■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
■ブログでできること 投稿日: 2012年2月22日
ネット環境の普及によって、現代人の生活形態が格段に変化したことは言うまでもないのだけれども、こうして一つの社会問題をテーマにブログを立ち上げたときに、それもより多くの方からのレスを求めたときに、どういったことになるのか見当がつかないでいました。しかし、創価学会の実態に気づいてから、まずはひとりで悶々としているわけにもいかず、いったい世の中の人はどんなふうに考えているのだろうという疑問から、ある意味とても無防備な呼びかけをしました。創価学会について語りましょう。対話をしませんか。そしてとても誠実なコメントが多く寄せられました。なるほど創価学会の表と裏にこれだけの人が騙されているんだと言うことがよくわかりました。そのままこのブログでの対話が続くことが望まれたのですが、やはりそういうわけにはいきませんでした。ネットというメディアの性格上、多くの誠実な方ばかりに窓口を開くわけにはいかず、心ない誹謗や面白半分の妨害などが出てきました。それは単に創価学会に対する批判がこのブログの存在によって広まるということの機具もあるかもしれませんが、それとはまた別の社会的病理現象としてのネット内での暴走行為を止める手だてがなかったということもあるでしょう。ひとつはそうしたことも想定した上での防護策を立てるということも考えなかったわけではありませんが、できればすべてをオープンにした上での「対話」を成立させたいという、今となっては儚い夢のようなものを抱いていたのかもしれません。
今でも他のブログでこの「対話を求めて」の批判が行われています。ブログの批判というよりも私シニフィエに対する批判です。それはこのブログへのコメントを否定されたり削除されたりしたことの恨み節のようにも見えます。ここでは何度も書きましたが、途中まではとても理想的に対話が広がっていたように思います。いわゆる荒らしが介入してから、このブログにも不穏な空気が出てきました。いったい何を目的に批判をしているのかわからないようなコメントもたくさん出てきました。このような状況に対して、自分の立場や考えを述べることなく、ただひたすら他者を批判するようなコメントは削除することにしたところ、これまたそのことに対する暴言が絶えませんでした。もうこうなったら収拾がつかない。心ある人は、そうした状況にあえて目もくれず、真摯なコメントを書き続けていただきました。そうした方にはたいへん申し訳なかったと思っています。
しかしこれがネットの現実なんだと思いました。私は普段はネットにかかわるような生活をしていません。もちろん仕事上でのメールのやりとりなどはしますが、パソコンにはりついて情報を集めるような時間はほとんどないと言っていいでしょう。ですから私のような者からすれば、ネットの世界に依存して、自分の正体を明かさずに言いたいことだけを言うものの気持ちが理解できないのだと思います。また理解する必要などないとも考えます。そんな虚しいことを続けて一体なんになるのだろうと思います。貴重な人生の時間をそんなことに費やして、いったい何が面白いのだろうと。私がブログを立ち上げたのは、創価学会の実態を知りたかったからでした。そして創価学会によってたいへんな思いをしている方がたくさんいることがわかりました。たしかに恐るべき実態が見えました。同時にネット社会のどうしようもない闇の部分も見えました。
私にとってネットはあくまで通信手段です。うまく使えば今までにない効率的なコミュニケーションツールとして役に立つものです。しかし所詮ツールはツールでしかありません。ツールに依存し、ツールが中心の生活になることがどれほど危険かもわかりましたし、世の中にはそれだけが生き甲斐のようにして生活している人たちもいるんだということもわかりました。具体的にいえば、このブログを正常に機能させるためには、「対話」を妨害することを目的とするネット依存者をどうやって排除するかという課題があるということがわかりました。「誰でも話せばわかる」などと思っていません。はじめはできるだけ対話の中で理解を深めていきたいと思い努力もしてきました。しかしそうしたことが通用する人間ばかりがきているわけではないということです。
私への批判の中に「自分と違う意見に関しては徹底的に否定する」というものがあります。自分と考えの違うところをはっきりさせたいがために言葉を尽くしていると考えられないのでしょうか。「そうですね、そう言う考え方もありますね、それではさようなら」では対話になりません。また「なに勝手なことほざいてんだバカ」とも言いません。真剣に「対話を求めて」を貫こうとしてきたつもりです。おそらく毎日あまりにたくさんの人が話をされる。真剣に自分の経験を通じて思いを語られる人もいれば、悪質な妨害もある。これらすべてに対応できないままに、最後は罵詈雑言の応酬となってしまいました。これではこのまま続ける意味はありませんので休止しました。
しかし、このブログもこのままでは終われないと思っています。創価学会の実態が社会に示されることがよっぽど嫌な人たちが私に対して「はやく脱会しろ」とヒステリックに叫びます。このブログが再開するのもきっと気に入らないのでしょう。かといって彼らは対話をしようなどとは思ってもいないようです。対話をする気がないのなら来ないでほしい。来るならひとりの人間として真摯な態度で対話に望んでほしい。これだけがここでの私の願いです。
