獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

藤圭子へのインタビュー その32

2024-03-17 01:50:20 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記

 


後記


(つづきです)

ところが、この8月22日の昼前、思いがけない人から「藤圭子が新宿のマンションの13階から投身自殺をした」という知らせが入った。
テレビをつけると、NHKのニュースでも報じられている。
私には信じられなかった。私が知っている藤圭子が自殺するとは思えなかったからだ。たとえ死の誘惑に駆られることがあっても、生の方向へ揺り戻すことのできる精神の健康さを持っているはずだった。
しかし、私が知っているのは30年以上も前の彼女だ。それ以後にどのようなことがあり、どのように変化したのかまではわからない。私はただ、藤圭子がマンションの高層階から飛び降りて自死したという事実を受け入れるより仕方がなかった。
しばらくして、お嬢さんの光さん、というより、公的存在としての宇多田ヒカルの「コメント」が、彼女のオフィシャル・サイト上で発表された。

8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。
様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。
彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。
幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。
誤解されることの多い彼女でしたが……とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。
母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。

さらに離婚をした元・夫の宇多田照實氏の「コメント」が発表されるに至り、「謎の死」は、精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげくの投身自殺、という説明で落着することになった。
ニューヨークで結婚してからの藤圭子は知らない。しかし、私の知っている彼女が、それ以前のすべてを切り捨てられ、あまりにも簡単に理解されていくのを見るのは忍びなかった。
私はあらためて手元に残った『流星ひとつ』のコピーを読み返した。そこには、「精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」という一行で片付けることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた。
私はそのコピーを、すでに定年退職している横山氏と初見氏から担当を引き継いだ、新潮社の新井久幸氏と武政桃永さんに読んでもらうことにした。
読んだ新井氏はこう言った。
「30年以上経つというのに、内容も、方法も少しも古びていません。新鮮です」
武政さんはこう言った。
「これを、宇多田ヒカルさんに読ませてあげたいと思いました」
宇多田ヒカルとほぼ同じ年齢の若い女性である武政さんの言葉は私を強く撃った。自分もどこかで同じことを感じていたように思ったからだ。
私にとって宇多田ヒカルはやはり気になる存在だった。
初めて歌声を聴いたときも驚いたし、19歳で母や祖母や伯母と同じように早い結婚をしたと知ったときも驚いた。その4年後に母や祖母や伯母と同じように離婚したことを聞いて、どのような巡り合わせなのかと心を痛めた。
さらに28歳のとき、「もっと人間活動をしたい」と音楽活動を休止したのを知って、みたび驚かされた。藤圭子が「別の生き方をしてみたい」と芸能界を引退したときと同じ年齢であり、同じような理由だったからだ。
藤圭子の死後に発表された宇多田ヒカルの「コメント」の中に、《幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました》という一文がある。
もしそうだとすれば、宇多田ヒカルはごく小さい頃から、母親である藤圭子の精神の輝きをほとんど知ることなく成長したことになる。
宇多田ヒカルは、かつて自身のツイッターにこんなことを書いていたという。
《「面影平野」歌うカーチャンすごくかっこ良くて美しくて、ああくそどうにかあれダウンロード(保存?)しときゃよかった…… 》
確かに、インターネット上の動画では、藤圭子のかつての美しい容姿や歌声を見たり聴いたりすることができるかもしれない。
だが、彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。
28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。

かつて藤圭子が「大好きです」と手紙に書いてくれた『流星ひとつ』の「あとがき」は、いま私の手元にはない。一部だけとってあった『流星ひとつ』のコピーに、その「あとがき」は含まれていなかったからだ。
ただ、私の執筆ノートに、「あとがき」の断片ではないかと思われる文章が残されている。

