素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

リベラルアーツ

2025年02月13日 | 日記
 昨日、取り上げた石井洋二郎さんへのインタビュー記事の中に「リベラルアーツ」という言葉があった。最近、横文字の言葉が使われることが多くなり翻訳機がこともほしいと思うことも多々ある。

 【・・・21世紀に求められるリベラルアーツだ。】とあっても「どういう意味だ?」となる。こういう時今の時代は便利だなと思う。検索してみると【幅広い分野を横断的に学ぶことで総合的な人間力を養う学問】とあった。総合学習がカリキュラムの中に入ってきた時によく聞かされたフレーズだ。9教科の枠を外したもので当時、担当者は四苦八苦していたな。と当時のことを思い起こしていたら「リベラルアーツ教育とは?」というものも検索の中にあり、興味深く読ませてもらった。i一読に値すると思った。

リベラルアーツ教育とは?メリット・デメリット、学ぶ内容も

最近よく「リベラルアーツ」が話題に上がるようになりました。しかし、具体的に何なのか、どんなメリットがあるのか、疑問に思っている人も多いでしょう。 リベラルアーツは...

Spaceship Earth(スペースシップ・アース)|SDGs・ESGの取り組み事例から私たちにできる情報をすべての人に提供するメディア

 
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VUCAの時代だからこそ

2025年02月12日 | 日記
 新聞の切り抜き記事をクリヤーホルダーに整理整頓する作業をやってよかった。切り抜いただけで読まずに埋もれていた記事を見つけ1か月遅れになったがゆっくり読むことができた。2025年1月9日(木)の夕刊に掲載された、東京大名誉教授・石井洋二郎さん(73)へのインタビュー記事である。

 自然災害が次々と牙をむき、大国のエゴがぶつかり合い、紛争がより拡大して戦乱の中人々の命がたやすく奪われている。AIをはじめ科学の進歩は目ざましいが、かえってそのことが社会の不安定と不穏に拍車をかける。

 と言っても命ある限り、この時代を生き抜いていかなければいけない。そのヒントをインタビュー記事にある石井さんの言葉からもらった。
開口一番「明日、何が起こるか分からない。今はVUCAの時代ですよね」 VUCA????いきなりDAI語?と思ったが、「DD=努力大事」「JSSK=上昇志向」「MKS=負ける気がしない」という軽い略語ではなく、元は軍事用語でVolatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取って、物事の不確実性が高く、将来の予想が困難なことを指す。

 続けてこう断じる。「四つの言葉は全部ネガティブな意味で使われますよね。でも、ネガティブに捉える必要はないと思うんです。変動するからこそ、人はものを考える。不確実だからこそ、考える。複雑だからこそ、考える。曖昧だからこそ、考える。今ほど、ものを考えることが重要な時代はないと思います」

 SNSの急速な拡大で、スマートフォン1つでさまざまな知識が引き出せる今こそ、考える姿勢が問われていると指摘する。「20世紀の教養が知識を獲得することならば、21世紀の教養は知識を使いこなすこと。疑問を持って問題を考える。さまざまな情報を自分の頭で整理し、問題の解決につなげていく。その力が問われている」
 石井さんは人間には四つの限界があり、これらの限界から自分を解き放つことが21世紀に求められるとも。「考えることができる。それはAI(人工知能)にない、人間のつよみです。人間にある四つの限界の一つ目は知識の限界。人間が知っていることには限りがある。二つ目に経験の限界。自分で経験しないと分からないことがいっぱいある。三つめが思考の限界。ネット社会では人の考えたことを自分が考えたかのように錯覚してしまうことが多い。四つ目が視野の限界。見えているものには限りがある」だからいつも物事に疑問を持ち続け、知らないことを知りたいと思う。今の自分に満足しない・・・。こうした積み重ねによって限界は見えてくるし、乗り越えるべき壁も現れるのだという。

 私も時々、社会や政治に諦めの気持ちを抱いてしまうのだが石井さんも「どうせ変わらない。言ってもしょうがないという空気はものすごくある」と認めたうえでそれではだめだと言う。「一人一人の諦めが積み重なると、集団的な諦めになって何も変わらない。何もかもが不確かであるがこそ、まずは過去の人が何を考えてきたかを書物などを通して知ってほしい。自分が関心のないことにも好奇心を持って触れてほしい。もちろん選挙にも行ってほしい。民主主義は与えられるものではなく、自分たちの手で作るもの、勝ち取るものです。社会をよくするにはどうすべきかを考え、行動してほしい。そして、世界に広く目を向けてほしい。なぜ、至る所で今なお無意味な破壊と殺りくが繰り返されるのか。世界で日本が果たすべき使命は何かを考えてほしい」