他のブログでこのブログのことや私自身を批判している方に対して言いますが、所詮ネット上のことなので虚しいだけではないでしょうか。どこの誰ともわからない私を批判していったい何になるのでしょうか?そんあ暇があるのなら、ご自分のリアルの生活を充実させた方がよいのではないですか。
(以下省略)
■「対話」と「対決」 投稿日: 2012年3月5日
私がこのブログを「対話を求めて」というタイトルで立ち上げてから、まだ3ヶ月ほどしか経っていませんが、いろんなことがありました。いまはこうして対話ができない状態にあります。それはある意味仕方のないことかもしれません。
(以下省略)
■久々の投稿になります。 投稿日: 2012年3月19日
久々の投稿になります。311関連のいろんなことや仕事やプライベートなことで、このブログを開くことさえできないほどの忙しさでした。またぼちぼち書いていくことにします。
(以下省略)
■それぞれの都合 投稿日: 2012年3月25日
創価学会が大きな社会問題であるとの視点から、原発問題にも日本人の対応と言うことの共通性があるということで、いくつか原発関連のわかりやすい動画をあげさせていただきます。
(以下省略)
■近日中に再開します。 投稿日: 2012年4月12日
みなさま、お久しぶりです。シニフィエです。およそ4ヶ月前に始まりましたこのブログ「対話を求めて」が、一部の心ない人たちの意図的な荒らしによって閉鎖同然になってしまってから、もう2ヶ月が経ちます。ときどき記事を書いてはいましたが、仕事の忙しさもさることながら、プライベートでも様々なことがあり、更新する気持ちにさえなりませんでした。しかし、ほとんど更新もコメントもないこのブログへも1日に200から300の来訪が続いていたことは、創価学会の問題が根深いことの現れであると感じていましたが、このブログの立ち位置や、今後の展開方法についても思うところがあり、なかなか再開に踏み切るまでに至りませんでした。
ところが、最近予想だにしなかったことが起こり、それが創価学会と深く関わることであったことに気がつき愕然としました。そして、このことをきっかけに、私はこのブログ「対話を求めて」を再開しようと思うに至りました。
これまでも書いていますとおり、ここでは創価学会に関する問題を中心に、様々な方の体験や思いをコメントしていただく中で、真実の対話が生まれることを期待するものです。創価学会の正邪を客観的事実に基づいて検証するなどといったことをする気はさらさらありません。またそのようなことに関しての議論を誰ともする気はありません。ここでは私は私に関する創価学会員としての体験や、それに関する思いを述べていきます。ここをご覧になる皆さんも、単に感想にとどまらず、よろしかったらご自分の体験や思いを述べていただけるとありがたいです。予想されるのは、多くの場合が学会批判になると思います。しかしそれはあくまで個人の体験や信仰心などからくる創価学会の組織活動への疑問である場合が多いでしょう。ひとりでも多くの方が、ご自分の体験や思いをここに述べることにより、創価学会が善良な人の心を巧みにあやつり、彼らの幸せと引き換えに金と権力を恣にして来た池田名誉会長をはじめとした最上部組織の構成員が行って来た悪行に一人でも多くの人が1日も早く気づいてくれることを願っています。
それでは、近日中にこのシニフィエのブログ「対話を求めて」を再開いたします。
また、また皆様からのコメントもいただけるとうれしいです。ただし、このブログの過去にあったような、品性を欠く書き込みや、攻撃的な表現、明らかに意図的なあおりなどについては、管理人の判断で直ちに削除させていただきます。また、対話を受け入れることのない議論のための議論はここではご遠慮ください。
【解説】
2月22日の記事では、シニフィエさんは他のブログから批判を受けていることを書いています。
アウェイでの批判は相当こたえたことでしょう。
4月12日の記事では、シニフィエさんは、「一部の心ない人たちの意図的な荒らしによって閉鎖同然になって」と書いていますが、「一部の心ない人たち」が誰のことなのかは明示していません。
おそらくは創価学会員の乾河原さんのことなのかな、とは思うのですが、乾河原さんの発言を擁護する元活動家さん、小路さんのことは、シニフィエさんは評価するのです。
また小路さんのインパクトあるコメントとそれを支持するアレックスさんのコメントにもシニフィエさんは、反論をしていません。
またもも(ら)さんの発言は、多くの人の顰蹙をかい、シニフィエさんも引導を渡したはずなのに、もも(ら)さんが希望さんと関係が近いせいか、もも(ら)さんは「荒らし」ではないのでまたコメントしてほしい、というような態度をとったりします。
要するに、シニフィエさんは、議論を重ねた上で、あなたとあなたは「荒らし」ですと言い渡すことをせず、八方美人的なあいまいさを残しているのです。
コメントを受けるだけ受けといて放りっぱなしにしてしまったことも、議論を避けたととらえることもできます。
「荒らし」認定にまつわる混乱は、このあとも尾を引きそうです。
この後、記事の更新は止まります。
ここまでをステージⅠとします。
獅子風蓮