これは『インタヴュー』というタイトルが最もふさわしい作品であったかもしれない。まさに、インタヴューを直接的なインタヴューとしてではなく、しかしインタヴューの生命力を残しながらいかに作品化するか。その方法への野心こそが、この作品を生み出す原動力であったからだ。
しかし、いま、私はこの作品に『流星ひとつ』という、いささか感傷的にすぎるタイトルをつけようとしている。それは、この作品の意味が、私の内部で微妙に変化してきていることを示すものかもしれない。
この作品で取り上げた主人公について、本文ではいっさいその外貌が描かれていない。 でも知っている存在だから描かなくていいと思ったのではない。方法上の制約から描けなかったのだ。
しかし、その制約がなかったとしても、私にその美しさを描き出すことができたかどうかわからない。しかも、美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。だが、この作品では、読み手にその清潔さや純粋さが充分に伝わり切らなかったのではないかという気がする。私はあまりにも「方法」を追うのに急だった。だからこそ、せめてタイトルだけは、『インタヴュー』という無味乾燥なものではなく、『流星ひとつ』というタイトルをつけたかったのだ。それが、旅立つこの作品の主人公に贈ることのできる、唯一のものだったからだ。

もっとも、最終的に書き上げられた「あとがき」はこのように生硬なものではなかった可能性が高い。おそらく、それは藤圭子に宛てた私信のようなものだったのだろう。だから、それは製本した手書きの原稿にだけ収め、作品のコピーとしてはとらなかったのではないかと思う。

の「あとがき」の執筆当時は、歌を捨てる、芸能の世界から去る、ということから「星、流れる」という言葉が浮かんだ。

しかし、いま、自死することで本当に星が流れるようにこの世を去ってしまったいま、『流星ひとつ』というタイトルは、私が藤圭子の幻の墓に手向けることのできる、たった一輪の花なのかもしれないとも思う。

  2013年秋
         沢木耕太郎

 

 

 

 


解説
藤圭子さんの自死のニュースに驚いた沢木耕太郎さんは、娘や元夫のコメントを読んで、娘の宇多田ヒカルさんが幼い頃から、彼女の精神の病気が進行していたということを知りました。
そして、彼の知っている彼女が、それ以前のすべてを切り捨てられ、あまりにも簡単に理解されていくのを見るのが忍びなかったのです。

だが、彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。
28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。

こうして、沢木耕太郎さんは、この本『流星ひとつ』を世に出すことにしたのです。
宇多田ヒカルさんに読んでほしくて……

この本を読むと、沢木耕太郎さんのインタビュアーとしての力量を感じます。また同時に、藤圭子さんの純粋な精神と壮絶な人生を知ることができました。

インタビューの力、というものを感じました。

沢木耕太郎さん、ありがとうございました。

 


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その31

2024-03-16 01:24:45 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記

 


後記

(つづきです)

私は、この『インタヴュー』という作品を新潮社から出すことにしていた。「別冊小説新潮」に一挙掲載し、それから単行本にして刊行するというのが当初からの予定だった。それは、藤圭子にも伝えており、了解を得ていた。
書き終え、しかし、公刊することに疑問を覚えるようになった私は、「小説新潮」の担当編集者である横山正治氏と出版部の初見國興氏に相談をした。
私の迷いを聞くと、横山氏が言った。
「ぼくたちはぜひ出してほしいと思うけど、沢木さんの迷いもよく理解できます。沢木さんにその迷いがある以上、発表するのはやめた方がいいかもしれません。藤圭子さんのためにも、沢木さんのためにも」
初見氏も同意見だった。しかし、こうも言った。
「いつか、きっと発表できる日が来ると思いますよ」
私は、手書きの原稿を製本所に頼んで一冊の本の形にしてもらうと、『インタヴュー』ではなく『流星ひとつ』とタイトルを変え、それをアメリカに渡った藤圭子に送ることにした。長い時間付き合ってもらい、あなたについてのノンフィクションを書き、出版させてもらおうとしたが、出来上がったのはこの一冊だけでした。申し訳ないが、この時点での出版は断念しようと思います……。
すると、藤圭子から、自分は出版してもいいと思うが、沢木さんの判断に任せるという返事が届いた。
1979年の年末にハワイに向かった藤圭子は、翌年の春にはアメリカの西海岸に渡り、バークレーで英語学校に入っていた。そして7月、私のもとに、藤圭子からさらに次のような内容の手紙が届いた。

