Eテレで白熱教室を途中から観た。話の内容は、科学と価値と確率の話しだった。その例として福島原発のことが話題の中心となっていた。この議論についての結論は出ないが、様々なことを考えるヒントになった。
その前に、この番組では、イギリスのBSEの問題を先に議論していたようだが聞き逃した。ただそれに関連して、科学者の役割と行政の役割について話があったようだ。伝統的には、科学者は事実を解明し説明するが、価値判断はしない。政治家は、そのような物事に価値判断を下すというのだ。もちろん政治家の背景には、世論すなわち国民の価値観があるのは言うまでもない。しかし近年いろいろな場面でこの構図が崩れてきたという。すなわち科学者も政治家と価値判断を共有しつつある部分が出来だしたというのだ。
確かに最近のニュースを見ると、BSE問題でも対策は政治家と科学者が共同して立ち向かっている。日本の原発問題では、事故発生当時科学者・技術者は政治家と共同してことに当たると言う姿勢はなかったように見えた。どちらかというと伝統的科学者の姿勢が、強かったように見受けられた。
その後、教室では原発の事故の例を元に議論が進められた。原発は、多くの安全装置を設置している。だが全電源喪失は、設計当初想定していなかったという。しかし想定していなかったことが起きた。このことに関して教室では大阪大学の学生と様々な議論が繰り広げられる。
その議論の材料として3月22日に行われた参議院予算委員会のやり取りを議論の資料としてあげていた。以下その部分を福島瑞穂氏のHP(http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-1773.html)より見つけたので掲載する。
「福島みずほ
水素が出るというのは、格納容器から出ているわけじゃ
ないんですか。
班目さん、二〇〇七年、平成十九年二月十六日、浜岡原
子力発電所の裁判の証言で、非常用ディーゼル発電機が二
個とも起動しない場合に大変なことになるのではないかと
質問を受け、そのような事態は想定しない、そのような想
定をしたのでは原発は造れない、だから割り切らなければ
設計なんてできませんねと言っていますね。割り切った
結果が今回の事故ではないですか。
政府参考人(班目春樹君)
確かに割り切らなければ設計ができないというのは事実
でございます。その割り切った割り切り方が正しくなかった
ということも、我々十分反省してございます。」
原子力安全委員会の委員長は、確率の低い問題まで考慮に入れて設計すると、物は作れないといい、今回の事故は割り切り方が正しくなかった。すなわち想定される範囲の設定の仕方が間違っていた、という意味のことを言っている。
この意見に、理工科系の学生は、基本的には同じ意見が多かった。私も同様である。実は飛行機であれ新幹線であれ、すべての製品はある一定の確率で製造されている。食物とか健康にかかわるものはその確率が極端に高くなっている。しかしすべての製品は寿命を想定している。すべての製品は時間とともに故障が発生し、最後は、機能を維持できなくなる。どんな製品でも初期不良がある。だから何度も試作品を作り耐久試験をして設計を修正するのだ。科学技術を使った製品に絶対はない。宇宙向けのロケットや衛星にも故障はつき物だ。
技術は、確率で成り立っているのだ。ロケットやコンピュータや原子炉は、失敗が許されないので、結果的に失敗する確率を徹底的に下げる為、何重にも安全対策を施す。原子炉では電源が切れても、非常電源を使って性能が維持できるようにしている。しかし今回の超巨大津波は想定していなかった。それ以外に例えば原子炉に隕石が当たったらどうなるかといったことは、全く想定されていないし、ミサイル攻撃を受けることも想定していない。そこまで事故の起きる確率を下げると、1万年に一度しか起きない事象にも対応せねばならず、いくら安全装置を加えても実質的に製品にならないだろう。実はこうしたことはあらゆる製品にいえることなのだ。
しかしも、う一つの議論があって、(この件教室とは無関係です。)例えば今起きているポリオ生ワクチンによる感染事故は、確率論からすればワクチンを注射して小児麻痺になった人は、その確率のいう何万人に一人に該当し運が悪かったことになる。しかし、本人にとっては運が悪かったではすまない一生を左右する問題なのだ。ここに価値判断の必要性があり、政治の出番であると思う。この問題は科学の問題ではない。しかし科学者も、そのような確率の範囲を積極的に言う人もいるし、科学者も戦後反核を始め様々な問題で、科学者の立場から声を上げている。
このように技術というのは、すべて確率という概念が基本にあって成り立っている。ところで、科学の基本は、再現性である、とこの教室でも言っていたが、科学を応用している技術も同じである。ただし技術は、科学と違って、常に人間の為の科学の応用という側面があり、そこで必然的に価値観が入る。ちょうど美術とデザインの関係と同じである。ちなみに技術の設計も英語では同じデザインだ。その価値観の中に、安全性の確率とコスト及びニーズとの関係は、設計する時に最も重要なファクターとなる。
このように、原発の是非の問題は、科学ではなく価値の問題すなわち政治の問題である。それは事故が発生した時どのように修復できるのか出来ないのか。撒き散らされた放射能の影響を、どのように評価するのか。科学では低い放射能の与える影響の問題は、結論が出ていない。そのような問題をどのように価値判断するのか。また除染の技術も確立していない。除染はどこまで必要か。今後どうするのか、除染のコストは。
科学と価値と確率の問題は、深く掘り下げるほど、様々な今の問題にもぶち当たるが、ある意味論点も整理される。やはり、議論を尽くす事は必要だ。
