獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対華21箇条要求について その4)

2024-03-26 01:36:29 | 中国・アジア

「21ヵ条要求問題」についてです。

いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。

d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。


週刊ポスト2024年3月22日号

逆説の日本史
井沢元彦
第 1411 回
近現代編 第十三話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑦

強圧的な対華21箇条要求に
関し生じる「二つの重大な疑問」

(つづきです)


「支那に於て承知すべき筈なし」

大日本帝国発足以来、いや帝国憲法が発布され近代的な内閣制度、官僚制度がスタートした後も、重要な案件は山県ら元老に報告し、その了承を得るのが政治の常道であった。それゆえ加藤は21箇条要求の概略ができたとき、山県に面会を求めそれを説明した。要求が正式に袁世凱に突きつけられる前年の1914年(大正3)11月のことだ。

加藤の説明を聞き終えた山県は、「対支政策につきては、君と余と根本的に意見を殊[異] にせり」

と語った。山県は、青島については「帝国政府の本意が潔よく還附するにある旨」を中国に告げる必要があるとした上で、次のように意見を異にする理由を述べ、要求内容の根本的疑問を突きつけた。

只今聞く所の個条は種々雑多にして、中には外交上重要なる事件は先づ日本に相談せよと乎、財政上の事は第一に日本に依頼せよと云ふ如き個条もありし様子なるが、斯かる属国扱ひの個条は、支那に於て承知すべき筈なし。政府は果して斯かることまで要求する考なりや。(『対華21ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)

文中にある「潔よく還附」とは、中国側のマスコミもこれが日中友好推進には最善の道だと考えていた「膠州湾(青島)の無条件返還」ということだろう、「支那に於て承知すべき筈なし」と山県が評したのは、悪名高い第五号のことである。陸軍の頂点に立っていた山県有朋の見解は、きわめて意外なことに当時の常識から見てももっとも穏健で理性的なものだったのである。

ここで二つの重大な疑問が湧く。一つは、陸軍全体が一貫して強硬な姿勢を支持していたのに、その頂点に立つ山県だけがなぜ理性的な判断ができたのか。もう一つは、この強硬姿勢に疑問を持っていたはずの加藤は、なぜ山県を利用して陸軍の強硬姿勢を抑えようとしなかったのか、である。

最初の疑問については、司馬遼太郎的表現を使えば山県はただの「ヘータイ(兵隊)」では無かったからだろう。覚えておられるだろうか、日露戦争の奉天会戦に日本が勝利したとき、これを機にアメリカに講和の斡旋を依頼するはずが、中央の参謀本部は勝利に冷静さを失い当初の戦略を忘れてしまった。怒った現地軍の参謀長児玉源太郎が、中央を説得するために現場を離れて東京に向かおうとしたことがある。私はここが司馬遼太郎の名作小説『坂の上の雲』の屈指の名場面だと思うのだが、それを慌てて止めようとした満洲軍参謀松川敏胤に対して、児玉がからかう場面がある。そのとき児玉がロにしたのが、「お前はただの『ヘータイ』だな」というセリフである。むっとした松川が「閣下はそうではないのですか」と反論すると、児玉は次のように答えた。

「ちがうな」
児玉は、大山もそうだが、幕末内乱の弾雨の中をくぐって日本国家があやうい基盤の上にやっとできたのを体験のなかで見てしまったヘータイであるという。(『坂の上の雲七』司馬遼太郎著 文藝春秋刊)

ここは先月発売の文庫版最新刊『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも詳しく取り上げたところだが、わかりやすく言えば児玉も山県も苦労人で、松川のようなお坊ちゃん育ちとは違うということだ。彼らは、本当に貧しく力も無い時代の日本を苦労してここまで育て上げてきた。しかし、若い世代にとっては生まれたときから日本は強国だから、それがあたり前だと思って育つし弱国の気持ちなどわからない。山県に言わせれば、「若造どもは調子に乗りすぎておる。苦労を知らん」というところだったろう。
前にも述べたが、私は山県有朋という人間はあまり好きではない。盟友の伊藤博文が最初は嫌っていたものの結局は政党政治が近代国家に必要だということに目覚め、立憲政友会総裁を務めるなどの政党政治の確立に尽力し最終的には大日本帝国憲法の改正まで視野に入れていたのに対し、山県は最後まで政党政治に理解を示さなかった。あくまで軍隊を政治がコントロールするのを拒否し、逆に軍人勅論を作って軍人の政治関与をとりあえずは排除し、それで国家の運営には問題無いと考えていた。この点が、あくまで政治つまり政党によって軍事もコントロールされるべきだと考えていた伊藤とはまったく違う。結局、軍人たちは軍人勅諭を逆手にとって政治の軍事に対する関与を排除しただけでは無く、積極的に軍事が政治をコントロールするという形を作った。それが結局、大日本帝国を崩壊に導いたのである。 伊藤が暗殺されずにもっと長生きしていれば、その後の大日本帝国の運命もかなり違ったと思うのだが、そうしたどちらかと言えば軍隊優先の考えを持つ山県ですら、この問題に関してはきわめて良識的な見解を持っていた。それは長い戦乱を生き延びてきた古強者である山県は、宗教のような不合理な原理に縛られないリアリストであったからだろう。リアリストの目から見れば、この対華21箇条要求はあまりにも強圧的なものだ。「支那に於て承知すべき筈なし」なのである。
そうするとますます不思議になるのは、内心では山県とまったく同意見でこんな要求は受け入れられるはずもないと思っていた加藤が、どうして山県の力を借りて陸軍の強硬意見を抑えようとしなかったか、である。山県は「陸軍の法王」だ。最年長の長老でもあり天皇の信任も厚い。大将クラスでも山県の前に出れば「鼻たれ小僧」だ。たしかに、戦争のときに陸軍の後輩桂太郎首相は山県からの「独立」を果たそうとし、ある程度成功したがその桂太郎もいまは亡い。山県の権威に逆らえる陸軍軍人は一人もいない。
ここで加藤が山県に頭を下げて「とくに第五号の要求はあまりにも常軌を逸したもので、閣下のおっしゃるとおりです。ひとつ閣下のお力で強硬派を抑えてください」と頼めば、山県はもともと自分の考えに一致することでもあるし、ひいては日本国家のためにもなるのだから、加藤の要請を断らなかったはずである。しかし、実際には加藤は山県の力を一切借りようとしなかった。だからこそ加藤は陸軍強硬派に押し切られ、中国側に反発されて実現は不可能だと自身が予測していた第五号まで要求のなかに盛り込み、中国、アメリカとの関係を徹底的に悪化させるという最悪の結果を招いてしまった。
なぜ加藤は山県に頼らなかったのか? きわめて不思議ではないか。
〈以下次号〉


