昼食を食べながら、「さかのぼり日本史」の再放送を見ていた。「島原の乱「戦国」の終焉」というタイトルだった。島原の乱も大体知っているし、農民とキリシタンの話だろうと軽く想像していた。
ところが語り手の磯田道史 茨城大学准教授は、この時期に野蛮国家から文明国への仲間入りをした、大変換の時期だという意味のことを説明した。本当かなと思って聞いていくうちに、そのことが明らかになった。国の体質がこの時期を境に野蛮から文明に代わったのだ。長い歴史のうちで国の体質が変わることは余りないという。このような話は初耳だった。
島原の乱の前に生瀬村の事件が紹介された。「
島原の乱「戦国」の終焉」(http://www.nhk.or.jp/sakanobori/archive201110/index.html#series_04)参照。
気になったので更に別の資料を調べて見たら、次のことが分った。「現在の茨城県久慈郡大子町の小生瀬村で一揆が発生しました。しかし、時の為政者(徳川)に鎮圧されて一村皆殺しとなり、三百数十名が全滅したとの伝承があります。」「
生瀬一揆とは何か」(http://www2.ttcn.ne.jp/~voce-someno.y/section1.html)より。
これについては、1602年頃から1620年ごろまでといろいろ説はあるようだ。ここで語り手が強調したのは、当時は、武士が農民を「なで斬り」=皆殺しすることは、当たり前であるような殺伐とした時代であったということだ。
次いで島原の乱の説明があった。以下島原の乱の参考資料抜粋
「島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。」
ウイキペデイア「島原の乱」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
島原の乱一揆軍37,000人程であったといわれ、幕府軍は総計 125,800人
一揆軍は全滅し、幕府軍は、その死傷者は諸説あるが、「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。すなわち、従わなければ皆殺しにするのが、当たり前という時代であった。それまでの日本は、それ以前から殺伐としていて殺人は当たり前だったという。
それにしても島原の乱一揆軍の全滅及び幕府軍の死者負傷者を合計すると4-5万人近くになる。しかも天草半島の狭い地域にである。そこでは弓矢や槍や刀や鉄砲を使い、武士・農民・女・子供・老人の区別無く、見せしめの意味も含め、徹底して殺戮・虐殺したに違いない。想像するだけで恐ろしい。
その結果、島原半島の農民は激減して一帯は荒廃し、復興の為他藩から農民を移住させたという。
こうしたことで、幕府は農民を武力で強制的に従わせると、幕府側にも多大なダメージを被ることに気付き、武力で物事を解決することに対し、何となく疑問を持ち始めたのではないかという。
その後綱吉が将軍になって、日本の体質を変えたというのだ。武家諸法度を改定し「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」を「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」などと変更し、儒学(特に朱子学)を重んじるようになった。また生類憐みの令も、世間では犬のことが強調されているが、下記の資料のように、弱者救済の側面があった。また江戸時代では、いつの頃から体系化されたか知らないが、少なくとも殺人等を犯すと役人が取締り、裁きを受けるようになった。そういえば戦国時代以前室町や鎌倉時代の、裁判の話は聞かない。このように見て行くと、意外と中世や近世の歴史も面白い。しかし、これ以上興味を持っても、調べる時間が無いので深追いはやめようと思う。
【参考史料】
1687年(貞享4)の生類憐みの令
これは江戸前期の私撰幕府法令集『御当家令条』巻33にのるもので、1687年(貞享4)4月に発令された。85年以降に何度もだされた生類憐みの令の中では初期のものである。87年正月に、捨て子や捨て牛馬を禁じる法令がだされて以後、生類憐みの令は本格的なものとなり、本法令もふくめて格段にきびしいものとなっていった。以下その現代語訳
覚え
一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。よいか、届け出なくてかまわない。
一、鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。それらを養育し、持ち主があればかえすようにせよ。
一、飼い主がいない犬に日ごろ食べ物をあたえないようにしているという。それは要するに食べ物をあたえれば、その人の飼い犬のようになって面倒なことがおこると考え、いたわらないでいるらしいが、けしからん。これからはそのようなことがないように心得よ。
一、飼い犬が死ぬと、飼い主は上司へ届けでているという。その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である。
一、犬ばかりにかぎらず、人々はすべて生類へ慈悲の心からでるあわれみをほどこすことが肝要なのである。
「
生類哀れみの令」よりhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~k-hina/awaremi.htm
これにより、牢屋の待遇が改善されたり、行き場の無い人が助けられたり、飢えた人に食事を与えられたという。
また次のような紹介もあった。
徳川綱吉 1646-1709
まだ将軍宣下を受ける前から天領の代官たちに対し、「支配者が寛かに民を扱うと、民は奢りに走り本業を怠る 奢侈を許してはいけない 民は為政者を信用していない 為政者もまた民を疑っている このようなことが起こらないように意思の疎通に心がけよ 代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せ切りにせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である」と諭したとされる。
また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなどたいへん学問好きな将軍であった。
以上
ウイキペディア「徳川綱吉」より
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89)