お元気ですか。
今、夜の9時半です。外はようやく暗くなったところです。窓から涼しい風が入ってきて、どこからか音楽が聞こえてきます。下のプールでは、まだ、誰か泳いでいるみたい。ここの人達は、音楽とか運動することの好きな人が多くて、私が寒くてカーディガンを着て歩いているとき、Tシャツとショートパンツでジョギングしている人を、よく見かけます。
勉強の方は相変わらず、のんびりやっています。やる気はとてもあるのですが、行動がついていかないといおうか、テストの前の日だけ、どういうわけか別人(?)のように勉強するくらいです。

8月のはじめ頃、休みをとって、5~6日友達とハイキングに行こうと思っています。 Berkeley に一人で来て、心細かったとき、本当によくしてくれたディーンとジョーという人達と行きます。ディーンは今年 law school を卒業して、この7月29、30日と、最終的に大きな試験があるので、今は毎日一生懸命勉強しています。それが終わったら、8月の中頃、弁護士としてカンザスの方に行くので、みんなそれぞれ、ばらばらになってしまうから。

私は8月15日に学校が終わったら、16日のBerkeley でのボズ・スキャッグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。
ニューヨークでの学校は、まだ決めていません。着いてから探そうと思っています。なんと心細い話ですよね。本当に。

体に気をつけてください。
あまり無理をしないように。

沢木耕太郎様
       竹山純子
追伸 「流星ひとつ」のあとがき、大好きです。

これを読んで、いかにも「青春」の只中を生きているような幸福感あふれる内容であることを嬉しく思った。
そして、「追伸」にあるひとことで、『流星ひとつ』についてのさまざまなことを了解してくれたのだと安心した。
やがて藤圭子はニューヨークで宇多田照實氏と知り合い、結婚し、光さんというお嬢さんを得た。さらに、その光さんが成長すると宇多田ヒカルとして音楽の世界にデビューし、藤圭子に勝るとも劣らない「時代の歌姫」として一気に「頂」に登りつめた。私は藤圭子が望んだものの多くを手に入れたらしいことを喜んだ。

この『流星ひとつ』は、コピーを一部とっただけで、そのまま長いあいだ放置されたままだった。
一度だけ、もしかしたら初見氏の言っていた「いつか」が来たのかなと思ったときがあった。
文藝春秋から私のノンフィクションの選集が出ることになったとき、そこに未刊の作品として『流星ひとつ』を収録しようかなと考えたのだ。藤圭子は宇多田ヒカルの母親として、幸せな状況にあると考えられていたし、これが出ることで困ることもないだろうと思ったのだ。
それに、時間を置いて読み返してみると、徹底したインタヴューによる作品だったということが、むしろひとりの女性の真の姿を描き出していると思えるようになった。
発表に際しては、藤圭子に連絡を取ろうとした。一度刊行を取りやめたものを新たにどうして刊行しようとするのか。それを説明しなくてはならない。
だが、どうしても直接の連絡が取れないまま時間切れになってしまった。私はその選集の巻末に回想風のエッセイを連載していたが、そこにこの作品の存在について短く触れ、それをもって『流星ひとつ』を永遠に葬ることにした。

(つづく)

 


解説
これを読んで、いかにも「青春」の只中を生きているような幸福感あふれる内容であることを嬉しく思った。
そして、「追伸」にあるひとことで、『流星ひとつ』についてのさまざまなことを了解してくれたのだと安心した。
やがて藤圭子はニューヨークで宇多田照實氏と知り合い、結婚し、光さんというお嬢さんを得た。さらに、その光さんが成長すると宇多田ヒカルとして音楽の世界にデビューし、藤圭子に勝るとも劣らない「時代の歌姫」として一気に「頂」に登りつめた。私は藤圭子が望んだものの多くを手に入れたらしいことを喜んだ。