解説
どちらかと言えば軍隊優先の考えを持つ山県ですら、この問題に関してはきわめて良識的な見解を持っていた。それは長い戦乱を生き延びてきた古強者である山県は、宗教のような不合理な原理に縛られないリアリストであったからだろう。リアリストの目から見れば、この対華21箇条要求はあまりにも強圧的なものだ。「支那に於て承知すべき筈なし」なのである。

日本人をいまも呪縛する「犠牲者の死を絶対に無駄にしてはならない」という信仰。
これは、古来から続く「怨霊信仰」と関係していると井沢さんは言います。
犠牲者の霊を正しく鎮めないと、霊は怨霊となり、祟ってくる、と。

明治維新の修羅場をくぐってきた山県には、そういう宗教的な不合理に縛られないリアリストとしての一面があったということです。
日蓮宗の僧籍を持つ政治家・石橋湛山も、日本的な「怨霊信仰」とは無関係だったのでしょう。
これは、同じ日蓮仏法を信仰するものとして実感できるのですが、純粋に仏法の教えに従うなら、日本的な「怨霊信仰」とは無関係でいられるのです。
そもそも「霊魂」など認める必要はありません。
「霊が祟る」などという低級な宗教観は持ち合わせていません。
おそらくは石橋湛山が、戦前の帝国主義的な政治的圧力の中でも、リベラルで合理的な主張を貫けたのは、仏法の教えに忠実だったことと、王堂的プラグマティズムの影響を受けていたことが背景にあったのだと思います。

私は、公明党に期待するのは、同じ日蓮仏法を信じる者の集まりとして、己の信念を貫き、あくまでリベラルで合理的な判断ができる可能性があると思うからです。
すくなくとも創価学会・公明党の人々は、日本的な「怨霊信仰」とは無関係だと思うのです。
その点で、私たちは、石橋湛山に学ぶべきところが少なくないと思います。


獅子風蓮


対華21箇条要求について その3)

2024-03-25 01:48:26 | 中国・アジア

「21ヵ条要求問題」についてです。

いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。

d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。


週刊ポスト2024年3月22日号

逆説の日本史
井沢元彦
第 1411 回
近現代編 第十三話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑦

