獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

池田大作の光と影 (その3)

2023-12-12 01:56:41 | 創価学会・公明党

d-マガジンで、池田氏死去にともなう特集記事を読みました。
引用します。


週刊現代 2023年12月2・9日号

池田大作の光と影

創立記念日である11月16日に突如公表された池田大作名誉会長の逝去。享年95。毀誉褒貶の激しいカリスマは、「怪物」 か「聖人」か。その生涯や教えに多角的に迫る。そして公明党の行く末やいかに。

(つづきです)

Ⅲ、もはや選挙も盤石ではない
 公明党はどこへ向かうのか?

〈池田大作先生が霊山(りょうぜん)へ〉
〈仏法史上不世出の大指導者 師弟不二をき世界広布の壮挙〉
11月19日付の聖教新聞は、創価学会名誉会長・池田大作氏の逝去を独特な言葉遣いで報じた。紙面には「池田先生の偉大なる足跡」が細かい表とともにびっしりと綴られている。
池田氏の訃報を受け、公明党の山口那津男代表は、20日の参院議員の党会合でこう挨拶した。
「これからの公明党はどうなるのか、いろいろな声もあるかもしれない。しかし、『大衆とともに』という立党精神を変わらぬ原点として永遠に守り抜いてまいりたい」
集まった公明党議員からは拍手が沸き起こった。ただ、「いろいろな声もあるかもしれない」との発言は、党内が動揺していることをうかがわせた。
池田氏は'64年に公明党を創設した。32歳で第3代会長に就任して以降、創価学会の政界進出に主導的役割を果たしてきた。その池田氏が15日、老衰のため、東京・信濃町の自宅で亡くなった。その死が公に知らされたのは3日後の18日、すでに家族葬を済ませ、荼毘に付された後だった。
「11月18日は創価学会の創立記念日であり、牧口常三郎初代会長の命日でもあります。あえてこの日に発表したのは、学会員にとって11月18日をより特別な日にしようという意図があったのではないでしょうか。逆にいうと、それだけ学会にとって池田大作氏の存在は大きかったということです」(政治ジャーナリスト・鈴木哲夫氏)


先生のために頑張ってきた

そんな池田氏が公の場に姿を見せたのは、'10年11月22日、米国の大学からの博士号授与式に出席したのが事実上最後とされる。10年以上、表舞台に出てきていなかったため、その死が政治に与える影響はそれほど大きくないと見る向きもある。
「そもそも池田さんが表に出てこなくなってから、第6代の原田稔会長の下で長い間、自公関係は続けているし、さほど関係性は変わらないだろう」(自民党閣僚経験者)
この言葉を裏付けるように石破茂元幹事長もこう語る。
「(池田氏死去での影響は) ないでしょう。イスラム教にコーランがあるように、創価学会には池田先生が書いた名著『人間革命』があるわけだから」
小説『人間革命』は学会員から聖典として崇められているという。キリストやムハンマドと同様に、池田氏は死後もなお影響力を残すと石破氏は見ているようだ。
一方で、池田氏とじかに接してきた公明党の議員の間には動揺が広がっている。
ベテラン議員は、
「なんと言われようが、池田先生が党の精神的支柱であったことは間違いない。選挙戦への影響は大きい」
と危機感を抱く。
実際、池田氏が表舞台から姿を消してからというもの、公明党の集票力はあきらかに低下している。参院選の比例票は'04年の862万票をピークに減少傾向となり、昨夏は618万票まで落ち込んだ。背景にあるのが、学会員の高齢化だ。
「公明党の選挙運動を支えてきたのは、創価学会『婦人部』でした。婦人部は主に既婚の女性会員の組織で、そこに属する女性たちが『池田先生のために』と懸命に選挙運動に邁進してきた。
ところが、婦人部は一昨年、主に未婚の女性が入る『女子部』と統合さ れ、『女性部』となりました。婦人部の高齢化や女子部の減少が進んだことが影響していると見られます」(ジャーナリスト・ 山田直樹氏)
女性の社会進出が進み、専業主婦のように機動的な選挙運動ができる人材が少なくなっていることも、集票力の低下の一因と見られる。
この現状に、池田氏の死が追い打ちをかける可能性はおおいにある。
「池田大作という人物を崇拝し、選挙活動で、集票の核になっていた特に婦人会員などは、『池田先生のために』と、選挙に鼓舞する人が多かった。その道標が消えて、今後の得票に大きく影響するかもしれません」(ジャ ーナリスト・段勲氏)
そもそも公明党自体が、池田氏を守るための政党だったという指摘もある。ある公明党元幹部は、「公明党議員は池田氏の私兵」という位置づけだったと証言する。
「'90年から'92年にかけて国税庁が学会本部に初の税務調査を行いましたが、このとき国税庁は、学会マネーだけでなく池田氏の個人資産も洗い出そうとしました。池田氏はパニックに陥り、『私を守れ』と公明党議員を怒鳴りつけた。学会にとって池田氏は聖域であり、国税庁が介入してくることは何としても避けねばならなかったのです。
池田氏の資産問題があったために、公明党は国税庁ににらみが利く政権与党に参入することを決めたのです」
公明党が自公連立を組んでいる最大の目的は、国税庁から池田氏を守ることにあったというのだ。しかし、なんとしても守らねばならなかった池田氏はもういない。一部の学会員からは、「政治活動からは手を引き、宗教活動に専念すべきだ」という声も上がり始めた。
公明党内部からも、「衆院小選挙区の撤退論が再び起きるかもしれない」(公明党幹部)という声が聞かれる。
「日本維新の会は公明党が議席を持つ大阪4選挙区と兵庫2選挙区に候補者擁立を検討しており、公明党は最悪の場合、次回の衆院選で6議席をすべて失うことになります。そんなことになれば、公明党は小選挙区から撤退せざるを得なくなる」
公明党や創価学会の集票力が弱まれば、連立を組む自民党との関係にも変化が生じてくる。 自民党中堅議員が言う。
「組織力が低下すれば、これまで学会の組織票が欲しいために要望を聞いていた自民党議員たちもあまり忖度しなくていいことになる。それはそれでいいのかもしれない」
自公関係に亀裂が入れば、政界再編に直結する。憲法改正を党是としている自民党からは、「この際、改正に慎重な公明党は切り捨てて、維新の会や国民民主党と組んではどうか」(自民党幹部)という声まで上がり始めている。麻生太郎副総裁が、公明党幹部を「がん」呼
ばわりして、両者の関係が冷え込んだことも記憶に新しい。
「根っからの公明党嫌いの麻生さんは公明党との連立を解消して、国民民主党など他の野党を連立に引き込み、さらなる防衛力増強や憲法改正を実現させることを目論んでいる」(自民党関係者)