余談だが、TPPは科学の問題ではない。価値の問題だ。これももっと深い議論と、その前提となる正確デ情報が必要だろう。
その前に、この番組では、イギリスのBSEの問題を先に議論していたようだが聞き逃した。ただそれに関連して、科学者の役割と行政の役割について話があったようだ。伝統的には、科学者は事実を解明し説明するが、価値判断はしない。政治家は、そのような物事に価値判断を下すというのだ。もちろん政治家の背景には、世論すなわち国民の価値観があるのは言うまでもない。しかし近年いろいろな場面でこの構図が崩れてきたという。すなわち科学者も政治家と価値判断を共有しつつある部分が出来だしたというのだ。
確かに最近のニュースを見ると、BSE問題でも対策は政治家と科学者が共同して立ち向かっている。日本の原発問題では、事故発生当時科学者・技術者は政治家と共同してことに当たると言う姿勢はなかったように見えた。どちらかというと伝統的科学者の姿勢が、強かったように見受けられた。
その後、教室では原発の事故の例を元に議論が進められた。原発は、多くの安全装置を設置している。だが全電源喪失は、設計当初想定していなかったという。しかし想定していなかったことが起きた。このことに関して教室では大阪大学の学生と様々な議論が繰り広げられる。
その議論の材料として3月22日に行われた参議院予算委員会のやり取りを議論の資料としてあげていた。以下その部分を福島瑞穂氏のHP(http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-1773.html)より見つけたので掲載する。
「福島みずほ
水素が出るというのは、格納容器から出ているわけじゃ
ないんですか。
班目さん、二〇〇七年、平成十九年二月十六日、浜岡原
子力発電所の裁判の証言で、非常用ディーゼル発電機が二
個とも起動しない場合に大変なことになるのではないかと
質問を受け、そのような事態は想定しない、そのような想
定をしたのでは原発は造れない、だから割り切らなければ
設計なんてできませんねと言っていますね。割り切った
結果が今回の事故ではないですか。
政府参考人(班目春樹君)
確かに割り切らなければ設計ができないというのは事実
でございます。その割り切った割り切り方が正しくなかった
ということも、我々十分反省してございます。」
原子力安全委員会の委員長は、確率の低い問題まで考慮に入れて設計すると、物は作れないといい、今回の事故は割り切り方が正しくなかった。すなわち想定される範囲の設定の仕方が間違っていた、という意味のことを言っている。
この意見に、理工科系の学生は、基本的には同じ意見が多かった。私も同様である。実は飛行機であれ新幹線であれ、すべての製品はある一定の確率で製造されている。食物とか健康にかかわるものはその確率が極端に高くなっている。しかしすべての製品は寿命を想定している。すべての製品は時間とともに故障が発生し、最後は、機能を維持できなくなる。どんな製品でも初期不良がある。だから何度も試作品を作り耐久試験をして設計を修正するのだ。科学技術を使った製品に絶対はない。宇宙向けのロケットや衛星にも故障はつき物だ。
技術は、確率で成り立っているのだ。ロケットやコンピュータや原子炉は、失敗が許されないので、結果的に失敗する確率を徹底的に下げる為、何重にも安全対策を施す。原子炉では電源が切れても、非常電源を使って性能が維持できるようにしている。しかし今回の超巨大津波は想定していなかった。それ以外に例えば原子炉に隕石が当たったらどうなるかといったことは、全く想定されていないし、ミサイル攻撃を受けることも想定していない。そこまで事故の起きる確率を下げると、1万年に一度しか起きない事象にも対応せねばならず、いくら安全装置を加えても実質的に製品にならないだろう。実はこうしたことはあらゆる製品にいえることなのだ。
しかしも、う一つの議論があって、(この件教室とは無関係です。)例えば今起きているポリオ生ワクチンによる感染事故は、確率論からすればワクチンを注射して小児麻痺になった人は、その確率のいう何万人に一人に該当し運が悪かったことになる。しかし、本人にとっては運が悪かったではすまない一生を左右する問題なのだ。ここに価値判断の必要性があり、政治の出番であると思う。この問題は科学の問題ではない。しかし科学者も、そのような確率の範囲を積極的に言う人もいるし、科学者も戦後反核を始め様々な問題で、科学者の立場から声を上げている。
このように技術というのは、すべて確率という概念が基本にあって成り立っている。ところで、科学の基本は、再現性である、とこの教室でも言っていたが、科学を応用している技術も同じである。ただし技術は、科学と違って、常に人間の為の科学の応用という側面があり、そこで必然的に価値観が入る。ちょうど美術とデザインの関係と同じである。ちなみに技術の設計も英語では同じデザインだ。その価値観の中に、安全性の確率とコスト及びニーズとの関係は、設計する時に最も重要なファクターとなる。
このように、原発の是非の問題は、科学ではなく価値の問題すなわち政治の問題である。それは事故が発生した時どのように修復できるのか出来ないのか。撒き散らされた放射能の影響を、どのように評価するのか。科学では低い放射能の与える影響の問題は、結論が出ていない。そのような問題をどのように価値判断するのか。また除染の技術も確立していない。除染はどこまで必要か。今後どうするのか、除染のコストは。
科学と価値と確率の問題は、深く掘り下げるほど、様々な今の問題にもぶち当たるが、ある意味論点も整理される。やはり、議論を尽くす事は必要だ。
余談だが、TPPは科学の問題ではない。価値の問題だ。これももっと深い議論と、その前提となる正確デ情報が必要だろう。