素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

シュウカツはシュウカツでもシユウ違い

2013年08月31日 | 日記
 ジムで、隣の人がいきなり切りだした。「この間、シュウカツに行って来ましたんや」主語抜きの突然話。本人は頭の中で筋はあるのでわかっているが、心の準備もなく聞かされた方は返答にとまどう。こういう会話がめっきり増えてきた。とりあえず「お子さんがですか?」と主語の確定に。「ちがうちがう、私が行ってきました」その時の私の頭の中は≪シュウカツ=就活≫であったので、おそらく私より2歳ほど上、優雅な年金生活と思っていたのに就活とは!?と考え、どうしたものかと言葉がでなかった。

 「同じくらいの人がたくさん来てましたわ。面白かったですよ。一度行ってみたらどうですか」とすすめられたので「私は働く気はありませんから」と返答。「働くシュウカツとは違いまっせ。人生の終点。終わりのシュウカツ(=終活)」もう紛らわしいである。聞けばブームになりつつあるということ。墓の選定やら遺影、葬儀の方法などを自分で決めるためのイベントが開催されているらしい。案内をもらって出かけたそうだ。

 しめっぽなくみんな遠足にでも出かけるような浮き浮きした気分がいっぱいだっと言う。棺桶にも入ってきたみたいである。私のように背が高いと大変やなと同情してくれた。自分の死後もめてほしくないというのとまわりに迷惑をかけたくないという気持ちが強いみたいである。

 終活を就活と思ってしまったとお互い大笑いした後、近頃は何にでも『活』をつけるという話となる。『婚活』も大変みたいだというとその前に『恋活』もあるという。1か月に2~3分能動的に涙を流す『涙活』とやらも。「最近、涙流すことなくなりましたな」と同意を求められ、今週「てっぱん」で涙流しているとも言えず「枯れてきましたな」と言葉を濁す。「潤いを取り返す『潤活』せなあきませんな」と横手から声が。「潤滑油さしておきなはれ」とまた別の人。

 我々の世代がするのが『リタ活』!?「なんにでも活をつけて、もっと自然体でやれんのかいな。喝!」でこの話お開きとなった。後は黙々とトレーニングに励む。これは何活???

 8月も終わった。少しホッとする。
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戸隠そば

2013年08月30日 | 日記
 ‟戸隠そば”と銘打っている店は少ない。車で10分弱のところに「竹屋」という店があり、プラス100円すると十割そばで戸隠そばを食べることができる。1か月に1度ぐらいの割合で無性に食べたくなる。20席余りの小さな店だが店主のこだわりが伝わってくる。いつも野菜天ざると決めている。

 戸隠は大学時代に夏のキャンプでよく訪れた。大阪で働くようになった時に修学旅行で何度も来ることになるとは思いもよらなかった。就職して10数年はずっと戸隠のペンションに連泊しての修学旅行であった。飯縄山登山の後に必ず戸隠そばの店に寄ってから宿舎に帰るという行程だったので、戸隠そばは格別の味として記憶に残っている。

 台風15号接近の影響で風はあるが、とても蒸し暑い。こういう時はざるそばに限る。昼時をはずして遅く行ったが、満員で少し待たなければならなかった。

 この待ち時間のために帰りは雨雲との久々の競争をするはめになった。店に入るまでは青空も見えていたが、出た時は「一天にわかに掻き曇り!」というセリフがピッタリの空模様となり必死で自転車を走らせた。

 予報では夕方から降りだすとなっていたので油断をしていた。洗濯物と2階の窓を開けたままだったのでこの風の強さだと悲惨な状況になることは目に見えていた。最後ののぼり坂でポツリポツリと落ちてきたが本降りになる前に何とか家に到着。

 16時から予定していたMさんとのテニスも中止。かわりに自転車でしっかり汗を出すことができた。

 イギリスがシリアへの軍事介入を議会で否決されたため断念したというニュースにはちょっと感動した。
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シリア情勢緊迫&「68年後の証言・奈良の戦争体験」

2013年08月29日 | 日記
 アサド政権側が化学兵器を使って市民多数を殺傷したと判断したアメリカは、イギリス、フランスなどと協力してシリアへの限定的攻撃に踏み切る構えを強めている。国連調査団が現地調査を続けていて結論が出ていないにも関わらず、「疑う余地はない」と独断している。10年前のイラク戦争の時の存在しなかった大量破壊兵器のことは忘れたのだろうかと素朴な疑問。急ぐ必要があるのだろうか。

 湾岸、コソボ、アフガニスタン、イラク、リビアなどここ20年武力介入の度合いが多くなってきた。それによって中東は安定に向かっているかといえば???である。もう1つさかのぼればベトナム戦争、それぞれに大義は掲げられたが大量破壊という事実は同じ。世界の盟主アメリカであり続けるための力の誇示に過ぎないのでは?とかさまざまな思いが湧いてくる。

 やりきれない気持ちで新聞をめくっていくと10面のオピニオンで「記者の目」の見出し〈『不条理』に耳傾けたい〉という奈良支局の宮本祥平さんの書かれたものに目が行った。

