獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その37

2025-02-28 01:43:52 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 ■困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


困窮を極めていた北方四島の生活

ソ連時代、北方領土には優遇措置がとられており、給料は大陸の2.1倍、物資も特別配給で豊富にあった。数年、島で出稼ぎをしてから、本土に帰り、マンション、車、別荘を買うというのがロシア人のライフスタイルだった。しかし、ソ連崩壊でこのような優遇措置もなくなった。ロシア本土につてのある人々は帰郷し、事情のある人々だけが残った。
私も数回、北方領土を訪れたことがあるが、ある共通点に気付いた。島民に「どこから来たのか」と聞くと、ハバロフスクであるとかウクライナであるという答がくる。しかし、「どうしてここに来たのか」と聞いても誰もきちんとした答をしない。
あるとき親しくなった色丹島村役場の幹部にこう言われた。
「佐藤さん、島の人はみんな訳があってここから去ることができないんだよ。駆け落ちをしたとか、実家とうまくいっていないとか、それぞれに深刻な理由があるんだ。だから『どうして』ということはお互いに尋ねないんだよ」

日本外務省は「もはやモスクワは四島のロシア系住民の要請を満足させることはできない。ここで日本が人道支援を強化すれば、対日感情も改善し、北方領土返還に対するロシア系島民の抵抗感も薄れるのではないか」と考えた。
結論を先取りして言うと、この考え方は正しかった。もちろん、ロシア系住民が率先して日本への返還を望んでいるということではない。しかし、仮に両国政府が北方領土を日本に返還することを決めても、ロシア人の生活と尊厳が保証されるならば、その決定に従おうという考え方が主流となったのである。
こうしたなかで、北方領土に対する人道支援、特に診療所、ディーゼル発電機などの「箱物」は住民に歓迎された。
医療機関の整備は命に直結する問題として重要だ。また、四島では物流が悪いので、住民は冷蔵庫や冷凍庫に食料品を大量に備蓄する。しかし、ソ連崩壊後、停電が頻発するようになり、備蓄した食料品が腐ってしまう。これも生活に直結する深刻な問題だった。
特に1994年10月の北海道東方沖地震で、色丹島は壊滅的打撃を受けたので日本の人道援助に対する依存度が高まった。
一方、日本政府の北方領土に関する法的立場は不法占拠論であるので、ロシアの不法占拠を助長するような行為は差し控えるという方針との整合性が求められる。そこで、基礎工事をきちんとして壊すことが難しい恒常的なインフラ整備は行わないが、プレハブのように簡単に解体して撤去できるものならば「箱物」でも供与してもよいということになった。
電力支援に関しても、発電所を建設するのではなく、ディーゼル発電機を供与し、そこにプレハブの「箱物」を作るという体裁にこだわったのも、このような理屈からである。
念のために言っておくと、「友好の家」(いわゆる「ムネオハウス」)は、ロシア人のためというよりも、ビザなし訪問で訪れる日本人の宿泊を目的として作られたものだ。地震などの天災が起きたときは緊急避難所としてロシア人も使用することができるが、それ以外のときは使わないという約束で供与された施設である。
ただし、日本製プレハブは丈夫で、ロシアのちょっとしたコンクリート製建物よりも地震に強い。何をもって恒常的なインフラとするかについては「神学論争」の面が強い。
しかもプレハブを作る場合にも、建築基準に則って行われねばならず、水道を敷けば水質検査が必要だが、これについても厳密に詰めればロシアの規則に従うのか、日本の規則に従うのかということになる。
日本としては法的にロシアの管轄権を認めるような行動をとれば、それは不法占拠を助長するということになるので認められない。従って、この点についてはあえて玉虫色にして「うまくやる」という形で処理した。