 YESかNOの結論を急がず、その間で迷ったりためらったりしながら粘り強く考えていくしかないな。と腰が据わり、背筋が伸びた。

 
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巳年の年賀状③

2025年02月11日 | 日記
 偶然目の前に現れた2013年(平成25年)「巳年の年賀状」のホルダーの中に父からの年賀状があった。父は平成29年2月6日午後7時10分に永眠したので不思議なことではないが、タイムカプセルを開けたようで懐かしさが蘇ってきた。
 この年賀状は私が作ったものである。70歳〈古希)を機に、父は地域の絵画教室で油絵を始めた。さらに、NHK学園の受講生となりスケッチ旅行などに参加しゴルフとともに老後の大きな楽しみとなった。自分の作品に自信がもてるようになった頃に、自分の作品を年賀状に使うことを思いついた。最初の頃は、弟が父の年賀状作りを請け負っていたが、まだ仕事を持っていたので父からのこまごました要望に応えて忙しい時期に年賀状作りをするのが大変だとギブアップ宣言をした。困った父は、退職をしている私に「できるか?」と言ってきた。この「できるか?」は「やってくれ!」の裏返し、断る余地はないと覚悟し引き受けた。

 パソコンの操作に拙かった私にとって父の細かい注文に応えるのは大変だった。弟から聞いてはいたが色合いへのこだわりは強かった。自分の原画とスキャンして印刷されたハガキとでは微妙に異なるのは当たり前だが「よし!」が出るまでの調整は難儀した。弟だと車で40分弱で実家に行くことができたが私の場合は3時間30分はかかるので郵便と電話でのやり取りとなり大変だった。字の大きさや位置、色の濃淡など懐かしく思い出された。この巳年の年賀状のスケッチ画はちちにとっては十数年続けてきた油絵の集大成のようなものである。

 このスケッチ画をもとに描いた作品「志摩の海岸」が平成24年の秋にあった『第20回NHK学園生涯学習美術展』の油絵部門で【審査員特別賞】に輝いたからである。
 翌年の年賀状に「年賀状じまい」を入れた記憶がある。

 三重県退職校長会発行の「いきがい」(近況報告)の平成25年には次のように寄稿していた。

 昨年夏頃から足が痺れて歩行まゝならず脊柱管狭窄症と診断された。し    ・新歌舞伎座が開業
かし、手術は術後のリスクを考え断念した。以後整形に通院、リハビリが    ・テレビ放送開始60年
日課。気が向けば絵筆を取り、読書三昧と気儘な日々を過ごしている。      ・富士山世界文化遺産登録
 “いきがい”投稿の矢先、伊勢市在住の同級生T君の訃報を知った。毎      ・楽天球団、初の日本一
年心に残る彼の記事を読む楽しみがなくなり心淋しく哀情の念に堪えない。    ・今年の漢字は「輪」
                        合掌(平成25年・第31号)


 この時父は89歳。と考えると12年後の「巳年の年賀状」までは続けねばならないなと思い直した。『日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ』の気概で過ごしていくとするか。で「巳年の年賀状」は一件落着。
 
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巳年の年賀状②

2025年02月10日 | 日記
 何年かおきに押し寄せてくる整理整頓の気持ちがMaxになった3回のことを枕のつもりで書き始めたら結構長くなってしまった。本題は昨年12月から新年にかけて4回目の片づけ波が押し寄せたことである。きっかけはパソコンの買い替えである。より快適な環境でパソコンが使えるように前回の片づけで中途半端に残してしまった部分に手を付ける気力が湧いてきたのである。Maxになってやり始めてもいつも7割がた片付けると潮が引くように気持ちが冷め中途半端なまま時を過ごしてしまう。今回も約5年のブランクとなった。

 机、本棚の配置替えから始まり、本や資料の整理をしてスッキリとなった。そこで、輪ゴムでまとめて保管することの多い年賀はがきを巳年の今年はPostcard Holderできちんと管理しようと100均で専用ファイルを購入。最後に残ったのが新聞の切り抜き記事。面白いと思った記事を切り抜いて身近なところに置いているのだが知らぬ間に結構たまってくる。それらが雑然と置かれているので読み返すのに苦労する。「何とかしないといけない」と思いつつそのままにしていた。

 いろいろな保管の仕方をやってみたが、巳年の年賀状と同じようにクリヤーホルダーに入れていくことに落ち着いた。仕事をしている時もクリヤーホルダーはよく使っていたので中身を抜いたいろいろなタイプを段ボールに入れて置いてあった。新聞の切り抜きは意外と大きいサイズなのでA4サイズ用より大きいものが使いやすい。そうなるとあまり多くはない。大きそうなものを4冊ほど抜き出した。

