素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

巳年の年賀状①

2025年02月09日 | 日記
 私は生来のめんどくさがり屋で整理整頓が苦手だった。と言っても「これではいけない」といつ几帳面に整理整頓ができている人にあこがれていた。「これではいけない」と思うだけの日が重なっていき沸点に達した時、突然整理整頓が始まる。地震発生のメカニズムと同じでその時を予測することはできない。

 振り返ってみると、思い切り整理整頓をしたというのが3回ある。「これではいけない」という思いの。エネルギーがマックス近くになっていた時に1つの出来事がきっかけとなるのだが、1回目は、ダイオキシン問題で学校の焼却炉が使用できなくなるという事態になった時である。

 ダイオキシン問題は、1980年代から認識され、90年代に入り関連報道が急増した。日本人の母乳中のダイオキシン濃度が高いという報告(91年)、竜ヶ崎のゴミ焼却炉周辺住民の血中濃度が高いという報告(96年)、埼玉県の焼却炉密集地域で新生児死亡率が高いという報道(97年)、所沢の野菜汚染(99年)などがある。報道による「ダイオキシン問題=ごみ焼却炉問題」という固定概念の形成が起き、1999年に「ダイオキシン類対策特別措置法」が成立した。

 ちょうど私が50歳を目前にしていた時である。その頃、職場には同年代の人がいなくて、40前後の方と一緒に仕事をしていた。普段は年齢のことなど意識することはなかったが、ふとした瞬間に世代間ギャップのようなものを感じ孤独感に襲われた。50歳はベテランという域の入口の年齢、60歳を定年退職と考えればこれからの10年今までと同じような心持ちではいけない。という思いが積み重なってきた。これまでの自分の中にあったしがらみを断ち切って新たな気持ちで一歩踏み出すために整理整頓を始めた。その中でこの世から消してしまおうと思ったのが高校時代から書き始めて、浪人、大学時代を経て結婚するまで書いてきた日記である。他に手紙などもろもろのものを使えなくなる前に学校の焼却炉で焼いた。燃えていく日記を見ていて気持ちが軽くなっていくような気がした。

 2回目は退職の時。この時は旧校舎を取り壊し運動場に仮設の校舎をつくり、新校舎を建設するという大きな事業が控えていた。事情が許されるなら1年生で迎えた生徒と3年間一緒に歩んで見送りたい。というのが私の一貫した願いであった。「入学から卒業までの3年間1本勝負」である。自分の教師生活の最後の1本勝負になる生徒達を迎えた時、卒業まで歩んだとしたら私は58歳。残り2年間を新校舎建築という中で過ごすことに生きがいを見いだせなかったので早期退職を学校長に予告した。
 旧校舎を解体するときに不要物も一緒に処理するため、それらを集積するための空き教室が用意された。そこに長年使ってきた資料やプリント類などすべてを運び込んで家に持ち帰ることなくきれいさっぱり処分できた。

 3回目は、一人暮らしをしている85歳になられた方の家の片づけを手伝った時。いろいろな活動を積極的にリードされてきて蔵書の数が半端でなかった。また、筆まめな方でプリント類も山積みされていた。数年前に亡くなった旦那さんが大学の教授(経済学)だったのでその方以上に蔵書があり、空き部屋はすべて本とプリント類で埋まっていた。半年ほど定期的に通って整理整頓を手伝ってる中で「他人事ではないぞ!自分が持ち続けてきた本もなんとかしないと」という思いでいっぱいになり、8割がたの本を処分した。

 巳年を迎えるにあたって4回目の整理整頓の波が私の中に押し寄せてきたことを書こうと思ったが前置きにずいぶんエネルギーを使ってしまったので続きは後日に。
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井上英介の喫水線「悪夢阻んだ寺への感謝状」

2025年02月08日 | 日記
 毎日新聞朝刊に毎月第2土曜日に掲載される「井上英介の喫水線」は、物事の「喫水線」(水に浮く船の側面と水面が交わる線)やその下にも目をこらしつつ、日本のいまを地方から眺めたい――。という思いがこもった井上英介記者のコラム。「被災者を背後から撃つ者」(2025/1/11) ・「現金給付の阿南市その後(2024/12/14)・「石丸伸二氏という「劇薬」」(2024/11/9)などいつも読みごたえがある。