エリツィン大統領もまた「地アタマ」がいい人物だ。
人道支援と北方領土問題を絡める日本政府の意図を正確に見抜いていた。95年5月28日にサハリン北部ネフチゴルスクで大地震があったが、現地を訪問した際にエリツィン氏は「ロシアは地震の傷を自らいやす力をもっている。日本人は後になってから島(北方領土)を求めてくるかもしれない」と述べて、日本を牽制している。
もっとも外交の世界でこのようなことを公言するのは、フーテンの寅さん風に言えば「それを言っちゃあ、オシマイよ」という禁じ手である。日本は北方領土返還の環境を整えるという意図もあって人道支援を行っており、ロシアはそれをわかりながら受け入れているが、日本の意図通りには事を運ばせないという腹ももっている。ここから虚々実々の駆け引きが展開された。ディーゼル発電機供与事業もこの「ゲーム」の一環であった。

前に述べたように97年11月、クラスノヤルスク非公式首脳会談で、2000年までに北方領土問題を解決して平和条約を締結するために全力をつくすことに両国首脳は合意した。官邸も外務省も近い将来に北方領土問題が解決するかもしれないという熱気に包まれた。
クラスノヤルスクでエリツィン大統領から橋本首相に、「南クリル」における電力事情が厳しいので、この面での支援をしてもらえるとありがたいとの要請があった。イーゴリ・ファルフトジノフ・サハリン州知事は以前から、日本政府に北方四島における地熱発電事業に対する支援を行って欲しいとの要請を繰り返していた。
97年12月、鈴木宗男北海道・沖縄開発庁長官がユジノサハリンスクを訪れた際にもファルフトジノフ氏はこの要請を繰り返した。北方四島は火山帯であり、温泉も出る。地中から吹き出す蒸気でタービンを回せば石油がなくても電気を作ることができる。当時サハリン州側は深刻な石油不足に悩んでいたので、地熱発電に強い関心をもった。
しかし、日本の立場からするとこれはあまり芳しい考え方ではない。まず、地熱発電施設は、地中に深くパイプを打ち込み、それに発電機を設置するので、どこから見ても恒久的なインフラ施設で、日本の法的立場と整合性をもたせることが難しい。
一旦地熱発電施設が出来上がってしまえば、その後はロシア側がメインテナンスを行うので日本に対する依存は生じない。これは四島のロシア人を日本に近付けるという政治的目的にも合致しない。
だが、エリツィン氏の要請に誠実かつ迅速に応えることが平和条約交渉を加速するために必要だった。そこに「毒」を盛り込み、「東部戦線」を少しでも日本にとって有利にしなくてはならない。サハリン州は地熱発電に固執しているが、エリツィン氏は電力支援とだけ述べており、その形態については注文をつけていない。「ロシアスクール」は、時代の要請に応える知恵を出さなくてはならなかった。

 


解説
日本政府の北方領土に関する法的立場は不法占拠論であるので、ロシアの不法占拠を助長するような行為は差し控えるという方針との整合性が求められる。そこで、基礎工事をきちんとして壊すことが難しい恒常的なインフラ整備は行わないが、プレハブのように簡単に解体して撤去できるものならば「箱物」でも供与してもよいということになった。
電力支援に関しても、発電所を建設するのではなく、ディーゼル発電機を供与し、そこにプレハブの「箱物」を作るという体裁にこだわったのも、このような理屈からである。

佐藤優氏の説明は論理的で分かりやすいです。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その36

2025-02-27 01:22:54 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 ■ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


ディーゼル事業の特殊性とは

それでは次に、国後島ディーゼル発電機供与に話を移そう。
ゴロデツキー教授夫妻の訪日招待とテルアビブ国際学会への学者、外務省員らの派遣については、私自身が企画、担当した事業であり、当然のことながら深く関与している。これに対して、国後島ディーゼル発電機供与事業は、私とは部局を別にする欧亜局ロシア支援室が担当した案件で、私は入札で何が行われたかについてもほとんど知らないし、関心がなかった。従って、語ることがあまりないのである。
初めなぜ私がこの事件で逮捕されたかについて、狐につままれたような感じで全く理解できなかった。取り調べが進むにつれて、東京地検特捜部が描こうとするシナリオは見えてきたが、それはあまりに実態とかけ離れたものだった。この点については第4章以降で詳しく述べることにしたい。

