獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その17

2025-01-31 01:31:31 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 ■休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


休戦協定の手土産

その翌日の夜遅く、私は鈴木氏に呼ばれ、赤坂の行きつけのラウンジバーで、赤ワインとチーズをつまみに雑談をした。
「いや、佐藤さん、今日はたまげたぞ」
「大臣、いったい何ですか」
「昼、議員会館の秘書のところに『今、鈴木先生はいるの』と女の声で電話がかかってきたんだ。秘書が『はい、います』と答えると、誰がやってきたと思う」
「わかりません」
「田中大臣だよ。田中眞紀子がやってきたんだよ。『先生、昨日はお世話になりました。これお土産にもってきました』と言って、コロンビア製のコーヒー豆を持ってきた」
「何のシグナルでしょうか」
「何だべなあ。まあ、毒が入っていることはないだろう」
「コロンビアは麻薬と犯罪組織で有名ですからね。『鈴木宗男にコロンビア製のまっ黒いコーヒーを贈り警告を発した』なんていうのは週刊誌的にはよい見出しになるんじゃないですか」
「あんたは次々と面白いことを考えるな」
こうして、鈴木氏と田中女史の間で停戦が成立し、その停戦は翌年1月のアフガニスタン復興支援東京会議へのNGO(非政府組織)出席問題まで続くのである。

それまで私は1ヵ月から1ヵ月半に1回はロシアに出張して、自分の眼と耳で政治情勢をつかむようにつとめていたが、田中女史が外相に就任した後、それをやめた。
第一の理由は、モスクワの政治エリートから「表面上の説明はともかく、日本の対露政策が変化したのではないか」という突っ込んだ質問がなされることが目に見えており、私の「引き出し」には、それに対する答がなかったからだ。
第二の理由は、小寺課長と私の関係は既に修復不能となっており、とりあえずの「手打ち」後の鈴木氏と田中女史の関係が「冷たい平和」とするならば、小寺氏と私の関係は「冷たい戦争」状態だったからである。「冷たい戦争」を「熱い戦争」に転換させないことが「チーム」メンバーと私と親しいロシア課員を困難な状況に追い込まないために不可欠だった。
そのためには目立たないことが重要だった。私や「チーム」メンバーの出張をとりやめ、「チーム」の会合も差し控え、また、私や「チーム」メンバーが研修生に対して行っていたロシア語やロシア事情に関する教育もやめた。
しかし、「チーム」の活動をやめたわけではない。ロシア情勢は依然注意深くウオッチする必要があったからだ。イスラーム原理主義のロシアに与える影響と大量破壊兵器(核兵器、生物化学兵器)不拡散問題に対するロシアの姿勢を重点調査項目にした。
外務省執行部は、前にあげた第二次世界大戦のたとえに即して言えば、鈴木氏がスターリンからムッソリーニに豹変し、ヒトラー(田中女史)と手を握ることを心配し、鈴木氏に田中眞紀子女史に関する否定的情報を流し続けた。私は鈴木氏が豹変する可能性は全くないと確信していた。その根拠は鈴木氏のあの眼である。鈴木氏の眼が猛禽類のようになったときにとった決断を変更することはないと私は過去の経験から踏んでいた。
当初、外務省内の雰囲気は基本的に反田中が基調だった。しかし、田中女史が外相に長期間とどまるとの見方が強まるにつれて、田中女史に接近し、自己の権力基盤を強化しようと図る幹部も出始めた。外務省幹部間の温度差が政治部記者や情報ブローカーの噂にのぼるようになった。
田中外相周辺の外務官僚、秘書官たちは、田中女史からのモラルハラスメントにもかかわらず、外相に献身的に仕えた。私が信頼する外務省幹部はある時、ため息混じりでこう言った。
「まったくあいつらは猟犬なんだよな。何も考えずに上司にお仕えするのが癖になっている。『もう鳥はとってこなくていい』と飼い主が言っているのに、水鳥が撃ち落とされると、ワンワンと言って運んでくる。君が婆さん(田中女史)の側にいれば、相当面白い事態を作ることができるだろうにね……」

