創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
□第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
〇第四章 歴史は繰り返す
〇第五章 大東亜共栄圏と東アジア共同体
●第六章 性善説という病
□外交を「性善説」で考える日本人
□「善意の人」が裏切られたと感じると……
□国家主義思想家、蓑田胸喜
□愛国者が国を危うくするという矛盾
■大川は合理主義者か
□大川周明と北一輝
□イギリスにみる「性悪説」の力
〇第七章 現代に生きる大川周明
□あとがき
――第四部 21世紀日本への遺産
第六章 性善説という病
大川は合理主義者か
北一輝と大川周明が20世紀日本の傑出した国家主義思想家であることは論を待たない。この二人の知的巨人は、思想的構成、性格を異にしていたが、人間として互いに認め合い尊敬していた。本章のテーマである性善説、性悪説という観点で、両者の視座は共通している。人間の本性を善でもなければ、悪でもない、無記すなわち価値中立的なものととらえるのである。従って、人間により構成される国家にも蓑田胸喜が付与するような神聖で侵すことのできない絶対的な善の要素を認めないのである。
蓑田胸喜は自分自身を、日本の伝統の回復を求めてやまない復古主義者と見なしているのであろうが、実は、蓑田こそが典型的な近代主義者である。自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である。これに対して、大川周明は、『愚管抄』や『神皇正統記』など過去のテキストの読解を通じて、その内在的論理を掴もうとする。その結果として、個別性の中に普遍性を発見し、自己完結した多元的世界像こそが日本の伝統であるという言説を提示する。大川周明の言説は、前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつのだ。この点で、プレモダンかつポストモダンの大川周明と徹底した近代主義者である蓑田胸喜は過去の日本思想史を読解する方法が根本的に異なるので、議論が全く噛み合わないのである。しかし、大川周明と北一輝の議論はよく噛み合っている。理論と実践の分離を徹底的に排除する、すなわち思想をもつということは行動することであるという北の思想も近代主義の枠組みを超克しているので、大川と噛み合うのであろう。
国家主義陣営の思想家は、傾向として人々の情念に訴えるタイプが多い。しかし大川周明は、この陣営では例外的に論理性、合理性を重視するところに特徴がある。これは大川の人間観が性善説、性悪説のいずれにも立脚せずに、無記の立場から突き放して人間を観察していることに基づく。筆者の見立てでは、これは大川が国際的に十分通用する言説を組み立てることを可能にした長所だ。しかし、このような大川の論理性を思想家としての限界と見る識者もいる。例えば、竹内好は大川を合理主義者と規定し、それ故にカリスマになれないとの見立てを示す。
大川が冷酷な人物だと評されるのは、かれの合理主義が禍しているのであって、自分が何ものにも心酔しないし、人からも心酔されない性格に由来するものです。だからカリスマにはなれない。その代り学問の世界では業績を残しました。(竹内好「大川周明のアジア研究」『近代日本思想大系2:大川周明集』所収、筑摩書房、1975年、398頁)
筆者はこの解釈は、大川を誤解していると思う。大川が合理主義を尊重するのは、合理性の限界をよくわかっているからだ。むしろ合理性で割り切れない向こう側の世界に、人間にとって重要な事柄が存在すると考える。合理性で割り切れない世界をはっきりと明示するためにウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「記述されうること、それはすなわち起こりうることである。そして因果法則が許容しえないものは、すなわち記述されえないものである」(岩波文庫、2003年、141頁)、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(同149頁)と述べているが、大川の合理性重視とはこの認識に近いのである。大川が合理的なものにこだわるのは、本当に重要なのは合理性で割り切れない世界にあることをよくわかっているからである。藤原正彦が『国家の品格』(新潮新書、2005年)で強調している、論理と合理性に依存する改革では日本社会の荒廃を阻止することができないので、論理よりも情緒、合理主義よりも武士道精神を重視しなければならないという主張も、筆者の理解では、大川周明やウィトゲンシュタインと同じ発想なのである。論理や合理主義が適用される世界、例えば法廷審理や株式市場では、当然それに従うが、人間生活の全てに論理や合理主義を適用するのは不当拡張と言っているのだ。決して論理や合理主義を無視して、感情で行動することを是認しているのではない。
大川周明は、合理主義の世界とその向こう側の世界とを行ったり来たりできる類い希な天賦の才能(カリスマ)をもっていた。国家主義陣営の中で、北一輝、井上日召あるいは石原莞爾は、周囲の人々に「この人々が唱える理念のためにならば、自分の命を差し出してもいい」と思わせるようなカリスマをもっていた。宗教指導者と政治指導者のカリスマをあわせもっていたのである。これに対して大川のカリスマは、他者に同調を求めるという形をとらない。しかし、大川は自己の生命や名誉よりもたいせつな理念をもっている。それは、日本国家と日本人が本源的にもつ力に対する信頼だ。この信頼から大川は国体論を組み立てているのである。大川は、民主主義であれ、共産主義であれ、思想の背後にはそれを生み出してきた伝統と文化があるので、それを無視して日本や中国に輸入することは不可能と考えていた。北一輝を含む多くの日本の国家主義者が孫文の国民革命に感情を揺さぶられたのに対し、大川周明は距離を置いた姿勢を示す。大川は孫文の三民主義の基礎となる民主主義(デモクラシー)自体が欧米的な原理であって、アジア解放の手段にならないと考えていた。ちなみに共産主義も大川にとってはロシア的原理なので共産主義がアジアを解放することはできないと考えている。
【解説】
大川が合理主義を尊重するのは、合理性の限界をよくわかっているからだ。むしろ合理性で割り切れない向こう側の世界に、人間にとって重要な事柄が存在すると考える。
私は、医師として毎日科学としての医学に基づいて合理的な思考のもとに患者の診療にあたっています。
しかし、信仰者として、人間生活においては究極的に合理性を超えたことに重要な事柄が存在していることも実感しています。
そういう意味では、大川の本質は、私に理解しやすいものでした。
獅子風蓮