生まれたばかりの子が死んでしまいました」

 聞けば、数日前には夫にも先立たれたといいます。

 「お願いです。お釈迦様。あなたのお力で、この子を生き返らせてください」

 ゴータミーは、必死で頼みます。

 これが日本の仏教ではどうなるでしょう。

 「その時、お釈迦様は、眉間から光を出し、その光に当たった子どもは息を吹き返した」というあたりが、日本仏教では常識でしょう。

 眉間の光で、人が生き返るはずはない。ウルトラ・セブンじゃあるまいし。確かに、いろんな大乗経典には、眉間から仏が光を出すということが書いてある。しかし、それは「譬喩」なのです。世間を見通しているという「譬え」なのです。

 では、日本仏教とは違う「本来の仏教」ではどうなるのか。

 釈尊は言いました。

 「助けてあげよう」

 ゴータミーは、喜びました。

 「ただし条件があります」

 どんな条件だったのか。

 「今まで、悩みというものを経験したことのない人から、芥子の種を貰って来てください。そうすれば、私はあなたの子を助けましょう」

 コータミーは喜びました。必死になって「悩みのない人」を探しました。そんな人はいるはずがありません。悩みから目を逸らしている人はいるかもしれない。しかし、悩みや苦しみのない人などいない。

 そこで彼女は気づくのです。「悩みの無い」ことが幸せではない。本当の幸福は「悩みに打ち勝つこと」だ、と。これで彼女は悟ったのです。悟ったといっても、雲に乗って極楽に飛んで行ったんじゃない。あくまで普通の女性です。しかし、彼女はその後の人生を悩める人のために生きたのです。これが仏教です。

 古代インドの最強国であったマガダのアジャータシャトル王が、バラモン教と仏教の違いを、釈尊に尋ねたというエピソードが、仏典にあります。

 釈尊は、明確にこう言っています。

 「バラモンたちは、次のような卑しき術を、邪悪な生活手段にして供養を貪っています。手相占い、人相占い、夢占い、火を使う護摩の祈祷、呪文をとなえて行う運命判断、家相判断、悪魔払いの祈祷、花嫁を嫁がせる吉日を予言すること、人を不幸にする呪術、鏡を使う呪術、神懸かりした少女の言葉による予言術……このような卑しき術を行わないのが仏教です。このような卑しき術を行わないように、自己を戒めることが、人生の悩みを解決する法なのです」(『ディーガ・ニカーヤ』)

 なんだか、今の日本の仏教は、釈尊が禁止したことばかりしていますね。仏教というよりバラモン教と言った方が適当みたいですね。こうして考えると日本においては、「仏教ならざるもの」が「仏教」として、いやそれどころか「仏教が否定したもの」が「仏教」として定着してしまっている。話を戻しますと、「偽り」が「真実」として定着してしまっている国が日本なのです。

 そんな国では、創価学会が評価されない。しかし、ここに、数年前から使われているデンマークの高校の教科書があります。このように、82㌻から20数㌻の間、創価学会について書かれてある。

 「立正安国論」が、なんとまるごと1章にわたって解説されています。日蓮大聖人のご生涯も1章、牧口先生のご生涯に関しても1章。戸田先生のことや池田先生の対談も、そのまま何の偏見もなく載せている。教科書に20数ページです。

 日本では、週刊誌。別に週刊誌だからといって、差別しているのではありません。しかし、教育先進国のデンマークでは教科書に学会の「評価」が出ている、日本ではホロコーストが無かったなどと書く類いの週刊誌に、学会の「悪口」が書いてあるのです。

 さて、あなたはどちらを信じますか。

 ( 『仏法と健康・豊かさを考える』、1995年6月30日、高村忠成編、第三文明社、pp.9-30 )

永澤宏之さんのツイッターから


解説

これまで紹介した友岡さんのセミナーと重なるところが多いですね。

 今、「平和」だとか「戦争反対」といっても、みんな「その通り」と賛成します。しかし、今から数十年前には、「戦争反対」とか「戦争に協力しません」などというと、不敬罪で捕まり、拷問を受けたんです。

これは、おかしいですね。

戸田先生も牧口先生も戦争に反対したから逮捕されたわけではありません。治安維持法と不敬罪で検挙されたのです。

ただ、宗教的信念を貫かれたことは確かで、私も尊敬しています。

獅子風蓮