私は生来のめんどくさがり屋で整理整頓が苦手だった。と言っても「これではいけない」といつ几帳面に整理整頓ができている人にあこがれていた。「これではいけない」と思うだけの日が重なっていき沸点に達した時、突然整理整頓が始まる。地震発生のメカニズムと同じでその時を予測することはできない。
振り返ってみると、思い切り整理整頓をしたというのが3回ある。「これではいけない」という思いの。エネルギーがマックス近くになっていた時に1つの出来事がきっかけとなるのだが、1回目は、ダイオキシン問題で学校の焼却炉が使用できなくなるという事態になった時である。
ダイオキシン問題は、1980年代から認識され、90年代に入り関連報道が急増した。日本人の母乳中のダイオキシン濃度が高いという報告(91年)、竜ヶ崎のゴミ焼却炉周辺住民の血中濃度が高いという報告(96年)、埼玉県の焼却炉密集地域で新生児死亡率が高いという報道(97年)、所沢の野菜汚染(99年)などがある。報道による「ダイオキシン問題=ごみ焼却炉問題」という固定概念の形成が起き、1999年に「ダイオキシン類対策特別措置法」が成立した。
ちょうど私が50歳を目前にしていた時である。その頃、職場には同年代の人がいなくて、40前後の方と一緒に仕事をしていた。普段は年齢のことなど意識することはなかったが、ふとした瞬間に世代間ギャップのようなものを感じ孤独感に襲われた。50歳はベテランという域の入口の年齢、60歳を定年退職と考えればこれからの10年今までと同じような心持ちではいけない。という思いが積み重なってきた。これまでの自分の中にあったしがらみを断ち切って新たな気持ちで一歩踏み出すために整理整頓を始めた。その中でこの世から消してしまおうと思ったのが高校時代から書き始めて、浪人、大学時代を経て結婚するまで書いてきた日記である。他に手紙などもろもろのものを使えなくなる前に学校の焼却炉で焼いた。燃えていく日記を見ていて気持ちが軽くなっていくような気がした。
2回目は退職の時。この時は旧校舎を取り壊し運動場に仮設の校舎をつくり、新校舎を建設するという大きな事業が控えていた。事情が許されるなら1年生で迎えた生徒と3年間一緒に歩んで見送りたい。というのが私の一貫した願いであった。「入学から卒業までの3年間1本勝負」である。自分の教師生活の最後の1本勝負になる生徒達を迎えた時、卒業まで歩んだとしたら私は58歳。残り2年間を新校舎建築という中で過ごすことに生きがいを見いだせなかったので早期退職を学校長に予告した。
旧校舎を解体するときに不要物も一緒に処理するため、それらを集積するための空き教室が用意された。そこに長年使ってきた資料やプリント類などすべてを運び込んで家に持ち帰ることなくきれいさっぱり処分できた。
3回目は、一人暮らしをしている85歳になられた方の家の片づけを手伝った時。いろいろな活動を積極的にリードされてきて蔵書の数が半端でなかった。また、筆まめな方でプリント類も山積みされていた。数年前に亡くなった旦那さんが大学の教授(経済学)だったのでその方以上に蔵書があり、空き部屋はすべて本とプリント類で埋まっていた。半年ほど定期的に通って整理整頓を手伝ってる中で「他人事ではないぞ!自分が持ち続けてきた本もなんとかしないと」という思いでいっぱいになり、8割がたの本を処分した。
巳年を迎えるにあたって4回目の整理整頓の波が私の中に押し寄せてきたことを書こうと思ったが前置きにずいぶんエネルギーを使ってしまったので続きは後日に。
振り返ってみると、思い切り整理整頓をしたというのが3回ある。「これではいけない」という思いの。エネルギーがマックス近くになっていた時に1つの出来事がきっかけとなるのだが、1回目は、ダイオキシン問題で学校の焼却炉が使用できなくなるという事態になった時である。
ダイオキシン問題は、1980年代から認識され、90年代に入り関連報道が急増した。日本人の母乳中のダイオキシン濃度が高いという報告(91年)、竜ヶ崎のゴミ焼却炉周辺住民の血中濃度が高いという報告(96年)、埼玉県の焼却炉密集地域で新生児死亡率が高いという報道(97年)、所沢の野菜汚染(99年)などがある。報道による「ダイオキシン問題=ごみ焼却炉問題」という固定概念の形成が起き、1999年に「ダイオキシン類対策特別措置法」が成立した。
ちょうど私が50歳を目前にしていた時である。その頃、職場には同年代の人がいなくて、40前後の方と一緒に仕事をしていた。普段は年齢のことなど意識することはなかったが、ふとした瞬間に世代間ギャップのようなものを感じ孤独感に襲われた。50歳はベテランという域の入口の年齢、60歳を定年退職と考えればこれからの10年今までと同じような心持ちではいけない。という思いが積み重なってきた。これまでの自分の中にあったしがらみを断ち切って新たな気持ちで一歩踏み出すために整理整頓を始めた。その中でこの世から消してしまおうと思ったのが高校時代から書き始めて、浪人、大学時代を経て結婚するまで書いてきた日記である。他に手紙などもろもろのものを使えなくなる前に学校の焼却炉で焼いた。燃えていく日記を見ていて気持ちが軽くなっていくような気がした。
2回目は退職の時。この時は旧校舎を取り壊し運動場に仮設の校舎をつくり、新校舎を建設するという大きな事業が控えていた。事情が許されるなら1年生で迎えた生徒と3年間一緒に歩んで見送りたい。というのが私の一貫した願いであった。「入学から卒業までの3年間1本勝負」である。自分の教師生活の最後の1本勝負になる生徒達を迎えた時、卒業まで歩んだとしたら私は58歳。残り2年間を新校舎建築という中で過ごすことに生きがいを見いだせなかったので早期退職を学校長に予告した。
旧校舎を解体するときに不要物も一緒に処理するため、それらを集積するための空き教室が用意された。そこに長年使ってきた資料やプリント類などすべてを運び込んで家に持ち帰ることなくきれいさっぱり処分できた。
3回目は、一人暮らしをしている85歳になられた方の家の片づけを手伝った時。いろいろな活動を積極的にリードされてきて蔵書の数が半端でなかった。また、筆まめな方でプリント類も山積みされていた。数年前に亡くなった旦那さんが大学の教授(経済学)だったのでその方以上に蔵書があり、空き部屋はすべて本とプリント類で埋まっていた。半年ほど定期的に通って整理整頓を手伝ってる中で「他人事ではないぞ!自分が持ち続けてきた本もなんとかしないと」という思いでいっぱいになり、8割がたの本を処分した。
巳年を迎えるにあたって4回目の整理整頓の波が私の中に押し寄せてきたことを書こうと思ったが前置きにずいぶんエネルギーを使ってしまったので続きは後日に。