強圧的な対華21箇条要求に
関し生じる「二つの重大な疑問」

本人をいまも呪縛する、「犠牲者の死を絶対に無駄にしてはならない」という信仰。
現在、日本全土が北朝鮮のミサイルの射程に入り、一方でロシアのウクライナ侵略戦争が続いているのに、いまだに「平和憲法を護れ(憲法第九条を変えるな)」と叫ぶ人々がいるのを見ても、その信仰がいかに日本人の心を呪縛しているかわかるだろう。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、いやウクライナ国民はいまNATO(北大西洋条約機構)加盟を切望している。アメリカを中心とした強力な軍事同盟に入っておけば、ロシアもウクライナに手が出せないからだ。こういうことを抑止力という。抑止力こそ、現実にはあらゆる理想を超えて国を守り世界平和を守る、もっとも有力な武器だ。
ところが日本はまるで逆で、かつて日米安保条約に反対した人々が憲法改正にも反対している。なぜそうなるかは前回詳しく説明したので繰り返さないが、こういう人々には自分たちがやっていることは「東條英機と同じ」だということに早く気がついてほしい。戦前はいまとまったく逆で、「袁世凱政権と妥協して日中平和をめざそう」などと言えば、現在の「改憲論者」が護憲論者から浴びせられるような悪口雑言を浴びた。「まったく逆」と言ってもそう見えるのは表面上だけで、じつは同じ信仰に基づくものであることはおわかりだろう。それが、論理的にものを考えるということである。そして戦前の日中友好論者にもっとも罵声を浴びせたのは、陸軍であった。なぜなら「十万の英霊」には海軍軍人もいないわけではないが、大多数は陸軍軍人だからだ。陸軍にとって「膠州湾を無償で中国に返還し、友好の道を探れ」などという意見は「極悪人の発想」になる。始末の悪いことに、陸軍には新聞という大応援団がいた。朝日新聞が典型的で、戦前の「満洲は日本の生命線だ。どんな犠牲を払っても絶対に手放すべきではない」という姿勢と、戦後の「なにがなんでも平和憲法を護るべきだ」という主張は「まったく逆」のように見えるが、じつは「まったく同じ」である。要するに、朝日は「宗教新聞」なのだ。本当の新聞ならば真実を報道するのが使命だが、宗教というものは「教え」にとって都合の悪いことは無視する。だから朝日は、「中国の文化大革命は素晴らしい」「北朝鮮は平和国家でミサイルなど造っていない」と言い続けた。この点は毎日新聞も同じで、日本はポーツマス条約締結直後の日比谷焼打事件で正しい報道をしていた國民新聞が崩壊させられた後、基本的に新聞はすべて「宗教新聞」になってしまった。要するに、「犠牲者の死を絶対に無駄にしてはならない」という「宗教」の「機関紙」だ。だから袁世凱軍が日本人を虐殺した南京事件が起こったとき、毎日新聞(当時は東京日日新聞)は「日本はドイツ人宣教師殺害事件のときのドイツを見習うべき」などという「火事場泥棒のススメ」を紙面でおおいに煽り、結果的にその影響を受けたとしか考えられない右翼青年によって、日中問題をできるだけ穏健に扱おうとしていた外務官僚阿部守太郎は暗殺されてしまった。この事件は最近年表にもあまり載っていないが、じつに重大な事件である。
要するに、これ以後日中問題を穏健に扱おうとした人間の脳裏には、必ずこの事件が浮かんだだろうということだ。もっとわかりやすく言えば、暗殺への恐怖である。じつは、いま分析している「対華21箇条要求」の主役加藤高明の心の奥底にもそれがあった、と私は考える。あまり陸軍の意向を無視して強硬路線を批判すれば、「暗殺されるかもしれない」という恐怖である。そういうことを言うと、すぐ歴史学者の先生方は「加藤が暗殺を恐れていたという史料は無い」などと言う。史料絶対主義者の「史料が無ければそれに伴う事実も無い」という杓子定規の結論である。まるで人間というものがわかっていない。加藤は政治家であり、のちに総理大臣にまで上り詰めた人物だ。そういう人間は、公式でもプライベートでも絶対に「暗殺が怖い」などとは口にできない。そんなことをしたら、政治家としての評価が一気に下がるからだ。つまり、後世にそうした「恐怖」の証拠を絶対に残してはいけないので、そうした政治家の心情を理解せずに歴史の分析などできるはずも無い。要するに、この時代多くの日本人は「暗殺怖さ」つまり「陸軍怖さ」に陸軍と対立することをやめてしまった、ということだ。この「暗殺への恐怖」に注目しなければ、結局「加藤が最終的に陸軍の意向を徹底的に尊重したことは合理的に説明できない」などという結論になってしまう。
では、まったく暗殺を恐れなかった政治家はいなかったのかと言えば、少なくとも一人はいた。犬養毅である。犬養は当初から「火事場泥棒のようなマネはやめるべきだ」と言い続けた。その結果どうなったか、だ。ご存じだろう。五・一五事件で犬養は暗殺されてしまった。直接暗殺したのは陸軍では無く海軍の軍人だったが、そのとき犬養は現役の首相だった。警察は現役の首相の暗殺を防ぐことができなかった。しかも、本来軍人が武器を用いて首相を暗殺すればどこの国でも死刑が原則だが、新聞のキャンペーンもあって助命嘆願運動が起こり、犯人たちは一人も死刑にならなかったことはすでに述べたとおりだ。これで日本人は、軍(とくに陸軍)の意向には逆らうべきではない、とさらに思い込むようになった。
それにしても、対華21箇条要求はあまりにも強硬で日本の国際的評判を大きく下落させるものであることは、当初から予想されていた。では、そうした常識にのっとり、もっと融和的な外交政策を進めるべきだと考えていた人間は、当時日本の中枢には一人もいなかったのかと言えば、確実に一人はいた。その名をクイズにすれば、この時代の専門家ならともかく、おそらくほとんどの人間が正解にたどり着けないだろう。その人物とは、「陸軍の法王」 元老山県有朋であった。

(つづく)

 


解説
日本人をいまも呪縛する、「犠牲者の死を絶対に無駄にしてはならない」という信仰。

ここの理解が、とても重要です。


陸軍にとって「膠州湾を無償で中国に返還し、友好の道を探れ」などという意見は「極悪人の発想」になる。始末の悪いことに、陸軍には新聞という大応援団がいた。朝日新聞が典型的で、戦前の「満洲は日本の生命線だ。どんな犠牲を払っても絶対に手放すべきではない」という姿勢と、戦後の「なにがなんでも平和憲法を護るべきだ」という主張は「まったく逆」のように見えるが、じつは「まったく同じ」である。要するに、朝日は「宗教新聞」なのだ。

ここも重要です。


獅子風蓮


対華21箇条要求について その2)

2024-03-24 01:22:34 | 中国・アジア

「21ヵ条要求問題」についてです。

いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。

d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。


週刊ポスト202024年3月8・15日号

逆説の日本史
井沢元彦
第 1410 回

近現代編 第13話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑥

優秀な外務官僚だった加藤高明はなぜ
「悪名高い外交」を行なったのか?