情報収集、調査・分析の世界に長期従事すると独特の性格の歪みがでてくる。これが一種の文化になり、この分野のプロであるということは、表面上の職業が外交官であろうが、ジャーナリストであろうが、学者であろうが、プロの間では臭いでわかる。そして国際情報の世界では認知された者たちでフリーメーソンのような世界が形成されている。
この世界には、利害が対立する者たちの間にも不思議な助け合いの習慣が存在する。問題は情報屋が自分の歪みに気付いているかどうかである。私自身も自分の姿が完全には見えていない。しかし、自分の職業的歪みには気付いているので、それが自分の眼を曇らせないようにする訓練をしてきた。具体的には常に複眼思考をすることである。
国際情報屋には、猟犬型と野良猫型がいる。猟犬型の情報屋は、ヒエラルキーの中で与えられた場所をよく守り、上司の命令を忠実に遂行する。全体像がわからなくても危険な仕事に邁進する。野良猫型は、たとえ与えられた命令でも、自分が心底納得し、自分なりの全体像を掴まないと決してリスクを引き受けない。独立心が強く、癖がある。しかし、難しい情報源に食い込んだり、通常の分析家に描けないような構図を見て取るのも野良猫型の情報屋である。
私は諸外国の野良猫型情報屋から多くのことを学んだ。野良猫型だけだと組織は機能しなくなる。猟犬型だけでは、組織が硬直と緊縮を起こし、応用問題に対応できなくなる。結局、両方が必要なのである。全体として見れば、国際情報屋は、猟犬型九割五分、野良猫型五分くらいに分かれる。
それから、情報入手の手法は、虎式と蜘蛛式に分かれる。虎式は、獲物の通り道を見つけ、誰にも見えないような場所でひたすら待つ。そして、獲物が近付いたら一気に襲いかかる。蜘蛛式は、獲物の通り道をそれ程詳しく調べたりはしない。幅広く網を張る。そして獲物がかかるのを待つ。たとえば、美しい蝶が蜘蛛の巣にかかったとしよう。蜘蛛はそっと蝶に近付き、針を刺し、蝶の体液を吸う。見た目には蝶は生きているときと変わらない。しかし、命は失っているのである。諸外国の専門家たちから、「佐藤さんは蜘蛛式が得意だ」とよく言われた。

 


解説
情報入手の手法は、虎式と蜘蛛式に分かれる。虎式は……(中略)……蜘蛛式は、獲物の通り道をそれ程詳しく調べたりはしない。幅広く網を張る。そして獲物がかかるのを待つ。たとえば、美しい蝶が蜘蛛の巣にかかったとしよう。蜘蛛はそっと蝶に近付き、針を刺し、蝶の体液を吸う。見た目には蝶は生きているときと変わらない。しかし、命は失っているのである。諸外国の専門家たちから、「佐藤さんは蜘蛛式が得意だ」とよく言われた。

なるほど、佐藤氏は蜘蛛式ですか。
佐藤氏にロックオンされた創価学会はいつの間にか命を奪われ衰退している……
そう考えると、辻褄があうかも。

 

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その17

2025-01-31 01:09:49 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 ■休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


休戦協定の手土産

その翌日の夜遅く、私は鈴木氏に呼ばれ、赤坂の行きつけのラウンジバーで、赤ワインとチーズをつまみに雑談をした。
「いや、佐藤さん、今日はたまげたぞ」
「大臣、いったい何ですか」
「昼、議員会館の秘書のところに『今、鈴木先生はいるの』と女の声で電話がかかってきたんだ。秘書が『はい、います』と答えると、誰がやってきたと思う」
「わかりません」
「田中大臣だよ。田中眞紀子がやってきたんだよ。『先生、昨日はお世話になりました。これお土産にもってきました』と言って、コロンビア製のコーヒー豆を持ってきた」
「何のシグナルでしょうか」
「何だべなあ。まあ、毒が入っていることはないだろう」
「コロンビアは麻薬と犯罪組織で有名ですからね。『鈴木宗男にコロンビア製のまっ黒いコーヒーを贈り警告を発した』なんていうのは週刊誌的にはよい見出しになるんじゃないですか」
「あんたは次々と面白いことを考えるな」
こうして、鈴木氏と田中女史の間で停戦が成立し、その停戦は翌年1月のアフガニスタン復興支援東京会議へのNGO(非政府組織)出席問題まで続くのである。

それまで私は1ヵ月から1ヵ月半に1回はロシアに出張して、自分の眼と耳で政治情勢をつかむようにつとめていたが、田中女史が外相に就任した後、それをやめた。
第一の理由は、モスクワの政治エリートから「表面上の説明はともかく、日本の対露政策が変化したのではないか」という突っ込んだ質問がなされることが目に見えており、私の「引き出し」には、それに対する答がなかったからだ。
第二の理由は、小寺課長と私の関係は既に修復不能となっており、とりあえずの「手打ち」後の鈴木氏と田中女史の関係が「冷たい平和」とするならば、小寺氏と私の関係は「冷たい戦争」状態だったからである。「冷たい戦争」を「熱い戦争」に転換させないことが「チーム」メンバーと私と親しいロシア課員を困難な状況に追い込まないために不可欠だった。
そのためには目立たないことが重要だった。私や「チーム」メンバーの出張をとりやめ、「チーム」の会合も差し控え、また、私や「チーム」メンバーが研修生に対して行っていたロシア語やロシア事情に関する教育もやめた。
しかし、「チーム」の活動をやめたわけではない。ロシア情勢は依然注意深くウオッチする必要があったからだ。イスラーム原理主義のロシアに与える影響と大量破壊兵器(核兵器、生物化学兵器)不拡散問題に対するロシアの姿勢を重点調査項目にした。
外務省執行部は、前にあげた第二次世界大戦のたとえに即して言えば、鈴木氏がスターリンからムッソリーニに豹変し、ヒトラー(田中女史)と手を握ることを心配し、鈴木氏に田中眞紀子女史に関する否定的情報を流し続けた。私は鈴木氏が豹変する可能性は全くないと確信していた。その根拠は鈴木氏のあの眼である。鈴木氏の眼が猛禽類のようになったときにとった決断を変更することはないと私は過去の経験から踏んでいた。
当初、外務省内の雰囲気は基本的に反田中が基調だった。しかし、田中女史が外相に長期間とどまるとの見方が強まるにつれて、田中女史に接近し、自己の権力基盤を強化しようと図る幹部も出始めた。外務省幹部間の温度差が政治部記者や情報ブローカーの噂にのぼるようになった。
田中外相周辺の外務官僚、秘書官たちは、田中女史からのモラルハラスメントにもかかわらず、外相に献身的に仕えた。私が信頼する外務省幹部はある時、ため息混じりでこう言った。
「まったくあいつらは猟犬なんだよな。何も考えずに上司にお仕えするのが癖になっている。『もう鳥はとってこなくていい』と飼い主が言っているのに、水鳥が撃ち落とされると、ワンワンと言って運んでくる。君が婆さん(田中女史)の側にいれば、相当面白い事態を作ることができるだろうにね……」