沢木耕太郎さんは、アメリカに渡った藤圭子さんからの手紙を読んで、幸福感あふれる内容であることを喜びます。

 

いろいろ曲折を経たものの、この本『流星ひとつ』は永遠に葬られるはずでした。
ところが……


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その30

2024-03-15 01:05:20 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記

 


後記

(つづきです)


温泉宿の滞在が2週間ほど過ぎたときのことだった。午後、執筆に疲れ、一休みするため部屋のテレビをつけると、ワイドショーのような番組をやっており、そこで「藤圭子引退!」というニュースが取り上げられていた。
私はそれを見て、強い衝撃を受けた。私はその数ヵ月前に、偶然、藤圭子と会っていた。その場に共通の知人がいたところから言葉をかわすこともできていた。
そのときのことだ。知人がトイレに立ち、藤圭子と二人で話をするという状況が訪れた。話の内容はとりとめもないことだったと思う。しかし、その最後に、ぽつりと藤圭子が言ったのだ。
「もうやめようと思うんだ」
それは、話の流れからすると、その前に「歌手を」、あるいは「芸能界を」とつくはずのものだった。私は思わず訊ねていた。
「どうして?」
そこに、知人が戻ってきたため、話はそれまでになった。
ワイドショーのニュースを見て驚いたのは、言葉にすれば、こういう思いだったろう。
〈あのときのあの言葉は本物だったのだ……〉
そして、次にこう思った。
〈あのとき得られなかった、「どうして?」という問いに対する答えを手に入れたい……〉
私は即座に伊豆の山を降り、知人を介して藤圭子に直接連絡を取ることに成功すると、 インタヴューをさせてもらう約束を取り付けた。
そのインタヴューの準備をしながら、私はノンフィクションのまったく新しい書き方を試せるのではないかと思うようになった。
時代の歌姫がなぜ歌を捨てるのか。その問いと答えを、彼女の28年間の人生と交錯させながら、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切る。そして、タイトルを『インタヴュー』とする。
私はその思いつきに興奮した。

この作品の原型となるインタヴューが行われたのは、1979年の秋の一夜だが、それ以後も、事実の正確さを期すため、また細部に膨らみを持たせるため、最後のコンサートが行われた12月26日まで、さまざまなところでインタヴューを重ねた。
その過程で、私は藤圭子が語る話の内容に強く心を動かされることになった。とりわけ、彼女が芸能界を「引退」したいと思う理由には、私がジャーナリズムの世界から離れたときの思いと共通するものがあった。
藤圭子は最後のコンサートを終えると、その年の暮れのうちにハワイに発った。
直後から、私は『一瞬の夏』の執筆を中断し、『インタヴュー』と名付けた藤圭子についての原稿を書き上げることに熱中した。
当初は原稿用紙にして200枚くらいのものと思っていたが、とてもそのようなものでは収まらないことがわかってきた。
2月になり、3月になっても終わらない。そのうちにも朝日新聞の連載開始日が近づいてくる。私は、すでに書き終えていた部分を一日分の長さに区切りながら新聞社に送り、それ以外の時間を『インタヴュー』の執筆に充てつづけた。
すると、ようやく、5月に入って、500枚近い分量のものが書き上がった。
しかし、「方法」への熱狂的な興奮が収まり、落ち着いて完成した作品を読み返したとき、果たしてこれでよかったのだろうかという疑問が湧き起こってきた。
藤圭子が「引退」するという理由はわかった。それが並の決意でないことも理解できた。
とはいえ、これから先、どういう理由で芸能界に「復帰」せざるを得なくなるかわからない。私が1年間を海外で過ごし、しかし、やはり日本に戻ってふたたびノンフィクションを書きはじめることになったように、藤圭子も芸能界に戻って、歌うようにならないとも限らない。
そのとき、この『インタヴュー』が枷(かせ)にならないだろうか。自分で自分にブレーキをかけてしまうことになるかもしれないし、実際に「復帰」したらしたで、マスコミに「あれほどまでの決意を語っていたのに」と非難されたり嗤われたりするということがあるかもしれない。
それに、藤圭子は、自分の周囲の人たちについて、あまりにも好悪をはっきりと語りすぎている。その人たちとの関係を難しくさせてしまうのではないか。
要するに、これから新しい人生を切り拓いていこうとしている藤圭子にとって、この作品は邪魔にしかならないのではないか、と思ってしまったのだ。
あるいは、それだけだったら、思い切って発表することにしたかもしれない。
だが、その『インタヴュー』には、ノンフィクションとしての問題があった。
私が、500枚近い大部のノンフィクションを書き上げることができたというのも、そこにノンフィクションの書き手としての強い野心があったからだった。いっさい地の文を混じえず、会話だけで長編ノンフィクションを書き切る。いま自分は、かつて誰も試みたことのない、少なくとも眼に触れるかたちでは存在していない、まったく新しい方法で書いている。
その野心が、私に『一瞬の夏』と『インタヴュー』という二つの長大な作品を並行して書くという、自分では経験したことのない困難を乗り越えさせるエネルギー源になっていた。
確かに、会話体だけで書き切ることはできている。それによって、藤圭子という歌手が芸能界を去ることの、本当の理由がわかるようになっている。だが、藤圭子という、実際にインタヴューをするまでは自分でも想像をしていなかったほどの純粋さを持った女性の姿を本当に描き得ただろうか。私は、私のノンフィクションの「方法」のために、引退する藤圭子を利用しただけではないのか。藤圭子という女性の持っている豊かさを、この方法では描き切れていないのではないか……。