ここでは、まず、このディーゼル事業が抱えていた特殊性について少し説明させてほしい。
それは北方領土問題と関連していた。
私は、北方領土問題についてあまり詳しくないジャーナリストから、国後島の「友好の家」(いわゆる「ムネオハウス」)について「鈴木宗男ほどの力がある政治家が、なんであんな貧弱な建物しか作らなかったのか。あれじゃ工事現場の飯場ではないか」という質問を何度も受けた。
実はこの問題に答えることで、北方領土におけるディーゼル事業の難しさを理解していただけると思う。
第2章で説明したように、1956年の日ソ共同宣言で、両国間の戦争状態は終了し、外交関係が再開されたが、領土問題が解決されていないので未だ平和条約が締結されていない。国交回復後、日本政府の立場は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島は日本固有の領土であるということでは一貫している。
しかし、無人島である歯舞群島を除き、実際には残り三島にロシア人が定住しており、色丹島、国後島を管轄する「南クリル地区行政府」、択捉島を管轄する「クリル地区行政府」が存在している。日本政府は、北方四島はロシアの不法占領下に置かれているとの認識で、これらの「地区行政府」の存在を認めていない。
ロシアの実効支配を認めることにつながる行為は一切差し控えるというのが日本政府の方針だ。
例えば、ウラジオストクから北方四島には定期船便が出ているので、日本人であっても物理的に北方領土に渡航することは可能である。しかし、パスポートをもちロシアのビザ(査証)をとって四島に入ると、それは四島がロシア領であると日本政府が認めたと受け止められてしまう危険がある。従って、そのようなことはしないようにとの閣議了解がなされ、日本の多くの旅行社は政府の方針を理解し、そのようなツアーは組まない。
北方四島に建物や工場を造ることも、ロシア側の建築基準に従うならば、日本がロシアの管轄を認めたことと受け止められかねない。それに、四島でのインフラ整備が進めば、ロシア人が四島から出て行かなくなり不法占拠が助長されるおそれがある。だから、四島はペンペン草が生えるような状態にしておくことが望ましいというのが冷戦時代の日本政府の論理だった。
しかし、ソ連が崩壊し、新生ロシアは、自由、民主主義、市場経済という日本と価値観を共有する国になった。北方領土問題についても、問題の存在を認め、「法と正義の「原則」によって問題を解決すると約束し、実際に誠実に交渉を行っている。
ソ連崩壊少し前に日本人が北方四島に渡航する新たな枠組みが生まれた。ビザなし交流である。元島民を中心とする日本人が、パスポートやビザをもたず、日本政府の立場からすると国内旅行として北方四島に渡航する仕組みができた。四島のロシア系住民も日本に来る。もちろん、ロシアからすると、出入国手続きをとっていることになるが、「お互いの立場を侵害しない」といういわば大人の論理で、人道的見地から交流が可能になったのである。
ロシア人を日本政府のカネで受け入れるのは税金の無駄使いとの批判もある。しかし、日本政府としては、四島のロシア系住民が自らの眼で日本の現状を見ることにより、「北方四島が日本に返還され、日本人と共生した方がよいのではないか」という感情を育てたいとの思惑がある。
そもそも外交の世界に純粋な人道支援など存在しない。どの国も人道支援の名の下で自国の国益を推進しているのである。ロシアとしても、「日本の人道支援を有り難く受け入れる」との姿勢をとりつつも、日本のカネを使っていかにロシアにとって有利な状況を作るかを考えている。
特に領土問題は国益に直結するので、北方四島の人道問題、人道支援を巡っては虚々実々の駆け引きが両国の間で行われていた。私を含む東郷和彦氏に近い「ロシアスクール」外交官は、モスクワでのロビー活動を「西部戦線」、北方四島への支援を「東部戦線」と呼んでいた。どちらも目に見えない「戦争」だった。

 