情報収集、調査・分析の世界に長期従事すると独特の性格の歪みがでてくる。これが一種の文化になり、この分野のプロであるということは、表面上の職業が外交官であろうが、ジャーナリストであろうが、学者であろうが、プロの間では臭いでわかる。そして国際情報の世界では認知された者たちでフリーメーソンのような世界が形成されている。
この世界には、利害が対立する者たちの間にも不思議な助け合いの習慣が存在する。問題は情報屋が自分の歪みに気付いているかどうかである。私自身も自分の姿が完全には見えていない。しかし、自分の職業的歪みには気付いているので、それが自分の眼を曇らせないようにする訓練をしてきた。具体的には常に複眼思考をすることであ
国際情報屋には、猟犬型と野良猫型がいる。猟犬型の情報屋は、ヒエラルキーの中で与えられた場所をよく守り、上司の命令を忠実に遂行する。全体像がわからなくても危険な仕事に邁進する。野良猫型は、たとえ与えられた命令でも、自分が心底納得し、自分なりの全体像を掴まないと決してリスクを引き受けない。独立心が強く、癖がある。しかし、難しい情報源に食い込んだり、通常の分析家に描けないような構図を見て取るのも野良猫型の情報屋である。
私は諸外国の野良猫型情報屋から多くのことを学んだ。野良猫型だけだと組織は機能しなくなる。猟犬型だけでは、組織が硬直と緊縮を起こし、応用問題に対応できなくなる。結局、両方が必要なのである。全体として見れば、国際情報屋は、猟犬型九割五分、野良猫型五分くらいに分かれる。
それから、情報入手の手法は、虎式と蜘蛛式に分かれる。虎式は、獲物の通り道を見つけ、誰にも見えないような場所でひたすら待つ。そして、獲物が近付いたら一気に襲いかかる。蜘蛛式は、獲物の通り道をそれ程詳しく調べたりはしない。幅広く網を張る。そして獲物がかかるのを待つ。たとえば、美しい蝶が蜘蛛の巣にかかったとしよう。蜘蛛はそっと蝶に近付き、針を刺し、蝶の体液を吸う。見た目には蝶は生きているときと変わらない。しかし、命は失っているのである。諸外国の専門家たちから、「佐藤さんは蜘蛛式が得意だ」とよく言われた。

 


解説

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その16

2025-01-30 01:41:39 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 ■外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