「平和の党」も名ばかりに

とはいえ、そんなに簡単に手を切れるわけではない。公明党にとっては与党でいることのメリットはいまだに大きい。
「公明党は国土交通大臣のポストをあてがわれています。国交省は陸海空の公共事業を発注するかわりに票やカネが入ってくる。地元で受ける陳情の7割は道路や建築に関わるものだから、布教活動にもうってつけです。公明党は国交大臣のボストを決して手放すつもりはないでしょう」(前出・自民党閣僚経験者)
いくら集票力が衰えているとはいえ、自民党にとっても、創価学会はいまだに欠かせない票だ。ある自民党幹部が言う。
「私は若手議員に『公明党は下駄の雪だ』といつも諭している。どんなことがあったってついてきてくれるのだから、こちらから切る理由がない。それに維新の会や国民民主党と組んでも、正確な票数を動かすことはできない。それに比べて、公明党には多少減ったとはいえ、1選挙区で2万票と言われる強固な組織票があるのだから、選挙のときにも計算が立つ」
自民党と公明党はお互いに持ちつ持たれつの関係なのだ。
しかし、安定した関係が池田氏の死後も続くはずがない。創価学会の集票力が低下し、自民党が議席を減らせば、政権を維持するために維新や国民民主党と連立を組まざるをえないからだ。
そうなれば、公明党の発言力は相対的にどんどん弱まっていく。
「公明党はいまでさえ、自民党にやりたい放題にやられて、「平和の党」という大義名分はどこへやら。米国からのミサイル購入や辺野古への基地移設など、軍備増強を自民党と一緒になってやっている。もちろん学会員たちの不満は募っています。それでも、池田先生が聖教新聞で折に触れてメッセージを発表し、そのカリスマ性で矛盾をなんとか抑えてきた。
しかし池田先生の死でそのタガが外れてしまえば、平和主義の学会員たちは自民党から離れるよう、公明党に迫っていくことになるでしょう」(公明党関係者)
それでも自公連立を続けていくのならば、「これ以上ついていけない」と学会をやめる人も出てくるはずだ。集票力はますます下がり、さらに発言力は弱っていく。
負のスパイラルに陥り、公明党と創価学会は共倒れになる可能性がある。
前出の段氏が語る。
「創価学会は、池田氏を組織の象徴として祭り、いわば『池田教』と呼んだほうがふさわしかった。その支柱が姿を消したことで、創価学会公明党の勢いが鈍化していくことが予想されます」
「羅針盤」を失った公明党と学会員の前途には暗雲がたれこめている。


