獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その12

2023-05-31 01:27:45 | 友岡雅弥

師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。
このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。


投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月15日(月)05時02分23秒   通報
京都乃鬼新聞
2019-4-14

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第12回(※印は弊社解説)

話はダーティーチームの事に戻りますが、彼らが寺のゴミ箱にから漁ってきたような内容を記事にすると、池田先生は生粋の江戸っ子ですから、「なんだ、あすこの坊主はこんな悪さをしているのか!会員がかわいそうじゃないか!」となるんですね。

坊主に虐められている会員を守りたいという先生の心を利用して、そうしたダーティーな記事を毎日、バンバンと先生の所に入れた。

この宗門座談会で矢継ぎ早に記事を書くと、先生が「丹治はすごいじゃないか!」と言われたのも事実です。

またその記事を長谷川さん(※当時は第一庶務室長、現在は理事長)が持ってきて、全国の婦人部に「宗門座談会を一番に読みなさい」と流してしまう。

これが当時の創価学会上層部の状況だったんです。

やがて丹治は聖教新聞編集局長になるのですが、丹治が局長の時(2008年~2009年秋迄)は、僕は原稿を一枚も書かせてもらえなかったんです。

それまではよく“名字の言”を書かせて貰っていたんですがね、丹治局長の時は全然書かせてもらえなくなったんです。

ですが、ある意味、自分にとってラッキーだったけど。仕事しなくていいんですから。(笑)

そのぶん、ホームレスの方々とハンセン病の方々の支援を思う存分できましたし。

(※「丹治は優秀です」と先生に一番最初に報告したのは、長谷川重夫氏とともに中野冨美雄氏【副会長、第一庶務】で、この二人の尽力もあり丹治氏はこの時期に編集局長になれたともいえる)

(※丹治氏と中野氏は、ある時期、ある事で、完全に結託していたのを、京都乃鬼は知っている)(鬼笑)

ま、それはそれでよかった。なぜなら僕は“名字の言”は大っ嫌いなんです。何故かというと最終チェックが長谷川さんだったから。(笑)

いつでも長谷川さんがイチャモンつけるんですよ。

「君の記事を見ていると、ボランティア活動が良いように見える。学会活動よりボランティア活動の方に会員を向けていく」とか
「君がやっている事は小善なんだよ!」と。

これで何回も首を切られそうになったことか分かりません。

つづく

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。


解説
話はダーティーチームの事に戻りますが、彼らが寺のゴミ箱にから漁ってきたような内容を記事にすると、池田先生は生粋の江戸っ子ですから、「なんだ、あすこの坊主はこんな悪さをしているのか!会員がかわいそうじゃないか!」となるんですね。

坊主に虐められている会員を守りたいという先生の心を利用して、そうしたダーティーな記事を毎日、バンバンと先生の所に入れた。

この宗門座談会で矢継ぎ早に記事を書くと、先生が「丹治はすごいじゃないか!」と言われたのも事実です。

またその記事を長谷川さん(※当時は第一庶務室長、現在は理事長)が持ってきて、全国の婦人部に「宗門座談会を一番に読みなさい」と流してしまう。

これが当時の創価学会上層部の状況だったんです。

 

こうして、一般の人には恥ずかしくて見せられないような聖教新聞の紙面ができあがったのですね。


獅子風蓮


妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その11

2023-05-30 01:16:09 | 友岡雅弥

師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。
このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。


投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月14日(日)05時22分20秒   通報
京都乃鬼新聞
2019-4-13

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第11回(※印は弊社解説)

そういうことで、自民党と連立を組む1999年ごろより、これまで先生と綿密に打ち合わせをしていたスピーチライターチームが排除されて、それまでダーティーワークをしていたチームがスピーチチ-ムになりました。

(※ライターが変更されてからは、この事情をよく知る本部幹部の口々から「最近の記事の質が悪くなったね」との陰口が囁かれる様になった。)

(※一方でこの頃より「同時中継」とは名ばかりで、後日に編集して内容を放映し出した。)

(※特に池田先生が平和や師弟に関するスピーチは「編集やカット」されていた印象が強い。)