外務省の組織崩壊

小寺氏をロシア課長に再任することについて、外務省幹部は強く抵抗した。もはや、小寺氏を巡る「ロシアスクール」内部のいざこざにはとどまらない大問題となった。外務大臣が従来の慣行を無視して、恣意的人事を行うようになると外務省の秩序が崩れ、官僚がパトロン政治家に媚びを売り、行政の中立性が侵害されるとの危機意識が強まった。
これまで鈴木氏の影響力を排除するために、田中女史を最大限に活用していた一部外務省幹部たちも、急速に反田中色を鮮明にした。私とあまり親しくないある幹部が、廊下ですれ違いざまに「俺たちは田中眞紀子をジャンヌ・ダルクと思っていたが、実は西太后だった」と私に囁いた。
私が信頼する外務省幹部は、「婆さん(田中大臣)は、小寺をロシア課長に、(現ロシア課長の)渡邉を中東欧課長に、(現中東欧課長の)倉井(高志)をロシア支援室長に戻せと言っているが、ビデオの逆回しではないんだから、そんなことはできない。渡邉はロシア課長にとどまらせる」と強調していたが、結局、5月10日深夜、小寺氏をロシア課長に再任命する辞令が交付された。
ただし、ビデオの全面的な逆回しは行われなかった。その代わり、渡邉氏が官房付になり、夏まで実質的に失業状態になった。外務省幹部は、小寺氏がロシア課長任命を固辞することを期待していたのだ。ある幹部が私にこううち明けた。
「小寺は変わった奴だよ。こんな人事は固辞すると思っていたが、受けたよ。嬉しそうにしていたんだ。あいつには呆れたよ」
鈴木宗男氏との軋轢ではむしろ小寺氏に同情的であった外務省幹部も、小寺氏が田中女史を後ろ盾にしたことにより、厳しい眼で小寺氏を見るようになった。
この一件で、外務省の鈴木宗男氏に対する依存度は一層強まり、それぞれの思惑から、今まで私と親しくなかった幹部や中堅幹部が私に接触してくるようになった。私を通じて、鈴木氏の覚えをめでたくしようとの思惑が透けて見えた。
このような人々に私は「用件があれば直接鈴木事務所に電話をすればよいでしょう」と言って、鈴木氏への取り継ぎを断った。その翌年、鈴木宗男バッシングが始まると率先して鈴木攻撃に回ったのもこの人たちであった。
鈴木氏は、衆議院第一議員会館の事務所で、陳情、来客を受け付けていたが、機微な話や込み入って時間がかかる案件のときは、会館から徒歩3分のところにある十全ビルの個人事務所で会うことにしていた。
あるときロシア絡みの機微な話があり、私は十全ビルに赴いたが、廊下で某外務省幹部とすれ違った。私とそれ程親しくない幹部であるが、お互いに面識はある。私は会釈をしたのに、この人物は眼をそらした。
事務所に入ると、鈴木氏は「今、Sとすれ違わなかったか」と問いかけた。私は、「はい。私が会釈をしたら、眼をそらしました」と答えた。鈴木氏は「そうだろうな」と言って、紙を2枚私に見せた。それには、「田中眞紀子外務大臣の言行」と書かれ、省内で田中女史がいかに奇怪な発言、行動をしているかを綴った紙だった。
鈴木氏は「俺のところに持ってくれば、それを新聞記者に配ると思っているんだな。その手には乗らないよ」と言って笑った。私は、「稚拙な怪文書ですね。こんな手法ではすぐに足がつくし、第一、情報源が特定されてしまうではないですか。鈴木大臣経由で情報ロンダリングをしようとしているのですね」と答えた。それにしても外務省が組織的に怪文書作りをし、幹部がそれを配布しているというのは、私にとって衝撃だった。外務省という組織が崩れはじめていた。

小寺氏がロシア課長に復帰した後、鈴木氏が最も懸念したのは、田中女史の気迫に押されて、対露外交政策に揺らぎが生じ、日露関係が再び不信の構造に陥っていくことだった。
5月16日、衆議院沖縄北方特別委員会で田中女史は「私とロシアのかかわりの原点は73年の田中(角栄)総理とブレジネフ・ソ連書記長との会談」だと再び強調し、それをロシア側は、日本政府が対露政策を転換したシグナルと受けとめた。
鈴木氏にロシア側から「ほんとうのところを教えてくれ」という連絡が相次いだ。私にも、モスクワのロシア人国会議員や大統領府高官から「日本政府の政策転換の真意はなにか。日本はどういうゲームをロシアとしようと考えているのか。ほんとうのところを教えてくれ」との電話が何本もかかってきた。
ロシア人は、政策は人事によって表されると考える。政治的問題が起きたとき、ロシア人は「何が問題か」とは問わずに「誰が悪いのか(クト・ビナバート)」と言って、属人的に責任を追及する。小寺人事をロシア側は日本の政策変更と受けとめたのである。
私は親しくするロシア人に「2000年9月に東京、2001年3月にイルクーツクで行われた二つの首脳会談は、小寺ロシア課長の下で準備されたもので、イルクーツク声明の文案を詰めたのも小寺さんではないか。何を心配しているのか」と説明したが、納得しなかった。
「佐藤さん、そういう表面的な説明を求めているのではありません。私たちにもそれなりの情報は入ってきます。東郷さんと小寺さんの間には相当考えの違いがあり、東郷さんの考えがこれまでの日本の政策を決定する上で重要だったのです。東郷さんがオランダに行ってしまい、今度は小寺さんの考えが日本の政策を決定する上で重要なのです。
田中眞紀子外相が1973年の田中・ブレジネフ会談が原点と繰り返して言うのは、小寺さんの考えではありませんか。現に産経新聞や読売新聞は、これは日本の対露政策の変更につながると書いています。小寺さんは冷戦時代の四島一括返還論に日本の政策を戻し、ロシアとの戦略的提携は追求せず、アメリカとの関係だけを大切にすることを考えているのではないですか。日本がそのような路線を選択したならば、ロシアもそれに対応した対日政策を策定しなくてはなりません。ほんとうのところが知りたいのです」
ほんとうのところは私にもわからなかった。「トリックスター」田中眞紀子女史の効果が本格的に外交に現れてきたのかもしれない。組織が崩れはじめ、政策が漂流しはじめている。その中で、当事者が自覚しないままに対露政策が変化する可能性は否定できない。
当初、鈴木・東郷・佐藤と小寺の間に路線上の対立はなかった。あるのは人間関係のちょっとしたボタンの掛け違いから生じた軋轢で、どんな組織にもある話だった。それが「トリックスター」の登場によって変化した。このままではこれまで積み上げられてきた対露政策が崩壊してしまう。
東郷大使は後任の小町恭士欧州局長と東郷氏の盟友である森敏光欧州局審議官に気合いを入れることで、従来の政策を担保しようとした。
私は旧約聖書の「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉第三章一節)を鈴木氏と東郷氏に説明し、ここは時を待つべきであるという「待機戦術」を提案した。二人とも私の提案を却下した。
鈴木氏は、全く別の戦術を考えた。鈴木氏自身が筆頭理事をつとめる衆議院外務委員会で、小寺人事も田中外相の一連の発言も日本政府が従来の対露政策を転換したものでないとの答弁を田中女史と外務官僚から引き出し、ロシアに対して政策変更は一切ないことを明らかにするという戦術だった。