解説
今回の記事は署名がないので、編集部の書いたものと思われます。

各方面の識者の意見をまとめる形で記事にしています。

創価学会・公明党が衰退する方向にいくだろうと、誰もが予想しています。


獅子風蓮


池田大作の光と影 (その2)

2023-12-11 01:31:49 | 創価学会・公明党

d-マガジンで、池田氏死去にともなう特集記事を読みました。
引用します。


週刊現代 2023年12月2・9日号

池田大作の光と影

創立記念日である11月16日に突如公表された池田大作名誉会長の逝去。享年95。毀誉褒貶の激しいカリスマは、「怪物」 か「聖人」か。その生涯や教えに多角的に迫る。そして公明党の行く末やいかに。

(つづきです)

Ⅱ、「池田大作氏は死してなお生き続ける」
 佐藤優 (作家、元外務省主任分析官)

創価学会の池田大作名誉会長が亡くなった。私は直接会ったことはないが、彼が書いた「テキスト」には長年向きあってきた。『池田大作研究 世界宗教への道を追う』(朝日新聞出版)を書いたこともあり、一つの時代を画することになったという感がある。
注目すべきは原田稔会長と池田博正主任副会長が談話を発表した際、喪服を着ていなかったことだ。死をことさら悲劇と捉えない、これは池田の死生観に通じている。池田は生前、臨終を「山頂」に譬えてこう述べている。
〈人生という山登りを終えた、その地点から振り返って、初めて自分の一生が見渡せる。……自分は、この一生で何をしたのか。何を残したのか〉(『法華経の智慧――二十一世紀の宗教を語る』)
裏を返せば、死ではなく、どう生きてきたかが重要なのだ。
かくいう池田大作の人生はどのようなものであったか。海苔屋の子として生まれ、もともとは軍国少年であった。それが出征した兄は戦死し、自分も病弱で長く生きられないと言われて、夜間中学に通いながら猛烈な勢いで読書をし、創価学会第2代会長・戸田城聖の教えを請うた。
苦難の連続だった少年時代の池田にとって、創価学会の根本教義である「宿命転換」は救いだったに違いない。過去世(前世)の行いを原因とする宿命も、現世で正しい行いをすることで変えられる。宿命は不変なものではないところが、「希望の宗教」たる所以である。池田は生涯を通じて、この教義を最重視した。
此岸で宿命を転換し幸福にならずして、彼岸での幸福について話しても説得力がない。まずこの世界の貧困、病気、家庭不和などの現実的問題を解決しなくてはならない。そのためには、平和主義によって戦争のない社会を築くことが必要だ。この思いから政治にも積極的に関与した。池田には、初代会長牧口常三郎を獄中死させ、戸田城聖にも獄中生活を送らせ早逝の原因となった軍国主義への強い怒りがあった。
池田が創設した公明党は、いまは政権の一翼を担っている。自民党に対して一定の歯止めとなり、安保法制における集団的自衛権についても制限を課し、平和を現実的に強化できた。 あえて権力側に入ることによって、教義に基づいた民衆のための社会を作る道を選んだ。創価学会は池田大作に次ぐカリスマ的な後継者を育てられなかったので、これから会員数は減少していくと言う人がいるが、全くの見当違いである。創価学会インタナショナル(SGI)の会員数はすでに全世界に280万人。私は創価学会こそ、キリスト教やイスラームに匹敵する世界宗教となると考えている。
池田により世界宗教としての創価学会は完成している。池田に代わるカリスマを創価学会は作れなかったのではない。あえて作らなかったのだ。
属人的な組織は、個人のカリスマに頼るがゆえに永続的たりえない。牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という三代会長によって創価学会の教えはすべて体現される。創価学会において「先生」と呼ばれるのはこの3人だけであり、今後は池田が残した、信仰と教団の規範となる「正典」をその根拠として、この先も数百年、千年と続いていく。
その正典こそが、池田が書き残した小説『人間革命』『新・人間革命』ならびに、池田監修の『日蓮大聖人御書全集』である。正典の必須条件は、常人が読了しうる分量でかつ、変更がない閉じたテキストであることだ。それにより、正典を参照することで森羅万象を説明することが可能になる。この正典がすでに完成しているのだから、池田が死去したことによる動揺はなかったのである。
創価学会は10年以上前から池田が亡くなった後のための準備を着々と進めてきた。池田が表舞台から姿を消すことで、すでに正典による信仰を開始していたわけだ。
創価学会が作り出す世界のあり方について、池田は23世紀までのプランを描いている。今の日本の宗教指導者や政治家で、200年先の計画を立てられる人がいるだろうか。
          (文中敬称略)