(※アフガニスタン空爆やイラク戦争に積極的に支持する国家権力に対する配慮なのか、
昭和54年問題に触れられたくない幹部達のためか、何れにせよ学会執行部にはとても都合が良い「スピーチ選集」に編集された「同時中継」となる)

(※当時の創価学会職員の多くには、名誉会長は理想論、会長は現実論という雰囲気があったと証言するのは、あるベテラン現役職員の言葉)

(※そして時代が進むにつれ、スピーチ映像から先生のアドリブ部分を削除した結果、代わりに長谷川氏らが延々と原稿を代読して、それを池田先生が横で黙って聞いているという、何とも奇妙な光景になっていったのである)

(※敢えてダーティーチームが用意した原稿を読むのではなく、池田先生は意図的に大幹部を揶揄するアドリブを沢山入れたのだが、編集でこのアドリブ部分をカットしたのは、会員の前では執行部の恥部を公表したくなかったからだ)

(※もともと池田先生には昭和54年問題【弟子の裏切りの歴史】の真実を会員の前では「黙ってて欲しい」学会幹部達の本音と連立政権の運営において池田先生を「黙らせたい」政治家達の利害が一致していたのである。)

(※国家権力と利害が一致した創価学会執行部は、自民党幹部の申し出を断る理由が無いのだ。
時間をかけて、少しずつ「池田大作を黙らせた」のである。)

(※そして現在では、「黙らせる」だけでなく、池田先生の名を語る記者たちが、好き勝手な文章を聖教新聞にタレ流しているし、また過去のスピーチや書物さえも「改ざん」している事に、賢明なる読者は気付いている事であろう)

それと共にね、当時の会の中では、先生と秋谷さんとの確執があったんですが、その時には既に秋谷さんが組織における全ての実権を先生から奪っていましたから、先生に人事権なんてありませんでしたよ。

(※先生が具体的な人事検討に携わらなかったのは事実だ。)

(※特に職員人事は秋谷会長が全権を握っていた事は、創価学会職員ならば誰でも知っている事である。)

(※当時を知る定年退職した職員は「あの時代はね、口では【先生を中心に】とは言ってはいたけれども、腹では【秋谷会長が中心】だったんですよ」と後悔の念を込めて語ってくれた。)

(※一般的に組織人というモノは、人事権を握られると、実に弱いくて儚い生き者なのである)(鬼笑)

(※秋谷会長は、先生寄りの人間を一人一人排除し、自分の息のかかった人間を着々と登用して、組織も本部機構も完全に掌握したと教えてくれた職員の友人もいる。
特に「総合センター」は秋谷会長の牙城であったとの事。)

(※「秋谷会長解任前の池田先生の地盤は第一庶務だけだった。他はほとんど無かった。
だから先生中心の創価学会に戻そうと反秋谷派でまとまり原田を会長に担いだんだが、、、」とある本部幹部)

(※続けて「でも今では【原田会長を中心】に変わっただけだ。
職員の本質は、あの時と何も変わっとらんよ」と嘆く。)

皆がもっと驚くと思いますが、各地に建設される会館の命名権さえも秋谷さんにあったのですよ。

表では「先生に名前を付けて頂いて」と言いながら、実は秋谷さんが命名したんですよ。

受け取る側がそれを先生の言葉としていい方に受け止めることは決して悪いことではないんですが、でも先生が全部指示しているなんてことはないんです。

一方で、先生が地方指導に行かれた時は、上の幹部を通じてでは無く、現場の幹部が先生に直接モノを言えた時代でしたね。

特に西口(※総関西長)さんなんかは上手くて、秋谷さんに言ったら絶対に通らなかった人事案を、「先生と秋谷さんに言いましたよ」ってやるんですよ。

例えば、先に秋谷さんに先に言って通らなかった人事案なんかを、「実はこういう人事を考えていまして」と池田先生に言うんですね。
でも実際の人事権は秋谷さんにある。

それを聞いた先生は皆の前で「秋谷、これでいいだろ」とやる。
すると秋谷さんは皆の手前、「人事権は私にある」とは言えないから呑まざる負えないんです(笑)

