素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

月末決算・平均体重&寝屋川公園20km(4km×5)走

2011年07月31日 | 日記
 月にジムへ通う回数は10回前後が普通だが、今月は16回である。週当たり1回多いことになる。しかも、マシーンでのランニングも毎時10km~10.5kmで60分~90分となることが多くなっているので、よく食べているのだが体重はコントロールできた。


   1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月   
2010 80.5 80.6  80.4 80.7  79.7  79.3 79.0  79.0  79.4  78.1  77.9  76.9
2011 76.3 76.3   76.5  76.5  76.1  75.9 75.7

 予定通り今日の午後は寝屋川公園でのランニング。前回の7月8日は16kmから20kmまでは足に限界を感じ歩くことが多く、3時間9分7秒かかってしまった。3週間で完走できる足をつくることとシューズをランニング用のものにしたり、水分、栄養補給も工夫してみた。予定外だったのは走り始める頃にまだ曇空ではなくきつい日射しがあったこと。ただ、“ためしてガッテン”で紹介していた“暑さに強くなる体つくり”を試しにやっていたので、これも効果のほどがわかるかと思うことにした。

 ランニングシューズはばっちりであった。道路からの衝撃をやわらげてくれているということを感じることができた。20km走り終わるまで前回のような痛みやけいれんは起こらなかった。歩くことなく走りきれることができた。タイムも2時間45分という前回の後に設定した目標を切って、2時間36分50秒であった。上出来であった。心も体も余裕を持ててゴールしたことも収穫。次は24kmにチャレンジ。

 8月は予定が多く入ってくるので、調整の仕方を工夫する必要がある。さすがに、足のほうはいつもと違う筋肉の張り方をしている。

 
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第7回ソーメン流し

2011年07月30日 | 日記
 恒例になってきた有志による“ソーメン流し”が今日の18時からあった。夏休みの子ども達に思いでを!ということで始めて今年で7年目になる。最初は小じんまりとやっていたが、年々手伝う人も増え、400人ほどの人びとが集うイベントに成長してきた。

 それにしても、今日は不安定な天候だった。昼前にひと雨。4時過ぎから1時間ほど激しい雨。関係者をやきもきさせたが、開始の18時前にはすっかり晴れ上がり、熱気もおさまり予定通り始めることができた。

        第1部は幼児から小2、第2部は小3から中学生、第3部は年齢無制限と20時過ぎまで賑わった。娘と孫も先の三連休に行ってきた鹿児島旅行の土産を持参方々、ソーメン流しを楽しんでいった。

 
    

 
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SONGS“クミコ”

2011年07月29日 | 日記
 27日のNHK総合SONGSはクミコであった。深夜にもかかわらず突然野暮用が入って見逃してしまった。こういう時はNHKオンデマンドが便利である。

 プロとして歌い始めて30年ほどになるが、注目されるようになったのはここ10年ぐらいだろうか、初めてTVで歌を聴いた時“クミコ”という名前が脳みそに刻みこまれた。

 生の舞台を観る機会も3度ほどあった。飾らない率直な人柄で、“ことば”を大切にする人だと思った。外国の歌でも原語ではなく、必ず日本語に訳して歌ってくれる。歌詞の意味にこだわるが、日本語しか知らない私にとってはとてもありがたい。

 3月11日の震災の日、石巻でコンサートがあり、本番直前の控え室で地震に見舞われた。そこで、自分がいかに弱いかということを思い知らされ、歌手生活での第2の挫折を味わう。

 最初の挫折は1982年。プロとして銀巴里の舞台に立って間もない時、人に伝えられるべきものを何も持っていない人間が、ただ口からメロディーと歌詞を出しているだけという心もとなさに襲われたのである。

 それから小さな舞台で、人に歌を伝えることができるようにこつこつと活動を続けたが日の目を見ることはなかった。1990年、デビュー以来のホームグランドである銀巴里の閉店。1998年には声帯を痛め、歌手をやめようかと思い始めた1990年に作詞家の松本隆さんとの出会いが転機となる。

