素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

W杯・アディショナルタイムの攻防が激しい

2014年06月30日 | 日記
 W杯・ブラジル大会も決勝トーナメントに入り、一発勝負の厳しさの中、熱戦が繰り広げられている。アディショナルタイムに入ってからの際どい勝負が多い。このアディショナル(additional)タイム(=追加の時間)という言葉は私にはなじみが薄い。長年使ってきたロスタイムという和製英語が口に出てしまう。日本サッカー協会の審判委員会がロスタイムからアディショナルタイムに正式に変更したのが2010年7月16日だからいたしかたない。今大会を契機に頭の中をロスからアディショナルに変換する努力をしている。決勝戦あたりになれば定着するだろう。

 この時間帯は天国と地獄の分かれ目である。

 日本で言えば、「ドーハーの悲劇」が一番印象に残っている。1993年10月28日にカタールのドーハのアルアリ・スタジアムで行われた日本とイラクの1994年アメリカW杯・アジア地区最終予選の最終戦で試合終了間際のアディショナルタイム(90分20秒)にイラク代表の同点ゴールが入り、日本のW杯初出場を逃した試合である。

 20年以上経過しているので試合全体のことは記憶していないが、2つのなぜ?だけは頭に残っている。1つは、自陣の右サイドの深い位置でボールを奪ったラモスが大きくクリアするだろうと思った瞬間、つなぎのプレーをしかけ相手にボールを奪われたプレーである。リードしているこの時間帯になぜ安全なプレーを選択しないのだと声を出した。このことがイラクに最後のコーナーキックを与えることになった。2つ目は、イラクのショートコーナーの選択。時間がないのになぜ?と思い、ラッキーと喜んだのも束の間すぐ後に悪夢が待っていた。後の証言から、コナーキックをおこなった選手は、時間のことは頭からとんでいて、センターリングをした選手はミスキックであったということがわかった。(-)×(-)が+になるように、2つのミスが掛け合わされて同点ゴールが生まれたわけである。

 それ以来、「最後の最後まで何があるかわからない。」ということと「ミスを恐れない。ミスもチャンスの芽となる。」という2つのことは自分がサッカーを指導する時の大きな柱となった。

 私は試合中は「あと何分」という情報を与えないことにしている。時間の感覚は練習の時に体にしみこませておかないといけない。だから練習中、紅白試合ではあと何分コールは頻繁にする。最後の最後で力を発揮するためには、時間にとらわれてはいけないのである。水泳の北島選手がゴールする時には1m先にゴールがあるとイメージしてフィニッシュすると言っていたのと同じで、最後の最後に力を発揮するためには集中して、力を抜かないことである。人間の心理というのはまことに微妙なものである。

 野球でも応援のつもりの「あと一人」とか「あと一球」コールがかえって投手を狂わすというシーンを何度も見た。

 内心イライラしても悠然と構えるのも監督の仕事ではないかと思う。早朝から勝負の綾を楽しむ毎日となっている。ブラジルとの時差の加減は私にとってはありがたい。
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朝井まかて『先生のお庭番』(徳間文庫)これまた一気読み。

2014年06月29日 | 日記
 まかてワールードへの旅。2回目は『先生のお庭番』である。「先生」とは幕末に日本を騒がせた「シーボルト」、「お庭番」とは忍びにあらず、出島のシーボルトの薬草園の園丁の「熊吉」。この二人の4年間にわたる関わり合いを通じて幕末日本の断面を描いている。

 この小説の魅力は、単に史実を追っているのではなく、そこに生きる職人、商人など歴史の表舞台に登場しない人間模様を巧みにからませている点である。明治以降の近代化の中で失くしていったものを思い出されるメッセージがこめられているように思う。付せんをつけたら5枚になった。それらを紹介してしまうと小説のエキスが失われるので一読を勧める。
 シーボルト事件もさることながら、シーボルトとアジサイの関わりも見逃すことができないものがある。『花競べ』同様、たくさんの草、木、花が登場するが、アジサイが主役になるのは自然の成り行きである。Wikipediaのアジサイのサイトの中にある 《シーボルトとあじさいと牧野富太郎》 の内容も小説の大きな柱となっている。
 