(つづきです)

「寄せ鍋」の国ニッポン

しかし、この『逆説』シリーズの愛読者なら、歴史学者が「合理的に説明するのは難しい」と嘆く問題も容易に説明できることをご存じだろう。「人間が不合理に動くときは、その背景に宗教がある」という法則さえ知っていれば、この問題も簡単に説明できる。
たとえば、江戸時代の日本にイタリア人のキリスト教宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチがやってきた。日本にキリスト教徒が「侵入」すれば過酷な拷問によって棄教を迫られ、拒否すれば処刑される。それは周知の事実であった。そんな国へ頼まれもせずにわざわざ行くことは、人間にとってもっとも大切な自己の生命をないがしろにする行為である。すなわち、「合理的に説明するのは難しい」。しかし、シドッチがキリスト教の宣教師であり、キリスト教とはどのような教えか基本的知識さえあれば、彼がなぜ合理的に考えれば「愚行」としか言えない行動に出たか説明できる。神の教えを広めるのは神父としての使命であり、死を恐れてはならないからだ。
また江戸時代の多くの武士は、黒船でやってきた西洋人が火縄銃とくらべて格段に性能の優れたライフル銃を使うのを見ても、なかなかそれを採用しようとはしなかった。なぜそんな中学生でもわかる理屈がわからなかったのかを「合理的に説明することは難しい」。しかし、江戸時代の武士は基本的に朱子学(儒教)という宗教の信者であり、祖法(先祖の決めたルール)はみだりに変えてはならないという信仰を持っていたという基本知識さえあれば、この問題も簡単に説明できる。同じ幕末に日本と長い間友好関係にあったオランダが「鎖国は危険、開国すべきだ」と国王の名をもって勧告してくれたときも幕府はその勧告を謝絶というか門前払いにしたのだが、そのオランダ国への返書のなかにも「祖法は変えられない」という文言がちゃんとある。にもかかわらず、これまでの日本の歴史教科書にはその肝心なキーワード「祖法」がまったく載せられていなかった。歴史学界あるいは多くの歴史学者が宗教を無視して歴史を分析し、その宗教を無視することが科学的だという愚劣としか言いようのない考え方にとりつかれているからである。
種子島に鉄砲が伝来したとき多くの日本人がそれに飛びついたのに、逆にライフル銃を見たときなぜ多くの日本人は無視しようとしたのか? 江戸時代の最初に、徳川家康が儒教を武士の基本教養にしたからである。そして日本の近代化、さらには中国・朝鮮の近代化を徹底的に妨げたのが、この「祖法」である。残念ながら、宗教を徹底的に無視する日本の歴史学界はそれがわかっていない。だから、明治になって岩倉具視を団長とする欧米使節団がなぜ1年10か月あまりもかけて洋行していたのかも「合理的に説明することは難しい」。しかし「人間が不合理に動くときは、その背景に宗教がある」という法則を知っており、時代時代を動かした宗教の基本的知識さえあれば、容易に説明がつく。岩倉を朱子学の呪縛から解き放つためである。
この「岩倉問題」について、誇張だと思った人、あるいは素人がなにを言うかと思った歴史学者の先生方、そういう方々には、『コミック版 逆説の日本史 幕末維新編』(小学館刊)を読んでいただきたい。別にぜひとも金を出して買えとは言わないが、立ち読みでは無く、全部を読んでいただきたい。そうすれば、私の言うことが誇張でもなんでも無く、歴史学者の先生方も含めて「自分がいままでいかに歴史を知らなかったか」という冷厳なる事実に気がつくはずである。
ただ、日本史が他の世界史にくらべてわかりにくい点はある。西洋史ならばギリシア以前はともかくそれ以後はキリスト教を押さえておけばいいし、中国史、朝鮮史も基本は儒教でバリエーションとしての朱子学を学べばいい、中東史ならイスラム教を知っていれば大丈夫だ。しかし、日本は「寄せ鍋」の国だから難しい。仏教も儒教も取り入れたが、「日本風」だ、時代時代で「流行」も違う。その奥底にあるのは芥川龍之介が短編小説『神神の微笑』で指摘した「造り変へる力」で、では「造り変へる」主体はなにかと言えば、天皇信仰と怨霊信仰である。これは二つの信仰が対立しているというより同じカードの裏と表で、キリスト教で言えば神と悪魔の関係に似ている。中世ヨーロッパでは国民すべてが神を信仰しているのに、なぜ疫病や戦争といった災厄が起こるのか、その理由を悪魔や魔女がこの世を乱して いるからだとした。日本も同じで、神の子孫である天皇が支配している以上災厄は起こらないはずだが、実際には起こる。それはこの世で満たされず、あの世で魔縁と化した怨霊が世を乱しているからだ。だが、そうした怨霊も丁重に鎮魂すなわち慰霊をすれば、怨霊変じて御霊つまり「よい神様」になってくれる。だから平安時代の人間は大怨霊と化した(みなした)菅原道真を天神に祀り上げ、丁重に慰霊した。それゆえ「天神様」は学問の神様として尊敬されるようになった。
そういう信仰があるからこそ、天皇家は平安時代末期に大怨霊と化した崇徳上皇の「天皇家を没落させ民をこの国の王とする」という呪いが実現して、朝廷が幕府に権力を奪われた、と考えていた。合理的に考えるなら、天皇家がケガレ忌避思想の影響で軍事や警察業務から手を引き、その結果それを担う武士たちに政権を奪われたのだが、宗教的には朝廷勢力は権力喪失の原因を崇徳上皇のタタリだと考えていたのである。
だからこそ幕末、孝明天皇崩御後に皇太子祐宮(さちのみや)は直ちに即位せず、崇徳上皇御陵に勅使を派遣しこれまでの罪を詫びた。その宣旨が読み上げられた日(崇徳上皇の命日)の翌日に正式に即位した。直後に天皇は、崇徳上皇の神霊を輿に乗せて京都に帰らせ神として祀った。それがいまも京都市上京区東飛鳥井町にある白峯神宮である。そして天皇がこの白峯神宮を直接参拝した翌日、はじめて元号は慶応から明治に変えられた。念のためだが、これは宮内庁の公式記録にもある歴史上の事実である。そればかりでは無い、崇徳上皇八百回忌にあたる1964年(昭和39)9月21日、昭和天皇は弟宮の高松宮を勅使に同行させ四国の崇徳天皇陵を参拝させた。歴代天皇の命日には宮内庁職員が御陵を代参するが、それに皇族が付き添うことは異例中の異例である。おそらく、翌月に迫っていた東京オリンピック(第18回)の成功と国土の安寧を祈られたのだろう。このことも当日の新聞に載っている事実である。
そういう国であるからこそ、日清・日露戦争で大日本帝国のために死んだ「十万の英霊」の存在がいかに重要なものかわかるだろう。江戸時代初期、明暦の大火でも十万人の人間が死んだが、これは被災者である。それとはまったく違い、この十万人の犠牲者は天皇のために自らの意思で命を捧げた人間である。前回も述べたように「この死は絶対に無駄にしてはならない」のだ。
そして、なぜそうなるのかもおわかりだろう。その死を無駄にしたら 十万の英霊は十万の怨霊となり、あらゆる災厄をこの国にもたらすからである。
〈以下次号〉

