獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

今年を振り返って:個人的にベストな記事は?

2024-12-31 01:27:43 | 日記

今年もあと1日でお終いですね。


振り返れば、よく頑張って毎日記事を書いたものだと思います。
自分を褒めてあげたいです。

その中で、自分の中でのベストの記事を選んでみました。

1月は、昨年に引き続き友岡さんの文章を拾い集めて読んでいます。

その後、沢木耕太郎『流星ひとつ』で、藤圭子へのインタビューを読みました。

並行して正木伸城さんの本を読みました。

2月になり、週刊誌の記事をきっかけに石橋湛山について勉強しました。

すっかり石橋湛山のファンになってしまいました。

7月になり、この記事をきっかけに、累犯障害者について勉強し始めました。

友岡雅弥さんの「地の塩」その32)累犯障がい者について……(2024-07-27)

それが、これからはじまる記事です。

『居場所を探して』を読む その1(2024-07-28)


この本を読み進めていくうちに、以前読んだ村木厚子さんの件と重なることが分かりました。

『居場所を探して』を読む その36(2024-11-27)

また、別のところ(獅子風蓮の青空ブログ)で連載している、累犯障害者の問題をクローズアップさせた山本譲司氏も、南高愛隣会理事長の田島良昭さんに影響を与えたことが分かりました。
かつての連載記事が、今回の連載記事につながっています。

不思議な縁を感じます。

   *  *

さて、創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えました。

そこで、こんな本を読みました。

佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」


佐藤氏は、批判者からは「左なのか右なのかよく分からない」と批判されています。

主要な日本の新聞では『朝日新聞』から『産経新聞』まで、左右を問わず多くの媒体に寄稿している。
左派系雑誌『週刊金曜日』には特に多く寄稿しており、同誌は佐藤の特設ページを設けている。左翼の一部からは、「国家主義者であり、ファシズムに親和的な佐藤を起用してよいのか」とする批判が『週刊金曜日』『世界』の読者から、佐藤を重用する左派誌に寄せられているという(『週刊金曜日』2009年5月29日号)。(Wikipediaより)

佐藤優氏は学生時代に左翼学生運動にも参加したようで、マルクス主義にも造詣が深いようです。
マルクスに関する著作も複数あります。
『私のマルクス』(文藝春秋、2007年12月。のち文春文庫、2010年11月)など。

また右翼の大物と言われた大川周明にシンパシーを持っていたことも分かります。

No.1  佐藤優『日米開戦の真実』を読む(その18)(2024-11-14)

この記事では、戦場での死を哲学的に正しいことであると主張し、多くの若者を戦場に送った田辺元京都大学教授の言説を肯定的に評価していたことに驚きました。

佐藤優氏は、言論界では「知の巨人」などともてはやされていますが、思い入れが強く、一度関心を持った対象には「内在的論理」を極めるとばかり、資料を読み込んで傾倒するきらいがあるようです。
私に言わせれば、「知の巨人」などではなく、「知のガラクタの寄せ集め」の方がぴったりきます。

佐藤氏が評価するのは、たまたまソ連あるいはロシアで知り合った政治家や学者、思想家、政治家・鈴木宗男氏、イスラエルとイスラエルの学者、創価学会に批判的な報道もするジャーナリストの池上彰氏など多彩です。

ある時期から、創価学会のシンパになり、もっぱら創価学会の主張の受け売りをするようになりました。
佐藤氏が嫌うのは、共産党と外務省(決別以後)といったところでしょうか。

とくに思想的な一貫性があるわけではなく、たまたま親しくなったり利害関係が一致した人たちに深くかかわって好きになっていくような印象があります。
しかし、一度傾倒すると、相手が失脚しても応援を続けます。
鈴木宗男氏が失脚したしたとたん手のひらを返すように氏を批判し始めた、外務省の役人たちとは正反対です。
そこは立派な態度だと思います。
しかし、鈴木宗男氏と一緒に、ウクライナに戦争をしかけたロシアの肩を持ったり、イスラエルのガザ侵攻では、イスラエルの肩を持って即時停戦に反対したり、主張に偏りを感じます。


そのような佐藤氏の思想の偏りをはっきりと見せてくれたので、上記の記事をもって、今年のベストとさせていただきます。

 

来年もよろしくお願いします。

良いお年を。


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その40)かまやつひろし

2024-12-30 01:28:55 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt64 - かまやつひろしさんのこと

2019年4月15日 投稿
友岡雅弥

 

2018年の末、ピンク・レディーが一日限りの再結成をして、みんなが驚きました。実は、ピンク・レディーには、 'Kiss in the Dark'という曲がありまして、 Michael Lloydという、とても有名なアメリカのソング・ライター&プロデューサーの手によるものです。