 特に今日の「悪夢阻んだ寺への感謝状」は心にしみた。能登半島北端にある小さな集落、珠洲市高屋地区にある円龍寺(浄土真宗大谷派)院主、塚本真如さん(79)を昨年12月初めに訪ねて書かれたものである。

50年ほど前に関西、中部、北陸の電力3社が共同で、高屋地区と少し東の寺家地区に珠洲原発の計画が浮上した。保守系議員が占める市議会が1986年に原発誘致を決議すると、地元の高屋や寺家を中心に反対運動が激しくなった。

 塚本さんは、原発について勉強し、スリーマイル島やチェルノブイリの事故も踏まえ、人間は原子力と共存できないと強く思い、円龍寺は反対派の拠点となった。当時の高屋は75戸前後で、賛成と反対を鮮明にした家が13戸ずつ。残りは様子見で沈黙し、強い方につく雰囲気だったという。紛糾の末、電力3社は2003年12月に珠洲から撤退した。

 計画浮上から撤退までの20年余りの推進派と反対派のせめぎ合いは熾烈を極めた。その中で塚本さんは、「原発に反対だが、賛成の人間を攻撃、排除しない」という1つの信条を崩さなかった。そのことが本音を隠し、屈託のない笑顔や会話が消えていた集落が撤退後以前の状態に戻ることができた大きな要因となった。

  昨年元日の能登半島地震で、円龍寺は壊滅した。今は最大1.8m隆起した海岸部に建てられた仮設住宅で妻と暮らす。塚本さんは「電力会社はぼくら反対した住民に感謝状を出すべきだ。彼らもほっとしているだろう」と笑って言った。「パイプだらけの原発があの揺れや隆起で無事なわけがない」と続けた。

 地震後、高屋の住民は次々離れていき、世帯数は地震前の約半数27戸ほどに減った。「みな戻ってくるでしょうか」と井上さんが不安を口にすると塚本さんは「地震が来なくても、ここはもともと消えていく運命にある。地震で時計の針が多少進んだだけ。だから、寺はもとの規模で再建しません」。近くの土地に、ごく小さく建て直すつもりだという。

 井上さんは記事を次のように締めくくる。
 【それにしても、珠洲原発ができていたらどうなっていたか。悪夢のような事態に至る可能性もゼロではない。考えるだけでも腹の底が冷えてくる。電力会社が感謝状を出さないなら、私が出したいぐらいだ。
 原発を拒み、結果としてふるさとやこの国を守った小さなお寺は、遠くない将来、人口減で集落ごと消えかねない。集落の過去から導くべき教訓も、薄れていくのだろうか。

 私が塚本さん方を辞して数日後の昨年12月17日、日本の中長期的なエネルギー政策を定める政府の「第7次エネルギー基本計画」の原案が公表された。そこでは、福島の原発事故以来うたわれてきた「原発依存度を可能な限り低減する」という表現が消え、「原子力を最大限活用していく」と明記された。】


 AI開発が激化する中で、データーセンターで必要とされる電力使用量はうなぎ登りになっているとも聞く。前々から電気自動車の普及にも電気の確保はどうなるのだろうという危惧を抱いてきた。悩ましい問題だが考え続けなければいけない。
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三重なばな

2025年02月07日 | 日記
 全農が発行している「食と農の情報誌・Apron」の2025年2月号がJA星田ファームに自由にお取りくださいと置かれていた。
 表紙の「ふるさと探訪・三重なばな」が目に飛び込んできた。私の頭の中には、「三重県のなばな」は長嶋リゾートにある「なばなの里」しかない。そして、イルミネーション、ベゴニアガーデン、梅苑、チューリップなどが浮かんでくる。

 「なぜこんな情報誌に?」と気になったので家に持ち帰った。探訪記事を読んでリゾート施設の名前が「なばなの里」になったのかがわかりスッキリした気分になった。三重県人でありながら伊勢(現在の三重県)が搾油用菜種の栽培が盛んな地域だったことを初めて知った。「江戸の灯りは伊勢の菜種でもつ」と言われていたほどと知り驚いた。

 その摘み取った茎葉を商品として出荷したのは1960年代の旧長島町の生産者が始めたという。江戸時代から菜種の一大産地だった旧長島町(現・桑名市長島町)の生産者はわき芽の成長を促し、種がたくさん採れるよう、芯の部分を摘み取っていた。これを冬場の野菜として食べていたのがとてもおいしく、「ツミナ」として市場に出荷したところ好評で、1970年頃に商品名を「なばな」に統一してJAによる共同販売が始まった。1989年に「三重なばなブランド化推進協議会」を設立。同協議会が提供する種子で栽培されたものだけが「三重なばな」の名称で出荷され、ブランド化が進められたという経緯を知り認識を新たにした。