そんなことで、先生は地方へ行くことで、いい意味で組織をかき回していた。

「私中心の同心円なんだ!
ピラミッドじゃないんだよ」とも仰っていましたね。

更に、「関西は本部の言うこと聞くんじゃないよ」と、しょっちゅう言っておられた。
なんでみんなあの頃の事を忘れてしまうんだろう。

つづく

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。


解説
そういうことで、自民党と連立を組む1999年ごろより、これまで先生と綿密に打ち合わせをしていたスピーチライターチームが排除されて、それまでダーティーワークをしていたチームがスピーチチ-ムになりました。
それと共にね、当時の会の中では、先生と秋谷さんとの確執があったんですが、その時には既に秋谷さんが組織における全ての実権を先生から奪っていましたから、先生に人事権なんてありませんでしたよ。
(中略)
先生は地方へ行くことで、いい意味で組織をかき回していた。


池田氏と秋谷氏の確執がよく分かる証言です。


獅子風蓮


妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その10

2023-05-29 01:47:51 | 友岡雅弥

師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。
このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。


投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月13日(土)06時04分43秒   通報
京都乃鬼新聞
2019-4-12

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第10回(※印は弊社解説)

当然、学会の誰も池田先生自身を黙らせる事なんて出来ませんよね。

でもね、先生のスピーチチームや周辺の人々を執行部の息のかかった者に交代させればどうなりますか?(笑)

執行部は具体的にどうしたかと言うとね、それまでのスピーチ原稿は、まず先生からのご指示がありまして、本校正があり、スピーチチームで資料などを用意し、海外の講演も含め細かいチェックが入り、という風にやっていたんですよ。

ところがこの時期から、今までのスピーチチーム員が交代させられていったんです。

結論を先に言うと、そこで「池田大作を黙らせる」為に暗躍したのが、丹治正弘(※2008年に副会長になるが、潮出版社絡みで多額の使い込みなどが発覚して2009年秋に解任、編集局長も外された人物)だったんです。

この丹治という男は、元々は本隊随行(※池田先生に随行する記者)をやっていたんですがね、よく先輩記者から「なんだこの原稿は!会員の胸に響かないじゃないか!」等と叱責されていましたね。期待されたからこそ厳しくされたんだと思うんですが。

しかし、やがて丹治は先生の随行記者を外されてしまうんです。

実はある時、先生が「小泊と丹治は反逆者の目をしている。二人を本隊マークから外せ」とおっしゃったんで二人が外されたんですが、当時の丹治はこの先輩記者を逆恨みしたりしていましたね。

それで、丹治は何をするようになったかというと、聖教新聞の宗門対策の紙面座談会チームに入った。
これが一つのポイントなんです。

あの宗門の坊主の実態を暴いた座談会記事のチームです。
この新聞の紙上座談会というのは、実際に座談会がされているのではなく、このチームが書いているんです。
ある意味架空座談会ですね。

たまに幹部が円卓を囲んで如何にも座談会しているような写真が掲載されますが、これはダミーです。

当時、宗門座談会チーム(※ダーティーワークチーム)は、全国の広宣部を利用して、寺の住職を尾行したり、寺のごみ箱をあさったり、御講の録音をしたり、そうして集めた情報を聖教新聞の紙面座談会で書いていました。

この宗門座談会チームのトップが佐藤浩(現在副会長)でした。
二人は早稲田大学のひとつ違いの先輩後輩にあたる関係でしたね。

(※丹治が本隊マークを外された1995年前後の時代背景は、
1994年5月に四月会が結成されて、村山内閣、橋本内閣は前出のように自由新報などにより徹底した池田先生の個人攻撃を展開した。)

(※この時期、佐藤浩氏は全国男子部長、丹治氏が男子部教育室長であり、彼らは裏仕事としてこの自民党対策もしていた)

(※電車の中吊り広告を出す事が出来る月刊誌「第三文明」を利用し、通常号に加えて、臨時増刊号を毎月のように出して、自民党からの言論攻撃に対して論陣を張った。)

(※臨時増刊号は1995年2月から1996年9月までの間で12冊発行)

(※この「第三文明」を使った言論の攻防戦を実質的に仕切ったのが丹治氏であった。)