なんと、この曲は、ビルボードのヒット・チャートで、1979年9月、37位にまで登ったスマッシュヒットとなりました。

なんか、2年前か3年前だったか、PPAPとかが、チャートインしたとかいう話がありましたが、それよりもっと上位に行ったのですよ。

もちろん、1963年、全米No.1となったのが、坂本九(作曲・中村八大、作詞・永六輔)で、それ以来のチャート・イン。ちなみに、PPAPは、77位でした。

この3曲だけですね。 ホット100のチャート・イン曲は。


さてさて、ピンク・レディーですが、彼女たちのスカウト段階から解散まで、ディレクターとして支えてきたのが、飯田久彦さんです。

阿久悠・筒美京平のゴールデン・コンビ、アイドル・ポップスをつくらせれば、すべて大ヒットというゴールデン・コンビではなく、阿久悠・都倉俊一という未知のコンビにつくらせて、ピンクレディーに歌わせた飯田久彦さん。


それがずばり当たって、マンモスヒット連発となったわけですよね。

さてさて、この飯田久彦さんって、ご存知でしょうか?

ピンク・レディーのほかにも、いろんなタレントさんを発掘してますし、エイベックスの取締役だったり、テイチクの会長だったり、まあ、日本の音楽界を率いてきた人ですが、彼自身が、歌手だったんです。

1960年代の前半、「悲しき街角」「ルイジアナ・ママ」とかで、大ヒットを飛ばしました。


「悲しき街角」は、デル・シャノンの全米No.1ヒット、'Runaway'、また、「ルイジアナ・ママ」は、当時、米英で大人気だった(僕も大好きな)ジーン・ピットニーの歌です。


このころは、アメリカで流行した曲に日本の歌詞をつけた歌が、日本で大流行しました。

カバー・ポップスといいます。

例えば、こんな感じの歌です。

カバー・ポップスの夜明け THE BEGINNING OF JAPANESE COVER PO / (5枚組CD) TFC-2771-5-TEI


見ていただいたら分かりますが、この後、人気者となった歌手たちが、カバー・ポップス出身であることが分かります。


このカバー・ポップスが数年で、終焉を迎えるのです。そして、飯田久彦さんも、カバー・ポップスをやめていきます。


なぜ、終焉を迎えるかというと、作曲家の技量が上がり、曲も日本人が作った、「和製ポップス」が出来てきた。

ザ・ピーナッツのヒット曲がそうですね。


そうして、もう一つ、大きな流れがありました。


グループ・サウンズです。

自分たち自身が、イギリスのThe Rolling Stonesや The Beatlesなどに影響を受けて、それをコピーしてきた若者たちが、次々とデビューしてきたのです。

注目すべきは、ザ・タイガースと、かまやつひろしです。


ザ・タイガースは、グループ・サウンズで、最も人気があったバンドですが、とともに、彼らのライブ・アルバムを聴いてください。

Stonesメドレーとか、むちゃくちゃワイルドにしてるんです。


もう一つ、かまやつ・ひろしです。

彼の「ノーノー・ボーイ」や「フリフリ」を聴いてください。特に、ベルリンの壁で録音したライブ。


これ、グランジちゃうの、と思いますよ。


かまやつ・ひろしも、アメリカのソウル・ミュージックや、イギリスのStonesの音を吸収して、すごいところまで行ってたんです。


コピーや影響下にありましたが、そこから脱して、オリジナリティを持った楽曲を作ってたんだなぁと、今さらながら、かまやつ・ひろしの才能に舌を巻きますね。


とともに、かまやつさんやザ・タイガースなどが「窓」となって、世界の音楽へと、昔のほうが開かれていたのではないかなと思います。

J-Pop(しかも、それはこっそりと、欧米の音楽のパクリだったりする)で、自己完結しちゃって、それから外に広がらない今と比べて、どっちが豊かかな、と考えたりして。

 

 


解説

世代的に友岡さんは私より上なので、あまり話題についていけませんでした。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その39)私も穿いていましたグンゼのパンツ

2024-12-29 01:53:28 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt63 - グンゼの原点

2019年4月8日 投稿
友岡雅弥


グンゼの本社は、JR大阪駅の近くにありますが、「登記上」の「本店」は、京都府綾部にあります。「本店」という名称を使う会社は、「老舗企業」が多いですね。

ご多分に漏れず、まさに綾部にルーツを持つ老舗企業です。

もともとである本業の下着などの衣料製造では、もちろん有名ですが、今は、タッチパネルの材料などのIT分野、生体に吸収される縫合糸や人工真皮、人工硬膜などの医療分野や、植物などの生産販売を行ったりしてますね。

これらの分野は、広く海外展開もしていて、まあ、日本を代表するグローバル企業の一つです。

もともとは、京都府綾部が発祥の地というところからわかるように、生糸、絹織物が出発点でした。

1896年(明治29年)に、創業者である波多野鶴吉が、綾部に製糸工場を設立しました。

わずか、15年、1900年(明治33年)、パリ万博で、金牌を受賞、続いて1904(明治37年)、セントルイス万博で「最高賞牌」。


すごい技術です。


さて、なんで「グンゼ」なのか?