 今年の夏は終戦間際に日本各地が襲われた米軍による空襲についての話を見聞する機会が多かった。神社仏閣など文化財の多い奈良はなかったのだろうと勝手に思い込んでいたが、宮本さんの取材で例外ではなかったということを知った。氏の取材によれば1945年6月1日から終戦前日の8月14日まで、奈良県内各地で、焼夷弾の投下や機銃掃射などが十数回あったという。約30人から話を聴き、証言を整理し、資料を読み込んで「68年後の証言・奈良の戦争体験」という連載を、空襲があったのと同じ日に毎日新聞奈良版で全15回掲載した。(クリック)⇒68年後の証言・奈良の戦争体験全15回

 宮本さんも言っているように、「どうして」という疑問には答えは出ない。「戦争だから」と言ってしまえば身も蓋もない。ただ、戦争の持つ不条理さ、理不尽さだけは心に刻まれた。

 過去の終わった話ではなく、現在にも続いていることを地道な取材で掘り起こしてくれた。ペンの力だと思う。

  
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『埋め火を熾こす』

2013年08月28日 | 日記
 案の定、朝刊では「全国学力テスト」の結果について大きく取り上げられている。都道府県別の平均値が表にされ、上位、下位各5位の都道府県がクローズアップされ、まるで全国都道府県別駅伝競走みたいな様相を呈している。もう直接には関係のない世界のことではあるが、いまだ看過できず心に違和感が湧いてくる。

 こういう時はいつも、村井実さんの本を読み心のバランスをとることにしている。今日は『教育におけるタフ(かたさ)とテンダー(やさしさ)』(国土社)で使われた 『埋め火を熾こす』 が心に留まった。

 村井さんの言葉を借りながら考えてみた。

 「育てる」ことや「教える」ことはどの動物で種を維持していくために行う。そのシステムの見事さを野生動物のドキュメンタリーで見ると感動する。おそらく人間も原初の頃は同様に本能と呼ばれる組み込まれたプログラムに従って「育てる」ことや「教える」ことを行なってきたと推察できる。

 ところが人間だけは、歴史のある時点で、本能的に行なわれる行為「育てる」「教える」というものではない『教育』という言葉をつくって用い始めた。『教育』は、人間が意識して行うようになった行為である。

 村井さんによれば「教育」ということばは、歴史上、紀元前4世紀のころの『孟子』に、「天下に英才を得て之を教育する」という文脈ではじめて出現する。また同じ頃にヨーロッパでは、この「教育」にあたることばとして「パイディア」(子どもを~すること、の意味)という新しい言い方が出現している。

 東洋、西洋において、期せずして人間社会の最初の成熟期が訪れ、大きな単位としての国家が意識され文明と呼ばれるものが芽吹き始めた時代である。

 そこで、村井さんは「教育」ということばを次のように定義する。

『私たちは、東西の歴史に共通するその発生の根拠にしたがって、基本的に「子どもたちを善くしようとする働きかけ」として定義することができる。これが、意味をもつ行為としての、人間にとっての教育の定義である。』

 「子どもを善くしよう」とする場合の「善い」あるいは「善さ」ということの考え方、および、相手の「子ども」あるいは「人間」をどう見るかという人間観に応じて「教育」は展開されてきたと考えられる。さまざまな民族や国家の中で、しかも時代の変化とともに行われてきた教育の仕事を、この定義にしたがって考えると整理できる。

 村井さんは歴史の展開を眺めた時2つの大きな考え方が見て取れるという。

 何時の時代にも、またどういう社会にあっても、「善さ」ということ、あるいは何が「善い」かということは、知識についてにせよ、技術についてにせよ、ものの考え方や振るまい方についてにせよ、日常の生活の中で充分に明らかであると考える人々がいる。
 そういう人々は、自分が「善い」と見なすそうした知識・技術、あるいはものの考え方や振るまい方を、子どもたちにしっかりと身につけさせ、それによって子どもたちを「善く」することができると考える。これが、教育の ”現実主義的”な考え方である。

 一方、ほんとうに「善い」こと、あるいは「善さ」というのは、日常生活の中にそのままにあるのではなく、むしろ現実を越えたところに理想としてあるのであり、したがって子どもたちには、何ごとにつけてであれ、現実に「善い」とされることがらを身につけさせる以上に、それを越えた理想の「善さ」を追求することを学ばせなければならないとする考え方が生まれる。これが、教育の ”理想主義的”な考え方である。


 この現実主義と理想主義とが交錯して動き、常に主流を形作ってきたといってよい歴史の中で、表面に出ることはめったにないが、消えることのない埋め火のように生きつづけて、歴史の折々に燃え上がったもう1つの「教育」の考え方が存在するという。

 現実的であれ、理想的であれ、共通しているのは子どもたちの外部に、親や大人や国家によって「善さ」として定められた知識・技術等を分からせ身につけさせることに重きを置かれることには変わりはない。そうではなくてと村井さんは言う。