 今度行く機会があれば、ちょっと意識して田園風景を眺めてみようと思った。
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寒波到来!めげずにウォーキング

2025年02月06日 | 日記
 今年最強寒波が到来。しかも1週間ほど長期滞在。今日はジムが休館日。暖房をつけて部屋にこもってしまうと一日中外に出る気がおこらない。節電のため用事を作った。年3回ある互助組合の宿泊補助券(4000円/泊)がまだ2枚残っているので年度内に使い切るために2月末と3月末に指定施設に泊まる旅行を計画した。その補助券の申請に上六にある大阪府教育会館(高津ガーデン)に行くことにした。

 そこで、春になったらやってみようと思っている「大阪七福神巡り」の下見をかねて玉造駅で下車して三光神社に立ち寄って上六まで歩いてみようと考えた。にわかに思いついたことだが、こんな過ごし方もいいのではと思った。コロナ禍の期間中に電車に乗ってブラリと出かけることが私の意識から消えてしまった。ぼちぼちと切り替えていく必要がある。という思いもあった。

 星田駅11時15分発の区間快速に乗った。星田駅前の温度計は5℃であった。風が強かったので体感的にはもっと寒く感じた。
 11時48分に玉造駅に着いた。この駅で下車した記憶はない。昭和の雰囲気が漂う玉造日出商店街を抜けて10分ほどで三光神社に着く。
  
 大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となった。
創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。七福神の「寿老人」が祀られている。
    七福神巡りは、ここからゴールの四天王寺(布袋堂)まで9km余りの行程。手頃な1日コース。この神社は桜の名所でもあるみたいなのでその頃に巡りにこようと決めた。今日は一先ず上六を目指して歩く。少し遠回りしてしまったが30分ほどで到着。用を済ませた後、古くからある「上本町ハイハイタウン」のビルに入り腹ごしらえ。ベトナム料理の店があったのでものは試しと入ってみた。
  「孤独のグルメ」の井之頭五郎になった気分でベトナムカレーのランチセットを食す。ヘルシーといった感じ。
 

 高津から松屋町まで歩いたが、途中で小雪がちらつき始め、風もさらに強くなってきたのでウォーキングは終了。大阪メトロ長堀鶴見緑地線の松屋町から森之宮でJRに乗り換え14時30分過ぎに星田駅に戻る。温度計は1℃下がり4℃を表示していた。夜帰宅した息子は2℃だったと言っていた。



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土の中の水道管高いビルの下の下水大事なものは表に出ない: 相田みつを

2025年02月05日 | 日記
 昨日の「余録」は、埼玉県の陥没事故にまつわる話だった。関東地方はなじみがないので土地勘がない。「余録」を読んで、事故の起こった八潮市を「日本分県大地図」(ユーキャン)で確認してみた。ビックリするぐらい東京都に隣接していて、【温暖化で海水面が上昇した縄文海進の頃には「奥東京湾」の底。陸地になったのは約2000年前。江戸時代に新田開発が進んだ場所で地盤が弱い。】というフレーズに合点がいった。

 締めくくりの段落で久しぶりに相田みつをさんの言葉に出会った。【▲「土の中の水道管 高いビルの下の下水 大事なものは表に出ない」。書の詩人、相田みつをさんの40年前の作品だ。下水道の普及で川はきれいになり、生活も便利になった。少子高齢化の時代に大事な土の中をどう守っていくか。大きな課題である。】

 この「余録」を書き写して寝たせいか高層マンションの前に立って「もう建設はやめよう!」と叫んでいる夢を見た。いま星田駅北エリアに大きなマンションが建設中で、ほぼ完売していると聞く。相田さんの言葉を書き写しながら「あのマンションの住民が朝一斉にトイレや洗面の水を流したら、夜シャワーや入浴の水を流したらどれだけの下水がどのように処理されていくのだろうか?」ということが頭をよぎった。こんなことを考えたのは初めてだった。線状降水帯どころの話ではないぞと恐ろしくなった。

 それが映像として夢で再現されたのかもしれない。光と影というが便利さ、効率の良さという光の影の部分もしっかり考えていかないといけないと強く思った。おかげで夜中にトイレに起きる回数が1つ増えた。
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