波多野鶴吉は、地元で小学校の教師をしていました。

家が貧しくて、学校にこれない子どもたちもたくさんいる、一人一人の状況をつぶさに見ても、来れている子どもたちにしろ、食うや食わず。

山の中なので、当時の米作技術では、安定した収入はえられない。当然、養蚕などに頼らざるを得ない。

でも、養蚕は、当時の日本の主要輸出産品なので、国内のあちこちで作られている。 富岡製糸場のように、国が経営している大規模製糸場には、家内零細工場では太刀打ちできない。


それで、波多野鶴吉は、経営の成り立つ仕事作りをしようと、蚕糸業組合をきちんと組織したり、技術の向上のための、養蚕伝習所を開校したり、さまざまに尽力し、そして、 グンゼを作ったのです。


さあ、当時、グンゼは、どういう名前だったのか?

「郡是製絲株式会」です。


「グンゼ」は、「郡是」 だったのです。

「国是」という言葉は、当時からよく使われました。

「国の方針」という意味です。

「国是」ではなく、また「県是」でもない。

「郡是」です。

ローカルです。

グローバリゼーションではなく、ローカリゼーションです。


彼は、工場で働く女性たちを、当時差別的な響きを持っていた「女工」と呼ばず、「工女」と呼びました、「皇女」にも「孝女」にも響きが似ています。

そして、「郡是女学校」を作ります。ただ、働かすために「女工」を雇うのではなく、工場は、人としての成長の場であり、そこで人材を作り、社会に輩出する、というのが、彼の目的だったのです。


即戦力の人材を雇い、使い捨て、というのとは、全然違います。

ちなみに、彼は、地域づくりのために、病院も作っています。


これが、「グンゼ」のルーツです。

 

 


解説

私は、結婚するまで母親の用意してくれた白いパンツを穿いていました。たしか、グンゼだったように思います。

グンゼのパンツ、なつかしいです。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その38)エエ加減な人が、エエ人やった

2024-12-28 01:38:13 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt62 - 規則を破る人のほうが温かかった その2    

2019年4月1日 投稿
友岡雅弥

 

ほんの20年ほど前まで、日本では「終生絶対強制隔離」政策がとられていたので、ハンセン病が治っても、出てこれませんでした。もちろん、「医学的根拠はない」のですから、医師によっては、退所が「黙認」されたり、例外的にいろんな場合がありますが、「もういいかい?」「(骨になっても)まあだだよ」と言われるように、亡くなっても、遺骨の引き取りを遺族が拒否して、療養所内の納骨堂に納められます。


薬ですぐに治る(無菌)病気なので、治ってから亡くなるまで、60年、70年と療養所で暮らさねばなりません。


これって、ものすごく退屈ですよね。

「贅沢な退屈」ではなく、人間関係も、何十年も同じ人たちですから、「人権侵害」 の「退屈さ」です。


健康なわけですよ。何もすることがない。だから、短歌を作ったり、小説を書いたり。陶芸に打ち込んだり。

作家として、ベストセラーを生んだ人もいます(今も岩波文庫に入ってます)。


でも、10代、20代がほとんど(今は、平均年齢が80歳を超えましたが)なので、やはり体を持て余すわけです。


それで、野球が盛んでした。

僕の知りあいの入所者さんも、投手でした(5年前に亡くなりましたが)。

そのかただけではなく、野球経験者のかたをたくさん知ってます。


そのかたたちから、うかがった話です。


園の職員さんたちと、お昼間に練習試合をするんです。園は、外部とかなり隔絶したところにあるので、園の職員さんたちも、昼間に、家に帰ったり、外食したりはできないので、わりと昼休み時間に「空き」があるのです。


和気あいあいと冗談を言いながら、練習試合をしている。

昼休み時間が終わりました。

ほとんどの職員さんたちは後片づけもせずに、事務棟に戻るんです。

ごく一部の職員さんたちは、入所者(病気は無菌で治っているので、患者ではないのです)の人たちと一緒に、後片づけをしてくれます。


なぜ、こんなことがあるかというと、

「職員は、入所者が触った物品を触ってはいけない」という規則があるからです。

日本の療養所で、ハンセン病になった職員さんは0です。

しかも、感染力微弱であるということは、職員さんたちの暗黙の了解です。

また、もう無菌であることは、周知です。


でも、規則で「職員は、入所者が触った物品を触ってはいけない」のです。


今まで、休み時間は、攻守交代で、同じグローブを使い回し、同じバットを利用してきた人たちが、休み時間が終わると、「職員規則に縛られた職員」に戻るのです。


逆に、そんなの平気で、仲間として、後片づけをしたり、話あったりしてくれたのは、「規則を守らん、エエ加減な人ばっかりやった」

「エエ加減な人が、エエ人やったっちゅう話や」

 