解説
北方四島に建物や工場を造ることも、ロシア側の建築基準に従うならば、日本がロシアの管轄を認めたことと受け止められかねない。それに、四島でのインフラ整備が進めば、ロシア人が四島から出て行かなくなり不法占拠が助長されるおそれがある。だから、四島はペンペン草が生えるような状態にしておくことが望ましいというのが冷戦時代の日本政府の論理だった。
しかし、ソ連が崩壊し、新生ロシアは、自由、民主主義、市場経済という日本と価値観を共有する国になった。北方領土問題についても、問題の存在を認め、「法と正義の「原則」によって問題を解決すると約束し、実際に誠実に交渉を行っている。
(中略)
そもそも外交の世界に純粋な人道支援など存在しない。どの国も人道支援の名の下で自国の国益を推進しているのである。ロシアとしても、「日本の人道支援を有り難く受け入れる」との姿勢をとりつつも、日本のカネを使っていかにロシアにとって有利な状況を作るかを考えている。


佐藤優氏の説明は論理的で分かりやすいですね。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その35

2025-02-26 01:30:51 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 ■テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力 
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


テルアビブ国際会議

4月5日、午後、私はテルアビブのベングリオン国際空港に到着した。
イスラエルの入国管理、セキュリティー・チェックは徹底している。イスラエル国営「エル・アル」航空を使うときには、鍵をかけないスーツケースを前日に航空会社に預け、ハイジャック検査を徹底して行う。それ以外の航空会社を使用する場合にも、空港の手荷物検査や職員による質問で2、3時間を費やすこともある。
セキュリティー・チェックの大原則は、通常と異なる行動様式に対して疑惑の眼を向けることである。2日未明にテルアビブに着いていながら、翌3日にはモスクワに向け出発し、再び5日に再入国する日本人というのは、入国管理官の常識からすると「奇妙な行動」なので、私は再入国手続きに少し手間取った。
私は空港からテルアビブ大学に直行した。5日の第一セッションは「極東の再考」だったので、その最後の部分だけでも参加できるかと思っていたが間に合わなかった。
会場に入ると、セッションは中東、中央アジアに移っていた。ちょうど立山良司防衛大学校教授が発表しているところだった。「チーム」の若い外交官たちは一生懸命メモをとっていた。会場の隅にゴロデツキー教授が立っていたので黙礼した。
そこで突然、会場の電気が消えてしまった。しばらく経っても復旧しないので、ゴロデツキー氏がコーヒーブレイクを宣言した。停電は約20分続いたが、その間に私はゴロデツキー氏と末次一郎氏にモスクワでの鈴木・プーチン会談について簡潔に報告した。
ゴロデツキー氏も日本から参加した学者たちも討議の内容に満足していた。
国際学会の内容は、ロシア情勢を把握し、日本の対露平和条約に資する対露支援戦略を策定する上で有益であった。私自身は、会議全体を聞くことはできなかったのであるが、「チーム」の若い外交官たちが詳細な記録を作成した。分厚い単行本一冊に相当する分量で、四百字詰め原稿用紙に換算すれば、約630枚になる。
この記録は外務省の関連部局、学会に参加した学者はもとより、外務省と関係の深い研究者にも配布した。この編纂作業を全て「チーム」で行ったので、メンバーは学会終了後も相当時間とエネルギーを割いた。しかし、検察によれば、本件は「佐藤被告人が腹心によい思いをさせるために連れて行った観光旅行」なのである。