 その中に「開けてビックリ玉手箱Σ(゚Д゚)」ごとき1冊があった。中身はないと思っていたが、古い年賀状が実に几帳面に保管されていたのである。「エ~こんなことをしたこともあったのだ」と自画自賛ではないが、自分に自分が驚いた。という始末。
 しかも、その年賀状は一回り前の「巳年の年賀状」であることに驚きが増幅。12年に1回年賀状をきちんと保管したくなるのかと今度は苦笑い。しかし、背表紙を見ると【平成二十三年 年賀状】とありウサギのイラストが描いてある。察するに自分の干支の年に張り切って買ったものの卯・辰とほったらかしにしておいて、平成25年の巳年になってやっと活用したということだろう。

 ひょんなことで2013年と2025年のの年賀状を見比べることとなった。郵便料金が50円から85円と値上がりを再実感。年賀状を交換している人は亡くなったり、諸事情で途切れたりして減るだけで新しく加わった方はいない。12年のタイムトラベルをしたみたいで一人ひとりの変遷に感慨深いものがあった。

 こうなれば、たまたまクリヤーホルダーにきちんと整理された「巳年の年賀状」はそのまま、今度は忘れないように目につく場所に保管しておこうと決めた。しかし、「次の巳年の年賀状は?」と考えると、生きていたら86歳。「う~ん」とうなる。
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巳年の年賀状①

2025年02月09日 | 日記
 私は生来のめんどくさがり屋で整理整頓が苦手だった。と言っても「これではいけない」といつ几帳面に整理整頓ができている人にあこがれていた。「これではいけない」と思うだけの日が重なっていき沸点に達した時、突然整理整頓が始まる。地震発生のメカニズムと同じでその時を予測することはできない。

 振り返ってみると、思い切り整理整頓をしたというのが3回ある。「これではいけない」という思いの。エネルギーがマックス近くになっていた時に1つの出来事がきっかけとなるのだが、1回目は、ダイオキシン問題で学校の焼却炉が使用できなくなるという事態になった時である。

 ダイオキシン問題は、1980年代から認識され、90年代に入り関連報道が急増した。日本人の母乳中のダイオキシン濃度が高いという報告(91年)、竜ヶ崎のゴミ焼却炉周辺住民の血中濃度が高いという報告(96年)、埼玉県の焼却炉密集地域で新生児死亡率が高いという報道(97年)、所沢の野菜汚染(99年)などがある。報道による「ダイオキシン問題=ごみ焼却炉問題」という固定概念の形成が起き、1999年に「ダイオキシン類対策特別措置法」が成立した。

 ちょうど私が50歳を目前にしていた時である。その頃、職場には同年代の人がいなくて、40前後の方と一緒に仕事をしていた。普段は年齢のことなど意識することはなかったが、ふとした瞬間に世代間ギャップのようなものを感じ孤独感に襲われた。50歳はベテランという域の入口の年齢、60歳を定年退職と考えればこれからの10年今までと同じような心持ちではいけない。という思いが積み重なってきた。これまでの自分の中にあったしがらみを断ち切って新たな気持ちで一歩踏み出すために整理整頓を始めた。その中でこの世から消してしまおうと思ったのが高校時代から書き始めて、浪人、大学時代を経て結婚するまで書いてきた日記である。他に手紙などもろもろのものを使えなくなる前に学校の焼却炉で焼いた。燃えていく日記を見ていて気持ちが軽くなっていくような気がした。

 2回目は退職の時。この時は旧校舎を取り壊し運動場に仮設の校舎をつくり、新校舎を建設するという大きな事業が控えていた。事情が許されるなら1年生で迎えた生徒と3年間一緒に歩んで見送りたい。というのが私の一貫した願いであった。「入学から卒業までの3年間1本勝負」である。自分の教師生活の最後の1本勝負になる生徒達を迎えた時、卒業まで歩んだとしたら私は58歳。残り2年間を新校舎建築という中で過ごすことに生きがいを見いだせなかったので早期退職を学校長に予告した。
 旧校舎を解体するときに不要物も一緒に処理するため、それらを集積するための空き教室が用意された。そこに長年使ってきた資料やプリント類などすべてを運び込んで家に持ち帰ることなくきれいさっぱり処分できた。

 3回目は、一人暮らしをしている85歳になられた方の家の片づけを手伝った時。いろいろな活動を積極的にリードされてきて蔵書の数が半端でなかった。また、筆まめな方でプリント類も山積みされていた。数年前に亡くなった旦那さんが大学の教授(経済学)だったのでその方以上に蔵書があり、空き部屋はすべて本とプリント類で埋まっていた。半年ほど定期的に通って整理整頓を手伝ってる中で「他人事ではないぞ!自分が持ち続けてきた本もなんとかしないと」という思いでいっぱいになり、8割がたの本を処分した。

 巳年を迎えるにあたって4回目の整理整頓の波が私の中に押し寄せてきたことを書こうと思ったが前置きにずいぶんエネルギーを使ってしまったので続きは後日に。
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