 むしろ子どもたち自身の内部にある何かとして考えられている。また、「子ども」あるいは「人間」というのは、そうした外部からの「善さ」を身につけることによってではなく、自分の内部に備わる働きを働かせることによって「善く」なると考えられている。
 要するに、現実主義や理想主義では、まず、「善さ」が重視されていたといってよいのに対して、ここでは、その「善さ」への働きを内に抱く「子ども」、あるいは「人間」がとりわけ重視されているのである。教育の実際にあたっては、「善さ」を分からせ身につけさせる以上に、何よりも子ども自身、あるいは「人間」としての子ども自身が、知識にせよ、技術にせよ、ものの考え方にせよ、「善さ」を自力によってつくり出すことが重んじられているといってもよいのである。
 こうして、私たちはいま、教育のこの考え方を、とくに子ども〈人間〉が自身で「善さ」をつくり出すことを期待されているという意味で、教育の ”人間主義的”な考え方と呼ぶことが相応しいと思う。


 教育の人間主義的な考え方の歴史上の好例として古代アテネのソクラテス、中世のキリスト教会での聖アウグスティヌス、近代に入ってのペスタロッチを挙げている。

 現実主義や理想主義の考え方に馴れてしまった私たちには不思議としか思えない考え方や活動を見せた人々であったが、この人々だけが教育という仕事の真髄に触れたとすらいってよいと村井さんは強調する。

 そして、現代の閉塞した状況(この本は20年前に書かれていて、今はもっと状況は悪い)を変えるには表立って栄えたことはないが歴史を貫いて生き続けてきている人間主義的な教育の考え方という埋め火をもう一度掘り熾こすことが第一歩となる。と

 自分自身の小さな経験をもう一度、村井さんの示された3つの視座から考え直している。現実の波に翻弄されることのない今の私に与えられた特権かとも思う。
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気になる動き

2013年08月27日 | 日記
 松江市教育委員会が中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を全小中学校に要請していた問題を巡って、ここ数日新聞紙上を賑わせてきた。全面撤回という結論が出たみたいだが、一連の動きを見ていると有川浩さんの「図書館戦争」が架空の物語ではなく現実のものとして感じられた。

 旦那さんと地元の図書館に行った時、旦那さんが入口に掲げられているプレートを見つけ、彼女に「面白いものがあるよ」と呼びかけたことが「図書館戦争」という小説を書くきっかけだったという。そのプレートには『図書館の自由に関する宣言』が書かれてあった。

   図書館の自由に関する宣言

一、図書館は資料収集の自由を有する。
二、図書館は資料提供の自由を有する。
三、図書館は利用者の秘密を守る。
四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。

 図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。
 


 この5行から文庫版で6冊の長大なドラマをしたてあげる力量には脱帽だが、表現の自由と規制」の問題は古くから存在する難しいものであるということである。歴史の教訓として言えることは、権力を持つ者、団体による恣意的な解釈で規制することはいけない。ということかな。生きた証人も多く存命し、公文書を含め資料もたくさん残っている近、現代史ですら様々なとらえ方がある。多様な意見の存在を認め、それらを元に個々人が自分なりの結論を出し生きていくというのが成熟した民主主義の有り方でないかと思っている。

 それに関連すれば、夕方のニュースでもう1つ気になる報道があった。

 国旗掲揚、国歌斉唱について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記述している実教出版(東京)の高校日本史教科書について、大阪維新の会府議団が27日、「使用するのは不適切で、採択すべきでない」などとして、教科書採択から除外するよう府教育委員会の陰山英男委員長に申し入れた。

 教科書の検定制度にも疑問があるが、そのことは抜きにして、少なくとも文部科学省が検定済みの教科書に対して、公人として政治に携わる者がこのような申し入れをして規制を加えようとするのはいかがなものかと思う。さまざまな考えを持つ各種団体が申し入れするならわかる。

 この動きは東京都の動きに連動しているみたいだが、教育改革といい東京都の後追いばっかりしていていいのだろうかと素朴な疑問を持つ。

 そういうことを漠と考えていたら、ニュースは全国学力テストの結果が出て、大阪が全国平均を下回り、下位である。という報道。蔭山さんが謝罪コメント、橋下さんが教育委員会に責任押しつけコメント、松井さんが今のままではいけないコメントがあった。いじめ問題でしばらく鳴りをひそめていた学力テストへの妄信的過敏反応が再燃しそう。ウンザリしている。

 ウンザリと言えば、消費増税に関する集中点検会合もわけがわからない。有識者、専門家から話を聞くよりも衆参両院の議員が集まってしっかり話し合ったらどうなのか。政治のプロなのだから個々人が有識者、専門家から話を聞いたりして学べばいい。良し悪しは別にして1年前からさんざん議論して決まった法案ではないのか。2度の選挙を経て、消費税10%をいち早くぶち上げた自民党が安定政権を獲得したという事実がある。何をグズグズしているのかと思ってしまう。こんなこと続けていたら政治不信はますます増大していく。

 ベストな答のないのが世の常。たくさんの利害のぶつかる社会をどうコントロールしていくかが政治家の使命。決断とその責任を背負ってほしいな。

 朝夕少しすごしやすくなってきたのに、世の中はスッキリとしない息苦しさが続いている。

 

 

 
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