イスラエルと日本の間に定期直行便はないので、フランクフルト経由で帰国した。私は空港から外務省に直行し、川島裕(ゆたか)事務次官にモスクワの鈴木・プーチン会談とテルアビブの国際学会について報告した。
川島次官の前職は駐イスラエル大使だったので、イスラエルのロシア情報の重要性をよく理解していた。川島氏は、私に「国際学会の企画はよかったな。君はほんとうによいところに目をつけたよ。イスラエルはロシアとの関係でも、アメリカとの関係でもとても大切な国だからね。今後も頑張ってくれよ」とねぎらいの言葉をかけてくれた。その2年後にこの学会が背任事件として摘発されることなど、この時川島次官は夢にも思っていなかったことだろう。
学会に参加した学者たちもその成果に大いに満足していた。
田中明彦氏は成田空港で私に「僕は朝日新聞の『論座』にコラムをもっているんだけれど、そこに今回の学会について書こうと思いますが、いいですか」と尋ねてきた。
山内昌之氏からは、4月下旬の昼、赤坂の貝作という日本料理屋に私と「チーム」の二人が招かれ、「日本は諸外国と較べ政府とアカデミズムの関係が弱い。日本のアカデミズムの力を現実に生かすためにも今回のような学会はとても有意義だった」との評価を受けた。
そして、特にこの学会の意義を強調したのは、袴田茂樹氏だった。同氏からは「同じような学会を是非また行って欲しい」という働きかけをその後何度も受けた。また、袴田氏はこの学会について2000年4月19日の読売新聞朝刊に「『自己分裂』ロシアへの対応」と題したコラムを寄稿。その中で以下のように述べている。

〈プーチン政権をどうとらえるか、また北大西洋条約機構(NATO)拡大やコソボ、イスラム原理主義の問題について、欧米やロシア、日本から専門家が多数集まって3日間熱心に討議を行った。この会議に参加した私の関心は、ロシア人が自らを世界の中でどう位置付け、欧米やアジア、日本にどのような姿勢で対応してくるかという問題であった。つまり、ソ連邦の崩壊後、プーチン新大統領の下でロシアがアイデンティティーをどこに見いだそうとしているかという問題である。(中略)
結局、日本としては第四のアプローチを探らざるを得ない。それは、ロシアが欧州でもアジアでもないということ、双方を内包した独特の国であるという認識を前提とすべきだ。その上で、ロシアが単なる欧米モデルでもアジアを内包するソ連モデルでもない、その双方の混淆(こんこう)としての新体制を構築するのに対処しなくてはならない。その体制の安定のためには、権威主義的な要素は免れないであろう。それを認めた上で、危険な独裁体制にならないよう、国際的な枠組みを構築し、また日露両国にとって相互利益的な関係を築く必要がある〉

その2年半後、私は、東京拘置所のカビ臭い独房で、私を厳しく弾劾し、「(この学会で)深められたロシア認識をどう利用するかは政策レベルの問題であり、われわれ学者の関与すべきことではないと考えています」と結論づけた袴田氏の検察官に対する供述調書を読むことになる。

 


解説
ゴロデツキー氏も日本から参加した学者たちも討議の内容に満足していた。
国際学会の内容は、ロシア情勢を把握し、日本の対露平和条約に資する対露支援戦略を策定する上で有益であった。私自身は、会議全体を聞くことはできなかったのであるが、「チーム」の若い外交官たちが詳細な記録を作成した。分厚い単行本一冊に相当する分量で、四百字詰め原稿用紙に換算すれば、約630枚になる。

こうしてテルアビブ国際会議は有意義に終えることができました。

その2年後にまさかそのことで佐藤氏に背任の容疑がかかることになるとは……

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その34

2025-02-25 01:16:33 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 ■クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


クレムリン、総理特使の涙

その頃、国際学会とは別に水面下で日露関係についての重要な動きがあった。
小渕氏が総理特使として「意中の人物」をロシアに送り、大統領選挙前にプーチンと接触させることを考えたのである。
次期大統領が確実視されるプーチンに日本の対露関係重視のシグナルを伝えるとともに、プーチンの人相見を「意中の人物」にさせようとした。小渕氏は「意中の人物」が誰であるか、はじめはあえて黙っていたが、それが鈴木宗男氏であることに疑念をさしはさむ者はひとりもいなかった。
このときも私は、ロシア外務省チャネルとともにクレムリンに直接つながるバックチャネルも活用した。バックチャネルの情報は常に外務省チャネルよりも早く、内容も深かった。
3月の大統領選挙前に小渕首相の特使とプーチンが会うことは不可能だが、3月の第一回投票でプーチンが当選すれば、5月に正式に大統領に就任する前に会談を行うことは可能かもしれないとの示唆をクレムリンから得た。私は「プーチンは日本に対して特別の関心をもっている」と解釈し、その見立てを鈴木氏に伝えた。
テルアビブ大学主催国際学会は、会議自体が4月3日から5日に、その後、会議参加者による視察が6日から7日に行われることになった。私はこの学会は、情報収集、人脈構築のみならず若い外交官の基礎体力を強化するためにとても重要と考えていたので、その準備に精力のほとんどを費やしていたのだが、2月下旬には、国際学会と総理特使のプーチンとの会見がぶつかるのではないかという嫌な予感がしていた。そして、不幸にもこの予感は的中してしまうのだった。