対決は、6月20日、27日の2回行われた。ワイドショーでは、鈴木氏が「鈴木宗男の人権はどうなるんだ」と叫んだ場面だけが繰り返し報道されたが、鈴木氏は田中女史から、小寺人事は政策変更と何等関係ないこと、また73年の田中・ブレジネフ会談を原点とするのではなく、「四島の帰属の問題をはっきりさせてから平和条約を締結する」という93年東京宣言の内容を引き出した。
ただし、それ以降の日露関係の経緯を田中女史に理解させるには時間が足りなかった。もっとも外務省の事務方は森前政権の路線を継承する内容の答弁をしたので、日本政府が政策変更をしたのではないということは議会記録上明白になった。
6月27日深夜、私は鈴木氏と一杯やりながら「反省会」をした。
鈴木氏は「2回の討議で、73年から93年まで、20年時計が進んだのだから、あと1回機会があれば、イルクーツク声明まで行くよ。これで俺は、プロレスの悪役レスラーになったが、まあ『悪名は無名にまさる』だ」とそれなりに満足していた。
たしかにこの出来事を契機に鈴木氏は悪役になったが、それが後に述べる「国策捜査」への道につながることを、この時点で鈴木氏も私も全く認識していなかった。
ロシア側は、衆議院外務委員会の審議を注意深く分析し、田中女史の一連の発言は勉強不足に起因するもので、日本外務省内部には一定程度の混乱はあるが、対露政策が大きく変化することはないとの結論にとりあえず落ち着いたようだった。

 


解説
たしかにこの出来事を契機に鈴木氏は悪役になったが、それが後に述べる「国策捜査」への道につながることを、この時点で鈴木氏も私も全く認識していなかった。


例の「国策捜査」の背景には、こういうドタバタがあったのですね。

 

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その15

2025-01-29 01:15:54 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 ■田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。