(※ここから始まった佐藤・丹治一派と第三文明社の癒着が淵源ではあるが、直接的には、月刊誌「潮」(潮出版社)の「池田大作の軌跡」の記事を書いた事が、巷で噂されている「二重給与問題」「9年間で5千万円の飲食代タカリ事件」等につながっていく。)

つづく

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。


解説
学会の誰も池田先生自身を黙らせる事なんて出来ませんよね。

でもね、先生のスピーチチームや周辺の人々を執行部の息のかかった者に交代させればどうなりますか?(笑)

執行部は具体的にどうしたかと言うとね、それまでのスピーチ原稿は、まず先生からのご指示がありまして、本校正があり、スピーチチームで資料などを用意し、海外の講演も含め細かいチェックが入り、という風にやっていたんですよ。

ところがこの時期から、今までのスピーチチーム員が交代させられていったんです。

なるほど、こういうからくりで池田氏の口を黙らせることができたのですね。
でも、そもそもスピーチにさいしてゴーストライターに原稿を書かせるという体制を池田氏が作ったことがいけなかったのではないでしょうか。


それで、丹治は何をするようになったかというと、聖教新聞の宗門対策の紙面座談会チームに入った。
これが一つのポイントなんです。

あの宗門の坊主の実態を暴いた座談会記事のチームです。
この新聞の紙上座談会というのは、実際に座談会がされているのではなく、このチームが書いているんです。
ある意味架空座談会ですね。

たまに幹部が円卓を囲んで如何にも座談会しているような写真が掲載されますが、これはダミーです。

当時、宗門座談会チーム(※ダーティーワークチーム)は、全国の広宣部を利用して、寺の住職を尾行したり、寺のごみ箱をあさったり、御講の録音をしたり、そうして集めた情報を聖教新聞の紙面座談会で書いていました。

あの薄汚い言葉が乱舞する聖教新聞の「紙面座談会」というのは、こういう風に作られていたのですね。
池田氏に気に入られようと、丹治氏らがハッスルしたということでしょうか。
でも、それにのせられて、宗門攻撃にハッパをかけつづけた池田氏には、最大の責任があるでしょう。
友岡さんは、そこはスルーします。


獅子風蓮


妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その9

2023-05-28 01:39:55 | 友岡雅弥

師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。
このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。


投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月12日(金)07時28分55秒   通報 編集済
京都乃鬼新聞
2019-4-11

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第9回(※印は弊社解説)

(※背景を知って頂くために、前回までの解説が少々長くなったが、友岡氏の証言に戻ろう)

連立を組む前の学会の中には自公連立を選ぶ意見と、それを反対する意見がそれぞれにあったんですが、秋谷前会長が強引に自公連立に舵を切ったんです。

そして、この時から創価学会内では、自民党の主流派とつながっている人が学会の中で発言力を持つようになっていったんですよ。

こういう構図にした代表的な人物が佐藤浩副会長です。

(※自公連立の立役者が
①秋谷前会長派(秋谷氏、八尋氏)
②元青年部派(谷川氏、佐藤氏)
③報恩社グループ(竹岡氏、北林氏)の三位一体であると分析する方もいるが、この三グループは必ずしも一体でない。)

(※長年の弊社取材によると、この三グループは各々の思惑で動き、局面に応じて野合しているだけである。)

(※ただし、既成勢力への迎合という共通の傾向を持つため、結果として三位一体であるように見えるに過ぎない。)

(※野合している例を上げれば、実は報恩社グループの北林氏と秋谷前会長は犬猿の仲である。)

(※また同じく報恩社グループの竹岡氏と八尋氏も確執がある。)

(※また、秋谷前会長と谷川主任副会長も遺恨がある。)

特にこの頃はね、池田先生は極東諸国の友好関係を築こうとされていた時だったんです。

日中友好を進めるなかでは、先生は第二次大戦で日本が行った筆舌に尽くしがたい蛮行を詫びていますし、また朝鮮半島の人々の事を「文化の大恩人」「兄の国」と評していました。

しかし、これは自民党からすれば絶対に認められないことで、
自民党幹部から当時の連立推進派の学会幹部に対して、連立を維持したいのならば「池田大作を黙らせろ!」との条件提示がされたんです。