(つづく)


解説】】
創価学会の池田大作名誉会長が亡くなった。私は直接会ったことはないが、彼が書いた「テキスト」には長年向きあってきた。

意外ですが、あれほど池田氏を礼賛する佐藤優氏は生前の池田氏に会ったことがなかったのですね。
彼は、テキスト、それも創価学会側から公式に発表されたテキストのみを読み込んで分析するのが常です。
池田大作研究というなら、生前の池田氏に面会し、インタビューを試みるのが当然だと思うのですが、なぜか佐藤優氏は、そういう基本的な仕事はせず、机上のテキストのみを相手に創価学会の「内在的論理」とやらを見出したとうそぶきます。
「内在的論理」なんていうとなにやら小難しそうに聞こえますが、ようするに、相手側の言い分を鵜呑みにして、相手の気持ちを理解するという意味で、氏はこのこの言葉を使っているようです。


注目すべきは原田稔会長と池田博正主任副会長が談話を発表した際、喪服を着ていなかったことだ。死をことさら悲劇と捉えない、これは池田の死生観に通じている。

アンチの論者の中には、11月18日に池田氏のご遺体を荼毘に付したその直後にこの談話が発表されたのは不自然だという指摘がありました。
長谷川理事長の導師でお見送りをして、遺体を荼毘に付したのなら、その参列者である池田博正氏も原田会長もその時は喪服を着ていたはずです。
そのままその姿で談話の動画を撮影してもよかったはずなのに、談話にさいして、わざわざ着替えてネクタイも普段着のものにしたというのでしょうか。
それとも、佐藤優氏が指摘するように、喪服を着ないことに積極的な意味があったというのでしょうか。
今後、創価学会員の葬式は、喪服を着ないというルールができるのでしょうか。
実際のところは、荼毘に付す時よりも前に、周到な準備を経て談話の動画を撮ったのではないでしょうか。
そのときに、単に、喪服を着るのを忘れたとか……。


創価学会は池田大作に次ぐカリスマ的な後継者を育てられなかったので、これから会員数は減少していくと言う人がいるが、全くの見当違いである。創価学会インタナショナル(SGI)の会員数はすでに全世界に280万人。私は創価学会こそ、キリスト教やイスラームに匹敵する世界宗教となると考えている。

ここは、学会が発表する数字を鵜呑みにして、創価学会が今後も世界宗教として発展するなどとたわ言をいっているのでしょう。
佐藤氏は、少しは自分で、実情を調べて発言するべきです。


正典の必須条件は、常人が読了しうる分量でかつ、変更がない閉じたテキストであることだ。それにより、正典を参照することで森羅万象を説明することが可能になる。

創価学会の「正典」たる『人間革命』『新・人間革命』とも、都合の悪い過去の記述は平気で改ざんされています。そもそも、池田氏自身が書いたものではありせん。
その時点で、すでに「正典」の条件を満たしていませんね。

創価学会が作り出す世界のあり方について、池田は23世紀までのプランを描いている。今の日本の宗教指導者や政治家で、200年先の計画を立てられる人がいるだろうか。

この表現も無責任ですね。
池田氏自身は、今回のような嘘とごまかしの「お元気詐欺」ともいうべき、生涯の締めくくり方を望まれたでしょうか。
自分の死に方さえ、プランを立てられなかった、不幸な亡くなり方をした。
可哀想な方だった、と私は思っています。
そうやって、池田氏の晩年を組織維持のために利用しつくした創価学会の執行部のやり方に、憤りさえ覚えます。

獅子風蓮


池田大作の光と影 (その1)

2023-12-10 01:11:45 | 創価学会・公明党

d-マガジンで、池田氏死去にともなう特集記事を読みました。
引用します。


週刊現代 2023年12月2・9日号

池田大作の光と影

創立記念日である11月16日に突如公表された池田大作名誉会長の逝去。享年95。毀誉褒貶の激しいカリスマは、「怪物」 か「聖人」か。その生涯や教えに多角的に迫る。そして公明党の行く末やいかに。