3月末、永田町の末次一郎事務所で、私は末次氏と袴田氏にテルアビブ国際学会についての説明をしていた。途中で、末次氏の秘書が「いま鈴木宗男先生から電話で、大至急相談したいことがあるので、こちらに来るということです」と伝えてきた。
私は「やはりスケジュールがバッティングしたな」とすぐにピンと来た。すでに3月26日に実施されたロシア大統領選挙で、プーチン氏は1回目の投票で過半数を獲得、当選を決めていたのだ。
案の定、末次事務所にやって来た鈴木氏の用件は、「たった今、外交ルートで4月4日にプーチン次期大統領は鈴木宗男総理特使と会うという回答が来たので、申し訳ないけれども佐藤さんにはモスクワに同行してもらいたい。東郷局長はそれで了承したが、末次先生の了解をとってほしいと言われました」ということだった。しかし、末次氏は首を縦に振らなかった。
「だめじゃ。鈴木君、これは佐藤君が一生懸命進めていた案件なので、打ち合わせや向こうの人と引き合わせてもらう時に佐藤君がいてもらわないと困る」
前にも述べたように末次氏は、原理原則で譲らないという頑固さと、異なる見解に誠実に耳を傾けるという柔軟性をもっている。激しい闘争心と人間に対する優しさを併せもっている独特のカリスマ性をもった人物だ。
「末次先生、それでは、佐藤さんはモスクワの会見が終わってからテルアビブに向かうということでどうでしょうか」
「だめじゃ。最初にゴロデッキーさんたちに引き合わせることをしてもらわんとならん」
さすがに、鈴木氏の顔が少し曇った。
「それでは、佐藤さんには負担をかけますが、まず末次先生たちとテルアビブに行っていただき、その後、モスクワで僕と合流し、それからもう一度テルアビブに戻るということではどうでしょうか」
「それならばよい。ただし、佐藤君、飛行機の便があるかな」
私は、「テルアビブ・モスクワ間は1日2便往復しています」と答えた。
このときはそうは言ったものの、実際にこなしてみると、さすがにこの日程は身体に応えた。テルアビブに戻った翌日はゴラン高原視察であったが、私は途中で気分が悪くなり、バスの後部座席で数時間横になっていたのだった。