田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン

その日は夜遅くまで私は鈴木氏と話し込んだ。私は、「ここは一歩後退・二歩前進で、『チーム』も解散し、私も異動し、対露外交は、新執行部の『お手並み拝見』で行くべきだ」と主張したが、鈴木氏はこれに反対した。
「この問題は、あんた個人にとどまらない。田中も小寺も超えてはいけない一線を超えた。これに対しては責任をとってもらわなくてはならない。あんたは日本の国益のためにここまで一生懸命にやってきたんだろう。そのあんたの仕事を評価しないのはおかしな話だ。もはや官僚の力ではあんたを守りきれない」
私は「一歩後退・二歩前進」論を繰り返したが、鈴木氏は「今ここで一歩後退したら、次は十歩、その次は百歩後退することを余儀なくされる。これは国益に反する。官僚の喧嘩ではなく政争だから、もはや引くことはできないよ」と言った。
鈴木氏がここまで言うのならと、私も腹を括ることにした。そして、紙を取り出し、相関図を描き、1941年初頭の国際情勢について、説明し始めた。
「現在の状況は、独ソ戦直前の国際情勢に似ています。以下のアナロジーでいきましょう。
田中眞紀子はヒトラー・ドイツ総統です。
外務省執行部はチャーチル・イギリス首相です。
小泉純一郎はルーズベルト・アメリカ大統領です。
そして、鈴木先生がスターリン・ソ連首相です」――。
鈴木氏は「俺はスターリンなのか」と怪訝な面もちで問いかけるので、私は「そうで す」と言って説明を続ける。
「ドイツとイギリスは既に戦争を始めています。イギリスは守勢なので、アメリカの助けが欲しいのですが、アメリカは当面、動きそうにありません。そこで、決して好きではないのですが、ソ連を味方に付けようとしています。外務省執行部は、鈴木先生と田中大臣が戦争を開始すれば大喜びでしょう。
対田中戦争で外務省執行部は鈴木大臣と同盟を組むでしょう。しかし、これは本当の同盟ではありません。戦後に新たに深刻な問題が生じるでしょう。それに外務省内では田中大臣の力に頼り、権力拡大を考えている人たちもいます」
鈴木氏は私が描いた相関図を手に取り、「あんたはどこにいるんだ」と問う。
私は、「当時、チェコスロバキアの亡命政権は、ロンドン派とモスクワ派に分かれていました。モスクワ派首班のゴッドワルド・チェコ共産党書記長といったところでしょう」と答えた。
すると、鈴木氏は、「外務省は勘違いしないことだな。俺は今のところスターリンだが、もしかするとムッソリーニ(イタリア首相)になり、ヒトラーと手を結ぶかもしれない」と冗談半分に微笑んだ。
信頼する外務省幹部に鈴木氏とのやりとりについて話した。幹部は「それが君の見立てなのか。なるほど」とうなずいて、次のように続けた。
「田中大臣のエラーは、戦線を拡大しすぎたことだ。外務省から経世会(橋本派)の影響力を追い出すということで、敵を鈴木宗男、東郷、君に限定していれば、君もわかっているように、うち(外務省)には鈴木さんや君のことを面白く思っていない連中が多いから、うまく勝つことができたと思う。
しかし、5月8日、アーミテージ米国務副長官との会談をドタキャンしたが、婆さん(田中女史)はその時、大臣就任祝いにもらった胡蝶蘭への礼状を書いていたんだ。これに対してみんなが危機感をもった。来日したアメリカ政府の要人に会うより、胡蝶蘭の礼状書きがプライオリティの高い仕事だというのだからね」
にわかには信じられなかった。私は「ほんとうですか」と尋ねた。
「ほんとうなんだ。外交についてブリーフしようとしても時間をつくってくれない。そもそもサブスタンス(外交の実質)に関心がない。外務省を攻撃して、国民的人気を得ることと周囲に言うことを聞く人間を集める人事にしか関心がない。小寺人事をゴリ押しして、外務省を恣意的に支配しようとしている。
科学技術庁ではそれができたかもしれないが(田中女史は村山富市政権時代に科学技術庁長官をつとめたが、その時に官房長を更迭したことがある)、うちではそうはいかない。これで組織全体を敵に回した。新聞は婆さんの危うさについてきちんと書いているんだけれど、日本人の実質識字率は5パーセントだから、新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。残念ながらそういったところだね。その状況で、さてこちらはお国のために何ができるかということだが……」と幹部は続けた。
すでにこの時期、田中外相と外務官僚の対立は世間に広く知られるようになっていた。対立の発端は、田中女史が就任早々に発した、「人事凍結令」だった。この凍結令で前外相時代に内定していた大使19人と退任帰国予定の幹部7人の人事がストップされるという異例の事態になったのである。もちろん、これまで述べてきた小寺氏に関する人事もこのなかに含まれる。
省内の緊張が高まる中で田中女史は「外務省は伏魔殿」と発言。さらに、川島事務次官、飯村官房長らを「大臣室出入り禁止」にしたことで外相と官僚の対立はいよいよ深刻なものとなっていた。
米国務副長官との会談ドタキャン事件はこうした中で起こった。アーミテージ氏は日米外交のキーパーソンだっただけに、その彼との会談をキャンセルしたことは日米関係に悪い影響を与えるとして、いくつかのメディアで非難の対象となった。それでも、そうした批判は「眞紀子イジメだ」とする、感情的な論調がこの時点ではまだまだ支配的だった。
私は、田中眞紀子女史は「天才」であると考えている。田中女史のことばは、人々の感情に訴えるのみでなく、潜在意識を動かすことができる。文化人類学で「トリックスター(騒動師)」という概念があるが、これがあてはまる。
「トリックスター」は、神話や昔話の世界によく見られるが、既成社会の道徳や秩序を揺さぶるが、同時に文化を活性化する。田中女史の登場によって、日本の政治文化が大きく活性化されたことは間違いない。しかし、問題は活性化された政治がどこに向かっていくかということだ。