Ⅰ、名誉欲に駆られつづけた「大俗人」の生涯
 溝口敦(ジャーナリスト)

総理大臣になりたかった

池田大作が公の場に姿を見せなくなってから13年。病床にあって数多くの文章を発表し、創価学会という巨大組織を動かしてきた。今年の4月にも、G7広島サミットへの提言を発表していたが、このころにはすでに長文を執筆する体力などなかったと推察される。おそらくは代作者に書かせたのであろう。
その池田大作がようやく亡くなった。
思えば、彼の生涯は青年期に抱いた俗っぽい野心を100%以上満たした人生だったのではない か。東京・下町の貧乏な家庭に育ち、若き日に新聞記者や小説家になりたいと夢見た。
その後、創価学会第2代会長・戸田城聖に出会い、創価学会に入信。戸田の下で、少年雑誌の編集を手がけ、自ら山本伸一郎というペンネームで記事も書いたという。
この雑誌は廃刊になるが、池田は戸田が設立した高利貸しを営む大蔵商事の営業部長となり、業績を好転させ、組織の中で頭角を現す。
'58年に戸田城聖が58歳で生涯を閉じた後、熾烈な抗争を制して、'60年に池田は創価学会の第3代会長に就任した。
戸田はきわめて独創性の高い指導者で、政治進出や出版活動、寺院や会館の建設、文化面への進出など、現在の創価学会につながる構想はすべて彼が考えた。池田は戸田の敷設したレールの上をただ走ればよかった。
池田には、有無を言わせず部下や会員を引っ張ったり、ライバルを蹴落としたりして、戸田の描いた構想を実現する能力はあったように思うが、創価学会の拡大は、基本的には成功を約束されていたといえる。
池田は戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大させる。'64年に公明党を結成し、'67年に衆議院進出を果たした。当初の公明党は、日蓮正宗(創価学会は日蓮正宗の信徒団体の一つだった)の国教化を目指し、その象徴として国立戒壇の建立を目標とした。さらに池田は自身を「日本の最高権力者」、すなわち内閣総理大臣にするという滑稽なまでに大きな野心を抱くまでになる。
しかし、池田の野放図な野望は挫折する。'69年に出版された政治評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』に対して、出版を妨害しようとしたことが発覚。創価学会と池田への世間の糾弾の声が高まり、池田は'70年に国立戒壇を否定し、創価学会と公明党を分離すると社会に対して誓約せざるを得なくなった。


何百もの名誉学術称号

この言論出版妨害事件によって総理大臣の夢は挫折したが、それでも世界各国から何百もの名誉学術称号を授与され、若い頃に抱いた名誉欲は満たされたはずだ。俗人の抱く夢を具現化した生涯だったといえる。
ただ、信者以外の人間を感動させる力には乏しかった。小説『人間革命』をはじめ、膨大な著作を遺したが、彼の書くものはすべて陳腐で、無内容に思える。信者以外に広く長く読み継がれるものにはなるまい。
今後、池田大作という中心核をなくした創価学会は徐々に衰えていくはずだ。たとえば、立正佼成会といった他の新宗教団体のように、往時の勢いは細っていく。社会的には、信者たちの穏やかな集まりといった形態になっていくのだろう。
新宗教の栄枯盛衰というのは、概ね1世代といわれる。そういう意味では、創価学会は3代の長きにわたって興隆し、池田大作が95歳まで長生きしたことによって、教団の衰退を少し先延ばししたことにはなる。
公明党も集票力が衰えていき、今後、自民党に頼りにされることが少なくなるはずだ。自公連立政権は、いずれ別れる、別れないの愁嘆場を演じ、やはり自民党と別れる時が遠からず訪れる。自民党は日本維新の会か、国民民主党と連立を組むことになるかもしれない。
昭和に組織の土台が形作られた創価学会公明党の中心核がなくなったことは、一つの時代の区切りとなった。池田大作の死去は、昭和がいよいよ遠くなりつつあるとの感慨をもたらした出来事であった。(文中敬称略)


(つづく)


解説
ジャーナリストの溝口敦氏は今から半世紀前に『池田大作権力者の構造』を書いて、言論出版妨害事件直後の池田氏を「堕ちる庶民の神」と評しました。
その溝口氏が、池田氏の生涯をうまくまとめています。

獅子風蓮


元オウムの上祐が懺悔。

2023-12-09 01:22:49 | 創価学会・公明党

d-マガジンで面白い記事を読みました。

あの上祐史浩氏が、池田氏を殺害しようとしたことを謝罪しているのです。

 


