朴
ブログを書くようになって、期せずして棚の本をよく見るようになりました。『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC)の刊行までは、それに時間を割かざるを得ず、時間ができるまでお預けと、積読〔つんでおく〕一方でした。
ところがこんどはそれに時間を取られ、おまけに昔のものが出てくると、懐かしさのあまりついつい読みこんでしまい、結局ブログの材料探しで時間をつかってしまい、あたふたと書き急ぐことになるので、ブログというよりボログ〔襤褸で愚〕になっているなあ・・・と。
今日もそうでしたが、今日は戦争ものに目が行きました。
専門的なものはまた別の機会に取り上げることにして、たいがい読まれている次のものです。
(1)『竹内浩三全集 1・2』(新評論)
(2)『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)
(3)『遺された画集』(野見山暁治 平凡社)
どれも戦争で死亡した人たちのものです。
ほかにもいくらかは見ましたが、今日これを読んだのは、生きることを国家によって許されなかった人たちのことを見直してみようかと思ったからです。
私の所は気象の分かれ目で、変わった雲が見られます。
どういうことかというと、いま私は『進退録』(宮内公文書館所蔵)を読んで職員の経歴や異動などを調べています。これは上記の『神足日記』の「人名録」ほどでないとしても、ある程度は人が見えるのでないと研究も意味をなさないと考えるからです。
それを順に調べてきて、いま昭和18(1943)年あたりのところに達していますが、ときどき戦死・戦病死が出て来るのです。
死亡地は南方や満州ですが、満州の場合には死亡地や死亡経緯を上官らが綴った報告を見ましたが、南方の場合は打電があったというくらいで、ほとんど報告を見ません。この辺はもっと正確な調査も必要ですが、今日は死亡時の昇給計算方法に関心を持ったことがあります。
たとえば、松橋という人がいました。大正9(1920)年5月に生まれ、昭和14年3月秋田県鷹ノ巣農林学校卒業〔秋田縦貫鉄道の北の終点〕、同4月帝室林野局札幌支局業務課に技術雇員としてに採用(月給35円)、2年後(月給46円)の昭和16年3月に入営、18年3月に戦死します。
農林学校出の人は、だいたい採用時に技術雇員、のち〔2年くらいして〕技手補、さらに〔また2年くらいして〕技手に昇進して、あとは昇給のみで定年まで勤めて終わります。
この人は、死亡時に技術雇員から技手補に昇進、給料が70円に昇給されます。なぜ46円から70円へと24円アップしたのかというと、次の計算が報告されていました。
なお、私はまだこの計算の規定なり内規に出会ったことがないので詳しいことは不明です。しかし、概ねこのような計算方法が取られているのを見ます。
在隊期間 2年1ヶ月 この2分の1 1年
臨時昇給加算 特別加算年限 1年
計 2年
2年は半年毎に4期分 ✕1期3円 12円
戦死に付(先例等参酌) 12円
計 24円
これは不公平ということはないようです。しかし、根拠がよくわからず、納得がいかなかったのですが、この人の場合、鉛筆書きで、上の計算例のほかに次の計算例が書いてありました。
46円+4(在業加算1年2期分 1期2円)
+5(臨時加算1年 1期3円 2期2円)=55円
戦死に付、50円以上の者 基本増給額7円 加算額8円 計15円
即ち、55+15=70円
これだと、なにか根拠になる法規があることがうかがわれますから、後日を期したいと思います。
それはともかく、不本意に死地に追いやらた結果、このような方法で処理されるのかと思うと、気の毒ですね。
上の竹内などは「兵隊の死ぬるや あわれ」と歌い、結局自分も23歳で戦争で生涯を終えています。
上の本に出て来る人たちとは別に、戦死を免れた人でも、戦争のために人生を踏みにじられたという人は底知れませんね。
そういう悲惨な思いを国民や国際社会に強いたことを反省して国際社会に復帰を認められたはずの日本が、もはや武器輸出までする、公用車で靖国神社へ参拝にいく、防衛費〔軍事費〕はアメリカの求めの応じて過去最高、ひとたび災害があると「あってよかった自衛隊」とアピールの場にする、どこか間違っていますねえ。
戦争は言葉の力で避けるように努力し、災害のために「プロの防災集団」や「防災省」を作りたい。
日本の災害で、きちっと対処された例がありますか?
いつもうやむや。結局、自助とボランティアだのみ。
オット、遅くなりました。
ポトッ!