 

 


解説
「人間が不合理に動くときは、その背景に宗教がある」という法則さえ知っていれば、この問題も簡単に説明できる。

ここは重要ですから、覚えておきましょう。


そういう国であるからこそ、日清・日露戦争で大日本帝国のために死んだ「十万の英霊」の存在がいかに重要なものかわかるだろう。(中略)この十万人の犠牲者は天皇のために自らの意思で命を捧げた人間である。前回も述べたように「この死は絶対に無駄にしてはならない」のだ。
そして、なぜそうなるのかもおわかりだろう。その死を無駄にしたら 十万の英霊は十万の怨霊となり、あらゆる災厄をこの国にもたらすからである。


この井沢さんの主張には、学ぶところが大きいです。

 


獅子風蓮


対華21箇条要求について その1)

2024-03-23 01:05:08 | 中国・アジア

の記事にも書きましたが、「21ヵ条要求問題」についてです。

いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。

d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。


週刊ポスト202024年3月8・15日号

逆説の日本史
井沢元彦
第 1410 回

近現代編 第13話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑥

優秀な外務官僚だった加藤高明はなぜ
「悪名高い外交」を行なったのか?

「対華21箇条要求」の最高責任者は、大隈重信首相と加藤高明外相(のち首相)である。その加藤について、評伝である『加藤高明 主義主張を枉(ま)ぐるな』(櫻井良樹著 ミネルヴァ書房刊)では、冒頭で「戦前期の首相でも、明治国家を築きあげてきた元老や大隈重信を除いて、局長レベル以上の外務官僚と大蔵官僚の経歴を持ち首相となった人物は、加藤高明を除いていない」「加藤は稀有な存在だった」としている。
その一方で、「1914(大正3)年の4回目の外相就任は、第二次大隈重信内閣の副首相格としての入閣であったが、さんざんな評価であった。日本の第一次世界大戦参戦を積極的に導き、翌年には悪名高い対華21ヵ条要求を袁世凱に突きつけ、中国の対日感情を決定的に悪化させた。これは(中略)欧米、とくにアメリカの反発をかうことになった」と指摘している。さらに、加藤が首相になったとき幣原喜重郎を外相に登用し欧米との平和主義に基づく協調外交を展開したこと、つまり対華21箇条要求のときとはまったく正反対とも言える政治姿勢を取ったことも指摘し、「この外交政策の落差をどう説明すればよいのだろうか」とも述べている。幣原外交についてはいずれ分析せねばならないが、とりあえずは優秀な外務官僚でもあり、のちに首相になるほどの政治的センスもある加藤が、なぜ対華21箇条要求という愚かな振る舞いをしたのかについて述べねばなるまい。ただ、ひょっとしたら大隈首相の命令で嫌々やったのではないかと考える人がいるかもしれないので、念のために述べておこう。そういう事実はまったく無い。大隈と加藤はこの問題に関する根本方針において基本的に一致していたのだが、大隈は加藤を絶対的に信頼しており、対華21箇条要求についてはすべてを加藤に任せていた。この件に関する名目上の最高責任者は首相の大隈だが、実質的にそれは加藤なのである。この点に関しては、すべての歴史研究者が一致すると言ってもいい。だからなぜそんな「愚行を為した」のかは、加藤を分析するしかない。
ところが、前出の評伝執筆者もじつは「この侵略的で悪名高い外交をなぜ加藤が行ったのかを合理的に説明することは難しい」とし、そして全五項にわたる21箇条要求のなかでももっとも強硬で侵略的と批判を浴びた第五項についても、「最後まで加藤が第五号にこだわった理由は、やはり説明がつかない」としている。加藤高明に関するあらゆる史料に精通し、もっともその行動に詳しいはずの評伝執筆者がそう述べているのだ。もちろん、どんな優秀な人間でも人間である以上思い込みや見当違いがあり、考えられないようなミスをすることもある。しかし、このときの加藤がそうでは無かったことは証拠がある。ほかならぬ加藤自身の後年の述懐だ。

当時此方から申せば頗る頑強に抵抗された場合もありましたけれども、支那の当局の立場から考へれば是亦御尤(これまたごもっとも)な話である。一つとして己の方に貰ふものはない。皆やる方ばかりだ。軽々しく承知すれば国民から攻撃を受ける。無暗に返事も出来ない。なかなか向ふも辛かったのでありませう。(『対華21ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)

この言葉は、この著者によれば加藤の「大正4年における日支交渉の顛末」という講演で語られたものだそうだ。加藤高明自身も、この要求を「一つとして己の方に貰ふものはない。皆やる方ばかりだ」つまり「やらずぶったくり」であることを正確に認識していたのだ。そして著者は、さらに次のように自己の見解を述べている。