 鎖国時代に長崎にオランダ商館員の一員として日本に渡来し、オランダ人と偽って出島に滞在し医療と博物学的研究に従事したドイツ人医師にして博物学者シーボルトは、オランダに帰還してから植物学者のツッカリニと共著で『日本植物誌』を著した際にアジサイ属 14 種を新種記載している。その中で花序全体が装飾花になる園芸品種のアジサイを Hydrangea otaksa Siebold et Zuccarini と命名している。しかしこれはすでにカール・ツンベルクによって記載されていた H. macrophylla (Thunberg) Seringe var. macrophylla のシノニム(同一種)とみなされ、植物学上有効名ではない。にもかかわらず、牧野富太郎が自著の各種植物図鑑において Hydrangea macrophylla Seringe var. otaksa Makino の学名を用い種の記載者が Seringe で変種の記載者が牧野自身であるとする事実と異なる処置を行っていることから、一部の植物学書であたかも H. otaksa が植物学的な有効名であるかのような誤解が広まってしまっている。

 牧野は上記の植物学的に不可解な処置と矛盾する言動をまた、著書の中で行っている。シーボルトは自著の中で otaksa をアジサイが日本で「オタクサ」と呼ばれていると命名の由来を説明しているが、牧野は日本国内でこの呼称が確認できなかったことからシーボルトの愛妾の楠本滝(お滝さん)の名を潜ませたと推測し、美しい花に花柳界の女性の名をつけたとして強く非難している。そして自らも新種の笹に自らの妻の名から「スエコザサ」と名付けた。

 牧野のこの推測によって「オタクサ」の名はシーボルトとお滝さんのロマンスをイメージさせて文人作家の創作意欲を刺激し、詩歌にこの名を詠み込むことなどが盛んに行われている。


 ちょっと梅雨らしい気候となったので弱っていたアジサイが元気を取り戻している。2日間で読み切ったのだが、読後、我が家のアジサイがまた違って見えるから不思議である。これが小説の力というものだろうか。

この後の「まかてワールド」の旅程は「すかたん」から「ちゃんちゃら」「ぬけまいる」と進み、今年1月に第150回直木賞を受賞した『恋歌』をと決めている。
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長田 弘さんの「最初の質問」と出会う

2014年06月28日 | 日記
 朝刊のオピニオン欄の『柳田邦男の深呼吸』では、 〔政治と言葉〕レベルの低さ脱却をというタイトルで、政治と言葉についての意見が書かれていた。

 その冒頭に、詩人・長田弘さんの詩「最初の質問」の最初の一行「今日あなたは空をみあげましたか」と締めくくりの二行「時代は言葉をないがしろにしている。 /あなたは言葉を信じていますか。」を取りあげ、この詩は読む者の内面において、感性や思考が枯れ果てていないかを、鋭く問いかけてくる詩であると柳田さんは述べ、詩人が予言的に露出させた、時代がはらむ危機の様相について都議会のやじをめぐる問題、原発、憲法改正をめぐる高市自民党政調会長や麻生副総理、石原環境相の発言などの具体例を引きながら述べている。

 政治家の使う言葉の「軽さ」と「荒さ」が気になっている私には同感することが多かった。

 そして、「最初の質問」という詩を全部読んでみたいと思い検索した。日常の忙しさに埋没してしまいそうになる時、高見に連れて行って、深呼吸をさせてくれる問いかけだなと感じた。今は幸いにも時間に追いかけられる生活からぬけているので私自身は季節のうつろいや草木の生命力に心を動かされ、人間が営々と築き上げてきた歴史や文化に深く感じ入る日々を送ることができている。