このとんでもないと思われるこの条件は、実は、学会執行部にとってはとても簡単な条件だっんですよ。

では、何故かをお話しましょうかね。

つづく

敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。


解説
連立を組む前の学会の中には自公連立を選ぶ意見と、それを反対する意見がそれぞれにあったんですが、秋谷前会長が強引に自公連立に舵を切ったんです。

そして、この時から創価学会内では、自民党の主流派とつながっている人が学会の中で発言力を持つようになっていったんですよ。
(中略)
特にこの頃はね、池田先生は極東諸国の友好関係を築こうとされていた時だったんです。

日中友好を進めるなかでは、先生は第二次大戦で日本が行った筆舌に尽くしがたい蛮行を詫びていますし、また朝鮮半島の人々の事を「文化の大恩人」「兄の国」と評していました。

しかし、これは自民党からすれば絶対に認められないことで、
自民党幹部から当時の連立推進派の学会幹部に対して、連立を維持したいのならば「池田大作を黙らせろ!」との条件提示がされたんです。

 

友岡さんの説明は、資料的価値が高いと思われます。

これが本当なら、とんでもないことです。

 


獅子風蓮


妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その8

2023-05-27 01:29:26 | 友岡雅弥

師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。

このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。


投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月11日(木)07時43分42秒   通報 編集済
京都乃鬼新聞
2019-4-10

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第8回(※印は弊社解説)

その後2001年、9.11 を受けてアフガンへの空爆、2003年にイラク戦争が始まった事を覚えていると思いますが、あのとき自衛隊を行かせるかどうかの議論もあったんですよ。

(※アメリカのブッシュ政権による2001年9.11を受けてのアフガニスタン空爆は、創価学会にとっても大きな転機だった。)

(※その以前に1991年の湾岸戦争での多国籍軍進攻に際し、池田先生はアイトマートフ氏らとともに反戦アピールを発表した。)

(※これがアメリカの一部勢力の反感を買い、1987年に創価大学のロサンゼルス分校(カラバサス)を設立したが、アメリカのユダヤコミュニティの圧力によって閉鎖)

(※本来はカラバサス周辺の土地を買収拡張し、ロス分校をアメリカ創価大学にする計画だったが、ロス分校はオレンジ郡への移転を余儀なくされ、その後そこにアメリカ創価大学を建設しなければならない経緯があった。)

(※アフガニスタン空爆《2001年10月》を支持をした秋谷執行部は、この時の事が大きなイメージとして残っていたのであろう、
彼らは池田先生の平和主義・理想主義を時代遅れと見なしており、初めから完全な主戦派であったのだ。)

(※だからこのままでは、アメリカ創価大学【開学は2001年5月3日、第一回入学は8月24日。9.11 の直前だった。】さえも潰されかねないと秋谷会長が池田先生に進言する事になる)

(※それで当時小泉首相時の連立内閣の一員である公明党は、アメリカ支持を打ち出し、米軍のアフガニスタン空爆を最大限に支持する方針となる)

(※その後のイラク戦争の時も、
公明党の冬柴幹事長は「イラクにはスプーン一杯で約二百万人分の殺傷能力がある炭疽(そ)菌が約一万㍑ある」などと繰り返し言っていたし、神崎武法代表は「イラク問題の本質」は、イラクに大量破壊兵器が「保有」されていることだと断言。)

(※それに加えてイラク戦争開戦直後には、「(イラクの)大量破壊兵器は世界の脅威」と大書した公明新聞号外まで配布した。)

(※しかし、こう言う大量破壊兵器はイラクにはなかったのであるが、これが判明した後も、そして今に至るまで公明党として公式に謝罪もせず、だれも責任を取っていない。)

つづく

提供は
敵から恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。

 


解説
その後2001年、9.11 を受けてアフガンへの空爆、2003年にイラク戦争が始まった事を覚えていると思いますが、あのとき自衛隊を行かせるかどうかの議論もあったんですよ。

と友岡さんは話していますが、その後のコメントは京都乃鬼新聞による解説ばかりです。

京都乃鬼新聞は、池田氏を擁護する立場なのか、イラク戦争への公明党の支持は秋谷執行部の責任で、池田氏の責任はないような書き方をしていますが、最終責任は、誰が考えても池田氏にあったことは明白でしょう。


獅子風蓮