加藤は武力で袁世凱政権を威圧したが、21ヵ条要求問題で戦争を起こす気はなかった。さりとて、中国側に要求を受諾させる手段には乏しく、交渉が妥結するか否かは、袁世凱の決心による所が極めて大きかった。最終的に交渉は、袁世凱が最後通牒を受諾することで妥結したが、もし彼が受諾しなければ、交渉はさらに長引き、事態が紛糾した可能性も十分あった。加藤は、最後は袁世凱の決断に救われたという思いを持っていたようで、前述の講演の中で、袁世凱について次のように述べている。(引用前掲書)

その加藤の述懐はこうだ。 長いので一部省略して紹介する。

兎角の評はありますが袁世凱とい人が彼処に居ったのが仕合せであった。兎に角えらい人であったと思ふ。善悪は知らずえらい人であった。遙に輩を抜いて居った。(中略)袁世凱を悪く言ふ者もありますが、(中略)兎に角非常な遣り手であったといふことは確かに思へる。あの人が当時あの職に居ったことは、日支の談判を満足に成し遂げた事に就て確かに有力なる要件であった。(引用前掲書)

つまり加藤は、この要求が日本にとって一方的に都合がよい理不尽なものであることも認識していたし、他の多くの日本人のように袁世凱を「帝制復活をめざした超保守派」として軽蔑していたわけでも無い。もちろん、すでに述べたように大隈首相に強制されたわけでも無い。にもかかわらず、外交の専門家である加藤は、要求を押し通すという愚行を為した。じつに不思議ではないか、評伝の著者が「この侵略的で悪名高い外交を、なぜ加藤が行ったのかを合理的に説明することは難しい」と言うはずである。

(つづく)


解説
加藤は、この要求が日本にとって一方的に都合がよい理不尽なものであることも認識していた(中略)すでに述べたように大隈首相に強制されたわけでも無い。にもかかわらず、外交の専門家である加藤は、要求を押し通すという愚行を為した。じつに不思議ではないか

その理由は、次々回解き明かされます。


獅子風蓮


ダライ・ラマを陥れようとした中国(追記あり)

2023-06-09 01:55:06 | 中国・アジア

d-マガジンで興味深い記事を読みました。

引用します。


ニューズウィーク日本版 6月6日号

ダライ・ラマは 小児性愛者なのか

欧米の無知と偏見に付け込んで 
チベットの慣習を炎上の的へと変えたのは誰?
マグヌス・フィスケジョ(コーネル大学准教授、人類学)

チベット仏教の最高指導者ダライラマ14世に対して4月8日、世界の主要なSNSで新たな中傷キャンペーンが開始された。
と言っても、それだけなら今に始まった話ではない。抗中独立運動が拡大した1959年のチベット動乱以来、祖国を脱出したダライ・ラマは隣国インドで亡命生活を送っている。今もなおチベット人には敬愛されているが、中国政府はダライ・ラマの写真を所持することも禁じている。そして一貫して、ありとあらゆるメディアで誹謗中傷を続けている。
今回もまた「メイド・イン・チャイナ」の偽情報なのはほぼ間違いないが、不愉快な新手法があった。ダライ・ラマを、なんと小児性愛者に仕立てたのだ。しかも欧米諸国をはじめとして、世界中で膨大な数の人々が、この偽情報にあっさり踊らされた。昔ながらの偏見と無知に、SNS時代の短絡的で独善的な思考が重なった結果と言える。
この中傷キャンペーンの目的は、チベット亡命活動家のツェワン・ラドンが指摘したとおり、チベットにおける新たな弾圧政策から世界の目をそらすことにあった可能性が高い。この4月には国連の人権報告者が、中国はチベットの若者や児童を収容施設に送り、その独自文化を消去し、中国語を話す単なる労働者に変えようとしていると非難した。ウイグル人に対する仕打ちと同じだ。
また、先に亡命政府のあるインド北部のダラムサラで、アメリカ生まれのモンゴル人少年が転生霊童(生まれ変わり)としてチベット仏教第3位の地位に就いた。これは国を追われてもチベット仏教が健在であることを誇示し、中国側の意向を無視してダライ・ラマの後継者を指名する布石と目されている。当然、中国側にとっては面白くない。


炎上ネタと化した掘り出し物

それにしても、今回の宣伝工作はどのようにして始まったのか。材料になったのはダラムサラでのごく普通の出来事だ。チベット難民の支援団体で働くインド人女性が、8歳くらいの息子をダライ・ラマに引き会わせた。面会は2月28日に行われ、喜ばしい光景として、その動画がネット上に投稿された。そうして1カ月が過ぎた。
おそらく中国当局は、予想される新たな対中批判に備えて知恵を絞っていたのだろう。近年は国内にとどまらず、欧米のSNSへの進出にも力を入れている。
だから2月28日の動画を見つけたときは、小躍りしたに違いない。そうしてダライ・ラマが8歳の男児にキスしようとしているような部分だけを切り取った。実際、そこではダライ・ラマが舌を突き出し、おぼつかない英語で「私の舌を吸って(なめて)」と言っている。
その切り出し部分は2月に開設したツイッターのアカウントから「ベド(小児性愛者)ダライ・ラマ」という見出しを付けて発信された。この動画はデマ拡散用のアカウントや、世界各地の親中派ネットワークを通じて広まった。数日のうちに数百万回ものヒットを記録し、さらに多くのミームが重なった。突如として、ダライ・ラマのことなどろくに知らない大勢の人々が、ダライ・ラマを非難する展開になった。
私が初めて知ったのは、情報通の学者仲間を通じてのことだ。「やりすぎだ。評判に傷が付くことを自覚しているべきだった」と、彼はダライ・ラマをこき下ろした。
だが、実際には何が起きていたのか。実を言うとチベットには昔から、自分の子に口移しで食べ物を与える習慣がある。ダライ・ラマの故郷のアムド地方(現青海省)はもちろんのこと、今でも各地にその習慣は残っている。故にチベットのお年寄りは、孫に与える食べ物や菓子がなくなると舌を出して見せ、「私の舌を食べたらどうだい、もう何も残っていないのでね」と冗談を飛ばす。
ダライ・ラマが「舌を吸え(なめろ)」と言ったのは、あめ玉を想像したせいかもしれない。元のチベット語では、直訳すると、食べ物の代わりに「私の舌を食べろ」だ。
この動画を通しで見れば分かる。そこに性的な要素はない。ダライ・ラマは自分の頭を少年の肩に押し付け、昔はこんなふうにして、兄とよくけんかしたものだと話している。それから少年と額を合わせている。これは欧米の握手と同様、相手に敬意を表する伝統的なしぐさだ。