(つづく)


解説
私はノンフィクションのまったく新しい書き方を試せるのではないかと思うようになった。
時代の歌姫がなぜ歌を捨てるのか。その問いと答えを、彼女の28年間の人生と交錯させながら、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切る。そして、タイトルを『インタヴュー』とする。
私はその思いつきに興奮した。

なるほど、そういう経緯で、いっさい「地」の文のない会話だけの本が出来上がったのですね。

 

落ち着いて完成した作品を読み返したとき、果たしてこれでよかったのだろうかという疑問が湧き起こってきた。
藤圭子が「引退」するという理由はわかった。それが並の決意でないことも理解できた。
とはいえ、これから先、どういう理由で芸能界に「復帰」せざるを得なくなるかわからない。……
そのとき、この『インタヴュー』が枷(かせ)にならないだろうか。

確かに、藤圭子は子ども(宇多田ヒカル)が生まれたあと、子どものために芸能界に復帰していますものね。
沢木耕太郎さんの懸念は、正当なものでした。

 

私は、私のノンフィクションの「方法」のために、引退する藤圭子を利用しただけではないのか。藤圭子という女性の持っている豊かさを、この方法では描き切れていないのではないか……。

この心情の吐露も、沢木耕太郎さんの誠実さの現われでしょう。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その29

2024-03-14 01:44:19 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記

 