 「きみは他の歌い手とは違う。何が違うかといえば“言霊”がある。」という言葉に自信を持ち、活動を続ける決意をする。2002年“わが麗しき恋物語”でブレイク。

 今、成熟した歌手として充実した演奏活動をしている中、震災を直接体験する中で、自分のことを疑い始め、今までのように歌を歌うことができなくなってしまった。

  6月11日、もう一度石巻を訪れ、あの日できなかったコンサートをスーパーの仮設舞台で催すことで再出発を決意する。

 自分と真摯に向き合っていく姿勢が素晴らしい。人は自分の心や体にしっかり向き合っていくことが大切だと常々思ってきた。クミコという歌手に魅力を感じた理由が何となくわかった。

 クミコ 『幽霊』


 
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山口果物・空堀商店街・Mizuno

2011年07月28日 | 日記
 曇り空だが、むし暑い毎日が続いている。昨日、ジムのカウンターのスタッフの方がメンバーカードを返却する際「100日を切りましたね。」と声をかけてくれた。寝屋川公園を走っている時偶然出会った際、大阪マラソンで走ることを話した。それ以来、励ましの言葉をかけてくれるようになった。私自身が日数について意識していなかったので、「そうですか?」と間の抜けた返事を返した。

 今月末に、3週間ぶりに寝屋川公園の20km走をやってみたいとは考えていた。協賛スポンサーのミズノのほうからシューズなどの情報が届いていたので、当日使うランニングシューズを買いに淀屋橋にある大阪店へ行くことにした。品揃えが豊富で、試し履きをしながらアドバイスもしてもらえるみたいなのでタイミング的にもちょうどいいかなと思った。

 せっかく、大阪市内まで出かけるので、以前からチェックしてあった山口果物と空堀商店街にも行ってみようと計画を立てた。

 山口果物は“大阪まちあるき”の情報メールの中で、カキ氷がおいしいと紹介されていたので興味を持った。空堀商店街はもちろん“プリンセス・トヨトミ”である。

 午前中に家の用事を済ませて出かけた。山口果物は上町筋沿いにある。カキ氷が目当てなので、暑い中少し歩いて行こうと考えた。学研都市線で大阪城北詰まで行き、そこから上町筋に入っていくコースは大阪城近辺に行く時の定番のルートである。見慣れた風景の中、できるだけビルの陰や街路樹の下を選びながら歩いた。大阪城を左に、大阪府庁を右に見て歩いている時、やめてからこのあたりはよく来たが、教育塔には20年以上行っていないなあ。とふと思い立ち寄ることにした。

 この塔は、1934(昭和9)年の室戸台風を機に、不慮の事故や災害の犠牲となった児童・生徒・教職者の慰霊のために、1936(昭和11)年10月30日に建てられた塔である。

 室戸台風は1934(昭和9)年9月21日室戸岬に上陸し、淡路島をかすめ京阪神を急襲、信越から東北へ抜けた大型台風で、四天王寺五重塔、仁王門、住吉神社絵馬堂などは倒壊、電車は転覆し、煙突、電柱はへし折られ、家屋は次々にぺしゃんこになり、雨量は300ミリ、大阪湾の高潮は桟橋をもぎとり一万トン級の船がたたきつけられた。 死者1639名、負傷者2万2千余、行方不明132、家屋倒壊2万3千余戸、浸水家屋10万2千余、被災人口39万4千余。  なかでも木造校舎の多かった学校は実に146校が倒れ、登校学童533名が圧死した。鶴橋第二小学校は66名、鯰江第二小学校は24名、住吉小学校では16名の死者が出た。