(ダラムサラの寺院のイベントで面会した少年と額を合わせるダライ・ラマ (2月28日))


単純に喜ばしい場面だった

少年も母親もその後、喜々としてインタビューに応えている。母親は数メートル離れた場所で面会を見守っていた。不適切なことなど何も起きていなかったのだ。ダライ・ラマが舌を 出す前に、少年は頬と口の両方にキスを受けた。これもチベットでは伝統的な儀礼だ。そして舌を出し、「もう何もない」と示した。それは 面会終了の合図でもあった。
少年は初め、ダライ・ラマに「ハグ」していいかと尋ねている。だがダライ・ラマは、その英語の意味を理解できなかったらしい。通常、チベットの人々はハグをしない。握手もしない。それでもダライ・ラマは(チベット伝統の)額合わせとキス、「舌を食べろ」のジョークに加えて、最後はハグと握手にも応じている。動画全体を見れば分かることだ。
そこに「小児性愛」を見るのは西洋人の「心が汚れて」いるからだと、インドの識者は言う。西洋人の人類学者である私は、そこに異なる文化やジェスチャーを理解することの困難さを見る。
その困難さを、中国の宣伝工作部隊は巧みに利用した。SNSのユーザーが、こういう動画にどう反応するかも知っていた。たいていの人はチベットの文化も慣習も知らない。ましてや「舌を吸う」に性的な意味がないとは思わない。一方で、キリスト教の聖職者に小児性愛者がいることは知っている。この無知と偏見に、中国側は付け込んだ。そして聖職者であるダライ・ラマを小児性愛者に仕立てた。
まんまと作戦は成功した。この偽情報は爆発的に拡散し、世界中でダライ・ラマとチベット人の評価が下がった。チベットで中国政府が進める民族文化抹殺政策に目を向ける米メディアはほとんどなかった。
するとダライ・ラマの事務所は、ダライ・ラマの「言葉が誰かを傷つけたのなら」謝罪するという声明を出した。国際社会への配慮なのだろうが、チベットの人たちは混乱した。謝る必要はないと、みんな思っていた。だからダラムサラやラダックでは、ダライ・ラマを支持する自然発生的なデモが行われた。
この事件全体を考えているうちに、ある古い記憶が脳裏に浮かんだ。人類学のフィールドワークで、中国とミャンマーの国境地帯に住むワ族の人々を訪ねたときのこと、すぐ近くに赤ん坊を抱いた若い母親がいた。すると彼女は、赤ん坊に口移しで食べ物を与え始めた! そんな光景は初めてで、私は思わず目をそらした。見てはいけないプライベートな、ほとんど性的な行為に思えたからだ。
もちろん、そこに性的なものを見たのは私だけだった。ワ族の人なら、少しも性的だとは思わない。口移しで幼児に食べ物を与えるのはワ族が日常的に行っていることだ。プラスチック製のスプーンが普及していない地域では、たぶんどこでも行われていることだろう。
あのときの私の混乱は、ダライ・ラマの行為に対する西洋人の群集心理的な反応に似ている。欧米のSNSにばらまかれた悪意ある画像を目にした多くの人が、そこにハリウッドの大物映画人のゆがんだモラルとセクハラを重ね合わせた。悪意の存在を疑う人はほとんどいなかった。仕掛けた側は、ただ小児性愛におわせるだけで十分だった。後は人々が勝手に解釈してくれた。
ドナルド・トランプ前米大統領のスピーチもこれに似ている。トランプは本当にひどいことを言いたいとき、言葉を最後まで言わない。聴き手が勝手に残りを補い、それで満足し、正義は自分たちにあると信じ込むように仕向ける。同じように、ダライ・ラマをおとしめたい中国側はSNSに絶妙な餌を投げ込んだ。トランプの餌に食い付くのは右翼のナショナリストだが、今度の餌にはもっぱら左翼のリベラル派が食い付き、やはり正義は自分たちにあると信じた。
チベットの人が挨拶に舌を使うことは、よく知られている。それでも、この切り取られた動画を見て「待てよ、これは誰かが、何らかの意図で仕掛けたものではないか」と疑う人はほとんどいなかった。
スロベニアの哲学者スラボイ・ジジェクはチベット語の「私の舌を食べて」の意味を正しく理解していたが、そこに西洋的な基準を当てはめて急な判断を下すことの危険性を指摘するところまではいかなかった。もちろん中国側は、そういう西洋人の独善的な傾向を見抜いていた。そしてもくろみどおりの成功を収めた。私の母国スウェーデンでは最大手の日刊紙アフトンプラデットが、少年に「舌を吸ってくれ」と頼んだダライ・ラマに非難が集中と、何の背景説明もなしで伝えた。この新聞は続報でカーディ・B(アメリカの有名なラッパー)の言葉を引用し、「児童虐待の加害者」への攻撃を開始した。他のメディアも同様に、チベット文化やチベットにある強制収容所の問題には触れもせず、この「スキャンダル」だけを報じた。
アメリカでは、由緒あるAP通信も同じような対応を見せていた。子供の味方を自称する独善的な人々が先を争って暴走した。メディアに登場する人たちも、仕組まれた画像を疑うことなくダライ・ラマを非難し、調査を要求した。
こんなことではチベットの人たちがさらに苦しみ、傷つくだけだ。彼らは長年にわたり中国に占領され、独自の文化を否定され、中国文化への同化を強いられてきた。そして今は中国の仕掛けた中傷キャンペーンで悪者扱いされ、世界中の人々から一方的な非難を浴びている。