FLASH 12月12日号

上祐史浩氏が懺悔
「暗殺未遂は3回あった」
麻原が指示した「池田大作をサリンで殺せ!」
'95年、地下鉄サリン事件を
「創価学会が散布した」とテレビで爆弾発言した真相も初告白

「オウム真理教は、池田大作氏などを狙ってサリンを散布する計画を立てていました。また私個人も、創価学会に関する虚偽の広報をしたことがあります。一連の出来事をあらためてお詫びしたいと思います」
創価学会の池田大作名誉会長(享年95)の死去を受け、こう懺悔するのは、オウム真理教の外報部長を務め、現在は「ひかりの輪」代表の上祐史浩氏(60)だ。

「麻原(彰晃元死刑囚、教団代表)は、'90年にオウム真理教が真理党を立ち上げたときから、創価学会を敵視していました。『マスメディアを通じて、我々の選挙・政界進出を妨害している』と主張したのです」
そして、麻原元死刑囚の敵意が“殺意”に変わる。 

「'93年8月にサリン合成に成功すると、創価学会施設にラジコンヘリでサリンを散布する計画が立ち上がったようです。しかし、ヘリが操縦ミスで大破したため車両からの攻撃に変更され、さらに2度に わたり創価学会の行事に出席している池田大作氏を襲撃し、暗殺する計画が実行されたといいます」
'93年11月には東京牧口記念会館、12月には創価大学での行事に出席していた池田氏が狙われたが、ともに計画は失敗し、逆にガスマスクをつけていなかった実行犯がサリン中毒になってしまったという。

上祐氏は当時、ロシア支部に出向中だった。これら3件の暗殺未遂事件について知ったのは、元幹部らの裁判が報じられてからのことだった。
「しかし、その時期に麻原と、池田氏襲撃の実行犯だった中川智正、新実智光(ともに元死刑囚)、村井秀夫('95年に刺殺)がロシアに来ました。その際、麻原が『君たちの病いも治るだろう』と言っていたのです。誰も病名を言わないことがきわめて不自然で、あとで、『あれはサリン中毒だったのだ』と気づきました」

そして、'95年3月20日、オウムが地下鉄サリン事件を起こしたあと、ロシアから急遽呼び戻された上祐氏は、教団のスポークスマンとして、連日弁舌を振るうことになる。
「私は、池田氏へのサリン襲撃事件については知らなかったものの、ロシアに赴任する前に教団がサリン製造を計画していたこと自体は知っていました。そのため、私は地下鉄サリン事件に教団が関与したことを感知していました。しかし、麻原は私に『サリンは創価学会が撒いた』とマスコミに発表するように指示したのです。私は『それは説得力がない』と考えて、当初は主張しませんでした」
だが、麻原元死刑囚の考えは変わらなかった。
「4月1日、麻原は私にはっきりと『なんで創価学会の名前を出さないのか』と言いました。口調から怒りは感じず、かえって名前を出すのは当然だという思いが伝わってきました。 そして、そばにいた早川紀代秀(元死刑囚)に対して、『なあ、ティローパ』と宗教名で呼びかけ、早川は『そうですね』と、いささか強い口調で応じたのです」
その翌日以降、上祐氏は報道番組や会見で、「地下鉄サリン事件など、一連の事件には創価学会が関係している」などと主張するようになった。

「生放送中に私が創価学会の名前を出すと、舛添要一氏ら出演者は真っ青になり、スタジオの空気が一変したことを覚えています」
創価学会は抗議文を発表。名誉毀損で告訴するという話も、上祐氏の耳に入ってきた。
「ところが創価学会は、最終的には『誰も信じないから告訴はしない』とコメントしたと記憶しています。それを知った私は安堵するとともに、オウムと同じ土俵に上がらない創価学会の姿勢に、内心感服しました」

麻原元死刑囚にとって、池田名誉会長とはどのような存在だったのか。
「私が今推察するに、池田氏が日本宗教界の最大の存在であり、既存権力の象徴だったからこそ、麻原には『自分が救世主である』という自らの妄想的な野心に対する障害に見えたのではないかと思います」

 


解説
オウムの殺害計画が失敗して、本当に良かったと思います。
この件に関しては、諸天善神が池田氏を守ったのでしょう。

上祐氏は、嘘と知りつつ、「地下鉄サリン事件など、一連の事件には創価学会が関係している」などと主張していたのですね。
今回、池田氏の死去にともない、あらためて懺悔したわけです。

