散歩者goo 

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昨日記160317木(有償ボランティア 筋トレ)追

2016年03月20日 23時52分27秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =20.1 6.2
この日は午前中有償ボランティアの活動を行った。
病院への付き添いである。(車いす)

私は10年余り前にホームヘルパー実習と、ヘルパー研修終了後更に1か月のデイサービスのボランティアも経験して、高齢者の状態もよく見てきたが、病院の待合室で私より若いらしい男性の障害の状況を改めて目にして、日ごろの心身のメンテナンスの重要性を改めて認識した。

遺伝的な病気の場合は仕方ないが、そうでなければ日ごろの頭脳と身体のトレーニングと栄養管理をおろそかにすると、間違いなく廃用症候群(生活不活発病)になる可能性があると思った。
体や頭が動かなくなってからのトレーニングでは、進行を遅らせるだけで元通りには戻りにくいのかもしれない。

頭の場合は、認知症になった本人は、自覚がない場合が多いので問題は大きいのだ。
病院の待合で待っていると、近くにいて元気に話していたおばあちゃん(付き添った人ではない)が、長針短針のついた時計を見て、10時40分になったといったので、私もつられて時計を見ると10時20分だった。(20分の数字は4)
多分その人は、自分がすでに認知症になったことを分かっていないし、ひょっとすると家族もまだ気づいていないのかもしれない。

老いは誰にでも等しく来て、生き物は必ず死ぬ。
この事は、誰でも怖いことだが、逆に言うと恐れたり怖がっても、必ず訪れるのなら、仏教で言う悟りは開けなくても、じたばた恐れてもしようがないと諦めて(悟りでもある)、ありのままを受けて立つしかないだろう。
それでも人間の場合、老衰してから死までの、体や頭が不自由になる苦痛の期間をいかに少なく出来るかは、覚悟していても必ず起きる現実的な問題だ。
私の場合、老衰から死までの期間は、心身を鍛え感性を磨くことで、短くできるのではないかと勝手に想像していて、そうした意味でも、ジムに通ったり本を読んだり芸術に親しんだりする行動をしている。(現在の肉体的知的パフォーマンスを維持向上させ、行動範囲を広げることが本来の目的である。)
親類縁者との関係が薄い独居老人である私は、できる限り死の直前まで人の手を煩わせたくないと思っていて、その覚悟はある。
だが、それ以上に、一度しかない人生を最後まで楽しんで生きたいと思っている。
(一度家族を持ったところで、不幸な人や生きがいの持てない人や人生を楽しめない人は多くいる。)

午後は、たまったレシートの一部を記帳した。
その後、副食作りを行った。

夜になってジムに行った。
筋トレを行った。
12月の水準にかなり近づいたようだ。
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