 長田弘さんの作品にもっとふれてみたいなという気持ちにもなり、詩集とエッセイを注文した。

再初の質問 
  
  今日あなたは空を見上げましたか。
  空は遠かったですか、近かったですか。
  雲はどんな形をしていましたか。
  風はどんなにおいがしましたか。
  あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか。
  「ありがとう」という言葉を今日口にしましたか。

  窓の向こう、道の向こうに、何が見えますか。
  雨の滴をいっぱいためたクモの巣を見たことがありますか。
  樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、立ち止まったことがありますか。
  街路樹の木の名前を知っていますか。
  樹木を友人だと考えたことがありますか。

  この前、川を見つめたのはいつでしたか。
  砂の上に座ったのは、草の上に座ったのはいつでしたか。
  「美しい」と、あなたがためらわず言えるものは何ですか。
  好きな花を七つ、挙げられますか。
  あなたにとって「わたしたち」というのは、だれですか。

  夜明け前に鳴き交わす鳥の声を聴いたことがありますか。
  ゆっくりと暮れていく西の空に祈ったことがありますか。
  何歳の時の自分が好きですか。
  上手に年を取ることができると思いますか。
  世界という言葉で、まず思い描く風景はどんな風景ですか。

  今あなたがいる場所で、耳を澄ますと、何が聞こえますか。
  沈黙はどんな音がしますか。
  じっと目をつぶる。すると何が見えてきますか。
  問いと答えと、今あなたにとって必要なのはどっちですか。
  これだけはしないと心に決めていることがありますか。

  いちばんしたいことは何ですか。
  人生の材料は何だと思いますか。
  あなたにとって、あるいはあなたの知らない人々にとって、
  幸福って何だと思いますか。
  
  時代は言葉をないがしろにしている。
  あなたは言葉を信じていますか。
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外走りにちょうど良い天気

2014年06月27日 | 日記
 6月、雨が少なく梅雨らしくないという声をよく聞く。ある人なんか5月に夏日や真夏日が多くあったりしたのでこれから本格的な夏に向かうという気がしないとロッカールームでぼやいていた。普通だとムシムシした長雨の中で「これが明けたら夏本番だ!」という気持ちになるという。「年寄りは、この″気”がないと暑さを乗り切れないのに、今の私は秋が来るという錯覚に陥っている。覚悟がない所に暑さに襲われたらたまりませんで」「そうでんな。迎え撃つ気持ちが免疫力につながりまっせ」と応じる人もいる。何となく気持ちはわかる。

 6月末に走る距離を延ばしてみたいと思っていた私にとっては、曇り空でほど良い湿り気と風が吹いている今日の天気は好都合。いつもの寝屋川公園往復コースの10kmに4kmの周回コースをプラスして14kmや18kmにチャレンジできる条件である。10km以上の距離は10か月ぐらい走っていないので1㌔7分ぐらいのイーブンペースでどこまで行けるか身体と相談しながら走ることにした。最低でも14km。いけそうだったら18kmと2段構えでスタートした。

 4kmの周回コースを2周したところで無理をすればあと1周して18kmまで延ばせそうだったが、余力を残してきっちり完走したほうが良いと考え14kmを走り切るということを目標にして帰路に入った。今週のトレーニング疲れもあり足の方は重かったが、思いの外粘り強く最後までしっかり動いていた。

 1時間56分36秒でゴールした。ゆったりペースであっても2時間近く走り続けることができた。ということは今の私にとっては意味のあることである。帰路で下校途中の小学生に出会った。低学年グループだが、必ず伴走してくれる子があらわれる。今日も一人50mほど走ってくれた。これ以上は無理となったら「おじちゃんがんばって」と言って見送ってくれた。いい気分転換になる。別の子は汗で濡れて色の変ったジャージを見て「おもらししてるみたい」とつぶやき、別の子が「そんなこというなよ」とたしなめてくれた。可愛い会話である。