「ところが創価学会は、最終的には『誰も信じないから告訴はしない』とコメントしたと記憶しています。それを知った私は安堵するとともに、オウムと同じ土俵に上がらない創価学会の姿勢に、内心感服しました」

上祐氏にしてみれば、訴えられてもおかしくないのに告訴を免れたのだから、安堵したのも分かります。
しかし、「創価学会の姿勢に、内心感服しました」というのはどうなんでしょう。

創価学会としては、オウム真理教と対立して、相手を刺激するのが恐ろしかっただけではないでしょうか。
池田氏の命を守るため、あえてオウム真理教とは争わない方針を採ったような気がします。
破邪顕正の日蓮の姿勢とは、正反対の、弱腰対応でした。

 


池田大作サリン襲撃未遂事件について、少し調べてみました。

池田大作サリン襲撃未遂事件
池田大作サリン襲撃未遂事件は、1993年(平成5年)11月と12月18日、創価学会名誉会長・池田大作が当時の宗教法人・オウム真理教の幹部に襲撃された暗殺未遂事件。
1995年(平成7年)3月の地下鉄サリン事件発生後に、オウム真理教に対する警察の強制捜査によりオウム真理教の幹部らが逮捕されて発覚した。刑事事件として立件はされなかったが、1994年(平成6年)6月の松本サリン事件に至る前日譚として言及され、オウム真理教の教祖である麻原彰晃が首謀し村井秀夫、遠藤誠一、新実智光、中川智正、滝澤和義らオウム真理教の幹部により実行されたことが、一連のオウム真理教事件に関する刑事裁判で明らかとなった。

事件の概要:
オウム真理教の教祖である麻原彰晃は、同じ新宗教である創価学会を敵視していた。やがて「サンデー毎日から始まったオウムバッシングは、聖教新聞を印刷している毎日新聞社グループと創価学会が結託して行っている」などと主張し始め、『池田大作は日本を侵略するフリーメーソンの手先であり「仏法」を曲げているまむしの一族』、『多くの人をだまして来世悪趣に転生させてしまうのでこれを防がなければならない』、『オウム真理教の信者数を創価学会並みに増やしたいが、それに至らないのは池田大作(名誉会長)が政治家の小沢一郎を使って国家権力を動かし妨害しているからだと考えて』、『ポア(殺害)しなければならない』と敵対心を露わにしていった。
1993年8月にはオウム真理教幹部の土谷正実が猛毒のサリン合成に成功しており、麻原彰晃はサリンの最初のターゲットとして池田大作(名誉会長)の襲撃を計画し、「サリンをまいてみろ」と指示。村井秀夫らが行動に移した。当初はラジコンヘリによる航空散布が検討されたが、ラジコンヘリが操縦ミスで大破したため、車両(自動車)による攻撃に変更した。

事件の経緯:
(省略)

創価学会側の対応:
数名の牙城会員が被害を負ってはいたが、創価学会側はこの事件を表沙汰にすることはなく、犯行の事実は1995年に林郁夫(医師)の逮捕後の警察の取調べの自供で明らかにされるまで、公にされることはなかった。
しかし、池田大作の行動予定の漏洩、流出という事態を重く見た創価学会は事件以降、池田大作の行動予定の情報管理を厳しくするとともに、創価学会本部職員の中からボディガード(身辺警護)担当者を選抜した「第一警備」を発足させて池田大作の身辺警護(ボディーガード)に当たらせるとともに、学会員による金城会、牙城会、創価班などに、各地域にある創価学会の会館警備を強化させている。
(Wikipediaより)

数名の牙城会員が被害を負っていたのにもかかわらず、創価学会側はこの事件を警察に通報しなかったのですね。
それは、正しい行動だったのでしょうか。

池田名誉会長サリン事件を警視庁に通報していれば、後の松本サリン事件、地下鉄サリン事件は防げたのではないかという指摘が、ネットで見られます。

yamanoyokohama2050のblog(2020年02月26日)

オウムと同じ土俵に乗らなかったおかげで、難には会わなかった。
それはそれで良かったのかもしれませんが、そのことで後の松本サリン事件、地下鉄サリン事件を防げたかもしれない可能性がなくなってしまったとも言えます。

充分な検証をするべきでしょう。

 

獅子風蓮


池田大作の功罪 (その4)