2000年4月4日、クレムリン宮殿――。
大統領待合室前のホールで鈴木氏が私にささやきかけた。
「佐藤さん、緊張するな」
「ようやくここまで来ましたね。先生とモスクワで初めてお会いしたときから9年かかって、ようやく大統領まで行き着きましたね」
「そうだな。あんたがいてくれんとここまでこれなかったよ」
「そんなことはないと思います」
待合室の高い天井には一面絵が描かれており、壁にも絵画がたくさんかかっているので、美術館のような感じである。
その二日前の4月2日。私を含む日本代表団は、学会事務局の案内で、テルアビブ大学付属博物館を訪れていた。在イスラエル日本大使館の書記官から私の携帯電話に「小渕総理が倒れたが、鈴木特使、東郷局長は予定通りモスクワに向かうので、佐藤主任分析官も予定通りモスクワに向かうようにとの指示が本省から来た」との連絡があった。私は東京の鈴木氏に国際電話をかけた。
「総理の具合はいかがですか」
「俺にモスクワに行けというくらいだから、大丈夫だと思うよ。詳しくはモスクワで話す」
ちょっと引っかかる言い方だ。いずれにせよ私はモスクワに行くしか選択がない。モスクワには鈴木氏よりも数時間早く着いた。大使館で丹波大使らと話したが、小渕総理の容態は十分深刻で、再起不能ということだった。私は小渕総理に30回以上、ロシア情勢について説明したことがある。いくら説明しても自分で納得できるまでは、こう言うのだ。
「イヤ、あんたの言うことはわからねぇ。もう一度説明してくれ」
何度同じテーマについて、説明資料を作り替えて、説明し直したことであろうか。そして、小渕総理は納得すると、かなり複雑な外交案件を実にわかりやすく自分の言葉で説明し、最後に、「あんたの言いたかったことはこういうことか」と訊いてくる。
私が「はいその通りです」と答えるとそのテーマに関する説明は終わりである。こうして小渕総理はロシア問題のかなり細部まで情報と知識を得た上で、交渉に臨んだのである。
「イヤ、あんたの言うことはわからねぇ」
小渕総理の声が私の頭の中で何度も木霊(こだま)した。
小渕総理は、北方領土問題の解決にとても熱意をもっていただけに、たいへん残念だった。

プーチン大統領代行との会談では、鈴木氏に小渕氏の魂が乗り移っているようだった。
「この席に小渕さんが座っているように思う」とプーチン氏が言ったとき、鈴木氏の目から涙が流れた。プーチン氏は鈴木氏の瞳をじっと見つめていた。
この会談で、鈴木氏は、次期首相が森喜朗(よしろう)氏になることを明かし、4月29日前後にサンクトペテルブルグで日露首脳会談を行うことを提案した。プーチン氏は「その日には別の日程を入れてしまったが、調整して会談する」と答えた。
会談が終了し、日本側出席者が部屋を出る間際にプーチン氏が「ちょっと話がある」と鈴木氏を呼び止めた。
「実は、できればのお願いなのだが、5月にロシア正教会の最高指導者アレクシー二世が訪日するのだが、その際に天皇陛下に謁見できるように、鈴木さんの方で働きかけてもらえないか。もし、迷惑にならなければということでのお願いだ」
鈴木氏は「全力を尽くす」と約束した。
ロシア人は、信頼する人にしか「お願い」をしない。
鈴木氏はプーチン氏に気に入られたのだと私は感じた。

 


解説
その二日前の4月2日。私を含む日本代表団は、学会事務局の案内で、テルアビブ大学付属博物館を訪れていた。在イスラエル日本大使館の書記官から私の携帯電話に「小渕総理が倒れたが、鈴木特使、東郷局長は予定通りモスクワに向かうので、佐藤主任分析官も予定通りモスクワに向かうようにとの指示が本省から来た」との連絡があった。

小渕総理が脳梗塞で倒れたことはリアルタイムで知っていましたが、その時総理特使として鈴木宗男氏がロシアでプーチン大統領と面会してしていたのですね。
不思議な歴史の一面を垣間見る思いです。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その33

2025-02-24 01:00:23 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 ■小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


