甲府盆地方面:笹子峠トンネル(鉄道)の切れ間から
神足勝記は笹子峠を越えてここをくだりました。
私は甲斐大和〔旧初鹿野:はじかの〕駅で降りて、
ミニサイクルでくだりました。
今日は雪でした。被災地はさぞ大変でしょうね。
といって、日本で被災地でないところはどこですか?
日本全国「順番待ちみたいに」様々な被害を受けています。
準備しないと、自分の代では免れても、子孫が苦労します。
我が家は、目下のところ災害問題はないですが、今日は雪下ろしをしました。
理由は、家の屋根の雪が自転車置き場の屋根にどさっと落下するのです。
屋根はプラスチック製?で、少量の雪でも、屋根一面の分が順に落下するとそれなりの量と重さになりますから、かなりたわみます。
10年ほど前の大雪の際にはとうとう落下の衝撃と重みのために破れてしまって、だいぶ出費となりました。それ以来、雪下ろしをするというわけです。
だれが?
私ですよ!
いいですねえ:ニワにサンバ イエーイ!
ところで、雪というと、1969年の4月に入って降った雪の日の翌日、陽が差して雪解け水がポトッポトッと落ちるようすを炬燵に入ってみていたことを思い出します。
当時、大学紛争が激化していて、自分が唯一行きたかった東京教育大学の受験が69・70年と2年連続して中止となり、結局、夢がかなわなかったのですが、69年はその1年目でした。
ロシア語をやるというだけなら、東京外国語大学もありましたが、あえて教育大にこだわったのは、近くに、英語をやっていて指導教官から大学に残ることを勧められたという人が赴任して来ていて、その人にあこがれていたためです。
ドイツ語の小塩節さんと知り合いのようで、「彼は大学に残ったけど、自分は研究に向かないので断った」と。私はそこにも共感していました。山の方で教員をやりながらロシア語の本を読んで・・・のんびりとと、それが夢でした。これは今でもそうです。怠け者ですから、自分のやりたい事だけをやりたい、そう思っています。
私とは違いますけど、熊本の方にそういうロシア文学者がいましたね。在野とか言われて。でも、あの人は偉いと思います。
当時、教育大だけでなく東京外大も荒れ放題で、とうとう国立系のロシア語コースは70年も受験できず、一度も受験できずに終わりました。
すでに父親がいなかったので、現役の69年は私立大を考えませんでしたが、70年は母に相談すると、早稲田大学を受けても、入学金20万円は何とかなると思うが、学費8万円を自分で稼げるかと言われて絶句しました。
当時、学生生活に月2万円あればたりる、25000円あればコンパができると言われていました。その月々2万円分と学費の8万円を自分で工面できるかどうか、アルバイトさえしたことがない自分にとっては見当もつきませんでした。上智大学はもっと高く、検討さえできませんでした。
もちろん、一応は国立大学の相応のところを選んで受験しに行ったものの、どういうわけか体調が崩れて集中できないとか、一つ解けない問題があるとそれにこだわって時間切れとなるなど、どこも「サクラチル」とか「サイキヲイノル」という電文が来るだけでした。
ロシア語にこだわった私は、今から考えるとずいぶん珍妙な選択をしますが、ずいぶん得難い人生を歩むことになりました。『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―」日本林業調査会(J-FIC)の刊行はその延長上にあります。
え?ロシア語?
自分でやりましたよ。
明日は雨だれが聴けるかな?
ポタッ! ポトッ!