あるとき田中女史が何の前触れもなく、私が勤務する国際情報局分析第一課の部屋を訪ねてきた。外相のはじめての省内視察として、なぜかわが課が選ばれたのだ。課長はあわてて背広を着た。私はワイシャツのままで、椅子から立って、田中女史の来訪に歓迎の意向を表した。
田中女史は白いスーツを着て、「この部屋は何をやっているのですか」とにこやかに問いかけてきた。そして、私の机の前にやってきた。私の向かいの机は空席で、そこにはロシアの新聞と北朝鮮の新聞が無造作に積まれていた。田中女史はロシア語の新聞を手に取り、私の方を向いて「これは何語の新聞ですか」と問いかけた。一瞬、私と眼があった。田中女史は、ほほえんでいたが、眼は笑っていなかった。爬虫類のような眼をしていた。
私が黙っていると課長が「ロシア語の新聞です」と答えた。田中女史は、「この課はロシアのことをやっているの。ほかには何をやっているんですか」と課員に話しかけたところで、今井正国際情報局長が飛び込んできた。そして、国際情報局の仕事について説明しはじめた。
この抜き打ちの訪問の後で、私は今井局長に呼ばれ、こう言われた。
「あれは佐藤さんの様子を偵察しに来たね。分析第二課にも一応出かけていったが、目的は佐藤さんの人相見だと思うよ。いったい誰が佐藤さんのことを吹き込んでいるんだろうね」
その晩、鈴木氏から電話がかかってきた。
「あんた、田中大臣があんたのことを『ラスプーチンのところに行ってきたけれど、思ったよりもかわいい顔をしているのね』と言っていたそうだぞ。あんただったら田中眞紀子とも上手くやっていけるだろうから、秘書官になったらどうだ」と笑いながら問いかけてきた。
私は「田中大臣の好みは歌舞伎役者のような美男子ですから、私は向かないでしょう」と答えると鈴木氏は「どうも髭を生やしているといけないらしいな。あんたは髭は生やさないのか」と言う。私は、「髭は手入れがたいへんなので生やしませんが一案があります」と答えた。
翌朝、私は理髪店に行き、五分刈りにしてもらった。そして、衆議院第一議員会館の鈴木事務所に出かけた。
鈴木氏が「あんた、いったいどうしたんだ」と言うので、私は「どうもラスプーチンとしての気迫が田中大臣に伝わらなかったようなので、頭を丸めてみました。戦闘態勢です」と答えた。そして、この丸刈りを私は田中女史が外相から解任されるまで続けた。

 

 


解説
現在の状況は、独ソ戦直前の国際情勢に似ています。以下のアナロジーでいきましょう。
田中眞紀子はヒトラー・ドイツ総統です。
外務省執行部はチャーチル・イギリス首相です。
小泉純一郎はルーズベルト・アメリカ大統領です。
そして、鈴木先生がスターリン・ソ連首相です」――。

どうも、佐藤氏は現実の人物や団体の関係を、歴史上の人物や団体にみたてるアナロジーがお好きなようです。
でも、このアナロジーはあまり秀逸なものとはいえませんね。
本人は気に入っているようですが。

そういえば、佐藤氏は、宗門から破門された創価学会をユダヤ教から独立したキリスト教に見立てて、「創価学会は魂の独立を果たした」「世界宗教の資格がある」などと吹聴していました。
これなども、まったく本質をついていない皮相的な類似でしかないのに、佐藤氏はこのアナロジーが大層気に入っていたようで、徐々に創価学会シンパになっていきます。

佐藤氏はじつに思いこみの激しい人物です。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その14

2025-01-28 01:56:55 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 ■戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