小渕総理からの質問

元旦の午前2時過ぎに鈴木氏から、「あんた、少し手はあいたか。これからこっち(自民党本部四階総務局長室)に来ないか」と電話があったので、外務省北口二階の通用門から外に出てタクシーを探したが見つからず、徒歩で自民党本部まで行った。
自民党本部四階には、総裁室、幹事長室、総務局長室、さらに新聞記者の部屋(「平河クラブ」)がある。
鈴木氏に新年の挨拶をし、エリツィン辞任について最新のニュースを伝えると、鈴木氏は、「小渕総理がいま官邸にいるので、佐藤さんから電話で直接説明してあげるといい」と言って、官邸に電話をつないだ。鈴木氏が「総理、いま外務省の佐藤さんが来ているので、ロシア情勢について説明してもらいます」と言って私に受話器を渡した。「あんたの資料は読んだぞ。早いな」
小渕氏は私の資料を読んでいた。私は簡潔にその後得た情報を話した。
「それで、プーチンになったら、日露関係は動くか。あんたはどう見ているか」
小渕氏の質問はいつも短いがいちばんのポイントを突いている。
「日本側から仕掛ければ動きます。ただし、もう少し、プーチンの性格を観察する必要があります。いずれにせよ3月の大統領選挙まではプーチンに外交に取り組む余裕はないでしょう」
「それまでは様子見ということだな」
「そうです」
「エリツィンが院政を敷く可能性はあるか」
「ありません」
「わかった。ロシア情勢については、細かいこともあんたはきちんと見ていてくれ。頼むぞ。それから鈴木にもロシアのことはきちんと教えてやってくれ」
「わかりました」
2000年は正月返上で連日出勤した。ロシア人はエリツィン政権に飽きていた。若いプーチン氏が後継指導者となることを歓迎する一方で、元KGBという経歴をもつプロの諜報機関員がロシア国家のトップとなることに対する危惧が、特にモスクワ出身のインテリに見られた。
私は、プーチン氏が90年代半ば、サンクトペテルブルグ副市長時代にイスラエル政府の招待で2回テルアビブを訪問していることを思い出した。イスラエルならばプーチンの人脈についてもよく押さえているだろう。私はゴロデツキー教授夫妻が日本にやって来た時に、この点について詳しく聞いてみたいと思った。
ゴロデツキー夫妻は1月末に、約1週間の日程で日本を訪れた。これは外務省の正式の決裁を経た招待だった。
この際、ロシア政局、特にプーチンとエリツィンの連続性と断絶性、今後の人事予想、チェチェン問題などについてゴロデツキー教授から興味深い話を聞くことができた。また、鈴木氏にもゴロデツキー夫妻と会ってもらい、人間的信頼関係を強めることができたのも大きな成果だった。もちろんこの席には東郷氏も同席した。
さらに、東郷氏は、ゴロデツキー夫妻、袴田教授、山内教授を赤坂のTBSビル地下のレストラン「ざくろ」に招き、国際学会についての打ち合わせを行った。
山内教授からは、ロシア・中東関係について業績のある立山良司防衛大学校教授、ロシアのユダヤ人問題について業績のある臼杵陽国立民族学博物館助教授をメンバーに加えたいとの提案があった。東郷局長は「それでいいでしょう」と答えた。さらに袴田教授が「今年はミレニウム(2000年祭)なので、1日余裕をつくって、エルサレムを是非見てみたい」と言うと、東郷氏は「是非、そうするといい」と上機嫌だった。
東郷氏は、この会食に同席した宇山秀樹ロシア支援室首席事務官に対してはっきりと「本件は支援室の方でよろしく頼む」と指示した。宇山氏も「わかりました。具体的な事務は前島君にやってもらいます」とこれを受けた。その後、国際学会派遣に向けての準備は淡々と進められていったのである。
袴田氏は、ゴロデツキー教授夫妻と人間的関係を深めることに腐心し、夫妻と私を含む外務省関係者を横浜市の自宅に招待した。袴田邸で昼食を終えた後、私たちはゴロデツキー夫妻を箱根に案内し、そこで2時間ほど休憩して温泉に入った。
外国人に日本のエキゾチズム(異国情緒)を伝えるには温泉が効果的なので、私はロシアやイスラエルからのお客さんを京都鞍馬の鉱泉や日光湯元の温泉によく案内した。後に東京地検特捜部は、このときゴロデツキー夫妻を箱根の温泉や京都に案内したことが「過剰接待」であるとして、私の刑事責任を追及するのである。

 


解説
「あんたの資料は読んだぞ。早いな」
小渕氏は私の資料を読んでいた。私は簡潔にその後得た情報を話した。
「それで、プーチンになったら、日露関係は動くか。あんたはどう見ているか」
小渕氏の質問はいつも短いがいちばんのポイントを突いている。

これを読んで、鈴木宗男氏と佐藤氏に対する小渕総理の信頼がいかに厚かったかが分かります。

 

獅子風蓮