わりと、真実をついているエピソードだと思います。

 

 

 


解説
今まで、休み時間は、攻守交代で、同じグローブを使い回し、同じバットを利用してきた人たちが、休み時間が終わると、「職員規則に縛られた職員」に戻るのです。
逆に、そんなの平気で、仲間として、後片づけをしたり、話あったりしてくれたのは、「規則を守らん、エエ加減な人ばっかりやった」
「エエ加減な人が、エエ人やったっちゅう話や」
わりと、真実をついているエピソードだと思います。

なるほどな、と思いました。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その37)医療・福祉の効率化の弊害

2024-12-27 01:02:52 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt61 - 規則を破る人のほうが温かかった その1 

2019年3月25日 投稿
友岡雅弥

一応、日本にある、ハンセン病のための13の国立療養所と、三つの私立療養所は全部訪れたことがあります。

毎年というか、毎月行ってたところもあります。

いろんな理不尽なことも見てきましたが、小泉政権のときに、なんか雰囲気が変わったんですよね。それは一般病院でも一緒の流れです。


看護学のいい意味での「権威」のかたを何人か知ってるのですが、「患者」を「患者様」と呼ぶようになってから、日本の病院の雰囲気が変わったと異口同音に語っていらっしゃいました。これはハンセン病療養所の話ではなくてね。

でも、明確にその流れで、その方向に、ハンセン療養所も変わりました。


それは、小泉・竹中改革で、公的な行政サービス、また医療や福祉分野が、「サービス業」という観点で見られるようになったことです。


例えば、急性期病院に担ぎ込まれたら、そこでは急性期の治療が為されて、そして回復期病院へと送られる。救急車で担ぎ込まれて、そしてリハビリも終わり、そしてソーシャルワーカーさんが介入して家にかえって行く。とても、それぞれが専門化して、効率的になった。

でも、すべてのプロセスに、医療関係者はタッチできなくなった。急性期病院の医療関係者は、家に帰ってからの生活の心配はしなくてよくなった。

けれども、病気しかみなくなって、病人という、一人の人の、ある側面しか見なくなった。


それで、昔から続く、長野の佐久総合病院や、京都の早川一光さんや、岩手の沢内村の増田進ドクターなどの取り組みが見直されて、地域医療、総合医療の専門家を中心に、人の全体を看ていくという医療のありかたも模索されている、というのが、現状なんです。


でも、全体的に、そうではない方法。つまり、サービス業として、効率と経済性を優先する医療が、どんどん進んでいってる。


さて、それと並行して、ハンセン療養所の「介護サービス化」も進んできました。

ハンセン病療養所といっても、みんなハンセン病は治ってて、でも、故郷にはかえれない。そして、高齢化していく。

だから、みんな高齢で、要介護になるわけです。


さて、複数の療養所でうかがった話です。

その「介護サービス化」の流れのなかで、こんなびっくりすることが出てきたんです。


介護職員、スタッフは、「入所者と私的会話をしない」!


少年・少女の時代に、強制隔離されて、家族とも二度とあえないなかで、暮らした70年、80年ですよ。

誰かと話したいですよね。

今までは、普通にしゃべれた。

仕事終わってから、ごはん食べていきー、も可能だった。


でも、それは「療養所でのサービスの体系の中には入っていない」というわけです。


部屋の掃除に来ても、会話してはならないと言うわけです。

完全に禁止で罰則がある、ということではないかもしれませんが、それが、出来ない雰囲気があるんです。


そして、この流れは、僕らみたいに訪問する外来者にもなんとなく、 押し寄せてきました。


長年の知りあいの家に行くんですよ。

それが、「療養所の福祉課」を通せ、とか、とても、規則がやかましくなってきました。


「外部から、興味本位で来る人もいるから」

確かに、そうです。

それで規則が出来ていく。それは理屈は通ります。


でも、そのことで、20年、30年越しの友人、知りあいが、入所者のところに来れなくなるとすると、「入所者の立場」に立ったら、キツいですよね。

 


解説
その「介護サービス化」の流れのなかで、こんなびっくりすることが出てきたんです。
介護職員、スタッフは、「入所者と私的会話をしない」!

なんなんでしょう。
医療の合理化の美名のもとに医療と患者の間の温かい関係性が損なわれていくとは……

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