戦闘開始

小泉政権が発足した直後、2001年のゴールデンウィーク中のことだ。田中女史が上高地の別荘にいる小寺氏に電話をかけた際、小寺氏は鈴木宗男氏と東郷局長、佐藤にかなりひどい目に遭わされたということを訴えたという話が、新聞記者を通じて私の耳に入ってきた。私はまた小寺氏がやってるのかと思い、軽く受け流した。
3月にロシア課長から英国公使へ異動の発令を受けていた小寺氏は、5月7日にロンドンに赴任するために成田空港を飛び立った。その日の夕刻、まだ小寺氏がロンドンに着く前に、ある情報ブローカーが私との面会を強く求めてきたので、都内某所で密会した。
情報ブローカーは、「田中眞紀子が小寺をロンドンから呼び戻すことにした。再びロシア課長に戻す人事を強行し、鈴木宗男を挑発するつもりだ。これはハプニングでも何でもなく田中と小寺の間のデキレースだと思う。次はあなたをアフリカか砂漠の国に追い出すことを考えている。十分注意した方がよい」と伝えてきた。
深夜になって、今度は親しい新聞記者から電話がかかってきた。
「杉浦正健(せいけん)外務副大臣が、夜のオフレコ懇談で、田中大臣が、自分が知らない内に小寺前ロシア課長がイギリスに異動になったことに激怒し、小寺さんを直ちに呼び戻すことにしたと言っていた。佐藤さんのところにもワイドショーや週刊誌の取材がいくかもしれないが、余計なことは言わない方がよい」
私は記者の電話が終わるとすぐに岡野ロシア課首席事務官に情報を伝え、メディア対応について考えておいた方がよいと言った。その後、鈴木宗男氏に電話をしたが、鈴木氏は「まさか。そんなことはありえないよ」と言って私の情報を信じなかった。それから30分程して鈴木氏から電話がかかってきた。
「佐藤さん、あんたがさっき言っていた話は本当だ。とりあえずは様子を見るしかないな。小寺も突然呼び戻され、困っているんじゃないか。とにかくアンテナだけはよく張っていてくれ」という話だった。
5月9日の昼、鈴木氏は、パノフ駐日ロシア大使と昼食をとることになっていた。私も同席の予定だった。昼前に私の携帯電話が鳴った。渡邉正人ロシア課長からだった。
「至急、あなたと鈴木大臣に伝えておきたいことがあるんだけれど、どこで会えるかな」
私は「鈴木大臣は12時半にTBSビル地下のレストラン『ざくろ』で会食があり、そこに僕も同席するので、その少し前に着けばつかまえることができます」と答えた。
私は少し早く会場に行ったが、既に渡邉課長が待っていた。渡邉氏は常に沈着冷静な男であるが、この日は少し興奮していた。
「今さっき、小寺さんに会ってきた。小寺さんがこんなことを言っていたので、あなたには伝えておかなくてはならないと思って、やってきた」と前置きして話を続けた。以下は、私が渡邉氏から聞いた小寺氏の発言である。
「空港から田中大臣のところに直行した。田中大臣からは、『お疲れさま。荷物はそのままにしておいてよいと言っておいたのに、何で出かけちゃったの」という話があった。僕(小寺)の方からは、これまでにあった経緯を全て述べておいた。そして、最後に『私をロシア課長に戻すよりも、佐藤優を何とかしてください』と言うと田中大臣は『わかっているわよ』と言った。
僕としてはロシア課長に戻りたいとは思わないのだけれども、田中大臣の意向が強いので戻らざるをえない。君(渡邉)には迷惑をかけてほんとうに済まないと思っている。僕は挨拶回りをしないので、君だけでしてくれ。それから、この話は川島(裕)事務次官も飯村(豊)官房長も知っている」
渡邉氏は緊張した面もちで、「あなたに危険が迫っている。僕に何ができるかわからないが、できるだけのことはしてみる。しかし、小寺はもうあっち側に行っているので、一切の幻想をもたない方がよい」と言った。
私は自分に迫っている危険について心配するよりも、自らのリスクを省みずに正確な情報を伝えてくれた渡邉氏の勇気に感激した。
そこに鈴木宗男氏がやってきた。渡邉氏は鈴木氏に対して、私に述べたのと同じ内容を繰り返した。鈴木氏は、一言だけ、「そうか」と言った。
その時、一瞬、鈴木氏の眼が猛禽類(もうきんるい)のように光ったのを覚えている。鈴木氏は、心底、許せないと言うような事態に直面すると一瞬眼が鷹や鷲のようになる。私は鈴木氏とは十年以上、親しくしているが、その間、鈴木氏の眼が猛禽類のようになったことは、本当に数回しか見たことがない。
私はこの話を東郷局長と信頼する外務省幹部に伝えた。東郷氏は、田中眞紀子女史の矛先がとりあえず自分にではなく、私に向かうので、ちょっと安心したようだった。もう一人の外務省幹部は、「馬鹿だな小寺は。ほんとうに馬鹿だな。何でそんなことを言いふらすんだ」と言って、その後は絶句した。
私の理解では、この瞬間に鈴木氏は、田中眞紀子女史と徹底的に闘うことを決めたのである。そして、この決断が鈴木宗男氏を奈落に導いていく道につながる。
鈴木氏は、直情的な人物のように見られがちだが、実はとても慎重で、特に政治ゲームに関しては勝ち負けについて実によく計算し、勝算が7割を超えないとリスクを冒すような行動をとらないというのが、鈴木氏の行動をそばで見てきた私の分析である。
田中眞紀子女史との関係についても、いくつかジャブは打つが、正面から対決することは避けることを鈴木氏は考えていた。外交は積み重ねであり、田中女史が思いつきで何かを言っても、そう長い時間が経たないうちに行き詰まるので、外務官僚の鈴木氏への依存度が却って高まると踏んでいた。従って、対露外交についても、鈴木氏が自ら乗り出して、田中女史と対決するなどということは、全く考えていなかった。しかし、小寺氏の田中女史に対する言動を聞いてから、鈴木氏は冷徹な政治的計算を除外して、徹底的な闘いに踏み切ることにしたのだ。

 

 


解説
その時、一瞬、鈴木氏の眼が猛禽類(もうきんるい)のように光ったのを覚えている。鈴木氏は、心底、許せないと言うような事態に直面すると一瞬眼が鷹や鷲のようになる。私は鈴木氏とは十年以上、親しくしているが、その間、鈴木氏の眼が猛禽類のようになったことは、本当に数回しか見たことがない。(中略)
小寺氏の田中女史に対する言動を聞いてから、鈴木氏は冷徹な政治的計算を除外して、徹底的な闘いに踏み切ることにしたのだ。

こうして、鈴木宗男氏と田中真紀子女史の戦闘が始まりました。

 

獅子風蓮