 その後、1961(昭和36)年9月16日の第二室戸台風を最後に、大阪を直撃する台風は来ていない。「ありがたい」と思わなければいけない。

上町筋と中央大通の交わる所に、難波宮跡がある。ここから暗峠を超えて平城宮跡まで歩いたことを思い出した。今となっては良き思い出だが冷静に考えるとずい分無茶なチャレンジであった。

  難波宮跡を左に見て、上町筋を10分ほど南へ歩くと、山口果物に着く。上町筋から左右に延びる通りはすべて下り坂である。上町台地なんやとあらためて実感した。店は想像していたよりも小じんまりとしていた。のどの渇きと体温の上昇はカキ氷を食べるベストの状態にあった。

   グレープフルーツを使ったカキ氷にした。“simple is best!” 果汁だけのさっぱりとした味である。氷の中に入っているバニラアイスクリームがうまくマッチしてほのかな甘みをだしている。1年中カキ氷をしているみたいだが、冬のカキ氷は?と次への楽しみができた。

 山口果物から5mほどで上本町3丁目の交差点。ここから谷町筋をはさんで松屋町筋までの約800mが空堀商店街。上町筋から入ると当然下り坂となるが予想以上に急であった。

途中で 谷町筋を渡ると 人通りがぐっと増える。

   メインストリートからの路地はまた下り。プリンセス・トヨトミでも空間感覚で錯覚をする場面があったが納得。この地区は大阪大空襲の被害を受けなかったということもあり長い年月を経た風情がある建物があちらこちらに残っている。路地と坂の町である。

 家政婦・看護婦紹介所という看板にはなつかしさを感じた。松屋町筋に出ると景色が一変する。このあたりも魅力の1つかもしれない。
 松屋町筋から長堀通を歩いて御堂筋まで出て、地下鉄御堂筋線で淀屋橋まで乗り、ミズノ大阪店でランニングシューズを買って、北新地まで歩き学研都市線で帰った。

   店の実直そうなスタッフに「20kmまでは誰でも走れます。問題はそこからです。しっかり足を作ってください」と釘をさされる。わかっていてもあらためて言われるとズシンとこたえる。ウォーキングシューズからランニングシューズへ。さて前回に比べてどうか?1つずつ確かめながら行くしかない。   

 








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続・女子サッカー事情

2011年07月27日 | 日記
 “なでしこJAPAN”の優勝を受けて、私の経験してきた女子サッカーの受け入れ環境について書いた。今日の毎日新聞の『記者の目』で東京運動部の江連能弘記者が“中学のプレー環境整備を急げ”という意見を載せていた。私の小さな経験から感じたことに、数字の裏づけをしていただいた。

 記事によると、日本サッカー協会は2015年に女子選手数を30万人する中期目標を掲げている。
それに対して、2009年度の女子選手数は3万6683人。
年代別では、小学生:1万4705人・中学生:6585人・高校生:8388人・一般:7005人

 小学生年代から中学生年代にかけて半減するのである。女子にとって中学校でサッカーを続ける環境が少なすぎるのである。

 日本中学体育連盟の2010年度の資料によれば、全国1万814校のうち、女子のサッカー部があるのは625校。バレーの8962校、バスケットの7456校、ソフトテニスの7252校に比べても環境の厳しさは歴然としている。

 それじゃ、各校に女子サッカー部をつくりましょう!という単純な方向に流れて欲しくない。橋下知事なんか言いそうだが。日本のスポーツは余りにも学校の部活動に頼りすぎて来たという歴史的な課題がある。学力をつけることを強く求められいる教師に、今以上の部活動への負担を増やすべきではない。

 長い歴史の中でつくられてきた学校を軸としての日本独特のスポーツ文化を急激に変えることは困難だが、幸い女子サッカーに関しては根の張り方が浅い段階である。今の盛りあがりの中で、協会が中心になって学校を離れた形での環境づくりを模索してほしい。マスコミも表面的な情報ばかりを流すのではなく、もっと掘り下げていってほしい。

 必ず、社会におけるスポーツのあり方という大きな問題にぶつかるのである。

   
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