民主主義国をむしばむ工作

さすがに、インドにはこうした事情をよく知る識者がいてSNSを通じて偽情報が瞬時に拡散してしまう恐怖の事態から何を学ぶべきかを考察している。彼らが示唆しているとおり、今回の事態には、チベット人ではない私たちが真摯に向き合うべき大きな課題がある。
民主主義諸国はYouTubeやフェイスブックに代表されるSNSに対する監督・監視を強化すべきだ。さもないと国内外の専制主義者に乗っ取られ、悪用されてしまう。
諸悪の元凶は、アルゴリズムで拡散するスキャンダルから生じる利益に群がるSNS運営会社の体質だ。嘘でもいいからショッキングなクリックベイト(ユーザーの衝動的なクリックを誘う餌としての画像や見出し)を掲げ、餌に食い付いたユーザをできるだけ長く自社サイトにとどまらせ、その間に集めた情報で的を絞った広告を送り付ける。こんなビジネスモデルがある限り、「餌」はどんどん過激になり、嘘が増え、結果として民主主義への信頼が損なわれる。
しかも、そこに中国共産党が目を付けた。その宣伝工作機関は巨大で、SNSもAI(人工知能)も巧みに使いこなす。そして経験を重ねて腕を磨き、世界中で暗躍している。今回のように私たちの無知や偏見に付け込み、利用するすべも心得ている。この陰湿な宣伝工作に対抗するのは、たぶんウラジーミル・プーチンのいるロシア軍を撃退するより難しい。学者の信用も低下しているようだ。どこのメディアもクリックベイトに食い付き、それを無邪気に拡散させるだけで、チベット文化に詳しい専門家や人類学者の見解を聞こうとしなかった。
いや、人類学者が自ら身を引いてしまったのかもしれない。差別を悪とする世論が高まるなか、私たち人類学者は民族による文化の違いを説明するという本来の役目を放棄している。こうなると、ますます悪質な宣伝工作がはびこる。
忘れるなかれ、中国は常に新たな「金脈」を探している。例えば、台湾の信用を決定的に失墜させるようなフェイク画像を。


解説
実を言うとチベットには昔から、自分の子に口移しで食べ物を与える習慣がある。ダライ・ラマの故郷のアムド地方(現青海省)はもちろんのこと、今でも各地にその習慣は残っている。故にチベットのお年寄りは、孫に与える食べ物や菓子がなくなると舌を出して見せ、「私の舌を食べたらどうだい、もう何も残っていないのでね」と冗談を飛ばす。
ダライ・ラマが「舌を吸え(なめろ)」と言ったのは、あめ玉を想像したせいかもしれない。元のチベット語では、直訳すると、食べ物の代わりに「私の舌を食べろ」だ。
この動画を通しで見れば分かる。そこに性的な要素はない。ダライ・ラマは自分の頭を少年の肩に押し付け、昔はこんなふうにして、兄とよくけんかしたものだと話している。それから少年と額を合わせている。これは欧米の握手と同様、相手に敬意を表する伝統的なしぐさだ。

文化人類学は重要な学問である。
ある特定の文化でなんでもないことが、別の文化を持つ人々には恥ずべき行為に写る。
文化人類学は、異なる文化をお互いに尊重するべきであると教える。

この記事では、文化人類学者が、チベットではなんら問題のない行為が、西欧人にとっては「小児性愛」の行為と受け取られることを利用し、中国政府がダライ・ラマを陥れようとしたことが書かれています。

私も、今年の4月に朝日新聞に、ダライ・ラマの事務所が、ダライ・ラマが面会した少年に口づけし、さらに自分の舌を吸うよう促したとして、謝罪声明を発表したという記事を読んでびっくりしました。
ネットだと、これですね。

ダライ・ラマが謝罪声明、少年に「私の舌を吸って」 拡散動画に批判

私は、自分のホームページでも書きましたが、ダライ・ラマを尊敬していますので、こういう記事が朝日新聞に載ったこと自体を、心配しました。

でも、今回の記事を読んで、ダライ・ラマの事務所は、なんら謝罪する必要もなかったことが分かりました。

許せないのは、すべてを分かった上で、SNSを利用してダライ・ラマを陥れようとした中国政府です。

情報を受け取る側としては、ネットリテラシーをさらに高め、分からないことについては、文化人類学者などの専門家の意見を参考にするといった、慎重な態度が求められるでしょう。


獅子風蓮


PS)

この記事を書き終わって、池田バッシングでよく言及される「マジックインキ事件」を思い出しました。
これも、当事者の幼児やその家族、それを見守っていた多くの学会員にとってはなんのことはない、むしろほほえましい出来事であったのに、池田氏を陥れようとした何者かによってしくまれ、写真が流出したのではないかと、そんなことを思ったのです。

詳細は別のところ(獅子風蓮の青空ブログ)に書きました。

よろしければ、お読みください。

獅子風蓮(2023.06.13追記)