 都議会のヤジ騒動でも「そんなこというなよ」という声がすぐ上がれば救われたのにと思った。

 W杯の1次リーグ、アジア勢は3分9敗に終わった。日本がいち早くアジア予選を突破したことを考えればありうる話。悲観し過ぎることはないと思う。今大会4得点をあげているメッシでさえ前2大会では活躍できず散々叩かれたのである。W杯の舞台を何度も経験する中で培われてくるものがある。代表引退なんて口にすべきではない。代表はあくまでも選ばれるもの。プロならばひたむきにサッカーをして自分を磨けば良いと思う。選ばれる選ばれないにはさまざまな要素がからむ。そういうことに大きな価値基準を持っていると伸びないような気がする。
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中学校教諭の苛酷な勤務実態、今さら何をと言いたい

2014年06月26日 | 日記
今日の朝刊のトップは、経済協力開発機構(OECD)の日本を含む34ヵ国・地域の中学校教諭の勤務状況に関する調査結果についてだった。
 結果については「今さら何を驚いている?!」というのが率直な感想である。1ヵ国・地域当たり中学校約200校を無作為抽出し、各校から教員・校長約20人が、勤務状況や学級の環境、仕事への満足感といった内容の質問紙に1時間程度かけて回答したものであるから全数調査をすれば、もっと苛酷な勤務実態が出ると推察する。

 仕事への満足感とか自己評価についての調査結果は客観的な基準がないので参考程度にとどめておけばよい。問題は勤務時間である。週53.9時間、1日あたりざっと10時間半は、7年前の文科省の調査の10時間36分とほとんど同じ。改善されていないということである。

 いじめ問題や体罰問題が俎上に上がった時、現象面の論議だけではなく勤務状況を含めた教育活動の土壌まで掘り下げて論議し改善をはからなければいけないと思ってきた。表面的な解決策では、教員の仕事量のみ増えて悪循環を断ち切ることはできない。

 また、テストの作成、採点などは持ち帰って家庭で行なうことも多い。これらは勤務時間に反映されていないように思う。文科省や各都道府県教委はコンピューターによる校務のシステム化で負担軽減を図っているというが、現場の人の声を聞くと、情報管理の観点でしばりが多く負担増になっている側面もあるという。「教員の数を増やしてほしい」というのが切実な願いだろう。

 増員の要求は財務省にはね返されているみたいだが、財務省の主張「児童生徒当たりの教員数は増えている」は数字上ではその通りであろう。「やたらに人は多いんですよ」とは最近よく聞く。しかし、講師や非常勤の数が増えているに過ぎず、継続的な学校運営において困難を生じているというのが実態である。

 授業時間ゼロしばりの教諭を学校に多く配置しても意味がない。教員定数の算出を考え直し、総数として正規の教員数を増やし、活用方法は学校に任せるという懐の深さが必要だと思う。そこに、真の学校長のマネジメント力が活かされるのではないか。規制が多すぎるように思う。

 行政側に就いた人からよく聞くのは費用対効果である。自身が現場にいた時は、その分析の難しさはわかっていただろうにと思ってしまう。数値化できないものが多いのが教育活動であるということをしっかりふまえるべきである。

 真っ先にすべきは青少年のスポーツ活動を学校の部活動に委ねるという長く続いてきた悪習を断ち切ることを真剣に考えることである。ここが変らないとオリンピックやワールドカップの選手育成うんぬんの議論はむなしいものがある。水泳の世界はかなり学校と離れていて、成果も出している。

 なでしこジャパンの活躍の一方で、中学校になると、道が閉ざされる女子サッカーの問題もクローズアップされるべきだろう。洗い出せばさまざまな矛盾が存在する。

 水戸黄門の印籠みたいに民営化がよく叫ばれるが、クラブ活動の部分こそ民営化すべきではないだろうか?

 

 

 

 

 
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