後記


そのとき私は31歳だった。
当時の私は、いくらか大袈裟に言えば、日夜、ノンフィクションの「方法」について考えつづけていた。

そこに至るまでの私はと言えば、まず、大学を卒業した直後から26歳までの4年間をノンフィクションの書き手として仕事をしたあと、すべてを放擲(ほうてき)し、1年ほど異国を旅していた。旅に出た私は、たぶん、ノンフィクションを書くという仕事から離れようとしていたのだと思う。偶然のことから入ったジャーナリズムの世界だったが、そしてその世界での4年間は瞬く間に過ぎてしまったと思えるほどスリリングだったが、どこか違和感を覚えていたのかもしれない。はっきりと意識はしていなかったが、ジャーナリズムとは異なる世界を求めて日本を出ていったような気がする。
しかし、27歳で日本に帰ってくると、ふたたびジャーナリズムの世界に舞い戻り、むしろ前よりも激しい勢いでノンフィクションを書きはじめることになった。
私には、他の人のようにジャーナリストとしての使命感があるわけではなかった。その私がノンフィクションを書くときのエネルギー源としたのが、「方法」に対する強いこだわりだった。
できるだけ繰り返しをせず、常に新しい方法で書く。
初期の頃の私は、「ぼく」がさまざまな世界を訪れ、さまざまな人に会い、さまざまに感じたことを書く、というスタイルを貫いていた。
旅から戻った私は、その「ぼく」を自覚的なものに少しずつ鍛え上げていこうとしたが、その果てに、常にまとわりついてくる「ぼく」に中毒し、やがて一人称を捨て、徹底した取材による三人称で描きたいという願望を抱くことになる。
その方法は、『危機の宰相』を経て、30歳のとき『テロルの決算』を書くことで一応の達成を見た。
しかし、いったんそこに至ると、今度は取材というものの危うさ、脆弱さが気になりはじめ、次は一転して、「私」の見たもの聞いたもの、つまり取材ではなく、自分の経験したものだけで書いていくという方法を徹底してみたいと思うようになった。それは、やがて、32歳のときに『一瞬の夏』という作品として世の中に出ていくことになる。つまり、ノンフィクションの書き手としての私の31歳とは、『テロルの決算』から『一瞬の夏』に移行する、過渡的な時期にあたっていたのだ。

その31歳の私は、1980年の3月から朝日新聞の小説欄にノンフィクションの作品を連載することになっていた。私は、その欄に、のちに「私ノンフィクション」と呼ばれるようになる『一瞬の夏』を発表することにし、1979年の夏の終わりから執筆を開始した。新聞に連載するのは初めての経験であり、しかもその小説欄にノンフィクション作品を載せるということで気負っているところもあったのだろう、連載が始まる前に最後まで書き終えておこうなどと思っていた。
すべての材料は手の内にある。1年の出来事を時系列に従って書けばよい。執筆はさほど難しくなく、順調に書き進むことができていた。
10月に入り、友人の紹介で、伊豆の山奥の温泉宿に長期滞在し、執筆をするというようなこともした。それは、まさに、かつての偉大な文筆家を模倣することで、自分をそうした書き手に近づけたいという幼い虚栄心がさせた行為であったろう。

(つづく)

 

 


解説】】
私には、他の人のようにジャーナリストとしての使命感があるわけではなかった。その私がノンフィクションを書くときのエネルギー源としたのが、「方法」に対する強いこだわりだった。

沢木耕太郎さんは、ノンフィクションを書くにあたって「方法」に対する強いこだわりがあったとのこと。
それが、一風変わった、このインタビュー『流星ひとつ』を生み出したのですね。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その28

2024-03-13 01:32:12 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記


最後の火酒

   5

「……月だね。さっきまで、この窓からは見えなかったのに」

__それにしても、綺麗な三日月だなあ。

「うん、綺麗だね。でも、月のまわりが少しぼんやりしてる」

__えっ? 視力は、悪いの?

「すごくいい」

__……そうか。

「二重に見えるよ、あたしには。……にじんで、ぼんやりしてる」

__そうか……。

「うん、そう。空は蒼いんだよね。いまは暗くて黒いけど、ほんとはまっさおなんだね。……そう?」

__そう、だろうね、きっと。空は蒼いんだろうね。

「綺麗だね、ここから見ると。暗い空も、ネオンの街も……」

__最後にもう一杯、ウォッカトニックを呑もうか。

「うん、乾杯しよう」

__何に乾杯する? あなたの前途に対して?

「ううん、そんなのつまらないよ……」

__では、このインタヴューの……。

「成功を祝して?」

__いや……このインタヴューは失敗しているような気がする。

「どうして?」

__本当に、どうしてそんな気がするんだろう……。

「あたしのインタヴューなんて、成功しても失敗してもどっちでもいいけど……じゃあ、失敗を祝して、盛大に乾杯しよう!」

__うん、いいね、そうしよう……。

 

 

 


解説
__いや……このインタヴューは失敗しているような気がする。

順調に進んだインタビューと思われましたが、沢木耕太郎さんにとっては失敗したと感じられたとのこと。
その理由は、「後記」で語られます。


獅子風蓮