2023-12-08 01:57:16 | 創価学会・公明党

d-マガジンで、池田氏死去にともなう特集記事を読みました。
引用します。


サンデー毎日 2023年12月10日号

倉重篤郎のニュース最前線:
池田大作
創価学会名誉会長
戦後最大の宗教指道者の功罪

池田大作創価学会名誉会長が、11月15日に死去した。様々な評価があり得ようが、戦後最大スケールの宗教指導者であったことは疑い得ない。創価学会を巨大化させて世界宗教に育て上げ、公明党を創立して権力を構成するまでに至った。池田氏が戦後日本に刻んだものは何か? 破格のカリスマの功罪を、3人の論者が忖度なしで語る。

(つづきです)

権力者の自己実現と後継者の不在
溝口敦

池田大作氏に関心を持ったのは69年の言論・出版妨害事件以降だ。創価学会に関する本が多数出たが、爆発的な組織拡大を遂げていた学会問題の根幹には、池田氏という個性の占めるウエートが大きい。池田氏という人物に絞って取材すればよりわかりやすく解説できるのではないかと思った。
国会図書館などでひたすら聖教新聞を読み込み、池田氏の動静を追い、見えてきたのは、やはり池田氏あっての学会問題だった。池田氏という強力な指導者がいて、周りの過度な忖度があった。高度成長を背景にした組織の拡大再生産、政界進出を果たした勢いがあった。組織と人間が典型的な形で現れるのが、私の取材対象で言うと、暴力団であり、宗教団体であ ろう。問題の所在がどこか、組織を説明するより組織の中の人間を描いたほうがわかりやすい。
昭和3年生まれの池田氏の元々の基盤は文学青年であり、大正ロマン主義的感傷文学に憧れていた。戸田城聖第2代会長の経営する出版社で少年雑誌を作り、その中で自分も執筆したのが彼の夢実現の第一歩になった。文筆で世に出たいというのが彼の望みだった。とはいえ、彼は創価学会という組織の中でも上昇していく力を持っていた。人心掌握術だけでなく、 ライバルを蹴落とすマキャベリズムにも長けていた。その中で彼は第3代会長になり、創価大学を作り、民音(民主音楽協会)を作り、公明党を作り、組織力を最大限に伸ばしてきた。
文筆的喜びは、複数の証言があるように代筆者を活用する形で、組織拡大の欲望は、新宗教が雨後の筍のように出てくる中、創価学会が勝ち戦を進める中で達成されていった。そういう意味では、彼は自己実現を果たした。闘病生活に入って13年間、その間、自己意識がどこまであったかわからないが、恐らくわが生涯に悔いなし、であろう。
ただ、創価学会のここまでの発展の中で、池田氏自身による独自の路線はない、というのが僕の見立てだ。戸田氏が敷いたレール、開陳した展望の中をひた走りした人生だった。政界進出も与党の一角も戸田プログラムの中にあった。
池田氏は小選挙区制導入には反対だった。公明党が生き残るにはどこかと組むしかないからだ。彼に限らず宗教団体は時の権力に擦り寄り保身を図るところがある。池田氏にとって自公連立は、学会という巨体を存続させる限られた選択肢の一つだったのだろう。
ただ、池田氏は人間不信が強かったのか、後継者を作らなかった。誰一人いない。ライバル排除もあった。そのことは創価学会を、池田氏を最頂点とした後は右肩下がりにならざるを得ない組織として必然化した。池田氏もそれを自覚していたのではないか。
実際に池田氏が病気に臥してから学会票は減ってきている。池田氏が亡くなったからといって弔い合戦をしようとはならないだろう。むしろ高齢会員がこれを機に離れていく恐れがある。池田氏のカリスマ性あっての選挙活動だったわけだが、それがなくなった。
各小選挙区1万~2万の学会票が見込めなくなると、自民は維新や国民民主党と組むことを考える。カリスマ喪失と、公明が自民から距離を置かれることで、創価学会は立正佼成会やPL教団のようなおとなしい、普通の伝統仏教的教団に切り変わっていくだろう。政治との関わりも弱くなる。岸田政権の不人気ぶりでは政権を明け渡すこともあり得る。

 

 


解説
創価学会のここまでの発展の中で、池田氏自身による独自の路線はない、というのが僕の見立てだ。戸田氏が敷いたレール、開陳した展望の中をひた走りした人生だった。政界進出も与党の一角も戸田プログラムの中にあった。

これはどうなんでしょう。
たしかに大枠では、池田氏は「戸田氏が敷いたレール、開陳した展望の中をひた走りした」といえますが、それまでの狂信的・独善的だった教団を、常識的・融和的に変えていった功績は認められると、私は思います。

 

獅子風蓮